GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

ウィンブルドン3回戦までを見て

2011年06月27日 | Weblog
 土居美咲選手の2回戦突破、とても驚きました。しかも今までにあまり見たことがないタイプで、しっかりファンになりました。良くても悪くても表情一つ変えないクールな戦いぶり、これには心をつかまれました。懐が深い印象を受けました。とにかく下半身が強く、足も速い。ボールに追いつく様子は、シャラポアのようにバタバタ感はなくとてもスムーズ。これがとてもいい。フォアもバックも気になるような弱さは見つからない。こんな20歳の可愛い有望株を発見できて、とてもうれしいウィンブルドンになった。

実際に彼女のプレーを見たテニスコーチの方は、このように表現されていいます。
 他の日本人選手の女子とはまったく違うタイプの運動能力の選手なので、
 勝ちあがるのも当然、という気持ちもありました。
 彼女の空中のボディバランスや、手首などの柔らかい感じは、
 たとえて いうなら往年のマッケンローやサンプラスみたいな感じかな
 (ちょっとオーバーかな)でも、ほんとにセンス、とくに私にはボレーが印象的でした。

 2回戦のクルム伊達公子、ビーナス・ウィリアムズ(米)との対戦は本当に惜しかった。7―6、3―6、6―8。勝てるチャンスは十分あった、伊達もそう感じたはすだ。出足から素早く動いてネット&ボレーで叩く戦略は、今後の女子テニスを変えるかもしれない、そう感じさせてくれるほど斬新で素晴らしいプレーだった。彼女の勝ちたいという意気込みは、コートを出るときの悔しさを噛みしめる表情に表れていた。まだまだやれる!錦織選手も観戦に来ていたが、クルム伊達は、若い選手達に本当にためになる試合を身体で示した。
               
 S・リシキ(ドイツ)対 N・リー(中国)3-6, 6-4, 8-6
この試合の激しいストローク合戦は、まるで<女の殴り合いの喧嘩>を思わせた。あんな力任せの打ち合いは滅多に見られない。しかし、リシキの200kmに届くようなサーブが何度もエースを稼ぎ、全仏の覇者リーのリズムを作らせなかった。これが最大の勝因と思う。ファイナルセットは互角と思えたが、後半、リーのアンフォーストエラーを引き出したリシキの勝負強さは本物だ。このままファイナルまで登りつめそうな勢いを感じた。

 クルム伊達はダブルスでも1回戦突破を果たした。ダブルスでのプレーが、ライジングで攻めるという伊達の基本戦略に大きな幅を持たせたはずだ。<ナブラチロワを彷彿させる新戦略プレー>、今後に期待したい。また、土居美咲選手のグランドスラム初出場で2回戦突破は、素直に拍手を送りたい。今後の成長と活躍にも期待したい。

 フェデラーの復活はあるのか、ジョコビッチは全仏の雪辱ができるのか、
ナダルはランキング1位を維持できるのか、後半はこの戦いに焦点が移る。テニスはゴルフのように自分との戦いではなく、相手との真っ向勝負が見どろこだ。ゴルフと同様に戦略も必要だが、最後は何かで抜きんでたプレーが勝敗を決する。
ファーストサーブの確率が勝負の鍵になることが多い。
ここで「エースを下さい!」という時に、ダン・ザ・ラインのショットを放てるか。
相手の勝負を決めるショットに、さらにアングルを付けた奇跡的なショットを放てるか。
ロングラリーをアンフォーストエラーなく最後まで打ちきってそのゲームをものにできるか。

3時間以上になる凄い試合では、勝負の流れがいったりきたりすることがある。この勝負のアヤを観戦して感じ取れるかが、テニス観戦の最大の醍醐味と云っていいだろう。残りの試合をじっくりこの醍醐味を感じながら楽しみたい。

ダイアナ・ロスの<Theme from "Mahogany">を聞いて(下)

2011年06月24日 | Weblog
 幼き頃から人は多くの夢を追い求める。それらに優先順位をつけられるほど自分の人生をクールに洞察できるはずがない。それが若さというものだろう。しかし 半世紀も生きてくると本当に大切ものが何だったのか、初めて理解できる。本当に悲しいがそれが人生というものと受け止めるしかない。時を戻すことなど誰にもできはしないのだから。

