GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<自由な心><リベラルな心><自立・自律した心>

2008年03月29日 | Weblog
母が亡くなってもうじき1年になります。あっという間に時は流れていきます。小学校1年生の時の1年と今の1年では、6分の1と54分の1の差があり、同じ時の長さであっても9倍の速度で時は流れると感じるのかも知れません。しかし、今も母が自宅のいつもの居間で、株式新聞を片手に損ばかりしても「ボケ防止のため」といってラジオに耳を傾けている姿が思い浮かびます。電話したら母の声が今でも聞こえてきそうな想いにかられます。これが愛し続けるということなんだと思います。過去に愛した女性が何人かいますが、想いの深さは変わっても今でも同じ想いだと感じます。こうして過去の人たちに、自分に新たな力を与えたくれた、自分に我慢を教えてくれた、自分を男にしてくれた、自分にギターや部下の評価の仕方を教えくれた、そんな人たちのおかげで今私は道を外れず生きて来られたんだと心から感謝しています。出会ってきた人たちに今からでもいい、大切にしたいとこの年になって強く想います。

 かつて若い頃、私は周囲に対して今のようには接することができませんでした。今思うと、それが若さのゆえの勢い、特権(?)だったように感じます。周囲の目を意識しだしたら藍ちゃんのように勝てなくなります。桃子は今年が正念場です。今年米国で1勝できれば彼女は大きく飛躍できると思いますが、決して容易ではありません。マスコミが追いかけすぎのため、石川遼のようにプレッシャーという魔物に心を食いちぎられるからです。

 幼い頃から技術以上に精神力を鍛えた特殊部隊の軍人だったタイガーの父は、緊迫した場面でも平常心を保ち、筋肉に通常の動きをさせることの大切教えてきたようです。だからこそあんなにも数多くの土壇場のスーパーショット、スーパーパットを実現できるのでしょう。

 私のような凡人は、このホールをボギーでも40を切れるという場面が何回かありましたが、そんな時のドライバーは殆どがミスショットでした。絶対的な練習量が足りませんが、最も足りないのが精神力のようです。母の若い頃のエピソードを思い出すと、純粋で天真爛漫さがなせる行為が散らばっています。若いときは周囲を蹴散らし、想いのまま振る舞ってもいいと思えてなりません。きっとその方がいいのではとさえ思います。そしてそんな時に結果を残すのです。そんな時にしか残せない結果があるはずです。若さの特権をもっと真摯に利用して欲しいと思います。

 人は成果や実績、そして自信を身に付けると背丈が延びるようです。そうして周囲の視界が変化していきます。世界が広がって見えるのです。慢心も生まれます。いいんです、そんなことは。成果や実績を必死で追いかける時期が若者には必要だからです。しかし今、若くして周囲の心を感じ多くの視線を気に懸ける優しい人が大勢います。私はそんな人たちに人生での不平等を感じずにはいられません。時代を選べない、環境を選べない、親を選べない、上司や先生を選べないというような不平等です。もって生まれた運と云ってしまえばそれまでですが、大きな差が有りすぎるのです。辛い環境では心の成長速度が通常より促進します。そうでなくては堪えられない、自分の心にバリアーを張り守らなければ心が張り裂けるからです。

「坊ちゃん育ちだからね、彼は」
「お嬢様育ちにはかなわないね」
「あの人にはついていけないね」

 半ば冷笑的な言葉はこうして生まれました。相手を揶揄することで自己のアイデンティティを守る傾向は、多くの人が覚えがあるはずです。しかし、先人を行く人は、<若さゆえの勢い>と、この<心の傾向>を常に意識しておかねばなりません。我が子や部下や教え子と接するとき、彼らの才能を引き出し、感じる必要があるからです。両親より祖父母の方が教育者に向いているのはその為かもしれません。重すぎる情は、挑戦や成長を妨げることを知っているからです。


