GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「夢が目標になった瞬間」

2008年08月30日 | Weblog
 全米オ-プンテニス男子2回戦を、日本選手で35年ぶりに突破した錦織圭選手、まずはおめでとうと素直に喜びたい。

 男子シングルスで錦織圭(ソニー)が日本男子では1973年の神和住純以来となる3回戦進出を果たした。2回戦でロコ・カラヌシッチ(クロアチア)と対戦、6-1、7-5とリードした後、相手が足の不調を訴えて棄権した。試合内容は決して締まった試合ではなかったが、錦織の長所と短所がよく見えた試合だった。

 彼の試合を最初から最後まで見たのは昨夜で3度目でした。私が凄いと思う点は、オリジナリティの高い攻撃的なテニスです。そこにはとても勇気を感じるのです。しかも、18歳という若さにも関わらず多彩なボールを打ち分けます。高い打点での鋭いフォアのショットはジャンピングショットと呼ばれています。ナダルが放つあのスピンボールを打ったり、深く攻めながら角度のあるショットを歯切れ良く打ち込む。

 ベテラン選手が予測できないショットを、勇気を感じる攻撃的でオリジナリティ豊かに返してくる錦織に、対戦する選手は苛立ってくるように見える。ここに彼の才能を強く感じる。

 数年前ナダルのテニスを見たときも、今までに見たことのない強烈なスピンボールに驚いた。何処までも追いかける驚異的な脚力、そして疲れを知らない体力に対戦する選手は苛立ちを隠せない。NO.1になるためにナダルはそれらにより磨きをかけ、サーブの課題を克服し、正確なリターンも磨きをかけ、しかも強烈なスライスとバックの鋭いクロスまで身につけて上り詰めた。彼がNO.1になる過程をしっかりと見てきた。

 今、錦織圭のテニスを見ると非凡な才能を感じさせながら、多くの欠点も見えてくる。その最大と思えるのが体力不足だろう。才能豊かな様々なショットをフルセットまで放ち切る体力の不足が一番の心配だ。そしてナダルのような必死に追いかけられる脚力がないため、ボールを追いかける姿に執念を感じられない。それは彼のスタンスなのかもしれないが、相手に勇気を与えてしまう。せっかく苛立つショットを放ちながら、残念でしかたがない。

 彼はアメリカの有名なテニスアカデミーで英才教育を受けている。彼の謙虚な性格は、周囲のスタッフの明確な分析・欠点をしっかりと受け止めることを容易にし、しかも優秀なスタッフは非凡な彼の才能をより引き出してくれているように思える。トップテンへの道のりは(その道のりに何が足りないか)、彼と彼らには明確に見えているように感じる。

 それは夢が目標になったことを意味する。夢は届かないから夢である。彼の道のりは明確だ。欠点を補うという単純で明解な道のりだ。ナダルがフェデラーを破ることができたように。

       ………………

 ゴルフで40を切ることがかつて私の夢だった。一昨日1カ月半ぶりに息子と行ったゴルフの結果は、47.43の90(パット数:18、16)だったが、夢に手が届く可能性をさらに感じた。それは夢が目標に変わった明確な瞬間でもある。

 その為に今の自分に何が足りないかが冷静に分析できるようになったからだとも云える。今まで苦手だった3,40ヤードの寄せが、練習のたまもので苦手意識がなくなってきた。次の課題は左足下がりのショットだと、優先順位も明確になってきた。(これは練習場でできないのでやっかいだが…)

        …………… 


 夢が目標になった瞬間
 そのとき見える道はまっすぐだ
 もう曲がりくねったり ぼやけたりしない
 何が足りないか 何が必要か
 目標が明確になったとき その道は一本道だ

「ダークナイト」2

2008年08月26日 | Weblog
(ネタバレ、ゴメン)