私の最も夢多き時代は、大阪から東京の大学に進んだ4年間だった。
孤独な思いが充満し、日本一の盛り場、新宿を彷徨った日々。
クラブに入ってコンサート活動に明け暮れた日々。
西伊豆や白樺湖での1週間のクラブ合宿。
最終日は全員が歌い過ぎて声を涸らしたっけ。
大学にも行かず司馬遼の『竜馬がゆく』を読み切った5日間。
28日間に渡り、英国、ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランスを旅行し、
2日間イングランドにある老夫婦の古い家にホームステイし、
日に何度もミルクティを飲んだ思い出。
そのとき行ったエジンバラ城の美しさに目を心も奪われた。
ハイデルベルク(ドイツ)の公園の美しさも一生忘れられない。
深夜まで夢中になってオリジナル曲を作り、
何度となく隣の部屋の早大生が怒鳴り込んできた日々。
初めて恋に落ち心を奪われてしまった日々。
週末になれば彼女の部屋に通い、風呂屋では口笛を吹いて出るときを伝えたっけ。
デュオを組んだ相棒と私の部屋で音楽合宿した一週間に新曲ができたっけ。
クラブの部員全員を引っ張っていくコンサートマスターに選ばれ、
授業にも出ずにクラブ活動に費やした9ヶ月間の日々。
デュオの相棒と2週間に渡る列車による北海道旅行もしたな。
池袋で苦労しながら免許を取った日々。
中学3年生の家庭教師をして、志望校に合格させて特別ボーナスを喜んだ日。
風呂屋にあるようなでかいチェアー式マッサージ器を丸井で購入し、
両親に送るためにバイトに明け暮れた日々。

そんな日々の中で、私は巨匠エリア・カザン監督の『草原の輝き』という名作映画を見た。そして、ワーズワースの詩に出会った。
              

   『草の輝くとき
    花美しく咲くとき
    再び戻らずとも嘆くなかれ
    その奥に秘めたりし力を見いだすべし』


 その時、私は今<草の輝くとき>にいる、<花美しく咲くとき>にいるとはっきり自覚できた。これから二度とこんな輝くような時は戻ってこないだろう。だからこそ思いっきりやりたいことをやろう、後悔のないように。そして、その中で大切なことを学ばねばならない。何を信じ、何を守るかを。<その奥に秘めたりし力>をそのように自分なりに解した。後に映画『ピアノ・レッスン』を見たとき、その力が≪生命力≫だったと気づいたが、私の解釈も決して間違いではなかったと今でも思っている。どんな苦難にもへこたれない精神力が私の生命力にはあると感じられた4年間だった。

ダイアナ・ロスの<Theme from "Mahogany">を聞いて(上)

2011年06月24日 | Weblog
Theme from "Mahogany" (Do You Know Where You're Going To?) 
                                   By Masser/Goffin

Do you know where you're going to?     分かってるの、何処へ行こうとしてるのか?
Do you like the things that life is showing you  あなたは今の人生に満足している?
Where are you going to? Do you know...?  何処へ行こうとしてるの? 分かってるの?

Do you get What you're hoping for          望むものを手に入れられる?
When you look behind you There's no open door 振り返っても、戻れないのよ
What are you hoping for?                 何を望んでいるの?
Do you know...?                       分かってるの?

Once we were standing still in time         あの頃 私たちはただじっとして
Chasing the fantasies That filled our minds    夢を追うこかとばり考えていた
You knew how I loved you                あなたを愛していたけど
But my spirit was free                  自由が心地よくて
Laughin' at the questions                 あなたの言葉を
That you once asked of me                笑い飛ばしてしまった

Do you know where you're going to?     分かってるの、何処へ行こうとしてるのか?
Do you like the things that life is showing you  あなたは今の人生に満足している?
Where are you going to? Do you know...?  何処へ行こうとしてるの? 分かってるの?

Now looking back at all we've planned   かつて心に描いたものを思い出してみると
We let so many dreams             どれほど多くの夢が
Just slip through our hands          手からこぼれ落ちたか
Why must we wait so long           なぜ もっと早く
Before we'll see                 気がつけなかったのか
How sad the answers              ようやく得られた答が
To those questions can be           こんなに悲しいものだったなんて

Do you know where you're going to?     分かってるの、何処へ行こうとしてるのか?
Do you like the things that life is showing you  あなたは今の人生に満足している?
Where are you going to? Do you know...?  何処へ行こうとしてるの? 分かってるの?

