GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

山口県巡り(2013 10.29 30)

2013年10月30日 | Weblog

 最終日の朝、7時過ぎに起床し、部屋から見える巌流島に目が止まりました。もう二度と来ることはないだろうと思うと、とても名残惜しいような気持ちが込み上げてきました。朝食も巌流島を臨める席に座りました。朝食付きで一泊二人・8,400円です。下関に来られたときは<プラザホテル下関>はお勧めできます。昨夜同ホテルで食べたフグコースもドリンク別で一人前5,050円で、とてもお得感がありました。(ちなみに最初に泊まった萩ロイヤルインテルジェントホテルは朝食付き・二人で9,800円)

    

  さて最初の目的地は<武蔵顕彰碑>。今度はトンネルではなく関門橋を渡って小倉にある手向山公園頂上に向かい、武蔵のただ一人の養子である宮本伊織によって建てられた顕彰碑を見学しました。碑文には武蔵の剣歴・二刀流を生み出す工夫や巌流島の決闘までが刻まれています。武蔵関係最古の記録の一つで、通称『小倉碑』は、北九州第一級の名碑と言われています。これで私の武蔵巡りもついに終わりました。

    

 次の目的地は名城小倉城です。小倉城は関ヶ原の合戦で功があった細川忠興(ただおき)によって1602年に本格的に築城が始まり、完成までに約7年の歳月を要しました。忠興は城下町の繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施し、長崎についで外国貿易の盛んな港にしました。細川氏が熊本に転封後は、譜代大名の小笠原忠真(ただざね)が1632年に入国し、九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立させました。そして、小倉城は一層充実し、城下町としても繁栄しました。城内で放映されていた映像は、当時の絵を上手く加工して小倉城下の庶民の日常を分かりやすく描いていました。昨年訪れた広島城や岡山城でもオリジナル物語が放映されていました。城好き・歴史好きの私は必ず観覧します。小倉城物語もとても良くできていました。

    

    

    

     

    

    

    

    

    

 門司港レトロ地区見学までの時間が十分あったので急遽、<スペースワールド>で遊ぼうということになりました。(大人:4,200円、60歳以上のシニア2,100円)こんなときには不思議と意外なモノに出会います。その意外なモノとは?!
 <マグナムブースター ザターン>というアトラクションです。 遊園地の驚愕コースターはほとんど制覇しているので少々のことでは驚かない私ですが、スタートから一気に時速130kmに加速しほとんど垂直(89度)で65mも上昇し、そのまま垂直に降下するのには驚愕しました。頂上から一気に降りる時、両足とお尻が床から無重力のように浮いていました。私は再度一人でザターンに挑戦しましたが、再び恐怖を感じてしまいました。「今まで経験したコースターの中でNO.1だ!」と認めざるを得ませんでした。
 当施設の3大コースターの一つ、タイタンVは、点検中で乗れませんでしたが、<ヴィーナスGP>もとてもスリルがありました。コースターでは間違いなく一級品です。<ブギウギ スペースコースター><クリッパー>もかなりスリルがあります。<ブラックホールスクランブル>、<ミッショントゥマーズ>、<4Dポップステラ>、<エイリアンパニック><ギャラクシーシアター>をまわりました。、そして、宇宙博物館も見学しました。

    

    

     

   

    

 今回の旅行の最後の訪問地は<門司港レトロ地区>です。旧門司税関や旧大阪商船、吊り橋のブルーウィングもじ等、夕陽を浴びてレトロの雰囲気をより醸し出していました。大正10年(1921)に建てられた三井物産の社交場、旧門司三井倶楽部でコーヒーでも飲もうと入館すると、「本日貸し切り」の表示がありました。ビッグファミリーらしい台湾の方々が貸し切られているとのことでした。(残念!)また、至る所に<焼きカレー>のポスターや垂れ幕が掛かっていました。まだ一度も食べたことがないのですが、門司で最初に作られたとのこと、初めて知りました。

    

    

    

    

 その後は新門司港のフェリーに乗船して大阪の南港へ。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいますが、今回の数々の訪問地は輝くような想い出となって記憶に残りそうです。特に平家一門が滅亡した壇ノ浦、武蔵と小次郎が決闘した巌流島は、生涯の想い出となるでしょう。吉川英治の原作『宮本武蔵』『新・平家物語』を読まなければこの地に行きたいなどとは思わなかったはず。こんなふうに考えると本との出会いもとても大切な出会いであることを再確認しました。

