GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「ランボー 最後の戦場」

2008年05月31日 | Weblog
1988年、「ランボー 怒りのアフガン」公開
    (「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」はこのアフガン戦を影で支えたアメリカ側からの内幕映画)
    
1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。

ランボー映画の世界配給が何らかの影響を与えたと言えないだろうか?


 ミャンマーの軍事政権に対して、長く続く民主化運動指導者、アウンサンスーチーさんの自宅軟禁問題や乳児死亡率79%(1997年)、最近のサイクロンによる大災害下の選挙、そして世界各国からの救助隊拒否など世論の非難はますます高まりつつある。

この「ランボー 最後の戦場」もまた何らかの影響を与えないだろうか?
私は少しでも早く民主化を願う一人です。

 世界的にもヒットした「ロッキー・ザ・ファイナル」。スタローンは62歳の体に酷使して出世作のロッキーを見事に演じきり、最終の美を飾った。そして最後のランボーは、ハードなバイオレンス描写満載だが、それは言い換えればミャンマーの軍事政権に対するスタローンの大きな怒りの表れと思える。このシリーズ初の監督も、撮りたいように撮り切りたいスタローンの強い意気込みを感じた。

 映画「ブラッド・ダイヤモンド」の中で、幼い子供が反政府ゲリラに誘拐され、殺人マシーンに育て上げられるシーンがありましたが、まさに悪魔の所業と云わざるをえません。この映画にもそれを思い出させるセリフがありましたが、幼い真っ白な子供の心を利用し、戦う獣に作り上げるなど決して許されるべき所業とは云えません。


グッドラック感動のお勧め度:85点(シリーズ最高点)

 
 二つのシリーズを除いて、スタローン映画ではこの作品がお勧めです。シャロン・ストーンとジェームズ・ウッズ・ロッド・スタイガーという豪華顔ぶれの「スペシャリスト」です。シャイな元爆破工作員をうまく演じ、やり手の共演者人の中でもいい味を出していました。

「ヒラリーが感じた共和党の限界とは?」

2008年05月27日 | Weblog
 映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」は米ソ冷戦終結の真の立役者とも評されるテキサス選出の下院議員をモデルに描いた実録政治コメディだが、内容は決してコメディと言い難い。シリアスなのだ。ソ連に侵攻されたアフガニスタンを守るためにたった一人立ち上がるストーリーはまるでアニメ的だが、実話に基づくストーリーと聞かされ驚愕する。時は冷戦時代、アメリカが表立ってアフガン支援が出来ない状況だった。それは第三次世界大戦勃発を意味したからだ。

「共和党の限界を感じた」と彼女はいう。そのことが共和党支持から民主党に変更の最大理由だ。「共和党の限界とは?」映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を通してこの件を考えてみたいと思う。

1979年、ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。
1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。
1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。国土は荒廃し、食糧事情は悪化の一途。反ソ連ゲリラ(ムジャーヒディーン)と政府軍の間で内戦が勃発。
1992年、ムジャーヒディーンが攻勢、ナジーブッラー政権崩壊(その後ほぼ無政府状態)。

2006年、駐留軍の指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移譲される。5月、タリバンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。(ウキペディアより)

 映画の最後、実際のチャーリー・ウィルソンの言葉がエンドクレジッドに流れる。
「俺は最後にしくじった」


『かつてサウジの裕福な家に育ったウサマ・ビン・ラディンが、自費で民兵を集め、聖戦としてアフガンに出兵しイスラム世界で名を馳せた。クェートに侵攻したイラクを討ちに行きたいと彼が言い出したとき、今度は王家は、承諾しなかった。武力の乏しい王家と油田地帯を確保しておきたい米軍の思惑が一致して湾岸戦争が勃発した。しかし、異教徒の力を借りたとしてイスラム世界は徐々にサウジを非難していった。それは堕落したキリスト教世界との明確な決別を意味する。そんな流れにおいてウサマ・ビン・ラディンは英雄として過激なイスラム教徒達に支持され、まつりあげられていった。キリスト教異民族や王家に悪意を抱く過激な人々にとって彼は、まさに<ロビンフッド>のような存在となったのだ。』

 このしくじりは決してこれは共和党だけの責任ではない。この映画は米国の国家戦略そのものをもう一度考え直す時が来ていると思えてならない。


 以前クリントン女史の経歴を日記で転記したが、改めてここに示す。

●ヒラリー・ローダム・クリントン
 高校時代1964年の大統領選では共和党のバリー・ゴールドウォーター候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。1965年にマサチューセッツ州の名門女子大であるウェルズリー大学に入学、1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるが、ベトナム戦争や公民権に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任。1968年の大統領予備選では、ベトナム介入反対を掲げる民主党のユージーン・マッカーシー候補を支持した。