Do you get What you're hoping for          望むものを手に入れられる?
When you look behind you There's no open door 振り返っても、戻れないのよ
What are you hoping for?                 何を望んでいるの?
Do you know...?                       分かってるの?
   

  http://www.youtube.com/watch?v=I2M1Ix3zIeU&feature=BFp&list=WL29320D48DABDEA3D&index=1

 2007年、アクターズ・スタジオ・インタビューにダイアナ・ロスが登場。司会者のジェームス・リプトンが、黒人差別の激しかった時代から歌い出した幼い頃のダイアナを紹介。通常の名優のインタビューと同様に二人の席はステージの中央にあったが、ステージに向かって右サイドにはなんとミニバンドが控えていた。さりげないイントロから歌い出すダイアナとバンドには正直驚いた。会場もまるでライブハウス状態になっていった。シュープリームス時代のヒット曲やソロになってからの曲を紹介し、歌い始めるダイアナも、声に熱がこもってきた。この「Theme from "Mahogany"」はダイアナが最も好きな曲として紹介された。


<弱者と強者>

2011年06月18日 | Weblog
弱者と強者の定義 人それぞれに違うだろう
何か小言を云われると その倍以上に言い返してくる人が
強者なのかと云われれば決してそうではない
弱者と見えた人がマラソンで悠々一位を獲得したから
実は強者なのかと云えばそうでもない

人との競争でいつも誰かに先んじられ 云いたいことも人前で表現できない人が
弱者なのかと云われれば決してそうではない
嵐を受けて大木が沢山の枝や葉のために折れてしまうように
何処でもリーダーになるような強者でもポキリと折れてしまうこともある

自分は弱いと感じていることで
人の弱さがよく分かることがある
弱いから人に優しくできる
弱いことを知って強くなろうとする人がいる

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」

これはレイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の私立探偵、フィリップ・マーロウのセルフ

弱者でなければ弱者の気持ちが理解できないのではないか
集団の中にいるとそう思えることがある
強者は弱者をいつも手込めにする
強者は手込めが快感に感じるのか
社会現場でも指導や教育と評してそれが行われる
しかし そこには相手に対して蔑みの気持ちが優先して見える
人を蔑む輩に真の強者はいない

手込めと感じる人が弱者になり
自分にプラスになる受け入れ方を知っている人が強者になれるのではないか

ニセの強者には愛が乏しい
ニセの強者は人によって表情を変える
ニセの強者は声を荒げて高圧的な態度を取る

人は不完全な生きもの
そのことに気づいている君なら
きっと弱い人なのだろう
だから 人に優しくなれる
だから 人にも自分にも強くなれる

道を歩むのは 君自身  
道を選ぶのも結局 君自身
弱者になるのも 君自身
誰かのせいにしている限り 君は永遠に弱者となるだろう
誰かのせいにしている限り 君は永遠に強者にはなれない

<何故、人は嘘をつくのか>

2011年06月11日 | Weblog
 動物は嘘をつくのか。つかないと思う。嘘をつくのは人間だけだと思う。動物の中には擬態をして、天敵から身を守るものがいる。獲物が来るのを待ち、捕まえる。カマキリやイソギンチャクがそれにあたるが、人間の嘘とは違う。人間は言葉と行動で巧みに嘘をつき、動物は行動(擬態)だけでで周囲を欺く。これは生命維持のための本能であり、すべてのカマキリやすべてのイソギンチャクが同じような行動をする。獲物の取り方に例外はない。本能だけで生きる動物社会と言葉を持つ人間社会との違いだ。

 幼い頃、4歳上の兄が「もうじき、おばあちゃんが来るってお母さんが云ってたぞ」と私に嘘をついた。そうとも知らず私は「まだ来ないね」と3時間近くそわそわしていたことがある。そして、兄から「今日はエイプリルフール! 嘘だよ」と云われ、とてもがっかりした。私はこの種の嘘に今も弱い。嘘をつく側の喜び?を理解できないからだ。この嘘は他人が落ち込むのを見て喜ぶ悪意に満ちた嘘。現在の兄の性格はとても温厚で、他人に対して悪意のあるウソをつくような人間ではない。では何故、あの時、私にあんな嘘をついたのか。天然素材の私を兄は単にからかっただけなのだろう。しかし、いまだに私はあの時のショックを覚えている。あんな嘘はつくべきではないと幼い心に誓ったものだ。