  

 30日、フェリーのベッドで目を覚ますと、「もうすぐ明石大橋を通過します」とアナウンスがあったので、写真を撮りにデッキにでました。偶然、雲の間から顔を出したお日様に遭遇し、何故か感謝したい気持ちになりました。
「ありがとうございま~す!」 (終わり)

    

    

    

    

 

 


山口県巡り(2013 10.28)

2013年10月28日 | Weblog

 二日目の山口県巡りは、昨日巡りきれなかった萩の旧城下町を探索しました。まずは藩校だった明倫館。現在は萩市立明倫小学校の敷地内にあります。1929年(昭和4年)12月17日、国の史跡に指定されています。小山ゆうのデビュー作『おれは直角』は、萩明倫館が舞台です。主な出身者は桂小五郎、吉田松陰、高杉晋作、井上馨等。
 現在の木造の建物は、昭和の初めに建てられたもので今も使われていました。私が通った小学校を彷彿させる、とても奥ゆかしい建物でした。次の探索地に行くため萩美術館(本日は休館)に車を止めて、まず旧木戸孝允宅から始めました。そして豪商菊屋家住宅、田中義一誕生地、高杉晋作誕生地、高杉晋作像等を見学しました。城下町はどの地も風情があり、清潔感があり、歴史の重みを感じますが、今回訪れた萩は今まで以上に城下町感(?)がありました。萩市役所の正面入口には、世界遺産登録を目指す垂れ幕が掲げられていました。キャラクターは<萩にゃん>(写真参照)です。

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

     

  

 今回の山口県巡りにおいて、facebookのおかげでお知り合いになった川○野さんから「絶景の角島大橋を外してはいけません!」というお勧めがありました。急遽予定になかった萩から60kmある角島大橋・角島灯台公園を次の目的地としました。ナビでは2時間以上かかると掲示していましたが、川○野さんがネットで教えてくださったように道路状況もよく、1時間25分で到着しました。信じられない海の色、2kmある角島大橋の美しさに思わず声を上げてしまいました。角島の突端にある角島灯台は、とても日本の灯台とは思えない美しさでそびえ立っていました。角島灯台記念館での説明によると「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による最後の灯台で、日本海では初めての洋式灯台で、完成まで3年を費やし、1873年、3月1日に点灯しました。この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれています。日本一美しいとも云われています。

    

    

    

    

     

    

    

    

    

 次に向かったのは念願だった巌流島です。中学生の頃読んだ吉川英治の『宮本武蔵』は私の至高の愛読書となり、以来どうしても訪れたかったのです。高校時代も大学時代も読み、同じ本を3度も読んだのはこの本だけです。 今から401年前の1612年4月13日、長門の国・船島(後の巌流島)で武蔵(29歳)と佐々木小次郎が決闘したのです。本や映画の中の空想物語ではなく、現実の出来事だったと思うと、この地に立って何とも言えない気持ちになりました。吉川英治の原作では、小次郎を倒した武蔵が彼の息を確かめる場面があります。とどめを刺さずに島を離れる武蔵を見て、対岸の見物人たちは『何故、とどめをささない!』『どうした、臆したか!武蔵!』といった表現があります。私はそんな様子を確認できる場所があるのだろうか、とずっと気になっていました。巌流島にフェリーで上陸したあと、どこから眺めていたのかを捜しました。平家が最後の砦にしていた対岸の彦島からなら、しっかり確かめられると思いました。吉川英治氏もきっとこの地に来たのだろうと思いをはせました。長い原作は武蔵が巌流島を去った直後、この文章で終わります。

「波騒は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。
 けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水の深さを」

    

    

    

    

    

 佐々木小次郎の右手の逆手持ちをご覧下さい。ツバメ返しとは、相手の前まで歩いて進んでいき(長刀を)相手の目の前に振り下ろし、怯んだ一瞬のすきに振り下ろした刀で下から切り上げる秘技です。だから逆手持ちだったようです。当時の防具は下からの攻撃には無防備でした。(太ももや股間部分に下からの防御は無い)刀を返す技ですから、そこから燕返しと言うネーミングになったようです。カウンター技では無いようです。技の内容を知った武蔵は相手の長刀よりも長い木刀を用意して対戦し、相手が長刀を目の前で振り下ろした後、下から切り上げることに勝負をかけてくることを知っていたので、小次郎が振り下ろした一瞬後に木刀を振り下ろしました。