1961年:ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任(1月)
1963年:ジョン・F・ケネディ暗殺
1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)
1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲(2月)、リチャード・ニクソン大統領辞任(8月)
1975年:北ベトナム軍全面攻撃開始(3月)、サイゴンが陥落し(4月)、ホーチミン市へ改名(5月)

 1963年のケネディ暗殺を多感な高校生時代にTVで見たはずだ。共和党員の父を持ち、弱腰のケネディを批判していたに違いない。彼の死は共和党支持を、もしかしたら堅固なものにしたかもしれない。

 1965年に大学生となったクリントン女史は、1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるほどのバリバリの共和党員だった。しかし、ケネディ暗殺以降、副大統領だったジョンソンが大統領になりケネディの残りの任期とさらに一期、計5年2ヶ月をしっかりと務め、軍事介入の再開・強化し、その後、共和党に移りニクソン大統領はさらにベトナムを泥沼化させた。しかし、この60年代をアメリカ国民は「古き良き時代」と振り返る。映画「アメリカン ギャングスター」ではこの時期に、マリファナ・ヘロイン・コカインが蔓延したと伝える。

 ニクソンが大統領に就任した1969年の8月、40万人もの若者を集めたウッドストックは既成の伝統文化を拒否するカンターカルチャーの集大成、ヒューマンビーインと呼ばれる人間性回復のための集会とも云われている。
 
 1974年ウォーターゲート事件でニクソンは辞任し、カーター大統領は国民の民意に従ってベトナムから撤退を始めた。ソ連はこの期に援助を増大させ、北ベトナム軍全面攻撃が開始されサイゴンは陥落しホーチミンと名を変え、ベトナムは共産主義国家として統一された。

 1969年、ヒラリーは名門イェール大学ロースクールに進み、ビル・クリントンに出会い、在学中は児童擁護のための組織で働き、また法律が子供に与える影響について学んだ。1972年の大統領選ではビル・クリントンが参加していた民主党のジョージ・マクガバン大統領候補の選挙運動に加わった。1973年のロースクール卒業後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children's Defense Fund) で働いた後、1974年には下院司法委員会によるニクソン大統領の弾劾調査団に参加している。

 ジミー・カターの大統領選に参加したビルとヒラリーはビルとともにジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加した。1978年ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州のファーストレディーとなったが、弁護士としての活動も続けた。

 1979年にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなり、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。またカーター大統領の指名により、連邦議会が設立した非営利団体の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。

 ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは翌1993年から8年間、アメリカ合衆国のファーストレディーとなった。ヒラリーはアメリカでは初の院卒のファーストレディーであり、初の弁護士のファーストレディーであり、したがって初のキャリアウーマンのファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて国連代表を務めたエレノア・ルーズベルトと並ぶ「最強のファーストレディー」と評した。

 このファーストレディーの間に大統領選出馬の想いを考え始めたに違いない。


さて「共和党の限界とは?」

 冷戦下、ドミノ理論と云われた共産化と戦ったアメリカは、民主主義国家樹立という錦の御旗を掲げ軍事介入を続けた。このスタンスは米国民の民意を受けて「古き良きアメリカ」が生まれたと人は感じたが、行きすぎたアメリカの驕りはカウンターカルチャーを生み、ドラッグを蔓延させイスラム国家の反感を生じさせた。

 世界に最もいい影響を与えている国が日本だという報告がある。国際情勢に最も肯定的な影響を与えている国は日本。世界の多くの人々がこのような考えを持っていることが、英BBC放送が2007年8月6日公表した国際世論調査の結果で明らかになった。

『調査は27カ国の2万8000人が対象。列挙された12カ国について「世界に与える影響が肯定的か否定的か」を問うたところ、肯定的という回答の割合が最も高かったのが日本とカナダで、それぞれ54%。これに欧州連合(EU)53%、フランス50%、英国45%などが続いた。日本については、25カ国で「肯定的影響」との意見が「否定的」を上回り、中でもインドネシアでは8割以上が日本を評価。ただ、中国と韓国では「否定的」とした人がいずれも約6割を占めた。』

 日本を肯定的評価しているのは、平和憲法はもとに実戦への不参加、道路やダム・橋を作り、井戸を掘り水路作りライフラインを整備し、学校を作り病院を作ってきた事への評価だと私は理解している。米国のリーダーシップの概念を改めて考え直さねばならない。