また<琴の弦の張り>を思い出します。
人生の多くの難問は、このお釈迦様が悟りを開いた言葉に解答が有るように思えてなりません。

「琴の弦は、張り過ぎると切れてしまう。緩過ぎても、いい音は出ない。適度な状態が一番良いのだよ。」

このスタンスの為には常に
<自由な心>
<リベラルな心>
<自立・自律した心>が必要だと強く感じます。

「痴漢の虚偽申告事件について」

2008年03月18日 | Weblog
「何故、そのような悪意に満ちた虚偽申告をしたのか?」



「…幼ない子供達には悪は悪でなく、善も又、善に見えない。

 悪との遭遇
 その過剰な刺激と摩擦に堪えていくために
 その悪を身につけていくしかないのか?

 巷には悪意に満ちた出来事が氾濫している。
 親は我が子にどう向き合えばいいのか?

  
 何のためにナビ付き携帯を持たせなくてはならないのか?
 親は子供にどう説明すればいいのか?

 悪意と善意の関係は
 どこか感情と理性の関係と似通っている。

 ソクラテスが「無知の知」を知らしめるものこそ
 「理性」であると喝破した。

 また彼は、人間が自由であるためには何よりも受動感情から脱して、
 理性ないし知性の支配を確立せねばならないとも説く…』 2007年11月12日 / Weblogより

人の車や家や壁へのイタズラ、弱者へのいじめ(脅して金品を要求する犯罪は別個)、
痴漢という人生や名誉に大きな影響を与える虚偽申告も
決して物理的な利益を得るものではない。


すべて自己の鬱憤を晴らし、精神的な満足感を得るためのものと思われる。

どうしてこんなに心のバランスが崩れた犯罪や悪戯が世間に横行するのか?


情報過多は、視聴率をより上げんが為の動画や虚偽ニュースの横行を黙認させ、
刺激的なアニメ・ムービー観賞を容易にし、真っ白で純真な幼き心を汚していく。

何度も日記で書いてきたが、この傾向は益々高まるように思える。
そこで大切なことは自己防衛力を強化していくしかない。
アルコールやタバコの行き過ぎを防止するのも<自己抑制力>しかない。


そして、その<自己抑制力>を高めるには教養を身に付けるという
曖昧でしかも、時間のかかる作業を根気よく続けることでしか補えない。


「道」と名が付くスポーツの奨励や、書道や華道もいいかも知れない。
とにかく師と仰ぐ人との出会いは、人生の出会いの中でとても大切なような気がする。
しかし、もっと容易に師と呼べる人に出会えるのが本や映画だ。
そのドラマの登場する人物との出会いが人生での疑似体験となっていく。

そして、心の中に理性と呼ばれるもう一人の自分を構築する。

これが人として生きるスタンスだと私は思っている。


そして、人生の最後の作業は、
50歳を過ぎて<二心ある心>(理性と感情)を一つにしていく作業、
それは<直感>を育てることとつながっていく。

どうか、家族や周囲の親しい人から自分の言葉でこのようなことを伝えていって欲しい。

心からこのことを願いたい、それが先人の役目だと思う

「錦織圭のテニス、ようやく見たよ」

2008年03月12日 | Weblog
昨夜WOWOWで観戦できました。

2008年2月17日、錦織はアメリカ・フロリダ州デルレイビーチでの「デルレイビーチ国際選手権」で予選から勝ち上がると、初進出の決勝で第1シードのジェームズ・ブレーク(アメリカ、最高ランキング4位)を 3-6, 6-1, 6-4 で破り、ツアー初優勝を達成した

優勝したニユースには感動しましたが、昨夜じっくり彼の晴れ姿を観戦しました。最もうれしかったのは彼の変幻自由で多彩な動き、落ち着き、数多いショットの種類を繰り出せる才能溢れる逸材と分かったことです。あの場面であの動き、あのショットをできるとは? この感動は見ている人にしか分からないようなものだと思いますが、同じことを熱血松岡修三君も盛んに彼の才能を高く評価していました。

