GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

第1回 「坂の上の雲」

2009年11月30日 | Weblog
大好きな司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」
彼の作品にはいつも熱い志が存在する。
今では志という言葉がまるで死語のように感じるのは私だけだろうか。
この作品は『竜馬がゆく』と同時期(東京で自活を始めた大学時代)に読んだ作品ですが、
最後のページにこんな記述があったのを今でも覚えている。

「男の一生とは、若いときに何をしようとしたか、そして年老いて何をしたかだ」

文章はきっと違っていますが、内容的にはこれで合っていると思う。

『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も20歳前後の若者たちに読んで欲しい作品だ。
大学に入ったばかりの時期に読んだ私は、
(私自身は、これから何をしようとしているのか)
それを捜すために、この4年間を懸けようと決心したものでした。
あれから40年近くが過ぎました。
自分自身が残してきた結果は、しっかりと自身で受け止めています。
そして、数字として私の脳裏に刻み込まれています。(今までの日記に記述済み)
<数字は客観的です> (これを覚えていてください) 
誰もに有無や是非を云わせぬ力を持っているからです。


さて、物語は維新後の薩長の藩閥政治に反発する若者たちが、
自由民権を謳いながら胸を熱くして、東京に向かうところで第1話が終わる。

貧しい役人の長男として育った聡明な秋山真之。
弟を寺にやるなと父に談判し、貧しい家を支えながら
中学にも行かず、風呂屋の釜炊きのバイトにせいを出している。
大阪で師範学校へ無料で入学できる話を聞きつけ、父親も承諾する。

真之の信条は、人間は身分に関係なく学ぶべきで、
何のためかといえば、個々人の独立のためであり、
それが国家の独立の基礎にもなると説いた福沢諭吉の『学問のすすめ』だった。
ここには「教育の目的は自立にあり」と記されていた。

1872年に発刊された『学問のすすめ』は、1877年の西南の役以降、
ベストセラーとなって自由民権運動の聖書とも云うべき書になったようでだ。

幕藩体制や身分制度に反発した士族の武力による革命が明治維新だった。
しかし、その後の藩閥政治は、士族にとってなんら変わらないものだった。
そんな士族達の大反乱が西南の役(戦争)。
そこでも身分の低い士族は敗れ去り、彼らの怒りは自由民権運動へと走らせた。
(■「士族」という身分表示は、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の
   民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載されていた)

真之は『学問のすすめ』に従って、大阪で師範学校に進み、陸軍士官学校へ入学、
そして陸軍の騎兵隊将校への道を選んでいく。
幼なじみの正岡子規が先に東京へ旅だったことに嫉妬しながら、
自由民権運動に熱を上げていた弟の秋山好古に、上京せよと兄から手紙が送付されてくる。

幼なじみではありながら貧富の差に堪え、親が、兄が弟を想う熱い肉親の絆。
彼らには坂本龍馬が土佐藩を脱藩したときの、姉の想いや熱い志がありました。
(このあたりの展開は正しく司馬遼太郎タッチ、いいですね)

龍馬が暗殺されたのは1867年の12月10日ですから、
その5年後に発刊された『学問のすすめ』は読んでいませんが、
秋山兄弟と子規と同様に共通した熱い志がありました。
それはきっと学ぶことによってのみ生まれる<自立心>が根底にあったように思えてなりません。
『学問のすすめ』はそれを文章によって裏付けしてくれたのです。

東京で再会した3人が、これからどのようにして自らの熱い志を明確にしていくのか、
考えただけでもワクワクします。
想像を超えた体験や溢れるような知識との出会い、様々な人たちとの出会いを通して、
3人が3様のトライ&エラー繰り返し、そして成長していく姿が目に浮かぶようです。