このようなクライム映画では、黒沢映画「天国と地獄」以来の最高点を付けました。
(グッドラック感動のお奨め映画度:」90点


名画にはオリジナリティが大切です。
それはスターでも、個人でも、仕事でも同じだと私は考えています。

人の人生は全てオリジナルですが、意識して自分なりの仕事、
羽目を外さなくても自分なりの生き方を追究するべきだと思っています。

そう言った意味では、この「ダークナイト」の脚本は凄い!
まったく展開が読めませんでした。
しかも、その展開に納得できる説得力を持たせている、凄いところです。
映画「アンフェア」のような裏切りの連続とはまったく次元が違います。

(登場人物の良心との戦い)
・地方検事の良心(意外にも後に崩壊していく、ここもいいですね)
・バットマンの良心(素顔を見せなければ市民が殺される)
・ヒロインの良心(バットマンとして生きるなら別れるしかない)
・フェリーの乗客と囚人たちの良心(立場がちがう彼らが場所を同じにして他の船の乗客の命の重さを思い量る)
・技術研究員の良心(1000万人以上もの電話を盗聴できるシステムを個人が使用し続けるのか)
・執事がどうのように主人を想うのか(彼女の本心を書いた手紙を見せない)

他にもあったように思いますが、これ以上思い出せません。


ジョーカーは映画の中で主犯として存在していますが、
登場人物それぞれに心に住む<心の悪・ダークサイド>と解釈できます。

映画はジョーカーとの戦いに見せてはいますが、
本当の戦いは、登場人物の緊迫した場面での良心との戦いです。

ここにこの映画の他に類を見ないストーリー(脚本)のオリジナルティがあります。
バットマン人気を借りた高品質のクライム映画です。

もう一つ私流に賛美すると
ストーリーには、映画「ノーカントリー」のような絶望感がなかったことでしょうね。
そこが名画にしたい一番好きなところですね。


書いていてロードショー中にもう一度見てみたくなりました。

<子供たち>

2008年08月24日 | Weblog
『批判ばかりされた子どもは
 非難することをおぼえる

 殴られて大きくなった子どもは
 力にたよることをおぼえる

 笑いものにされた子どもは
 ものを言わずにいることをおぼえる

 皮肉にさらされた子どもは
 鈍い心のもちぬしとなる

 しかし、激励をうけた子どもは
 自信をおぼえる

 寛容にであった子どもは
 忍耐をおぼえる

 賞賛を受けた子どもは
 評価することをおぼえる

 フェアプレーを経験した子どもは
 公正をおぼえる

 友情を知る子どもは
 親切をおぼえる

 安心を経験した子どもは
 信頼をおぼえる

 可愛がられ抱きしめられた子どもは
 世の中の愛情を感じとることをおぼえる

              by ドロシー・ロー・ホルト』


 子供を育ててきた経験がある親にとって、この詩は心に突き刺さってきます。結婚当時、私は28歳、妻は23歳だった。その頃の自分を思い起こせば、この詩の内容を殆どを意識していなかったように感じます。ただ結婚直後の夜、妻にこんな話をしました。

 当時レストランの店長だった私は、妻にあるファミリーに感動した話をしました。一組のファミリー(若い夫婦と3歳くらいの男の子一人)が来店された時、混んでいた店内には空きブース席がなく、仕方なくテーブル席にご案内し、お子さまチェアーをご用意しました。そして、その可愛いお子さんを抱き上げて席に着かせました。ご夫婦は当たり前のようにメニューをのぞき込んでいました。

「アリガト」
 その子はたどたどしい言葉で、私に向かってお礼の言葉を発しました。しかも笑顔で。その後、ご夫婦も私に笑顔で礼を云った。

 私は今まで、親に礼を言われた経験は何度もありましたが、幼子自身からお礼の言葉を聞いたことがありませんでした。だから本当に驚き感動したことを妻に伝えました。

「いずれ生まれる私たちの子供も、自分が受けた厚意を素直にありがとうと云えるように育てたい。そして、お早う、おやすみ、行って来ます、お帰りなさいと笑顔で云える子に育てたい。その為には、子供が生まれる前から我が家、つまり私たち二人の習慣でなければ子供には伝わらないからね。これからお互いに注意していきましょう。」