    

    

    

    

    

    

 宿泊場所はこの巌流島が部屋から眺められるプラザホテル下関です。夕食は当ホテル10Fでふぐコースを食べました。朝食以来、車中でのお菓子以外何も食べていませんでしたが、最後の雑炊を食べるとお腹はパンパンになりました。部屋に戻るとNHKテレビで角島大橋を訪れた阿川佐和子と鶴瓶が放映されていました。こんな偶然に心から驚きました。

     

    

  


山口県巡り(2013 10.26 27)

2013年10月27日 | Weblog

10.26
18:20 
 今日は旅行のフェリーに乗船するためいつもより1時間半早退し、自宅に帰って4日分の服を準備して、いざ大阪南港フェリーターミナルへ。
 18:40
 ターミナルに着き、乗船手続き後10分ほどで乗船しました。夕食と明日の朝食がセットになったバイキングを注文しましたが、これが非常に美味しくて弁当など買わなくて良かったと思いました。夕食バイキングだけだと1,500円、朝食バイキングだけは750円。セットだと2,000円です。(このバイキング、お勧めできますよ)

 21時頃、デッキに上がって明石大橋を下から眺めましたが、とても風が強く何枚もシャッターを切ったのですが、揺れてしまっていいショットは撮れませんでした。
 定年後ネットで購入した吉川英治の『新・平家物語』(全巻16巻)がいよいよ最終巻もあと残り半分にさしかかっています。残りを壇ノ浦見学までにと思っています。

    

    

    

    

     

    

    

      

10.27
 7:30 朝食バイキング これも行けました。私は生卵ご飯、連れ添いは今回もパン食がお好みでした。
 9:09 門司にある関門海峡に面した平家一門が戦勝祈願した和布刈神社を訪れましたが海面の急流に驚きました。そしてその神社の上にある和布刈第2展望台まで車で上がって有田焼き1,400枚の陶板で描いた壇ノ浦合戦壁画を見学。義経の八艘飛びが見事に描かれていました。展望台からの門司港や下関の眺望が見事でした。
10:15 関門トンネルを抜けて下関の火の山公園頂上から念願だった壇ノ浦を初めて眺めました。瀬戸内海の西の最終に位置し、関門海峡のすぐ手前でした。壇ノ浦の戦いは、平安時代の末期、1185年4月25日、赤(平家)、白(源氏)の旗をなびかせ、平家・源氏合わせて千艘が壇ノ浦で相まみえたのです。
11:20 関門海峡で最も幅が狭く流れが急な「早鞆の瀬戸(はやとものせと)」(幅600m)を臨むみもすそ川公園で壇ノ浦砲台、義経&知盛の像を見学。

    

    

    

    

    

    

    

    

    

                  ○写真中央の船の付近が<壇ノ浦>と呼ばれています

    

    

    

     

    

 その後は、建礼門院を祀った赤間神宮を見学し、秋芳洞、秋吉台を訪れ、萩までロングドライブの後、本日最後の訪問地吉田松陰を祀った松陰神社に向かいました。維新の志士を育てた松下村塾のあまりの小さな佇まいに驚きました。最も多くの総理大臣を輩出した山口県のルーツが、もしかしたらこの松下村塾にあるのかもしれないなどと考えてしまいました。

     

      

     

    

    

     

    

    

    

    

    

    

    

    

    

 


「朝顔の種」4

2013年10月24日 | Weblog

<朝顔の種とり>が新たな出会いを生みました。先日入居者と美人の機能訓練指導員が種とりをやっている場面に遭遇しました。車椅子の老婦人が種とりをやりながら「これは非常に効率が悪いな!」と一生懸命に種とりをやりながらしかもぼやいているのです。すぐ横にいた私は(効率が悪い?)なんて呟く老婦人の顔を思わずのぞき込みました。どこかでみたようなそんな気持ちがしていたのですが、とにかく種とりと手伝いました。

  