坂の上の雲とは志を意味しています。
雲の向こうに存在する確かなものを手にする自立の物語、
今後の展開に大いに期待したいと思います。

「11/29 見所満載の日曜日」

2009年11月30日 | Weblog
昨日のテレビ放映は、希にみる見所満載の日曜日でした。

1)女子ゴルフの最終戦、しかも賞金王の可能性が最終日まで3人も。
2)男子ゴルフの最終戦の一つ前、遼君が勝てば賞金王決定!
3)内藤対亀田、因縁のボクシングタイトルマッチ、負けたら引退!
4)「坂の上の雲」初回

21時過ぎ自宅に帰って、まず食事。
内藤対亀田の試合は録画中。
食事しながら女子ゴルフを観賞開始。

14番いきなりさくらのラフからチップインバーディー!
思わず箸を落としそうになる。
続いて15番2打目が、あわやイーグルと思えるような超スーパーショット。
今度は口の中から食べていたものが飛び出しそうになる。
(もしかしたらさくらの逆転賞金王?)そんな思いが脳裏をよぎる。
最終組の飯島が長いバーディーパットが入らず、さくらの逆転賞金王が決定した。

宮里藍の出現から女子ゴルフは一変したと云って過言ではない。
同年代の若い連中達がまるで一夜の如く出現し、群雄割拠の時代に突入した。
5年間も賞金王を続けた不動やベテラン福島らの影は一瞬にして遠ざかされた感がある。
来年も宮里、横峰、諸見里が間違いなく女子ゴルフ界を牽引していくだろう。

さて、次は男子ゴルフの遼君。
-4という素晴らしいゴルフを見せたが、最終日の主役は小田孔明だった。
なんとボギーなしの7バーディー、4日間で21アンダーでの初の連続優勝を果たした。
いぶし銀のような丸山茂樹のゴルフも印象に残った。(今後の活躍に期待)
最終戦まで男子の賞金王争いが持ち越され、来週が大変楽しみになった。


さて次はボクシング。
内藤対亀田の因縁の戦い。一言で云えば、
「国民的英雄となった内藤に、倒さなければならないプレッシャーが焦りとなって表れ、
 反対に若い亀田は弟の試合やこれまでの内藤の試合を徹底的に研究し尽くし、
 冷静に自分の距離を守ったアウトボクシングに徹した試合だった」


2回、接近戦に持ち込む以外の勝機がない内藤は、打ち込みながら亀田に接近。
打ち込んだ後、ノーガードになった右ストレートが顔面に炸裂。
一気に鼻血が吹き出した。(私はあの時、鼻の骨が砕けたと思っている)

亀田の戦略だったアウトボクシングのカウンター攻撃は、
相手の入ってくる力を利用した作戦だ。
タイミングがすべてなだけに手数が少なくなる恐れや、
挑戦者としての戦いぶりに不満の声がでる危険性を孕んでいた。

しかし、若い亀田はあくまでその戦略を貫いた。
(このあたりに彼の飛躍的成長が伺える)

内藤は打ち合うボクシングこそ、観客が喜ぶ試合と見定めていたが、
亀田は冷静にポイントを稼ぐ勝ちに行くボクシングに徹した。
この違いが勝敗を分けた。

もし両者の戦略が逆だったら。
また、内藤も自分の距離を保つアウトボクシングに徹していたら
結果は違ったものになったでしょう。
しかし、実際は内藤はあくまで自分のボクシングスタイルを貫いた。
(このような展開に、<勝負のドラマ>に胸を熱くしてしまう)

常に「負けたら引退」を表明していた内藤の今後の去就が心配だが、
妻は現役続行を願っているという。
気のいいやさしい内藤選手、どのような決断になるのか、わかるような気がする。

                       (下に続く)

「苦渋の選択」(映画「2012」を見て)

2009年11月29日 | Weblog
 映画「2012」を観賞後、こんなことをつらつらと考えてしまいました。世界の終焉など考えたこともありませんが、もし映画「2012」のような事態が本当に発生したら、マヤ暦による2012年終末説が事実だったら、人々はどのような行動にでるのでしょうか? 大地震や活火山の大噴火、大洪水、そして大陸が海に沈み、まるで聖書の天地創造のような事態になったとき、力ある国はどのように対処して、国家を国民を守ろうとするのでしょうか? 