第一セットは3-6で落とした後、松岡は盛んにこのままでは絶対に勝てない。自分でゲームをコントロールしないと駄目だ、守っていては駄目だ、勝ちにいく勇気をが必要とコメントした。

第二セットは失うものは何もないと開き直ったのか、別人の攻めのテニスを展開する。第一セットをモノにしたブレイク(勝てると思ったに違いない)対して、錦織は突然積極的なショットを連発する。しかもそのショットは多彩で、同じフォアでもナダルとの練習でものにしたのか高く弾むスプンボールやタイミングを遅らせる緩いボール、バックのダウン・ザ・ラインを狙う正確なショット、またバックラインギリギリの深いショットなど変幻自由なショットにブレイクも驚きの表情を隠せない。

特に驚いたのは確か3ゲームを連取しての4ゲーム目だったか。突然、サーブ&ボレーで前に飛び出す。決して浅いボールでもなかった為、ブレイクは慌ててミスボールを返してしまう。このゲームから流れを一気に引き込んだ。松岡も驚き、「あんな場面で飛び出せというコーチは絶対にいない!」とコメント。ミスしたブレイクもあまりの予想できない彼の動きに呆然と立ちすくむ。その後ブレイクはこのゲームを捨てたかのように思えた。作戦に違いないがそれは錦織をかえってゲームの支配を許す。

第三セット、ブレイクの動きは予想どうり過激になり、ファーストサーブを返すショットの早さは錦織のサーブの早さを上回っていた。しかし、彼はまったく動ぜず、冷静に多彩なボールで深く返す。第二セットでは見切って取りに行かなかったボールまで必死に食らいつく。ファーストサーブもサカンドサーブも前の早さではなく15km以上は早く見えた。攻めに来たブレイクを正面で受け止めながら、得意のジャンピングショットを繰り出したり、変化を付けて左右にブレイクを翻弄。1アップしたサービングフォーマッチでは信じられない早さのサーブ、セカンドで攻め40-0で勝利を手に入れた。あんなサーブを打てるんだと新たに感動した。

とにかく、勝ち方が凄い! 第二セットからは、まるでフェデラーの試合を感じさせた。当然彼にはまだまだ及ばないが、彼にもない天性を感じさせるテニス、技術や正確性はまだまだ荒削りだがその片鱗を感じられる錦織圭のテニス。うれしくてうれしくてたまらない。今年の日本スポーツ界の最大の目玉になると断言したい。

決してグランドスラムに早く勝てというのではない。野球の中田君と同様にじっくり構えて来年、再来年に花咲くことを目指して欲しい。大切なのはまず「戦いきる体力を身に付ける」そして「多彩なボールと正確なショット磨く」、「時速200kmを越えるサーブをものにする」は是非とも身に付けて欲しい。

彼ならやれる≪グランドスラム優勝!≫

今年最も注目すべき選手
『錦織 圭』君をどうか皆様も応援して下さい

「教え子との交際を迫る事件」と『ロミオとジュリエット』

2008年03月11日 | Weblog
 元教え子に交際を続けるよう求める脅迫文やメールを送ったとして、埼玉県警捜査1課などは3月8日、同県川口市立川口高校長の市川和夫容疑者(56)(埼玉県上尾市仲町)を脅迫の疑いで逮捕した。

 あまりに愚かしい事件だ。二人の人生が土台から崩壊するかもしれない。私が若い女性の親ならばきっと暴力的報復に打って出るに違いない。若い娘も決してスキがなかったわけではないだろう。しかし、30才も離れた教職の立場にある人物が若い生徒と肉体を持ちしかも長期に渡って関係を続けたことに対して大きな憤りを感じてしまう。教養という言葉を微塵も感じない行為に自己抑制力の欠如というような生やさしい言葉では言い尽くせない思いが込み上げてくる。レイプ以上の極刑を求刑したいくらいだ。

 教頭をしていた頃(48才)同校の女子高校生(17才)と交際して、その後8年間も続く男女関係の不可解さ。純粋な若い女性の皆さんには決して理解できないことに違いない。1595年が初演とされるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、日本では小田原城を落とした豊臣秀吉が、天下統一を成し遂げ朝鮮出兵をした頃の物語です。あの頃の戯曲が未だに何度も映画化され、舞台で演じられるのはいかなる理由があるのか?若き日の純愛の物語と上記のような情愛事件と何が共通しどこが違っているのか?