 彼女が入居している4Fで再び遭遇して「○○さん、また種とり手伝ってね」と機能訓練指導員が声をかけていました。「○○さん? 粉浜商店街で商売されていた、○○さん?」私はようやく顔と名前が一致しました。「サンローズの西岡です、私は弟の雄二です」と自己紹介すると、実家のすぐそばで商売されていた方だったのですぐに私のことを思い出してくれました。旦那様も同じ8月末に入所していると聞いたので、別の旦那様にも会いに行きました。今年93歳になる旦那様も私のことをよく覚えてくれていました。

 この玄人ばりの水彩画は種を取っていた○○さんが書かれたものです。私の実母と同じ年の生まれで、今年88歳になられます。亡くなった母とは実家の店が近いせいもあって非常に仲が良かったそうで、母の話ばかりしていました。「美しくて、お茶やお花や踊りまで達者な人だった」と母のことを懐かしんでくれました。

  

 この素晴らしい水彩画をみていると(展示会でも開きたいな)なんてことが頭に浮かんできました。入居者の手慰み(絵・手芸・書道・折り紙etc.)を年に一度か二度、大ホールに展示して入居者の家族の方に観てもらうのです。面白い企画かなと考え始めています。


「堺CC Bクラス月例」(2013 10.20)

2013年10月20日 | Weblog

 こんな日にゴルフなどするものではございません。茨城GCで日本オープンゴルフ選手権試合が行われていましたが、本日は中止になりました。しかし、堺CCでのBクラスゴルフコンペは明日に延期するわけにはいかず、最後まで行われました。雨が止んで晴れ間が見えてきたのは15時以降でした。

    

    

 前半が終わったときはもう全身びしょ濡れ。グリーン上に水が溜まり、打ったボールが水を切って動いても、すぐに止まってしまうのです。それでも前半、後半パットが18ずつの36で終わったのは奇跡と云うほかありませんでした。しかし入りませんでした。何度パーパットを逃したことでしょうか。入ったのは18ホール目の最後の2.5mのパットだけでした。

    

 これから一緒に回ることが決まっている新しいメンバーなので楽しく回ることが最優先でした。声をかけていただいた○尾氏はゴルフ住之江の練習仲間で、毎日10kmも走っている猛者(ハンデ15)です。私より年齢は高いのですが、毎回Tショットは置いて行かれました。鍛えている方にはかないません。オーバーランしたのは、1回くらいのものです。もう一人の方は中央区で40年以上中華料理店を経営されている中○氏(ハンデ20)で、麻生元総理と大変似ていますねと告げるととても恥ずかしがっておられました。想像通りときどき周囲の方から云われるそうです。声まで似てるんですよ。雨は大変でしたが、とても楽しいゴルフができました。初めてラウンドしたとは思えないくらいでした。

  

さて、ゴルグスコアは50(18)、49(18) 合計:99 パター合計(36)
グロスが99、ハンデが19なのでネットでは80でした。OB1回、パーも1回。これではどうにもなりません。11月の月例は10日で、すでに予約を入れていただきました。10月のゴルフは今日の1回だけです。来週は瀬戸内海を初めてフェリーに乗って大旅行です。体調を崩さないようにしたいものです。 


「朝顔の種」3

2013年10月19日 | Weblog

 昨日は宿直日。朝、百日紅の花もついに終わったことを確かめましたが、本当に百日間以上、見事に咲いていました。名前の由来そのままでした。昼、ヤマダ電機で施設の洗濯機を購入したついでに、思わずLEDの簡易スタンド(2,980円)を買っちゃいました。私のベッドサイドには光源がないので、寝ながら本が読めないのです。以前から欲しいと思っていたのですが、仕事の途中で買うのは違反ですよね、すいません。

   

 17:30、一旦通常の仕事が終わり、30分間の空白の時間を利用してATCにお買い物。朝顔の種を入れるポチ袋と夜食の購入です。ポチ袋の購入費用は今や公費扱いとなりました。耳が立つポチ袋があんまり可愛いので買っちゃいました。

 18:00から事務所でデスクワークを開始。本日休日者のパソコンを借りて、A3でカラーポスターを作成、<発芽と開花の推移>はA4で作成。パウチも完了。ポチ袋に入れる「種まきのポイント」はネットでしっかりと調べて作成しB5でアウトプット。カットもしておきました。この「種まきポイント」と種を入れるのは入居者の方のお仕事となります。今日は機能訓練指導員のEさんが、入居者の方の歩行訓練途中で朝顔の種とりをしてくれました。種さえポチ袋に入れればいつでもお持ち帰り可能です。