 25年以上、子供と接して来ましたが、どうやらこの躾はうまく出来たように思います。その他は、どうかというと甚だ疑問ですが…。

 この詩を読み返しながら今の知識と経験を持って、子供を育てられたら、子供はどうのように育つのだろうか? とバカなことを考えてしまいました。

仕事柄20歳前後の若い世代と接することが多い私は、
挨拶も出来ず、
笑顔も表情も少なく、
ありがとうございますと素直に云えない、
厚意を感じない、
若者達が増えているのを杞憂しながらも、
我が子のようにその事を注意し続けています。

 きっと煙たがられているとは思いますが、そんな職場でも2,3年も継続して頑張ってくれた子達とは、最後はハグできるような関係でお別れができることをうれしく思っています。

 今年も、もうすぐ夏が過ぎ、残る子もいれば私の元を去っていく大勢の子ども達がいます。日本の飲食業界では、8月度の売上が最も高いという理由からです。卒業以来30年以上も同じようなことを繰り返していますが、応募してくる若者達の変化もさることながら、私の言動を随分変わってきたように感じます。それは店長という上司の立場から父親としてという意識が多く加わったことによるものでしょう。

 最近見た映画「ノーカントリー」(2007年度アカデミー賞■作品賞 ■助演男優賞 ■監督賞 ■脚色賞)の後半に、こんな会話があります。

荒廃していく人や悲惨な事件を嘆きながらトミー・リー・ジョーンズ演じる保安官と地元の老保安官の会話です。

「人が敬語を使わなくなった結果がこれだ」
「止められない」

■この映画はあまりにも絶望的なストーリーで、決してグッドラック感動のお奨め映画では推薦しにくい作品です。しかも、極め付きシリアスで緊張感一杯のバイオレンス映画です。今の米国だけでなく多くの国で直面している<荒廃していく人の心が止められない>が主題です。

 我が国でも同じような傾向を強く感じます。尊敬できる人が不在になり、敬語の使用頻度がどんどん少なくなってきています。


・ワザや規範や姿勢や基本を教える師弟と呼ばれる関係が希薄になってきたからでしょうか。

・因習と呼ばれるものから脱皮することが革新的なこと、
 進歩だと誰かに教わったのでしょうか。

・親と子の絆が希薄になってきたからでしょうか。

・先生と生徒の絆がか細くなってきたからでしょうか。

・進学の為スポーツ関係のクラブに入部する子供達が少なくなってきたからでしょうか。


様々な杞憂が脳裏をよぎりますが、
自分の足下だけでも、
一人でもできることを、
私にもできることを、
全体の1,000万分の1であろうと
それが私のできる100%だと信じて
今後も若い連中と話し耳を傾け、
決して絶望せず接して行こうと思っています。

「篤姫」とリベラルな心

2008年08月20日 | Weblog
先日のNHK「篤姫」の中で、こんなシーンがありました。
嫌ってる井伊大老と話し合うために、茶室で二人だけで会うシーンです。
彼が点てたお茶を篤姫が飲んで、
「これほどおいしい茶は初めてじゃ」といいます。

井伊大老も篤姫の言葉に驚きます。
通常は、嫌った人が行った言動をなかなか受け入れられないものだからです。
しかし、篤姫の描き方は最初からとても<リベラルな心>
(分け隔てのなく因習に囚われることなく平等に人や物事に接する心)を持っています。
これが人気の一つだと私は思っています。


篤姫がどうしてこんなふうにできるのか?
・豊富な知識     → 日本の歴史・文学に精通している(教養が豊か)
・好奇心旺盛     → 常に様々なことを知りたい、何故なのかを知りたがっている
・聞く耳を持っている → 多くの情報に耳を傾けながら感じたことを自分なりに表現
・目標を持っている → 島津家の為に、将軍家の為に、日本国の為に