 世間には悪知恵が働く子がいる。しんどい時、母親がとても優しく接してくれるのを覚え、いやなことがあるとすぐ疲れたふりをする子供がいる。そんな子供は、自己保身?のために擬態を身に付け、まるでカメレオンのように姿を変え、いつかその本人でさえ本当の自分がなにものなのかも分からなくなってしまうのではないか。母親はそんな子供の擬態を見抜かねばならない。しかし、忙しい母親は見逃してしまう。相手をする時間が少ないという負い目がそうさせるのだ。
 そんな子は歳を重ねて社会に出ても、過酷な環境下になるとすぐにHELPサインを出してしまう。しかし、周囲は自分のことで精一杯、誰も自分の擬態に気がつかない。「無視されている」と感じ、虐めにあったような錯覚に陥る。自分への優しさにはすぐに反応するが、他人への気配りや思いやりの経験は乏しい。関心を呼ぶにはさらに大きな嘘(擬態)が必要となる。こんなことを繰り返していくと傷つくのを恐れるようになり、益々嘘で自分の回りを固めていく。そして、嘘の数だけ孤独感が自分を蝕んでいくことに気づかない。そして、気づいた時はもう後戻りはできない。

 嘘の本質は自己保身だ。『嘘には三種類ある。自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘だ』 と云ったのは東野圭吾原作TVドラマ「新参者」の主人公加賀恭一郎のセリフだが、自己保身だけの嘘で周囲を固めた人に、他人を庇う嘘はつけない。そして、孤独という魔物だけが周囲に蔓延ることになる。

 嘘をなくすことは孤独から開放されることにつながる。このことに気づいて欲しい。人間以外の動物や生物に孤独感は見あたらない。あるとすれば可愛がり過ぎた犬くらいのものだろう。嘘をつかないようにするためには、表現力を身に付けていくことをお奨めしたい。そして、積極的に周囲と行動を共にし、一緒に汗をかき誠実な言動に努める。これは日頃の実践から身に付くものだと思う。

 振り返ると小中学時代、自己表現力を身に付ける授業など皆無と云って過言ではない。ゲームに夢中になり人前でしゃべることが苦手な子供たちが増えているような気がする。文章を書くことも苦手な気がする。苦手なことが増えるたびに嘘を必要とし、その嘘が孤独を呼び込んでいく。親や先生はどんどん子供たちに語らせること、書かせることを指導するべきだと思う。日記をつける学習方法を復活して欲しいと思う。


<人はみんなわがまま>

2011年06月07日 | Weblog
人はみんなわがまま
誰もがみんなわがまま

わがままに気づいて 諦めたり押さえたりするのが大人の悲しいチエ
押さえ過ぎると血管が収縮し ストレスが溜まっていく
それが血行障害を起こし 潰瘍やガンにまで及ぶ

日本はガン大国 
みんなで我慢しているのかな 
悲しくなってくる

ストレスは自分を含めて人から与えられるもの
適度なストレスは人を成長させるが
過度になれば病まで引き起こす

ストレスは塩や酸素と似ている
過度になれば健康を損なってしまう
適度なストレスは必要なもの
成長の糧だから

ストレスは川の流れとも似ている
流れに身を任せれば楽に過ごせるかもしれない
だけど それでは行きたい上流や対岸に 
いつまでたっても行き着けない
その悔しさがストレスとなって溜まっていく

楽して行きたいところに行けるなら 
そんな方法を教えて欲しい
苦労しないで行きたいところに行けはしない
苦労をストレスにするか 糧とするか
ここに大切な分岐点がある

ハードなスポーツの後 誰もが肉体的ストレスを溜めこむ
しかし 日々の鍛錬によってそのストレスが筋肉を鍛える
心も筋肉と同じではないか

楽器やスポーツや勉学も
繰り返し練習しなければ向上するはずがない

発想を変え 今までのストレスを訓練や練習と思えないか
<自立>という目的のための練習や鍛錬と思えないか

自分の思いと他人の思いが違うところからストレスは生じていく
同じ思いの人などこの世にいるはずがない
このことは十分承知しているはずだ
沢山の思いを受け入れる度量を身に付けることは
心の筋肉を鍛えることと同意ではないか