  

 60歳のパートのおっさんが目の前でポスターを作成したり「種まきのポイント」をネットから引っ張りだしてアレンジしていく様子を事務所の人たちは驚いたように見ていました。facebookやブログやコンサート活動までやっているのがすでに知れ渡っているのですが、今回はさらに驚いたようです。「還暦のおっさんをなめんなよ!」てな気持ちはサラサラございませんが、久しぶりのデスクワークが非常に楽しかったのは事実です。

   

  今日は機能訓練指導員のTさんが私の準備したものを持って入居者がいるフロアーへ。協力的な方を集めてさっそく朝顔の種と<種まきのポイント>を可愛いポチ袋に入れてくれました。いよいよ明日からこれが掲示され、朝顔の種も持って帰っていただけるようになります。やろうとしてから実施まで一気に進みました。いろんな人達が私たちの試みに賛同してくれたおかげです。これをトントン拍子というのでしょうね。とてもうれしく思います。


「朝顔の種」2

2013年10月17日 | Weblog

昨日、機能訓練指導員のTさんやEさんと相談すると、

私が施設長や主任にやりたいことの内容を説明することになり、さっそく施設長のもとへ。

「手や足、体の機能訓練や、心のケアにもとてもいいので是非やって下さい!」とうれしい賛同をいただきました。

帰宅してから夕飯もそこそこに、直ぐに朝顔の種をもらっていただくためのポスター作りを始めました。

     

いつもグッドアドバイスをもらえる連れ添いに今回も相談して、キャッチコピーの案を出してもらいました。

発芽と開花の推移も作成することになり、できあがったのは深夜になっていました。

こんな作業の楽しいこと。時間がすぐに過ぎてしまいます。

「仕事は自分で作り、それを繰り返して自分のアイデンティティーを構築していく」

これが私のスタンス。会社にいた頃もすぐに自分で作ってしまうので、それを押さえるのに苦労したほどです。

仕事の楽しさを見つけ出す作業を部下に教えることが私の任務だったからです。

でも現在は部下もいないので思いっきり自分で楽しめます。

   


「朝顔の種」

2013年10月14日 | Weblog

今日はとてもいい出来事がありました。
 朝顔がいよいよ種を作る時期になり、私一人で空いた時間を見つけて収穫(?)していたのですが、その様子を入居者の歩行訓練をしていた機能訓練指導員のTさんが見つけて声をかけてきました。
「何をしているんですか?」
「朝顔の種の取っているんです!」
「面白そう、見せて!」
「ワー楽しそう、○○さんもできるでしょ」と言いながら3人で種が入っている房を取って中の黒い種を取り出す作業を始めました。
「これ、とても楽しいね。他の入居者の方も連れてくるワ!」
「実がたくさんあり過ぎて、困っていたんです」と思わぬ助っ人に私も大喜びしました。

「来年の春に、入居者の方でこの種を植えましょうよ!」
「・・・」

   

 その後もTさんは、次々入居者の方を朝顔の前に連れてきて、あっという間にたくさんの種を収穫してくれました。すべて取り終わった訳ではないので、明日からも歩行や指の訓練等をかねてたくさんの入居者の方が、朝顔の種の収穫に来てくれるのです。その種を来年の春、みんなで植える予定です。入居者の方が毎日水をまいてくれるかもしれません。そして、また夏、たくさんの美しい花を咲かせるのです。わたしの朝顔が入居者の方の心を癒したり、運動機能の向上に一役担うのです。

    

 帰宅してこんなことも考えました。入居者の家族の方が毎日来られます。昨日今日のような祭日にはたくさん来設されます。 
「施設の朝顔の種を自宅でも蒔きませんか? 無料ですのでお持ち帰り下さいませ!」

 入口付近にこんなポスターを掲示して朝顔の種を入れた小さな袋をたくさん置いておくのです。そうして、この朝顔の種が広がっていけばうれしいなと思っています。当然施設長や他の方の了解が必要なので、機能訓練指導員のTさんにも相談してから提案してみたいと思います。

 