 大切なことは人と同じではないか。
 自立と自律だとと思う。
 国家としての自立・自律ではないだろうか。

 かつて古代ローマ帝国が1200年もの長きに渡って地中海世界の全域を支配したのは、各地の他民族の宗教を否定せず、道路や水路を作りライフラインを整備したことが大きな要因とされている。しかし、古代ローマ国家の初期から中期にかけての連続的な戦争による農村の疲弊と、戦争勝利・領土拡張に伴う大規模な奴隷の流入は、自作農の没落を招いた。この自作農(自立した農民)の没落は、軍隊の無能力化、及び有害化を招き、これがローマの存続にとって、最も致命的だったとされている。アメリカ帝国の没落は、決して古代ローマ帝国とは同じではないが、どこか似通っているように思えてならない。

 ヒラリーは若い頃から児童擁護活動、児童防衛基金の理事をとして児童の教育の大切さを痛感している。そして教育の目的を<自立・自律>にあると理解してるはずだ。そして「アメリカの驕り」を戒める自律の重要性を全面に打ち出すには、金にまみれた共和党議員としての限界を感じたのかもしれない。リベラルでバランスのとれたスタンスを公言し、行きすぎた行いに歯止めをかけることは、石油コングロマリットの大企業をバックにした経済界の繁栄と欲望を押さえ、軍事介入を背景にした右よりの軍事産業の発展にストップをかけ、それに伴う失業率増大を招きかけない。アメリカ経済のの根幹を揺るがすことになることをオバマ以上に実感しているはずだ。

 一例だが「アメリカの驕り」はAV(オーディオビジュアル Audio Visual = 音響・映像)機器に顕著に表れている。米国国内にはAV機器を製造する企業がない。映画やTVシーンで見る機器は全てがSONY・PANASONICのマークである。買った方が開発より安く済むという企業的合理思想は、一般国民にも波及し、株式やその他の投資熱も全世界の仲でも群を抜きんでている。楽して利を得る思想は、何度もバブルを発生させている。自動車業界の不振もまた同じである。私の好きな作家アーサー・ヘイリーが、1970年代初頭に米国自動車業界を小説「自動車」で描いた。ガソリン消費の少ない小型車新車オリオンの発売を巡っての人間模様が主題だが、その将来を見据えた目線はその後の業界推移と衰退を見事に看破しているように思う。豊富な石油を背景に大型車を続けたGMを代表する自動車業界は、リッター消費の少ない車の開発を推し進めたトヨタ・ホンダにじわじわと浸食を許し、トヨタのハイブリッド車プリウスの発売を境に下降を辿り、ついに世界一の座を譲ることになる。

 行きすぎた軍事介入、押しつけの民主主義、欲望にまみれた大企業による民間支援においては、学校作りを中心とした教育システムの構築は極めて優先順位の低いことがらとなる。金にならないからだ。

 戊辰戦争に敗れた長岡藩、窮状を見かねた支藩の三根山藩から贈られた百俵の米の話を思い出す。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

と諭し、自らの政策を押しきった。

 この虎三郎の勇気と自律を、アメリカの今後の政策、追随する日本も改めて考え直して欲しい。

 ヒラリー・クリントン女子の共和党鞍替えにこのスタンスを強く感じる。若い頃から児童教育に最も力を注いできた彼女の目指すアメリカ再起の目線には<教育システムの再構築>があると思う。民主党代表になれる可能性はほとんどなくなったが、アメリカを二分する民主党の大統領候補者選びは、共和党代表候補マケインにとっては追い風となっている。以前日記でヒラリー大統領・副大統領オバマなら当選確実と書いたが、その反対でもマケインに勝てると思う。しかし、残念ながら政治の世界ではそれが現実的ではないこと過去が証明している。

 後半年もすれば結末を迎える米国大統領選をじっくり見据えながら、ヒラリーの行く道、オバマ氏の今後の手腕と所信も関心を持って見つめていきたい。それは日本に将来をも見据えることにつながるからだ。そして<米百俵>の精神を信念とする勇気と自律を備えた日本の政治家の出現を心から期待するのは云うまでもない。

「想いの重さ」

2008年05月25日 | Weblog
「想いの重さ」を

プレッシャーと受け取る人
励みにする人
煩わしさと取る人
一人ではない、孤独ではないと取る人

必死で働く親を見て自分も幼い兄弟を助けたいと思う高校生
こんな家族から抜け出し、自由にやりたいたいと思う高校生
勉強しろとやかましく云う両親を憎いと思う高校生
心のどこかでそんな両親をありがたく思う自分がいると感じる高校生