私の結婚観の一つに
「人によって態度や言動が変わるような人は避けましょう。
 分け隔てなくどんな人でも同じ対応ができる人を選ぶべし。」があります。

篤姫はこれができるのです。これは大変大切なことだと思っています。

苦手な人と接するときは押し黙って、後ろの方で静かにしているが、
話しやすい、または言いこめることが容易な人にはべらべらしゃべり、
また過剰な言動で相手を虐めたりもする。

内弁慶と呼ばれる人もこの範疇に入るかもしれません。
小学校や中学校の頃、このような人をよく見かけましたが、
社会にでてもこのような人と出くわすことが多々あります。
その相手が上司の場合はかなり困難な状況となりますが、
決してそんな上司がいつまでも上司ではいることは少ないようです。


何が云いたいのかというと、男性や女性も「篤姫」のように生きて欲しいのです。
そして「篤姫」のような人を選んで共に人生を送って欲しいのです。

<リベラルな心>を持ち続け、好奇心を失わず、
多くのことを知ろうとして、そして独自に学んで自分の言葉で表現する努力をしましょう。
自立を目指すと共に、自律を身に付けなければなりません。
そのためには豊富な知識に基づいた豊かな教養が不可欠なようです。

「嫌っている人の点てたお茶でも、美味しいと思える心」

そこには美味しいと判断できる豊かな教養と
うわべだけで人を判断してはいけないという自らを律する心がかいま見えます。
「このような素晴らしいお茶を点てる人に、あんな非道(安政の大獄)なことができるのか?」


「篤姫」では、幼名が於一(おかつ)だったのが、敬子、そして篤子、
そして天璋院と変わっていきます。
その都度、彼女は与えられた立場で、
しっかりと物事を考え自分の心の信じるままに大人になっていき、
島津家から将軍家、そして日本国のことを考えるように成長していきます。

これから勝海舟や西郷さんとどのようにからみ、
そして最後の江戸城無血開城へと向かうのかじっくり楽しみたいと思います。

「ダークナイト」

2008年08月14日 | Weblog
北島康介君が100m平泳ぎで世界新記録で金メダルを取った午後、映画館で驚くべきストーリーに遭遇しました。

 バットマン映画「ダークナイト」です。今年見た映画の中では最高の出来映えです。当然、バットマンシリーズの中ではピカイチです。

映画の内容を一言で云えば、
「バットマンと警察が守る大都市での、人間の良心を問われるパニックムービー」です。

 特にジョーカーのように人の良心を弄び、揺さぶる登場人物の設定は過去に思い当たりません。(せいぜい、MI:3のホフマンくらいか)そんな難しい役柄をヒース・レジャーは見事に演じ切りました。アカデミー助演男優賞をあげたいくらいの名演・怪演です。

 そんな鬼気迫る彼を見ていて思わず、映画「ブラックレイン」の松田優作を思い出しました。あの映画の優作のふてぶてしく、周囲の神経を逆なでする演技は他の役者(マイケル・ダグラス、アンディー・ガルシア、高倉健、若山富三郎)を圧倒しており、この「ダークナイト」出演する芸達者の4人、マイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマン、モーガン・フリーマン、エリック・ロバーツの影が薄く感じるほど、ヒース・レジャーは素晴らしかった。(映画のクランクアップの直後、二人とも亡くなったことが偶然とは思えないなにかを感じるほどです)

 もっとも素晴らしいのはやはりC・ノーランの脚本だと思います。人の心を弄ぶジョーカーによって登場人物すべてがそれぞれの人間としての良心を試されるのです。個人も集団も緊迫した中で問われるのです。

 かつて「スター・ウォーズ」でダークサイドに落ちた<ダースベイダー>の長い物語がありました。それは愛する人を守るためという切ない理由が長い時を経て明かされました。

「スパイダーマン3」「キングダム 見えざる敵」では<アメリカ国民は復讐の連鎖を解き放たねばならない>という熱いメッセージが主題でした。この「ダークナイト」では、スーパーヒーローではない人間味たっぷりのバットマンが、第一線の刑事が、有能な地方検事が、フェリーに乗った一般の人々や囚人達が、有能な研究者が、主人を愛する老執事が、バットマンを愛する女性が、それぞれの立場で自らの良心と立ち向かい決断し行動していきます。ここには深い人間の本質的なドラマが描かれています。この展開が素晴らしいのです。