「阪神が負けた日の将棋」

2013年10月14日 | Weblog

 

 これが本日の決まり手、30勝1敗となりました。いつものように近商で豆とコーラを2本購入し、粉浜商店街の内山精肉店でコロッケ4を購入。今日は両親が仲人した奥さんがコロッケを揚げていました。「今日は今から?」「はい!」こんないつもの会話を交わして実家のサン・ローズ喫茶店へ。なんと親父がしゃれたマフラーをつけて何処かへ行こうとしていたのか、帰ってきたのか。とにかく「揚げたてのコロッケを買ってきたから、一緒に食べよ」を声をかけました。親父の粋なスタイルに驚きましたが、帰りがけに兄も云っていました。「この2週間、えらい調子がいいねん、びっくりするワ」と。今日の将棋にも調子良さが現れていました。
 王手なのに関係のない駒を動かすようなことは一度もなく、反対に王手に気づかない私に「飛車で王手やで」と注意を促しました。久しぶりに先に親父から「王手!」を喰らいましたが、その後は挽回して勝利を得ました。

  


       

       桧山選手、お疲れ様でした!

 テレビでは阪神が西岡の先制ホールランで先手を取りましたが、その後は広島に逆転負けを喰らい、CS敗退の情けない姿を放映していました。ただ代打の神様桧山選手の最終打席がなんと2ランホームランでした。とても寂しい想いですが、なんとも素晴らしい最終打席でした。

―最終打席はホームランでしたね?
桧山「良い打ち方ができて正直びっくりするぐらい。あんな打ち方ができたんだという感じ。僕にも野球の神様がいた。22年間で一番、自画自賛のホームラン。引退試合では強引にいってゴロだったんで、謙虚にセンターという気持ちで振ったら、クルっと回って良い打ち方ができた。最後の打席でこんな風になるとは」
 謙虚で無心が素晴らしいホームランを生んだようです。いつまでも謙虚に行きたいもんですね、桧山選手、見習うからね!

   

 親父の目線や表情がとてもいいので、うれしくなりました。こんな親父をみるのは久しぶりです。胸の中で何を考えているのでしょうか。何でも話してくれた母とは違って親父の胸の内はなかなかわかりません。「帰るよ」と言ったとき「もう帰るのか」と云いました。そしてこの部屋を出るとき、私の背中にもう一度「もう帰るのか」と呟きました。私は何故か、振り返ることができませんでした。


「巡りゆく恩」

2013年10月12日 | Weblog

 私が勤めている施設の壁に「親父の小言」(福島県・大聖寺 暁仙 昭和三年)という額があります。じっくり読んでみると非常に興味深い小言がありました。「恩は遠くから返せ」という一文です。人から受けた恩は、恩返しとわかるような返し方をするのではなく、さりげなく、しかし、きちんと返すことという意味らしい。

 この一文に日本人らしい考え方や、行動の規範を強く感じます。社会に出て働きだし、結婚生活を始め子供が成長してくると「昔おまえの親父に世話になったから」「お母さんに世話になったから」という両親の行った行為の代償を思わぬところで受けるとことがあります。両親だけでなく兄や姉の場合もあるでしょう。まさに「恩を遠くから返してもらった」ことになります。その方に感謝するのはもちろんですが、親に対してもありがたさを感じるものです。親がきちんと生きていてくれたからこそ、その徳が子供に返ってくる。そうやって自分もしてもらった恩は、その人に、その人に返す機会がなければ、その人の子供や関係する人に返していかなければと思います。

 振り返ると若い頃の私はとても自分本位な生き方や言動が多かったように思います。思い出したら赤面するようなことが多々あります。それらのことはもはや取り返しがつかないかもしれませんが、恩を感じていることも多々あるのです。しっかりと生きていくということは人様に迷惑をかけずに自立して生きていくという事ですが、恩を返していくことも含まれています。親としてそんな後ろ姿を子供に見せ続けていくことが、子供もまた恩を返していくことにつながっていくのではないかと思っています。


「プーシキン美術展」(2013 10.6 神戸市立博物館)