人はみんなわがままな未熟者
あなたも私もわがままな未熟者

人は変わってくれない
環境や社会は変わらない
このことに気づくことが大切
これが塩となり 成長の糧となる
変われるのは自分だけ
自分自身が心から肯定しなければ意味がない

進歩は変革の中にしかない
やっかいな作業や練習の中にしかない
新たな思考性を作り出せ


カメはウサギの挑戦を何故受けたのだろう
私の思考変革はこの疑問から始まった

カメがウサギの挑戦を受ける条件や環境があるのではないか
視点を変え 発想を変えよう

1.カメは初めからウサギに勝つことなど考えもしなかったら
2.ゴールがカメが行こうとしていた目的地だったら
3.カメはゴールにたどり着くことが目標だったら

この3つをカメが考えていたなら
目的地までの道行きをウサギは楽しくしてくれるかもしれないと考えるのでは
そうすれば カメはウサギの申し出を受けるのではないか

人生は勝負でなく 目的を持った行程(肯定)ではないか
誰かに勝つことではなく ゴールを目指していく行程(肯定)こそ
意義あることなのではないか
能力があっていい学校を出ても 目的なき人生に価値などあるのか
自らの小さな目標を達成していく行程(肯定)の方が価値があるのでは

カメはウサギに勝利しても喜びを感じなかったのではないか
目的地に着けたことを喜び
ウサギの愚かさに哀しみを感じたのではないか

人生は勝ち負けではない
目的地に向かうために 何を信じ 何を守ろうとしたかではないか
その行程や達成感にこそ 意味があるのではないか

「江~姫たちの戦国~」(秀吉の心情)

2011年06月03日 | Weblog
(秀吉の心情を洞察してみる)

その気でない人を、たとえ無理に従わせても、
下克上の世、枕を高くして眠れるものではない。

信長がそうであったように、
人の心の危うさを秀吉は体験の中から学んできたに違いない。

戦いを好まず、内通を企て大軍を持って、降伏や和議に持ち込むことで争いは避けてきた。
「誰かを討てば、その妻子や一族郎党まで敵に回す」
復讐の輪廻という人の情とその危うさを理解していたのだ。

命のやり取りを行う戦場はまさに修羅場。
しかし、危うくなれば本意を翻すことなど、世の常であることを秀吉は見抜いていた。
だからこそ、数多く内通を企てたのだ。

人は共感し合ってこそ、絆が生まれ、情を通じ合う。
男も女も、部下も上司も親と子も同じだ。
いつの世も変わらないはずだ。
子供の頃、幼すぎて親と共感などできるはずがない。
しかし、時を重ねると親と共感できる心が育ってくる。
それが情というものだ。

女性とは身体を合わせるだけに、
情が通じ合えない相手との同衾など意味はない、そう考えていたのではないか。

実の妹や母を人質に送ってまで家康の大阪城詣でを願ったのは、
臆病さからくるものだった。
<臆病>それが秀吉の本質だと思う。
そして、それは人間の本質でもある。
だからこそ、類をみない強さを持っていた信長に心底惚れたのではないか。


ネネとの結婚は、格上だった彼女との恋愛結婚だった。
この時代、恋愛結婚など他に類を見ない。
情に厚い秀吉の性格が最もよく表れている事実だ思う。

情が分かるにつれて人は臆病になる。
だからそこ、秀吉は庶民を驚かせ、太閤様と崇められることを好んだに違いない。
修羅場の戦場で、敵を内通させて城を落としてきた秀吉。
誰よりも恐れられたはずの信長の死は、秀吉の人生観をさらに強固なものにしただろう。

天下人となった今、「おなご一人落とせぬワシではない」
そんな驕りまで感じるが、信長の姪を側室にすることは、
まさに天下人になったことを庶民に知らしめることになると意識したかもしれない。

朝鮮出兵の本意は、情を絶やさず人の心をつなぎ止めておくには、
新たな恩賞(金)以外にない、だからこその出兵だったと思う。
日本統一を終え、新たな恩賞を与えるモノが日本にはなかったのだ。