クラブの先輩にうるさく指導されるのがいやで辞めちゃう人
反対にかまってもらってうれしく思う人

「落ち葉は風を惜しむ」と思う人
反対に惜しまないと思う人

分かっていながら
「賽銭箱に100円玉入れて、お釣りがでる人生の方がいい」と思う人

他人が思う自分を気にもとめず我が道をゆく人
他人の言葉に影響をされすぎる人

自分が他人より優れていると思ったら他人は理解できないと思う人
様々な人生が自分の周囲に存在していること感じる人
他人の人生など考えたことはない人

「他力」を肯定して生きている人
「他力」否定して生きている人

「真剣」と「深刻」の違いが分からない人

周囲には多くの人が生きている



あるの方から聞いた話

その方は重い心臓病を患っておいでで、
医者から見離されて二十年になるのだそうです。
それとはとてもおもえないほどのお元気さなのです。

お話だと、病で入院していたのだけど、医者に見離されたと感じたとき、
病院をかってに抜けだし、そのまま勝手に退院されて、
現在に至っているというお話でした。

とてもその話がほんとうとはおもえないほどに、
いつもお元気に動きまわっておられて、
いつも私にも気配りをしてくださる方なのです。

その方がお元気になられたのは、ある言葉がきっかけだったとか。
ある人に こんな風に言われたらしい。

「水車は こつこつ回りつづけることで  
 回っているけれど、回るのをとめると動かなくなる。
 そして、人力車になりなさい。
 人を担って動くことを心がけると 人は生きていける。」

と言われて、その言葉を実践したところ、
医者に見離された身分だというのにいまだに健在だ。
というお話でした。

この奇跡のような話を信じる人、信じない人


「さまざまな人が周囲に存在している」
このことは受け止めておくべきだと思う

そして「想いには重さはない。あるのは暖かさだけだ」と私は思う。

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

2008年05月20日 | Weblog
 米ソ冷戦終結の真の立役者とも評されるテキサス選出の下院議員をモデルに描いた実録政治コメディだが、内容は決してコメディと言い難い。シリアスなのだ。チャーリー・ウィルソンというお気楽議員が、ソ連に侵攻されたアフガニスタンを守るためにたった一人立ち上がるストーリーはまるでアニメ的。しかし実話に基づくストーリーと聞かされ驚愕した。時は冷戦時代、アメリカが表立ってアフガン支援が出来ない状況だった。それは第三次世界大戦勃発を意味したからだ。

 チャールズ・ウィルソン議員(トム・ハンクス)はCIA職員ガスト(フィリップ・シーモア・ホフマン)と共にだんだんとアフガン支援を本格化していく。ウサマ・ビン・ラディンの名は映画では当然出てこないが、裏でCIAが彼にテロ行為を訓練し、武器・金を支援したのである。女大富豪ジョアン(ジュリア・ロバーツ)は陰で大きな影響を与えていく。コミカルなタッチで描きながらストーリーは決して笑えない。

『かつてサウジの裕福な家に育ったウサマ・ビン・ラディンが、自費で民兵を集め、聖戦としてアフガンに出兵しイスラム世界で名を馳せた。クェートに侵攻したイラクを討ちに行きたいと彼が言い出したとき、今度は王家は、承諾しなかった。武力の乏しい王家と油田地帯を確保しておきたい米軍の思惑が一致して湾岸戦争が勃発した。しかし、異教徒の力を借りたとしてイスラム世界は徐々にサウジを非難していった。それは堕落したキリスト教世界との明確な決別を意味する。そんな流れにおいてウサマ・ビン・ラディンは英雄として過激なイスラム教徒達に支持され、まつりあげられていった。キリスト教異民族や王家に悪意を抱く過激な人々にとって彼は、まさに<ロビンフッド>のような存在となったのだ。』

 前回の映画「大いなる陰謀」も同様だが、米国共和党の主たる戦略(?)である戦争への批判が明確に打ち出されている。ベトナムと同様に泥沼化しているイラク戦略に民主党は待ったをかけているのだ。混迷していた民主党候補選びもオバマ議員で決着する様相を呈してきたが、大統領選の時期に、この映画公開は決して偶然ではない。