 共通するのは性に対する無防備的錯覚。分かりやすくいうと体を通じることによって生まれる情愛は純粋な愛にあらずということだろうか。二人の関係も最初はきっと違っていたとせめてそう思いたい。秀吉や家康の時代、武家の婚姻では花婿・花嫁が顔を合わすのは婚姻当日が一般的だった。敵国に人質同然で嫁いだ娘が、夫との肉体関係(嫁はバージン100%?)や生活を共にすることで情を通じ情愛が生まれる。こうして徐々に生まれた情愛は、深くて断ち切ることができない絆となっていく。

 錯覚という言葉を使いましたが、初体験では肉体の喜びを愛と錯覚する傾向が多分に見られるからだ。20歳を越えて初めて女性と肉体関係を持った純粋な男性は、彼女自身の人物的評価?を冷静に分析できることは非常に困難だと思う。情愛がすべてに優先されて致し方ないと思える。当初女子高校生だった被害者の彼女も同様です。教頭への情愛を愛と錯覚しズルズルと関係を続けた可能性が大と思われます。止まった車にぶつかるような事故では100%加害者責任となりますが、人は生き物で動き続けています。交通事故と比較するのははなはだ見識を疑われそうですが、9:1で彼女にも責任が発生すると考えた方がいいと私は思う。男性の恐喝めいた行動は犯罪として極刑に相当する。しかし、彼女も自己反省なくしてこれからの長い人生を生き抜けないと思う。他人のせいにしている人はいつまでも自らの道に戻れないと私は考えているからだ。

『ロミオとジュリエット』はお互いにバージンだったように書かれている。若さ故の知識や経験の欠如による決断の甘さが感じられる。純愛はすべての人が幼い頃経験しており、だからこそ深く人の心に染み込み共感を呼ぶのだと思う。ここに「琴の弦は張らなければ音は鳴らない」的なバランスの難しさ、大切さ、妙が存在する。

<知識の氾濫は人が持つ本質的な好奇心を失う>という点です。

 知らなければ良かったというような例に数多く遭遇してしまう。極端な例だが、映画の戦闘シーンは年々リアルで過激なものなってきており、はらわたや出した死骸や腕や脚がなく、大やけどをおった肉体を見て軍隊や消防署、警察に入ろうとする人が数多くいるでしょうか? しかし、現実には世界のあらゆる国にそういった正義感に満ちた勇気ある人を必要としている。
 
 親のセックスを見てしまった中高校生はどういう心理的影響を受けるか? 本人の知識や成熟度合で大きくその影響は変わってくる。情報や知識の氾濫はそのバランスをより幅広いく深いものしてしまうようです。若い先生が生徒に対して100人100様の対応できないのは決して不思議ではありません。

 だからこそ現代の親の役目は昔以上に重要になってきてるように思うのです。自分の子がどんな想いでいるのか、地図上の何処に存在しているのか、親が我が子を想いばかるしかないと思うからです。外は教師でも信用できない危ない輩がウロウロしているジャングルであり、オアシスが見つからない砂漠なのです。そんな外界に獣でさえ幼い子供を自由に放とうとはしません。小学校を卒業したら我が子と一緒にセックスを伴う映画、たとえば「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッシィーの信じられないくらい美しい全裸のラブシーンを見てもいいのではと思います。そして切ないラブストーリーの悲劇にファミリーで涙していいのではと思います。

 情愛が生む深い絆を幼い我が子に教えることなど不可能なことかもしれません。しかしそうしてことが肉体関係をとうして生じることも中学生になれば知識として持っていてもいいと考えています。