「ダークナイト」を見ながら「オール・ザ・キングスメン」の製作者の一人マイク・メダヴォイの話も思いだしました。『我々は皆、腐敗する可能性があるし、愛することも憎むことも裏切ることもできる。それらは太古の昔から人間の原動力となってきたものだ。善人でもなければ悪人でもない、その間のどこかにいる不完全な人々を描いている。ウォーレンの小説は、人間の本質を描いている。』

映画「オール・ザ・キングスメン」にこんなセリフがありました。

「人生を決める瞬間は数回しかない。もしかしたらただ一度かも…」

 映画「ダークナイト」の様々な登場人物のとった選択は、それぞれの人生を決めるその瞬間だったかもしれません。クリストファー・ノーラン製作・監督・脚本(ノーランの兄も脚本に参加)の渾身の映画を見ながら、自らの良心と向き合って欲しいと思います。
秀作映画の楽しみは心の中での、こんな疑似体験かもしれません。


 私は執事アルフレッドが演じたマイケル・ケインのとった行動が心に沁みました。さて皆様はいかがでしょうか?

こんなに良くできた映画(特に脚本)は滅多に見られませんよ。
皆様も映画館に足を運んで、あの心のパニックを体感してみて下さい。

「キムタクと織田裕二の相違」

2008年08月07日 | Weblog
 3回目の映画、「HERO」を見ながら先日まで放送されていたキムタクのTV「CHANGE」を思い出していました。昨年の映画「武士の一分」を見たときも思ったことですが、キムタクはたとえ時代劇であろうと、検事や総理大臣を演じようが、どこでも金太郎飴の如く<キムタク>を演じています。それは西部劇の大御所ジョン・ウエインが、どの映画でもジョン・ウエインを演じたのとよく似ています。最近ではデンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンがそうですが、アカデミー主演男優賞を獲得したデンゼルの「トレーニング・デイ」では今までと全く違った超悪人刑事を演じたのが印象に残っていますが…。

 織田裕二君は、最近始まったTVドラマ「太陽と海の教室」、映画「椿三十郎」、 TV「冗談じゃない!」、映画「県庁の星」、TV「ラストクリスマス」、映画「ホワイトアウト」(このときの織田はとてもいい)、そしてメガヒットした「踊る大捜査線」シリーズ等があります。彼は決して性格俳優でもないのに、様々な役柄を演じようとしているように思えてなりません。しかし、彼をスーパースターにした湾岸署の青島俊作役のイメージがあまりに強烈で、他のどの役もしっくりきません。007シリーズで名を上げたショーン・コネリーがシリーズ降板以降、様々な作品で<男>を演じ続けてきましたが、大きな成功を収められなかった事と似ているように思えてなりません。

 「風とライオン」の重厚な演技は、その後の「レッドオクトーバーを追え!」や「ザ・ロック」、「エントラップメント」の演技の元となっており、私の好きなコネリー映画の一つですが…。彼が再びスターとしてカムバックしたのはケヴィン・コスナー主演映画「アンタッチャブル」で、素晴らしい老警官を演じて助演男優賞を獲得してからでした。

 キムタクには織田君の青島俊作ほどの当たり役はありませんが、どのTVドラマや映画でも決して役柄としての冒険はありません。強いて云えば時代劇「武士の一分」が上げられますが、演技や語り方に変わりませんでした。往年のスター三船敏郎の役者として演じ方、語り方も、どの映画でもほとんど変わらなかった事と似ています。