 映画の最後、実際のチャーリー・ウィルソンの言葉がエンドクレジッドの最初に流れる。
「俺は最後にしくじった」

 決してこれは共和党だけの責任ではない。この映画は米国の国家戦略そのものをもう一度考え直す、時が来ていることを明確にしていると思えてならない。

 世界に最もいい影響を与えている国が日本だという報告がある。国際情勢に最も肯定的な影響を与えている国の1つは日本-。世界の多くの人々がこのような考えを持っていることが、英BBC放送が2007年8月6日公表した国際世論調査の結果で明らかになった。

『調査は27カ国の2万8000人が対象。列挙された12カ国について「世界に与える影響が肯定的か否定的か」を問うたところ、肯定的という回答の割合が最も高かったのが日本とカナダで、それぞれ54%。これに欧州連合(EU)53%、フランス50%、英国45%などが続いた。日本については、25カ国で「肯定的影響」との意見が「否定的」を上回り、中でもインドネシアでは8割以上が日本を評価。ただ、中国と韓国では「否定的」とした人がいずれも約6割を占めた。』

 日本を肯定的評価しているのは、平和憲法はもとに実戦への不参加、道路やダム・橋を作り、井戸を掘り水路作りライフラインを整備し、学校を作り病院を作ってきた事への評価だと私は理解している。米国のリーダーシップの概念を改めて考え直さねばならない。

 大切なことは人と同じではないか。
 自立と自律だとと思う。
 民主国家としての自立・自律ではないだろうか。

 キングダムことサウジアラビア王国のように金で堕落させるのでは決してないはずだ。米国の石油を中心とした巨大コングロマリット企業との癒着こそ、最も早急に正さなければならない問題だと思う。

 このように考えると今まで石油を中心とした巨大コングロマリット企業への大々的なテロ行為が一度もないことが不思議に思えてくる。テロ資金の元は(MTV映画「ザ・グリット」「シリアナ」「キングダム」をじっくり見ていただければよく分かる)、石油の利権を自由にできないサウジの王位継承権下位の王子達、その仲間の大富豪達(彼らが今、マンハッタンのアパートメントやマンションを10億、20億で買い漁っていて、ニューヨークは不動産バブルとのこと。50m25,000万円。ここにはサムプライズ問題の影響などまったくない)というだけでは内容にも思える。

 かつて古代ローマ帝国が1200年もの長きに渡って地中海世界の全域を支配したのは、各地の他民族の宗教を否定せず、道路や水路を作りライフラインを整備したことが大きな要因とされている。しかし、古代ローマ国家の初期から中期にかけての連続的な戦争による農村の疲弊と、戦争勝利・領土拡張に伴う大規模な奴隷の流入は、自作農の没落を招いた。この自作農(自立した農民)の没落は、軍隊の無能力化、及び有害化を招き、これがローマの存続にとって、最も致命的で死命を制する病根になったとされている。

アメリカ帝国の没落は、決して古代ローマ帝国とは同じではないがどこか似通っているように思えてならない。

「おめでとう!今田竜二」

2008年05月20日 | Weblog
 2008年5月18日、アメリカPGAツアーのAT&Tクラシック最終日、首位から3打差でスタートして激しい追い上げを見せ、ケニー・ペリーとのプレーオフに持ち込み、最初のホールで相手がボギーを叩いた後、今田は落ち着いてパーをセーブして、悲願のアメリカPGAツアー初優勝を飾った。日本人のPGAツアー優勝は青木功、丸山茂樹に続いて史上3人目となった。(ウィキペディアより)

 昨年もこの大会でプレーオフを戦った。バーディーを取らなければ勝てない状況だった。このコースはジョージア大学時代何度も回ったコース。プロになって初めて予選通過したコースでもあった。18番、2打目の位置から正面の池を迂回する安全なルートもあった。左のラフから果敢に攻めた。周囲は無謀だと云った。しかし、勝つためにはバーディーしかなかった。相手はその年、マスターズに勝って勢いに乗るザック・ジョンソン。グリーン右にそれてもバーディーは可能だ。先に打つ今田はZ・ジョンソンにプレッシャーを与えたかった。ライの悪いラフからのスプーンによるショットは、狙った右ではなく左にフックしながら池に入った。そして負けた。しかし今田はこの時、マスターズに優勝したザックの襟首を掴んだのだ。確かに掴んだのだ。

 今年、この同じ18番でバーディーを取り今田はプレーオフに持ち込んだ。今回も2打目はフェアウェイからではなく左サイドだったが、ラフではなくファーストカットで、しかもボールは浮いていた。昨年の池ポチャが脳裏に浮かんだはずだ。ファーストカットとはいえ若干のつま先下がり。決して容易なショットではなかった。