 50歳を過ぎた地位ある男性と若い教え子との不倫に、本当の愛は存在しないというのが私のスタンスです。そして野獣がうろつくジャングル、オアシスもない砂漠に子供を解き放っていることを親は頭のどこかで意識し、自らのあらゆる能力を駆使して我が子がどんな想いなのか、地図を持っているのか、地図上のどこにいるのか、愛を知っているのか、愛するものはなんなのかを知ろうと努力して欲しい、そして努力したいと思っています。

「28才の別れ」

2008年03月04日 | Weblog
「はい、〇〇商事株式会社です」
「俺だ、今外からかけている。 返事だけでいいから答えて」
「はい、分かりました」
「携帯を変えたのか?」
「はい」
「どうして? 変えたなら教えてよ」
「いいえ」
「教えないということか?」
「はい、そうです」
「うーん、分からないなあ……じゃあ、これから連絡はどう取りあうんだ?」
「ないと思います」
「どういうことだ? もう逢わないということか?」
「はい」
「別れたいのか?」
「そう思っています」
「電話では埒があかない。今夜、××のいつものカフェで待っているから」
「いいえ」
「来ないのか?」
「そうです」
「本当に別れようとしているのか?」
「はい」
「誰かできたのか?」
「いいえ」
「とにかく、ゆっくり話そう」
「いいえ」
「せめて新しい携帯の番号を教えろよ」
「いいえ」
「……じゃあ、今から第三会議室に向かうからそこで話そう」
「いいえ」
「何を云っているんだ? このままではお互いの気持ちを話し合えないじゃないか」
「……私の気持ちはこの5年間、十分伝えてきました」
「では、失礼します」

       ☆★☆★☆★☆★☆★☆★

「はい、〇〇ですが?」
「私です。今電話ボックスからかけています。話せますか?」
「いいや」
「そうでしょうね。横にはお子さんや奥さんがいるのでしょう」
「そうだ」
「こんな関係を断ち切りたい、そう思ったの。今まで何度そう思ったことか。 でもあなたに逢うと、自分の意図とは違う振る舞いをしまうの。 一人になることがきっと寂しかったと思うの。 愛してくれる人がいなくなる孤独を恐れていたの。 でもそんな自分が哀れに思えてきたの。 昔の私はこんな関係でも、ずっと続けばいい、週に一度逢えればいいと本当に思っていたの」
「……こちらから明日一番でお電話を入れさせていただきます」
「そんな敬語を使わないでよ。あなたらしくないわ。ナナに逢いたい、ナナを抱きたいと以前みたいに云ってみてよ。………ごめんなさい。云えるわけないわね。 困らせて、ごめん。 寒い電話ボックスでこんなことを云っている自分が情けないの……ごめんなさい。 云いたいことも云えない関係を断ち切ろうと決心したの。五年もかかったけど……このままそっと別れましょ。 私のこと今でも好きでしょ? 愛してくれてるでしょ?……」
「……」
「返事くらいしてよっ!」
「…ああ…」
「こんな関係を続けていて私のためになるの? 私の将来まで責任が持てるの? できないでしょ。」
「……」
「実は一週間前、『ジョー・ブラックによろしく』という映画のDVDを見たの。その中でこんなセリフがあったの。

   『好きなものを、ただ奪うことは愛とは言わない。
    愛の本質とは生涯を懸けて相手への信頼と責任を全うすること、
    そして愛する相手を傷つけぬこと』

あなたの私への愛は、この本質とは違っているの。 私の愛も違っていると気づいたの。あなたの愛も私の愛も、生涯を懸けて相手への信頼と責任を全うできないし、多くの人まで傷つけているの。 あなたはこの本質の意味が理解できるはずよ。 私は多くのことをあなたから学んだわ。仕事の仕方から優先順位の付け方、人との接し方や話し方、レポートの書き方から情報処理に至るまで。 社会人として、ここまでやってこられたのはあなたのおかげ。 たとえ他の会社に移ったとしても、なんとかやっていける自信があるわ。すべてあなたのおかげ。 だけど見方を変えれば女として最も美しい時をあなたに捧げたことも事実。……でもそのことは一片の後悔もないつもり、こう言い切りたいの。 そんな別れ方をしたいの。 二人の関係を素晴らしい思い出にしたいの。 お願い、わ、わかって……」
「……」
「明日からはあなたの部の一人の部下として、今ままでどおり接して下さい。…お願いします」
「……」
「本当にありがとうございました。 ……さ、さようなら……」
「……」
「さようなら」
「……わかった……」