 映画では、2009年にインドの科学者が終焉の事実を見つけだし、2012年までの3年間に巨大なノアの方舟を建造し、限られた人たちを乗り込ませようとします。非現実的な計画のように思えますが、映画でのアメリカ大統領のセリフが胸を突きます。

「優秀な科学者一人は、年老いた政治家10名以上に匹敵する」

 68億もの人々を乗せられる船など造れるはずもなく、巨大な方舟を作るために金を出した者達が優先的に乗船でき、次に科学者や医者、実務者が優先されて行く展開です。一般の人たちにはこの事実はまったく伝えられません。方舟建造計画も、世界終焉の事実も大パニックが起こるために伏せられたまま3年が過ぎ、2012年の大災害が勃発して、どうにもならない状況になって初めてアメリカ大統領はTVで世界の終焉を伝えます。酷い話ですが、これが現実かもしれないと思わせる説得力があります。

 人民の人民による人民のための政治 (government of the people, by the people, for the people )とはいったいどう政治なのでしょうか。アメリカを守るためにオバマ氏は自動車業界のビッグスリーに巨大な税金をつぎ込みました。かつて日本も、大手銀行を守るために税金を投入しました。オバマ氏も小泉さんも苦渋の決断だったに違いありません。決して国民の総意ではありませんが、実行せざるを得ない政策だったはずです。しかしこのようにそれらの冷静に政策を受け止められるのも自らに大きな影響がなかったせいかもしれません。映画のように方舟に乗れないという政府の人選を知っても、冷静に受け止められるでしょうか。小泉元首相の政策が銀行の貸し渋りを招き、困窮する中小企業や自営業の方々の苦情が相次ぎました。

 阪神大震災の時、私が勤める電鉄会社に600億円もの融資が政府からありました。電鉄という公営的事業のおかげです。ダイエーもまた、巨大な負債があったおかげで国が救いの手を差し伸べたのです。不公平と云えば不公平そのものですが、国家の判断とはこのようなものと知らなければなりません。政治家の苦渋もまたここにあります。親の経済状態を知った子供が最高学府への進学を自らの意志で断念し、それを親も又黙認せざるを得ない状況と似ています。

「苦渋の選択」という場面に遭遇しない人生などないに違いありません。
そのとき、たとえその選択が苦渋であっても、その苦渋をしっかりと乗り越え、
後々までも正しい選択だったと云える人生を送らねばなりません。
そうすることが、切り捨ててきたものへの責任となるからです。

たった20年の人生であってもそれまでに数多くの選択があったでしょう。
あの時、どうしてあの学校を選んだのか。
あの時、どうして右ではなく左の道を選んだのか。
あの時、どうしてあの人を選んだのか…。
振り返ると、ある選択がその後の自分の人生に大きな影響を与えたと思えることがあります。
映画「オール・ザ・キングスメン」にこんなセリフがありました。

「人生を決める瞬間は数回しかない。もしかしたらただ一度かも…」

今までの選択に、今も自信を持って「正解だ!」とあなたは心から叫べますか?
もし自分を変えたいと思っているならば、同じ選択をしてはいけません。

「心の奥底でどう思うか、それが人生を決める」この言葉は正しいと私は感じています。

オバマ氏や鳩山首相の苦渋の選択が、
今後のために必要だったと歴史が認めるためには、
まだまだ時間を要しますが、これからのプロセスがとても大切です。

一人の日本国民として、選挙を通してその是非を訴えたいと思います。
また自らの人生の選択においても、
責任を持って「正解だった」と言えるよう努力したいと思っています。

「ゼロの焦点」

2009年11月19日 | Weblog
 最近、たまたま読んだ『幻夜』の著者である東野圭吾に興味を持ち、その後も他の作品を読んでいるのですが、物足りないというか、あまり好感を抱けないというか、非条理過ぎるというか、とにかく読書感が良くないのです。