 最近では原田芳雄や桃井かおり、、現在ではキムタクや柴咲コウはどこを切っても金太郎が如く、演技や語り方は同じ。見ている人にとってキムタクの語りは安心できて心地はよいですが、役柄としての冒険はほとんどありません。総理大臣を演じた「CHANGE」での演説と「HERO」での検事としての演説にセリフの内容まで似通っています。つまりあるべき姿のキムタク像が監督、脚本家をはじめ、すべてのスタッフに共通認識されているのでしょう。見ていて演技やセリフ、シーンの雰囲気にほとんどズレがなありません。

 織田裕二君の場合はそういった意味では、青島俊作役をなんとか脱皮しようと様々な役柄に挑戦しており、キムタクを遥かに凌ぐ苦心を感じます。名プロデユーサー亀山千広氏は大変二人を良く知っていると思いますが、製作する際の企画・立案には苦労されているのは織田君の方だと思います。今度は何をやらせようか?どんな役柄がいいのか? これではスタッフの共通認識が取りにくく、セリフや行動、状況設定に違和感を感じることが多いのも当然かと思われます。

 私がもし織田裕二君の為に映画を企画するなら、「ホワイトアウト」でテロリストに激寒のダムを占拠され、孤軍奮闘する主人公が最も良かったように思えるので、日本版ダイ・ハードのような映画を押したいと思います。特殊な環境・トラブルに放り込まれた彼が、様々なトラブルに体を張ってボロボロになりながらも自分自身を成長させ、最後には周囲を巻き込んで問題に対処していく物語がいいかな? なんて考えます。

 しかし、冒険を犯すなら松田優作氏が「ブラックレイン」で残忍なヤクザを見事に演じました(いまだにあのギラギラした優作の目が忘れられません。マイケル・ダグラスも高倉健もアンディー・ガルシアも演技で圧倒していました)が、あのような本物の悪役に挑戦して欲しいと思います。同じ語りしかできないキムタクにはできない役に思えるからです。しかも、日本ではなくハリウッドになぐり込みをかける勢いで。織田君、どうでしょうかね?

 キムタクの語りは時代劇向きではないのが残念ですが、やはり現代物が無難な選択だと思われます。組織の中に突然、天然の異物(キムタク)が入ってきて周囲を漂白・活性化していきながら問題を解決していく現代のパターンを今後も押し進めるのが一番だと思います。

 しかし、これもまた何だか私にはつまらなく感じています。これも単なる思いつきですが、日本の外事警察(日本のCIA)、もしくは公安or自衛隊のテロ対策特殊部隊に属するキムタクが過酷な訓練(「G・Iジェーン」のように出来るだけリアルでシビアに)に堪えながら成長して、北からの進入とテロに対して必死に防御するミリタリーアクションものがいいですね。(韓国映画「シュリ」のようなイメージ)

新解釈「ウサギとカメ」

2008年08月05日 | Weblog
『カメ君は今まで住んでいた村はずれの池を出なくてはならなくなりました。
池の水質が悪くなってきたからです。

 住み慣れた池を出るのは忍びないのですが、汚染された池には住むことができません。
 カメ君はがっかりしながら隣村の大池に向かっていました。

 大池まではかなりの道のりがあり、歩くことに慣れないカメ君は少し疲れていました。
 
 そんな時ウサギさんがピョンピョン跳ねながらやってきました。

「もしもしカメよ、カメさんよ、世界の内でおまえほど、歩みののろいものはない…」と歌いながら話しかけてきました。
 
 カメ君は疲れた上に退屈もしていたので、喜んで話し相手になりました。
 
 話してる内にウサギさんがこんなことを言い出しました。
「カメ君、あの丘の社まで競争しようよ」
「えっ! ぼくは今隣り村の大池まで行く途中なんだよ。
 だからウサちゃんと遊んでられないんだよ。」
「そんな事言わないでよ。あの社が遠いならゴールはカメ君に任せるから」
「そんな事いってもウサちゃんとなんて勝負にならないよ」

 カメ君は断り続けましたが、結局ゴールを隣村の大池までとしてスタートしました。
 
 カメ君にとっては大池に行くことが目標であり、勝ち負けなどまったく念頭にはありませんでした。
 ただ道行きを楽しくしてくれるだろうというくらいにしか考えていませんでした。
 