2013年10月07日 | Weblog

 昨日は天満音楽祭を振り切って、芸術の秋に浸りました。場所はいつもの神戸市立博物館です。切符を買おうとしたら、お腹がすいたと連れ添いが言い始めたため、隣のオリエンタルホテルへ。しかし、全席満席で次のランチの回は15:00とか。美しいコンシェルジェがいたので、呼び止めて近場のレストランを紹介していただきました。「パスタが食べたいのですが?」と尋ねると最初に「YURT(ユルト)」を紹介され、パスタ専門店ではないけれど、行列ができる店「Bar&Bistro64」も紹介してもらいました。彼女は「64」の方が好きそうなので(私の直感)そちらに決めました。確かに行列していましたが、10分少々でイン。

    

     

    

    

 ボルシチランチとナポリタンランチを注文しました。可愛いパンは食べ放題です。チキンのボルシチはさして驚くような料理ではありませんでしたが、ポピュラーのはずのナポリタンには驚きました。こんな濃厚なソースのナポリタンは今までに食べたことがありません。喩えが悪いかもしれませんが、従来のナポリタンと64のナポリタンは、中華で食べる焼きそばと鉄板で食べる濃厚な焼きそばくらいの差を感じました。「パスタは必ずアルデンテでなくちゃ!」というくらいパスタの堅さにこだわる私ですが、そんな思いなど、ひとくち口にしたとたんに吹っ飛んでしまいました。本当に美味しいのです。しかも可愛いパンの食べ放題とソフトドリンク付きで1,050円なのです。驚くべきバリューです。これならどこにお店を出しても行列ができるに違いありません。

    

    

    

 

    

   

 さて、プーシキン美術展です。優れた作品の数々をロシアにもたらしたのは、エカテリーナ2世らロマノフ王朝の歴代皇帝や貴族、19世紀の産業発展で財をなしたモスクワの大富豪たちです。情熱的な収集の背景には、当時のヨーロッパ先進国、フランスへの強い憧れと、自国の文化を豊かにしようという熱い思いがありました。
 プーシキン美術館に遺る17世紀から20世紀まで、約300年にわたるフランス絵画のコレクションは、フランスに憧れ、自国文化の発展を願ったロシア人たちの情熱の結晶なのです。(http://pushkin2013.com/intro/より

 私が最も驚いたのは「猫の勝利」という絵画(ジェラール:1785年ごろ)です。
特にサテンのスカートの描き方、光沢、しわなどまるで筆感を感じさせないのです。テーブルの上の調度品のポット、この光沢も信じられないタッチです。人間業と思えないリアリズムです。まさに写実主義の頂点を極めたような絵画の印象を受けました。(写実主義:一九世紀中葉ヨーロッパに興った芸術思潮をいう。現実を尊重し,主観による改変・装飾を排して客観的に観察し,その個性的特質をありのままに描き出す傾向または様式。)

  

 私が盗撮した写真ではありませんので、とりあえずご報告しておきます。 

 このサテンのスカートの光沢、しわをご覧下さい。筆感をまったく感じさせない技です。

 凄いとしか云いようがありません。

これも私の盗撮画像ではありません。

 19世紀頃のヨーロッパでは肖像画を描くことが一つのステイタスであり、対象を正確に描写することが重要で、遠近法などの技法が工夫されました。肖像画は大きな需要があったため産業として確立しました。しかし、1827年に写真が発明され、肖像写真として利用されるようになると、絵画より写真の方がはるかに正確で安価で納期が早いということから、写真が普及し始めると画家たちが職にあぶれるようになりました。瞬間をとらえた写真の映像は画家たちに新たなインスピレーションを与えることになりました。これが印象派の生まれる要因となっていったことが興味深いですね。

      

     



「最高の喜び」(子育てしているお母様に捧げる)

2013年10月04日 | Weblog

 一年ぶりに新曲ができました。仕事場の音楽療法士から「私のために曲を作ってください」と依頼されたのです。こんな経験はかつてないものですから、即座に引き受けました。女手一つで3人のお子様を育てている方です。いい加減な曲作りなど出来ようはずもなく、詞もメロディも何度も修正しましたが、ようやくできあがりました。子供を思う親の気持ちに女親も男親もないと思い定めたら、詞はスムーズにできあがりました。曲を捧げるのは生涯で3度目ですが、お気に入りの一曲となりました。聞いてください。

●「最高の喜び」(youtubeへ)