 今回、映画「ゼロの焦点」を見終わって、松本清張の作品の方が東野圭吾より好きな理由がよく分かりました。一言でいうと「清張の方が情が深く動機に共感できる」からです。東野圭吾の作品との大きな差がここにあります。社会派小説とは社会の情勢が事件の背景に組み込まれ、犯罪の動機を重視したリアルティを持たせた推理小説ですが、このジャンルは清張が作り上げたと云えます。江戸川乱歩や横溝正史らによる戦前から戦後にかけての探偵作家の幻想・怪奇・エログロ小説などとは対照的です。東野圭吾の作品にも時代の流れが細かく描かれてはいるのですが、あくまでも背景であり、犯罪動機へのかかわり方が感じられません。だから清張が確立した社会派小説とは云いにくい面があります。

 清張は大変苦労人で、実父が定職を持たず生家が貧しかったため15歳の頃から給仕の職に就き、その後、高崎印刷所で石版画工になり、共産党を支持していた為に思想犯の嫌疑で検挙されたことがあります。 1939年朝日新聞広告部に意匠係として勤め、1950年、勤務中に書いた処女作「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の小説」に入選し、1953年に「或る『小倉日記』伝」が第28回芥川賞を受賞。以後作家活動に専念しました。

 清張自身が代表作という『ゼロの焦点』は、彼が50歳の時、1959年の作品です。その後に書かれた自身の『砂の器』(1961年)、水上勉の『飢餓海峡』(1963年)、森村誠一の『人間の証明』1976年)にも多大な影響を与えたと私は想像しています。

(物語)
 板根禎子(広末涼子)は、広告代理店に勤める鵜原憲一(西島秀俊)と見合い結婚した。新婚旅行を終えた10日後、憲一は仕事の引継ぎをしてくると云って金沢へ発ったが、予定を過ぎても帰京しない。その後、勤務先から憲一が北陸で行方不明になったという知らせが入る。急遽金沢へ向かう禎子は、憲一の後任である本多と足取りを追う過程で夫の隠された過去を知ることになっていく。それは日本がまだ戦後の占領下だった頃の暗く忌まわしい出来事だった…。

 1880年に女性参政権が初めて日本で認められましたが、それは戸主に限られたものでした。しかし、女子への差別の完全撤廃は、1979年(昭和54年)女子差別撤廃条約が国際連合で採択され、1981年(昭和56年)にようやく発効されるまで待たなければなりませんでした。幼い頃から給仕や石版画工のような下積み時代を経験してきた清張は「平等な社会」にあこがれを抱いており、無実を訴えながら獄中で非業の死を遂げた兄の復讐を誓った『霧の旗』のような自立した女性主人公が登場する作品が少なくありません。「ゼロの焦点」でも、初めて女性が市長に立候補し、妨害されながらも当選した社会的な背景が描かれており、抑圧されてきた女性達への清張の温かい眼差しを感じます。

 ハンセン病に対する根強い差別を痛烈なまでに批判した『砂の器』もまた、明確で共感できる哀しい動機が存在します。ここには人としての深い情や絆が原点にあり、平等でありたいという強い願望が存在しているのです。この辺りが東野圭吾の小説で描かれている登場人物との差であろうと私は思っています。

 松本清張の自身が代表作という『ゼロの焦点』は、『砂の器』と同様に大変良くできています。清張生誕100年、この機会に小説を手に取るか、映画館に足を向けるかして、彼の温かく情のある登場人物に遭遇するのもご一考かと思います。

 ただ、映画で薄幸な新妻を演じる広末涼子はミスキャストかな、という感がぬぐえません。その最大の原因は彼女の少女のような声だと思います。反対に艶のある声を放つ中谷美紀が際だっています。出演場面の少ない木村多江も情のある女性を見事に演じきっていましたが、男性陣を含むその他の出演者、脇役陣もまったく印象に残る人物がおらず、作品として物足りない一面があります。