「硫黄島からの手紙」

2008年03月01日 | Weblog
 アメリカ留学の経験を持ち、親米派でありながらアメリカを最も苦しめた指揮官として知られる知将・栗林忠道中将が家族に宛てた手紙をまとめた『「玉砕総指揮官」の絵手紙』を基に、本土防衛最後の砦として、死を覚悟しながらも一日でも長く島を守るために戦い続けた男たちの悲壮な最期を見つめる。主演は「ラスト サムライ」の渡辺謙、共演に人気グループ“嵐”の二宮和也。

「1945年2月19日にアメリカ海兵隊の上陸が開始され、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死した。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84」

「父親たちの星条旗」でも感じたのですが、こんなにもリベラルに戦争を、人物を淡々と描いた映画があっただどうか? この「硫黄島からの手紙」は日本軍の硫黄島玉砕物語です。

 その日本の出来事をアメリカ人クリント・イーストウッドが製作・監督(製作にはスピルバーグ、ポール・ハギス、脚本にアイリス・山下、ポール・ハギス)した正にハリウッド映画。しかし、日本映画としてなんの違和感も感じさせない質の高さ、考証に正確さ。これは「ラスト・サムライ」や「SAYURI」を遙かに越えたアメリカ人が撮った最高の日本映画と云えるでしょう。この不思議な思いを多くの人に味わって欲しいと思います。

 この思いは映画の中で登場人物も味わう。日本軍が攻めてくる若い米国兵の胸を撃ち、その兵を洞窟の中に引きずり込んで看病するが息絶える。その米国兵の持っていた手紙を西竹一中佐が日本語で日本兵に読んで聞かせるシーンがある。手紙は母からの息子を思いやる内容で、日本の母と全く同じ思いであることを知り、「米英鬼畜」と教えられてきた軍の指導に、全員が誤りがあったことを知るのです。

 人間は何処にいようと、どんな言葉使ってようが、どんな色をしてようが、どんな宗教であとうと皆同じ人間であり、どの国の親も同じ辛い思いをして息子を戦場に送っている。

 このテーマは前作の「父親たちの星条旗」の骨格にもなっている。軍や政府や企業の組織によって、また職位によって、人々は様々な思惑が入り乱れ、最前線の若者達はその流れの中で翻弄されていく。しかし、すべてのしがらみを解き放ち、一人の平等な人間として捉えて見て欲しい。国同士の争いや民族紛争も、一人の平等な人間愛をベースにした視点で見られないものか。アメリカ人が作った映画、日本人が作った映画も登場する人は人類であることに変わりなく、言葉や宗教や民族がいかに異なろうと、親が子を思いやる気持ちに開きなどあろうはずがない。

 二宮和也の見事な自然な演技、日本人の心を捕らえるポール・ハギズ、アイリス・ヤマシタの脚本、ラストに流れる切ないピアノの響きは、様々なしがらみの中で愚かにもがく人間達を哀れんでいるように心に響いてくる。


 人種や言葉や宗教を初めて超越した映画人クリント・イーストウッドが全世界の観客に「人類はみな兄弟なんだよ」というとてつもない大きくて暖かいメッセージを送った、そんな映画です。本当によくぞ作ったという感謝の念で一杯です。

「父親たちの星条旗」90点
「硫黄島からの手紙」92点


PS:もし2本とも見ていなかったら、先に「硫黄島からの手紙」、
   そして「父親たちの星条旗」がいいと思います。