 
 結果として勝負は、能力があるにもかかわらず
 ウサちゃんは、手を抜いた為にカメ君に負けてしまいました。』


  ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆


「優れた能力を持っていながら、つまらない勝負や妬みにこだわったり、怠けたりしている人たちよりも、
目標をしっかり持って生きて行く人の方が、
実りある素晴らしい人生を送れるのではないでしょうか。
 
 身近でいいから、小さくてもいいから目標を持ちましょう。
 その小さな目標を達成し、また小さな目標を達成し、
 その繰り返しが達成感のある充実した人生につながりますよ。
 誰かに勝ちたいという目標ではなく、
 自分自身の可能性ある目標を見つけましょう。」

 とあの童話は伝えているのではないでしょうか。

「もう一度住んでみたい街」

2008年08月02日 | Weblog
 もう一度住んでみたい街
 あの街であなたは無心に育ちましたね

 毎朝「お早う!」といって
 あなたに口づけしましたね

 それが我が家の習慣でした
 同じことを幼稚園でして
 先生にしかられましたね
 あの時 何故しかられたのか
 きっとあなたには分からなかったはず

 江ノ島の水族館で初めて迷子になりましたね
 不安になって泣きべそをかきましたね

 鎌倉の海辺に寝そべって
 有名な水中花火を見ましたね
 大人でもびっくりする花火の大きな響きにも
 あなたは驚きもせず 目を輝かせていましたね
 「幸せの瞬間」とはあんな時間のことをいうのでしょうね

 上野の動物園にパンダがやって来たとき
 何時間もかけて見に行きましたね
 でも人の波が大きすぎて見られませんでしたね
 翌日云われたあの一言 今でも忘れられません
 「パンダさん、いなかったね…」 
 
 海辺にあったゴルフ練習場
 あなたは隣で白いボールで砂遊びをしていましたね
 潮の匂いが漂い 時間が穏やかに流れていましたね

 私が会社から一週間海外研修に行ったとき
 あなたは遠い成田まで迎えに来てくれましたね
 人混みの中であなたの笑顔を見つけたとき
 父親であることの喜びを最高に感じました

 あなたが育った街
 父親であることの喜びを知った街
 海辺の温暖な気候が時間の流れを緩やかにした街 
 すべての思い出が絵画のように美しい街
 あなたと過ごした幸せの街 
 
 「もう一度住んでみたい…」
 もう一度住んでみたい街、それは藤沢鵠沼……。

『 短 絡 』

2008年08月01日 | Weblog
『離れていくなら 近づかないで』
『成功しないなら、努力したくない』
『願いが叶わなければ賽銭箱でも、自販機のように釣り銭が欲しい』
『夢など見ない方がいい。叶わぬ事ばかりだから』

ウォークマンが大ヒットした頃から、自分勝手の個人主義の時代に突入した現代。
0と1の組み合わせはデジタルへと進化し、鮮明な画像、
クオリティーの高い音質を提供してくれるようになった。
しかし、単純で明瞭なシステムは人の心まで短絡化していったように思えてなりません。

<短絡化>は単純化とは違う。安易で軽薄な感じがしてならないからです。


『短絡』(ショート・カット)
電気用語では、短絡が生じた場合、回路が誤動作したり、回路に設計値を超える大電流が流れたりするため、半導体、抵抗器、コンデンサなどが異常発熱し、焼損することがある。高温による火傷、発煙による有毒ガスの発生、部品の破裂などの危険を伴う。情報機器の場合、誤動作によるデータ消失がありうる。(ウィキペディアより)


あまりにも不平等で格差のある社会、
思いが叶わぬ現実、
政治家を筆頭に、役人達や金持ち達の堕落した姿、
若者達はそんな彼らの後ろ姿を見て、自らの将来を見いだせず、
とうとう夢見ることを諦め、もがくことすらなくなり
まさに頭の中がショート(短絡)して、
機械が壊れるように心が壊れていく。


『短絡』は電気的に様々な原因がある。
・異物の接触
・配線処理の不都合
・ハンダ付けの不良
・誤接続・誤作動
・部品の劣化等

人の場合も様々な原因があるだろう。
・異物の接触 → 悪い友達に感化された?
・配線処理の不都合 → 親の教育問題?
・ハンダ付けの不良 → 過去の失敗や問題点を克服できていない?
・誤接続・誤作動 → 知識の欠乏や経験の少なさが誤った行動に走らせる?
・部品の劣化 → 若者には考えられないが、心は老人化している?