(中谷)
「モノや情報があふれている今だからこそ、悩める女性たちにご覧いただきたい作品になりました。ちょっと疲れた日常から一瞬でも離れることができるのが娯楽映画の醍醐味(だいごみ)ですが、今ご自身が置かれている状況を少し見つめ直す機会を『ゼロの焦点』は与えてくれると思います。」

(広末)
「清張作品のイメージは、男の人の視点で物語が進んでいくということでした。「砂の器」「点と線」をはじめ、社会派ということも含めて、男性がグっと来るストーリーですよね。でも、「ゼロの焦点」は女性の視点で、しかも3人の女性が登場して、どの女性にも共感できます。それに、悲劇が人の悪意だけではなく、時代や社会に翻弄(ほんろう)された人たちのドラマに基づいているので、同情ではなく共感を持てるストーリーだと思いました。」

「金が持つ負のパワー」

2009年11月17日 | Weblog
私は大の映画好きですが、現実感のない物語にはあまり<共感>できません。
かといって「千と千尋の神隠し」のような、まるで夢の中の出来事のような物語でも、
親を救いたいという純粋な想いが自分探しへと移行していく展開と、
無意識に自立を目指していく清々しい少女の姿に、
リアリティを感じて感銘を受けました。
また、他を圧倒する湯バアバやいかがわしい神々、
そして、登場するわき役達も、現実に存在する大人達を彷彿させ、
リアルな存在感がありました。
宮崎アニメの中では最も好きな作品です。


アニメや映画の世界ではなく、
現実をリアルに生きていながら、その実感が希薄な若者たちが数多く存在します。
その要因はどこにあるのでしょうか?

私は人との繋がりが希薄なせいだと思います。

恋をしてますか?
何かに夢中になっていますか?


私は大学の頃、学業も忘れクラブ活動で円形脱毛症になるほど、
夢中になってクラブ存続の為に一所懸命になっていました。


そして、ファミリーレストランDに就職し、新店を10店オープンさせました。
ゼロから人を揃えるために、面接会場を決め、社員の寮を決め、
保健所で営業許可を取り、タバコ販売の申請をし、
面接し教育し、チームワークや組織を構築しました。

その後、バブル崩壊まえに退職し、関西のH電鉄に再入社しました。
ここでも新しい飲食店(2店)、異動して、今も飲食部の組織、他部門の組織を構築しています。

今振り返れば、大学のフォークソングクラブのコンサートマスターとなんら変わりがありません。
あのときの延長上の仕事を今までしてきたように思います。


一言で云えば「ゼロからの組織の構築」です。

つまり、あのときがあったから今があると云えます。
過去と今の延長線上に未来が必然的に存在するのです。


「2点が決まれば直線が決まる」
これは数学の公理であり、人生の公理でもあります。

世界中の出来事が(リアルかどうかわかりませんが)毎日のように報道され、
国内の目を覆いたくなるような悲惨な事件が繰り返し報道され、
新政府の出航も順風満帆とは云えない、綱渡り的にも思える状況です。
景気の動向も以前不景気の風が止まらず、
就職率は依然と低く、失業率も高く、
先進国での貧困率は最高水準(悪い方で)にあります。

『2000年なかばの統計によれば、日本の相対的貧困率は14.9%で、メキシコの18.4%、トルコの17.5%、米国の17.1%に次いで4番目に貧困率が高かった(OECD加盟国の平均は10.6%)。 逆に、西欧諸国は大半が10%以下であり、全調査国中もっとも低いスウェーデンとデンマークの5.3%を筆頭に、北欧諸国の貧困率が低い。日本政府の2009年の発表では、日本は2006年の時点で15.7%だった。
 2007年の国民生活基礎調査では、日本の2006年の等価可処分所得の中央値(254万円)の半分(127万円)未満が、相対的貧困率の対象となる。これは、単身者では手取り所得が127万円、2人世帯では180万円、3人世帯では224万円、4人世帯では254万円に相当する。』(ウィキペディアより)

このように先進国と呼ばれながらも、格差社会は依然として広がりつつある国、
それが日本という国の現実です。
このような社会の中で、私たちは自分を見失わず生きて行かねばなりません。