 彼は迷わずスプーンを手に取り果敢に攻めた。最終18番のグリーンはかなり受けており、勢いのあるボールが奥にいっても戻ってくることを良く知っていた。グリーンセンターから右を狙ったショットに思えた。アゲインストのため、しっかり打った。力が無意識に入ってしまった。

 池は越えたが、グリーン右に大きくそれた。強く打ちたい気持ちが、体のターンを早くし、押し出した形となった。それを見ていたトップのケニー・ペニーはスプーンでフェアウェーセンターに打った。「パーでいい。巧くいけばバーディもある」高まる気持ちを押させるためにこう考えたに違いない。

 今田はグリーン右からのアプローチ。グリーンは左に傾斜し、トップ(ボールの頭を打つミスショット)でも打てばグリーンを越えて池に入る可能性もある。素人にはドキドキものだが、14歳から単身アメリカに渡り、大学時代タイガー・ウッズと同格に戦ってきた彼の心臓は並ではなかった。

 放ったショットは緩やかな放物線を描いてグリーンに落ち、左傾斜にそってピンに向かった。35mはあっただろうか。最高のアプローチだった。「入る!」 私にはそんなふうに見えた。入ればイーグル、-16で単独トップとなる。しかし、ボールはカップをかすめ約1mオーバーで止まった。見事なショットに胸の鼓動は最高調になった。

 今田は手袋を外しながら手で叩いて悔しがった。バーディーパット。線の入ったボールを後ろから撮るTVカメラ映像を、私は用意したドリンクを飲むのも忘れて見入っていた。ボールはスムーズに回転しながらカップに沈んだ。バーディーだ。-15! 私の心臓は爆発し体内にこぼれた血が涙になって溢れてきた。

 まだ優勝したわけではない。トップのスコアーに並んだだけだ。メジャータイトルを獲ったわけでもない。なのに涙が溢れてきた。14番から始まった映像(私が見たのはその録画だが)の臨場感と今までの不甲斐ない選手達への想いが一気に込み上げてきたのだ。とにかく18番でトップに並んだのだ。こんな日本人選手のシーンは過去にあっただろうか?

 1983年ハワイアンオ-プン(現ソニー・オープン)で18番チップインイーグルを決めて奇跡的な優勝した青木功氏。2001年7月15日 「グレーター・ミルウォーキー・オープン」当時22歳の新星チャールズ・ハウエルとのプレーオフを制して優勝した丸山茂樹。

 日本のプレーヤーがPGAツアーで勝ったのは今までこの二人だけだが、その優勝のプロセスはニュースでのワンシーンでしか見られなかった。アフロヘアーのような青木が両手を突き上げて喜ぶシーンが印象的だし、丸山が大の字になってホールインワンを喜んだシーンも記録に残っている。

 さて、最終組の18番。スプーンで打ったケニー・ペニーの2打目を池を避けて慎重に右サイドのフェアウェーに刻んだ。残り約110ヤード。ピンを狙うためには少し池をかすめるが決して難しいショットではない。しかし優勝を意識したスイングは微妙に先ほどまでとは異なっていた。 これまでは少しオープンに構えて柔らかいフックボールを打っていた。ピンそばにつけバーディーを獲って優勝を決めるはずのショットだった。後ろから見たスイングは右肩が止まりスムーズなスイングではなかった。ボールはまっすぐ右に出て帰ってこなかった。1986年ノーマンがマスターズでニクラウスと戦ったときも最終18番で同く右肩が止まりボールは帰ってこなかった。ドローヒッターの宿命かもしれない。

 ピンから右10m以上離れた場所にボールは止まった。勝てるのでは?と思った最初の瞬間だった。すでに9勝もしているベテランプレーヤーだがプレッシャーがスムーズな肩の回転を妨げていた。ここにゴルフの最大の面白さ、深さが潜んでいる。自分との戦いとゲームの面白さだ。

 K・ペニーのバーディーパットはカップにかすりもせずオーバーしたが、返しの1m強のパットをしっかりとねじ込んだ。さすが9勝のベテラン!