「最高の喜び」
            作詞・作曲:ユージ

いくつもの喜びがある 最高の喜びは子供たちの
育っていく姿 満面の笑顔 これに勝るモノはない
いくつもの楽しみがある 最高の楽しみは子供たちの
学んでいく姿 巣立っていく姿 これに勝るモノはない
 
願いはだた一つ 健やかに育てと  
親なら みな同じ 夢を描いて欲しい  
どんなことでもいとわず 力一杯 応援 してるから  
   
いくつもの試練が待っている 逃げ出したいこともあるだろう
つかめる夢と つかめない夢が あることを知るだろう
いくつもの悲しみ乗り越え 家族との何気ない日々が 
一番の幸せと いつか知るだろう 長い長い旅路の果てに 

願いはだた一つ 幸せになってと
親なら みな同じ 共に歩んでくれる人を
見つけて欲しいの いつでも 応援 してるから


「マザー・テレサのように想う」

2013年10月03日 | Weblog

 今日で幾つもの施設やオープンを経験したベテラン主任の勤務が終わる。半年間と決まっていた異動のようだった。明日元いた施設に帰る。新規オープンに伴う家具や生活用品を購入するため、近くのコーナンやホームズ、IKEAに同行して何度か買い物を手伝った。そして、彼女に頼まれて送られてきたいくつもの組み立て家具を組み立てた。アパートを借りていたが、ほとんど施設で寝泊まりしてた。夜には看護士がいなくなるため緊急時に対処するためだ。24時間、施設にいる居住者のことを考えている人だった。

    

    

    

 今日私は朝顔の種を小さなビニール袋に入れて「帰る施設の庭で育てて下さい。私が育てた朝顔の種です」と云って手渡した。一番好きな黒澤明監督作品「赤ひげ」のDVDもプレゼントした。医療にすべてをかけてた医師の物語だ。私は結婚もせず子供も作らず施設にいる人のために、24時間を費やすような人を今までに見たことがない。こんな人に「頑張って下さい」と安易な言葉など使えない。私より一回り以上若いが、彼女の事をマザー・テレサにように想っていた。施設を出ると美しい夕焼けの中、夕顔が目に入ってきた。何故かとても切なくなってきた。「GOOD LUCK!」と心の中で熱い声援を送るだけだ。 


「息子を送る会」(2013 10.1)

2013年10月02日 | Weblog
 来月31歳になる息子、彼が着ていた赤のポロシャツは、今夜の私のと同じ種類のもので、ポスターのジョコビッチが着ていたシリーズのものでした。親子とはいえ「同じモノを買うか?!」驚いてしまいました。なんだか寒そうに見えたので私が着ていたグリーンのサマージャケットをプレゼントしてしまいました。先日買った弦もサンピックも、ラブアップルで使うためにネットで買った電気音叉もあげちゃいました。(さっそく明日、買いにいかなくちゃ)
 
    
    

 「遊山」の店内は騒がしいくらいに繁盛していましたが、私たちは特別の個室でゆったり家族3人、10ヶ月ぶりの食事を堪能しました。
 料理は今回も高井料理長に全面的にお任せ。今回も佐賀牛の最高級部位を様々な食べ方で、犬鳴の地鶏、トロけそうな豚肉、そして珍しい野菜を様々な食べ方でお腹一杯満たしてくれました。しかし、息子は「やっぱり最後はご飯が食べたい」と云って、なんと一口カレーを注文。少し辛かったのか、まぶたに汗をかきながら食べていました。私は一口食べて思わず<ラコント時代のカレー>を思い出しました。息子は「こんな美味しい肉は食べてことがない!」と大絶賛していました。

    
    
    

 帰りは南船場から奈良の彼のアパートまで、第ニ阪奈をノンストップで35分の道のりでした。この間、今度ポール・マッカートニーのコンサートに行くので、ポールのニューヨーク公演のライブを流しながら帰りました。ポールの声が大音響で流れる中、息子にポールが写っているショットが欲しいとデジカメを手渡す、揺れる車の中で大騒ぎしながらシャッターを切りまくってくれました。美味しい肉料理といい、楽しい食事といい、35分の短い車内といい、今夜は特に思い出深い夜となりました。別れ際、「名古屋に行っても頑張れよ」というと「おおー」と元気に応えてくれました。だんだん頼もしくなってきたと感じた食事会でした。