 60~70年代の優秀な大学生は日米安保に反対し、もっと平等な社会を目指し、政府や封建的な大学そのものに立ち向かって戦いました。日本を米国の隷属から脱却させたい、平等な社会を作りたい、という純粋な情熱でした。

 東野圭吾氏の『白夜行』『幻夜』の主人公のような悪意に満ちた輩が、大麻を栽培したり、その他の麻薬を学内で販売したり、振り込め詐欺を組織したり、売春組織を運営したりしています。まるでヤクザの仕事を真似て、しかも彼ら以上に巧妙に試みようとしています。すべて金の為です。汚れた金を掴もうとしているのです。彼らにはそんな汚れた金も同じ金なのです。


何が日本の若者たちをこんなにまで堕落させたのでしょうか?
金でしか現実を実感することができなくなったのでしょうか?
エコノミックアニマルと蔑みの言葉を受けてきた親たちのせいなのでしょうか?


イスラムの賢者たちは、この金が持つ巨大な負のパワーがなんであるかを
承知しているからこそ、西欧化に「NO!」と言い続けているのでしょう。


「金が持つ負のパワー」とはどういったものなのか、
私たちはじっくりと考える時期に来ている感じています。

千尋が豚にされた両親を助けるという行為には、熱い純粋さが存在します。
商売人の次男だった私は東京の大学に進学させてもらった親へのお返しは、
「自らの自立」以外にないと決めていました。

千尋の純粋さとあの頃の私の純粋さには差がないと思います。
この千尋と私の純粋さは、日本を憂い、
安保に反対した高潔な純粋さとは質が違うかもしれませんが、
人を陥れ、究極の自己本位に走る悪意に満ちた連中の金への執着に比べれば、
限りなく純粋だと断言できます。

「天国への階段」

2009年11月13日 | Weblog
『自分が他人より優れていると思ったら他人は理解できません。
 俳優の仕事に必要なのは他人に共感し、その人生を想像できること。
 自分の人生は楽しむべきだけどバランスが大切。
 一人の人間として他人への共感を失ったら俳優の仕事は出来ないと思う。

 生前に良いことをするのは天国に行くためじゃない。
 天国があるかどうか分からないけど、
 あるというのはいい考えじゃないわ。
 すべての行動が自分のためになってしまうから。
 そういう考え方は人間の心を駄目にすると思う。
 手段ではなく目的として良いことをしたいの』


これはナタリー・ポートマンという私の好きな女優のインタビューから抜粋しました。映画「レオン」で幼い少女を演じましたが、あれから素晴らしい成長を遂げたようです。

 今では大人の女性をいつもCOOLに演じていますが、俳優として、そして人生を生きる上でとても大切なことを学んだように感じます。

その一つは人との<絆>です。
「他人に共感し、その人生を想像できること」
 この言葉は人間関係の大切さ、絆を大変重要視している言葉です。

「 一人の人間として他人への共感を失ったら俳優の仕事は出来ないと思う」
この言葉も自己中心的発想では、周囲の人の存在を大切に思っており、。
とても温かみを感じる言葉だと思います。

もう一つは天国に対する考え方です。
これは神へのスタンスと同様に思えます。
「良いことをするのは天国に行くため」では、すべて自分の為の行為となるので、
無償の行為ではないと彼女は云っているのです。
そんな考えだと「人間の心を駄目にする」と明言していますね。
とても聡明で心豊かな女性と思わずにはいられません。

自分のことを優先しすぎると、共感する心も育たず、
天国への階段を意識すれば人は堕落するだろう。
天国や神の存在など考えるな。
在るのは自分の心、他人の心、
だからこそ、無償の行為を続けなさい。

私は彼女のインタビュー記事を読んでこのように受け取りました。
ますます、ナタリー・ポートマンが素敵に見え始めました。

「心を豊かにするために」

2009年11月07日 | Weblog
「感受性が豊か」「感受性が繊細」
この言葉のニアンスには少し開きがあるように感じます。

「豊か」には太くて動かし難いイメージ、
「繊細」には細くて壊れやすいイメージを感じます。

「母性愛」には繊細という言葉が似合いません。
やはり「豊かな母性愛」が似つかわしいようです。
つまり「豊か」という言葉には動かし難い、
太くて大きくて深いものを感じます