 そして、今田とケニーの二人だけのプレーオフ。

 先に上がってケニーを待っていた今田の瞳は、テントの奥からも輝いて見えた。
「バーディーでプレーオフに持ち込んだんだ」
昨年、スプーンを持ってミスショットを放ち池に入れた経験が彼に自信をつけていた。
「いいショットを放てば俺にも勝てる」池には入れたがその経験が大きな自信となった(インタビューでそう答えていた)。

 再び二人は18番ティーに戻り、今田が後打ちとなった。ケニーはいつものようにスプーンを持ち、素晴らしいショットを放った。しかも4日間で最高のショットのようだった。

 それが今までと違う行動を生むきっかけとなった。
 それはスーパーショットが生んだ悲劇とも云える。
 フォローと感じさせる運の流れを過信し、2打目を果敢にせめてしまったのだ。

 サドンデスのプレーオフだけにバーディーが必要だった。
 果敢に攻めた今田の勇気を思うと
「俺も攻めるぞ!」ケニーは自分を信じ、フォローの運を信じた。

 今田のティーショットはなんとフェアウェイ右にそれラフに止まった。力が入りすぎたのだ。軸が左にぶれ右に押し出したスイングとなった。彼も大きなプレッシャーと戦っていた。しかし、ケニーの肩が止まったスイングとは異質なものだった。今田は思いっきり振ったのだ。改めて彼の勇気に感動し、再び涙が浮かんできた。

 ケニーが先に打つ。これが勝敗を決めた最大の要因かもしれない。

 ピンまで230ヤードを同じ(もしくは小さめの)ウッドでグリーン攻めた。十分届く距離でもあり、攻めることは決して無謀ではなかった。プロ10人がいたら9名までが同じ戦略を取るだろう。しかし、それは今までの彼の戦略とは異なっていた。

 ボールは逆風をついてグリーン奥の大きな木の太い幹に直撃し、跳ね返ったボールはグリーンに戻りビンを勢いよく通り過ぎて池に転がり落ちた。

 こんなことが起こるのか? 長いゴルフ観戦でも初めての珍事だ。ピンに当たってグリーンを外れたり、池に落ちたシーンは見たことがある。しかし、グリーン奥の木に当たりグリーンに巧く戻ってきたのにピンを過ぎて池に落ちたのだ。

 ケニーは「何があった?」(What is it?と叫んだように聞こえた)
大歓声は悲鳴に変わり、ケニーは自分のボールを見失っていた。

 それを今田も見ていた。「何があったのだ」彼もボールを確認できず、2打目を打てないでいた。

 ようやくギャラリーの声が低くなり、池に落ちたことを知った今田は無理せず、フェアウェイ右に2打目を刻んだ。ピンまで108ヤード(だったと思う)。

 ケニーは池手前約100mから4打目のショットを執念を込めて打ち込んだ。ボールがグリーン奥に落ち、スピンしてゆっくり戻ってきた。ピンの横を通り過ぎてエッジ手前に止まった。カップをかすめはしなかったが、108ヤード手前から見つめる今田を驚かせたに違いない。

「ケニーが返しのパットを入れればパーだ。勝つためにはバーディーしかない」
竜二はそう思った。

 一度爆発したはずの私の心臓がバクバク鳴り出した。こんなにバクバクしたことはない。見守る今田夫人は両手を顔の前で握りしめ祈っていた。見ていられない、まさにそんな状況だった。

 フェアウェイでピッチングウェッジを握りしめ、ピンを見つめる今田竜二。
 何千人ものギャラリーは静まり返り、彼のショットだけを見つめる。
 竜二の鼓動が聞こえるようだ。

 しかし、彼のショットは淡々と見えた。無心に思えた。
 スムーズなスイングだった。
 高く上がったボールはグリーンに落ちピン横1mに静かに止まった。
 大歓声が聞こえる。
 今田はその大歓声を独り占めしてグリーンに上がった。

 笑顔を見せながらも決して緊張を解いてはいない。一番好きな笑顔だ。
 優しい笑顔に秘めた強い意志。殆どの人は気づかない。

 ケニーのパットは少し登りで2.5mくらはあっただろうか。

 トップを走っていて、最終日18番池に入れ4打目を打って、それをワンパットで沈められることなどそうざらにはない。ゴルフとはそういうスポーツだ。

 やはりカップを外しボギーとなった。今田は当然のように優勝パットを難なく決めた。

 本当にそう見えた。入るのは当たり前だ。そんなふうに見えた。この距離を外すはずがない、そんなふうに見えた。確かに相手はボギーだから外しても負けはない。改めて18番に戻るだけだ。しかし、プレッシャーが無いはずがない。初めての優勝パットなのだから。

 しかし、淡々と決めた。この優勝は単なる通過点だ、そう言わんばかりに見えた。<淡々と>と見えるが、深くて大きな勇気を感じずにはいられない。彼をますます大好きになった。