人の心は、もしかしたら
Oと1、ONとOFFのようにマシーン化しようとしているのだろうか?
その方が安易だから?

もしマシーンと違って、色々な回路があったなら、
つまり様々な考え方や選択できる道や物語をたくさん持っていたなら
短絡的で愚か道を選ばないかもしれない。

五木寛之氏は「心に物語が足りない」とエッセイの中で嘆かれていましたが、
私もそう思えてなりません。

楽天の野村監督は「勝った試合に学ぶものなし」と云われていますが、
人生も同じように、想いが届かない、振られた、裏切られた、失敗した、
熟慮が足りなかった、そんな経験が人を育てるようです。
しかし、小さな成功や勝利感が、
幼い子供のやる気や自信をつけ、成長させていくもの事実です。


聞いてきた、見てきた、読んできた物語が、
自分の物語と混ざり合い人それぞれの胸に刻み込まれていく。
これが幼い頃から繰り返され、感受性の豊かな心に育ち、
強い心に成長していくものだと思います。

画面や紙面上の物語が基盤となって、自分の物語が主体となっていく、
この変化・再構築、これが本来の姿だと思います。

しかし、自分に物語がなければ、
自分自身が熱中した具体的な事実がなければ、
結局、世間という物語をテレビや映画のように客観的に見つめ続け、
ただの傍観者でしかない自分に気づくだけなのでしょう。

そして世間という物語のスイッチを切ることが、
自分の人生のスイッチを切ると知ってか知らずか、
ある日突然、周囲を巻き込み、石を投げ、ナイフを突き刺す。


『短絡』は「耽楽」が基にあるような気がしてなりません。
楽を選ぶのは人の常かもしれませんが、
何かを身に付けようとするには時間も辛抱も必要で、
楽して身に付くものなど何もありません。

そういえば、公文式の塾や英会話教室はよく見るのに、
算盤塾や書道教室を近隣では見つけられなくなりました。
茶道教室や剣道や柔道の道場もしかりです。


幼い頃、何を見、どんな体験をして、どう感じたのか。
人生で最も感受性の強い時期(小学校から中学校の時期)をどう過ごしてきたかが、
その後の人生に大きな影響を与えるのは確かなようです。

子供は親のいうことを聞いて育つのではなく、
親の背中を見て育つものです。
だから児童や生徒は、先生のいうことを聞いて学ぶのではなく
先生の言動をしっかりと観察し、学んでいることを
先生や社会はもっと意識しなくてはなりません。

純粋で感受性豊かな心、切れない心、優しい心、共感できる心、
そして、壊れない強い心に育てるために。


私の好きな言葉です。

『嫌いなものが増えるたびに、
 
 受け取れるはずの幸せの量が減るのかも知れない』
(勝目梓「風の装い」より)


『…川の流れは、絶え間ない土や、石の妨害があるからこそ、
 その土や石の間をぬって流れ続けることができる。

 川岸を作っているのは、まさにこの土や石だからだ。

 起こってくることを受け入れ、
 それをよいものにしていく精神こそ、
 人生の達人のものである。』
                          (タゴール)


知識は容易に、しかも短絡的に頭に入るが、
身に付けるものは決して容易ではない。
信頼は一日で失うが、得るためにはその何十倍もの月日がかかる。
信頼は他人からの想いですが、まず自分自身で自分を信頼出来ずして
人からの信頼などあろうはずがない。
その信頼も一日では得られるはずもない。