獣たちは本能のままに命を長らえていますが、
人は言葉を作り、文字を伝え合って理性を身に付けてきました。
医学が進歩し、寿命も飛躍的に伸びました。
しかし、そのために本能が押さえ込まれ、人間本来の能動的要素よりも
受動的要素の方が優先されてきたのではないかと推測しています。
この人たちが草食系、
人の気持ちを優先する心優しき人たちと呼ばれているかもしれません。

音楽を聴いて心が癒されるのは受動的要素ですが、
楽器を自ら練習し弾きこなす喜びは能動的要素と思われます。
グループを組んで音楽活動をするのは、
この二つの要素を同時に高められるので、とても有効且つ合理的と云えます。

繊細すぎて人の言葉が心に突き刺さるような方は、
人間本来の本能を呼び起こし、肉体と同時に心の筋肉を鍛えるために、
もっと能動的になってみてはどうでしょうか。

音楽がもし好きなら自分でも何か簡単な楽器を弾けるよう努力する。
スポーツ観戦が好きな人は、自分でも何かやってみる。
読書が好きなら日記から初めて何でもいいから書いてみる。
映画が好きなら簡単なストーリーを考えてみる。

情報を受け入れ、親の躾に縛られるだけでは繊細になる一方で
肉体だけではなく心の筋肉は貧困になっていき、
心の幹も太くならないような気がしています。
感受性をもっと豊かにするには自ら能動的なものにトライしてみてはどうでしょうか。

たとえば、実際にピアノやギターでドミソ(コード:C)の和音を弾いてみて下さい。
そして、自分でシという音を一つ加えるだけで
今まで知っていたただ明るい音の世界が一変し、
とてももの悲しく、しかも陰影が生まれ、音の世界が深くなります。
あの晴天の霹靂のような感動は、今も忘れ得ぬ記憶です。
私の場合はギターでこの感動を得ました。
ギターは全部で6弦ですが、2弦はシの音なので解放し弾き
あとの弦をドミソの音のどれかを押さえ弾くのです。
(1弦は解放でミなので押さえません)

野球に明け暮れた小学校時代、その後の3年間は柔道少年でした。
しかし、高校生になって音楽を一生の友にするきっかけが、この深みにある6弦の和音でした。

人には能動的要素の強い人と受動的要素が強い人がいます。
重要なのはこのバランスのような気がしてなりません。
そして能動的なものを一つでも自分のもの(一般レベルより上)にしながら、
より高いものを学ぼうと努力する姿勢がいいようです。

できれば尊敬できる先輩や先生の門を叩く状況を望ましく思いますが、
謙虚である限り先生はいつも周囲に存在します。

「心を豊かにしたい」と思うことは
まだまだ自分の心が貧しいと思っているわけです。
この姿勢・想いが大切です。

昨年の夏、大阪の梅田でマイミクになっていただいた先生の
速読法のセミナーに参加しました。
会社以外で実費でセミナーを受けたのは初めてでした。

「見ること」と「読むこと」は違うことを学びました。
若くて美しい先生が最後にこう云われました。

「まず、<見る>と<読む>の時間に大きな差をあることを知ることが大切。
 そして、見るを読むに近づける。
 これが速読法の極意」


この極意は「心を豊かにしたい」にも通ずるものがあると感じています。
「豊か」と「繊細」は違うことを知る。

そして、繊細な心を太くて動かざるものにしていく。
受動的な心と同時にもっと能動的姿勢を持つ。

能動的要素が高い人は、先輩や先生と呼ばれる人に教えを請う。
音楽や芸術や文学の世界に長けている人がきっと近くにいるはずです。

野球やサッカーのようなスポーツは守りと攻撃のバランスがとても重要です。
どちらが優先か、それは云うまでもなく守りです。
これは私たち人間も同じはずです。
家から一歩出れば、毎日が戦いと云って過言ではありません。
虐めや引きこもりはその最たる例です。
繊細なだけでは、その虐めや引きこもりを誘発させかねません。

心の筋肉は自分で鍛えずして、誰も手伝ってくれるはずがありません。
そのためには自分の能動的要素に刺激を与え、
比較的興味が持てるものを見つけて挑戦してみて下さい。

そして、「心を豊かにする」ことは強くすることと同義だと思って下さい!