東に追いやられた家康は秀吉の本質、
哀れとも見える人間的<臆病さ>だと見抜いていたはず。
関東平野という荒れ野が肥沃な大地であることに気づき、
今は開墾と土地整備により、石高を上げる(金・武器を蓄える)ことを優先したのだろう。
秀吉は小田原攻め(1590年)前にも、何癖をつけて徳川家を押しつぶすことができたはず。
信長なら必ずそうしていただろう。
何故、そうしなかったのか、ここにも彼の臆病さが垣間見えてくる。
そして、そうさせなかった家康のしたたかさも伺える。

百姓から大名、そして摂政関白と登り詰めた秀吉。
そして、日本全土を初めて統一し、太閤と呼ばれる天下人となった。

家康は民衆の心が秀吉にあることを感じていたに違いない。
しかも、自分に人気がないことも知っていたと思う。
だから秀吉が亡くなるのを待ったのではないか。
そして、あとは淀殿を悪女にしたてればいい、と考えたのではないか。



もし仮に、信長、秀吉、家康の人生を生きられるなら
あなたなら誰を選びますか。

信長は恐ろし過ぎる。家康は図太く知恵が回り過ぎる。
二人とも私好みではない。
私なら躊躇せず、秀吉を選ぶ。
二人より純粋で、情を重んじ、人間的臆病さにも共感できる。

それだけに、豊臣家の末路が悲惨で、秀吉が哀れに思えてくる。

「江~姫たちの戦国~」(茶々の恋)

2011年06月02日 | Weblog
   『仇にござる ならばこそ あなた様に尽くします
   尽くして尽くして あなた様を命がけでお守り致します
   この手で守り抜いて見せまする 守り抜きます!』

素晴らしいセリフですね。本当に心動かされました。
このように真剣に男性から伝えられた女性は、心動かされるでしょうね。
今までオーバーアクション気味の秀吉でしたが、
今回は派手な演技はありませんでした。
二人の演技にしっかり感情移入してしまいました。

あずまやのシーンが今まで何度かありましたが、
今回見ていて「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンを思い出してしまいました。
親のカタキ、と云いながら想いを寄せていく茶々。
若い側室に嫉妬しての秀吉をひっぱたいてしまった茶々。
感情と理性の葛藤に困惑する茶々。
恋心を経験した人なら誰もが理解できる心情。

幼い江には、まだ感情と理性が心の中で分別出来ていない。
だからこそ、本音をつく言葉を発しても、相手の動揺する度合までは分からない。

 無神論者の私ですが、ブッダの教え「色心不二」に共感しています。色は肉体(感情)、心は文字通り精神(理性)のことを指し、肉体と精神は本来「不二」、一つであり、それが生命の真実の姿であると説いています。分かりやすくいうと肉体(感情)が欲するもの、心(理性)が欲するものを一つにしていく事こそ、人の道。幼児の頃、人は「色心不二」だったのです。その頃の自分に戻りなさい。教養を携えて、我(欲)や邪心を捨てさりなさいという意味だと思っています。

 大河の「篤姫」には、二心はありませんでした。嫉妬や蔑みの心を持っていませんでした。常に平等で誠実で好奇心旺盛な女性でした。邪な心を排除する強さもありました。北野大茶会(きたのだいさのえ)が開催されたのは、1587年、秀吉50歳、茶々18歳 初17歳 江14歳の時でした。江は嫉妬も分からない純真さを保っていますが、縁談が決まっても喜ばない茶々の顔色だけは判別できたようです。幼児はたとえ言葉をしゃべれなくても母や父の顔色を伺える能力を持っています。江はもう少しで嫉妬や恋心を持つ年齢に達します。人が自我に目覚め、悩みを持ち始めるものその頃からです。

 今回の大河の魅力は、茶々や初や江、ネネや龍子様の心の対比が主題の一つです。そして、今まで秀吉の驕りとも思えた茶々側室の事実を、まるで「ロミオとジュリエット」のような、純愛ストーリーにしたてあげた脚本に改めて脱帽してしまいました。女性18歳、男子50歳。現在ならここに純愛が存在してもそんなに不思議には思わないでしょう。424年前に、こんな純愛があっても不思議ではない、と思わせる脚本に拍手したい気持ちです。