「生まれてきた理由」

2009年11月03日 | Weblog
「生まれてきた理由」が本当に必要な問いだろうか。
「人にはなすべき事がある」本当にそうなのか?

自分の職業も決めてもいない若い時に
生まれてきた理由や
なすべき大儀が必要でしょうか。

坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、江戸に向かったとき
明治維新の契機となった「薩長連合」や「大政奉還」という
歴史上の大きなエポックの中心人物になることを予想していただろうか?

誰もが「NO!」と答えるでしょう。

1853年、黒船が浦賀沖に姿を見せ、イギリス、フランスも、日本に迫ってきていた。
朝廷から一般民衆まで熱く論じられた「尊皇攘夷」論は
幕府に対する反体制運動の合言葉として沸き上がってきました。
坂本龍馬は暗殺に向かった勝海舟との出会いから、世界と日本国との関係を学んでいきます。

そんな歴史の激しい潮流の中から西郷や桂と出会い、
自分なりに日本のあるべき姿を見いだします。

その時、彼は生まれてきた理由や大儀を念頭においていたでしょうか?

私は思います。
歴史上の彼の役割は、その後の歴史が決めたこと。
彼は今自分ができること、すべきことを懸命にしただけ。
自分の知識の欠如を知り、藩というしがらみのない龍馬が、
佐久間象山、勝海舟らの有識者から多くの事を学ぶうちに
リベラルな思想を身に付け、議会制民主主義国家を夢見たのでしょう。
(その国家の出現は竜馬の死後から7,80年もかかりましたが…)

皆様がよくご存じの坂本龍馬を一つの例に喩えましたが、
生まれてきた理由や大義、自分の存在意義を優先して考えるのは
ナンセンスのような気がしてなりません。

大切なことは「いまを生きる」ということに集約されるのではないでしょうか。
過去と現在を結ぶ直線上に未来が存在します。

届かぬ夢に憧れた生き方はベターではありません。
大義や夢のような大きくて届かぬ可能性の高いものではなく、
もっと足下の身近な目標達成の経験が、足腰を鍛え忍耐力を付け
洞察力や決断力を磨いていくことにつながり、
実現可能な夢への道のりを自然と示してくれる(「他力」)のではないでしょうか。

柔道を始めた人がいます。
夢がオリンピックで優勝して金メダル獲得です。
しかし、まずは黒帯になるために初段を目指すことです。
二段、三段と経験を重ねるうちに体力と共に
忍耐力や洞察力、決断力、
先輩や後輩、師匠、そして様々な人との交わりの中で教養を蓄え、
自分が目指す金メダルへの道のりが漠然としたものではなく、
明確なビジョンとして自分の心の中に形成されていきます。
夢と目標の区別をしっかり持たなければなりません。

「生まれてきた理由」もまた、夢と同じスタンスでいいと思います。
身近な目標をクリアーしていく過程で
現実的な夢が向こうの方から飛び込んでくるものです。

ある小説のこんな文章を思い出しました。

「人は行きつつある方向からやっていくる」

新しい目標や夢、大切な人との出会いも行くべき道の過程で見つかります。
それが<他力>を信じる生き方だと私は考えています。
今やるべき事が分かっていますか?
これが<いまを生きる>ということだと思います。

教育を受ける目的は「自立」だと理解しています。
私たちが第一の目標とするのも同じく「自立」だと思います。
すべてはここから始まり、ここに尽きると信じています。