 彼のゴルフを何度か見てきたが、ようやく彼の並々ならぬ勇気を知った。若干14歳で単身渡米し、語学を克服して高校を卒業、その後ジョージア大学入学し、2年で中退した後、1999年にプロ入りした筋金入りのゴルファーだ。しかも今までの日本人にはいないタイプだ。世界は違うが、ブラジルに単身サッカー留学したキングカズを彷彿させる。しかし彼ほどの派手さはない。そこがまたいい。タイガーとも親交があり大学時代競い合った経験がようやく、ようやく今日花開いたのだ。渡米して17年が過ぎたが、彼の活躍はこれからも続くはずだ。

 夢はマスターズで優勝することだと彼は広言している。この優勝で来年の招待状がくる。出場するわけだから夢ではなくなり、目標となったのだ。これからも応援し続けたい一番の選手だ。頑張れ今田竜二!


「赤ちゃんは完璧?」(孟子・荀子・朱子)

2008年05月19日 | Weblog
「まだまだ欲しいものが一杯ある」
風呂敷が幾つあってもたりないと若い頃は思う

でも残念ながら風呂敷は何枚もないことに気づく

さらに手に入れられないものが今まで以上に明らかになっていく
(あきらめるという語源が明らかにすることだそうだ)

やがて今まで風呂敷に入れてきたものが
重たくてこの坂道を上っていけないことにも気づき

涙ながらに背負ってきたものを
優先順位に従って捨てていくしかないこと悟る

どうやらこれが大人になっていくことらしい
その事に気づかない人を少年・少女
もしくはヤングアダルトと呼ぶらしい

ある人がこのようにいった

「赤ちゃんは何も思わない」
「だから、完璧かもしれない」

>気を悪くしたり
>誰かを好きになったり
>何かをうざく思ったり
>ありがたく思ったり
>感動したりしない

でも、年を重ねることによって人は成長するらしい
これは本当だろう?

確かに足し算やかけ算、
いい国作ろう鎌倉幕府と多くの知識を詰め込み
テストやクイズ番組には強くなる

そして脳の質量が増加すると
人は生まれながらに平等であり自由の権利を有し
しかも、合理的に生きたいと思う傾向があるらしい

世の中が平等ではなく、
理にかなっていないことをどこかで認知しながらも…

そのジレンマをかき消すため欲が生まれ、嫉妬を覚える
人間の本性は基本的に善であり、悪を人の外に求めて、
人は堕落していくと紀元前300年頃の戦国時代に孟子は説いた


これを性善説と呼ぶの?



では性悪説は?


赤子は泣きながら生まれてくる

乳欲しさに泣きわめき
自分の汚物にも関わらず、その不快を泣き叫ぶ
ゆえに赤子は獣なり

だから言葉を教え、文字を覚えさせ、本を読ませて
情を悟らせ、教養と自立・自律を身に付けさせる

「性」とは人の本性やものの本質のことで、
「性」という字は生まれながらの心という意味だという。

性悪説では「人の性は悪」は結論(論旨)ではなく前提(論拠)であり
大切なことは「後天的努力」と孟子の数十年後に荀子は説いた。


古代中国は王道思想である性善説を押し進めたが
荀子は性悪説で批判し法家思想を大成させた。

そしてその後千年以上を経て
朱子(朱子学の創始者)が性善説をこのように発展させた。


人が悪に染まるのは、「本然の性」が「気」(万物を構成する要素)に覆われており、
人によってその度合いが異なるから善人・悪人の差異が生じるのだとした。
朱子学の特徴の一つとして、「静坐」や「読書」による修養・教化があるが、
これらは「気質の性」を「本然の性」という本来あるべき「性」へと
かえすことを目的(「復初」=教化・修養)としたものという。


こんな古代の説など知らなくても
いい国作ろう鎌倉幕府など知らなくても
人は生きてゆける


ただ、やがて残り少なくなった命の時間だけは誰もが気づき
もっと生きたいとか早く死にたいとも思う

大きいと思っていた風呂敷が
穴だらけの小さな布きれになったことにも気づく

哀しいかな、沢山の宝物に囲まれている人も
かつての天下人だった秀吉も家康も奥州の覇者政宗も
持っては逝けぬ虚しさと
残していく不安が脳裏をよぎり
無常な世を恨んだかもしれない

いかような人生を送ろうとも
自分の人生は自分で決着をつけるしかない


幸せも哀しみも喜びも憎しみも
信じる説に関わらず
人は生きていく道でそれらと遭遇する

死はすべての人に訪れるが
幸せや哀しみ、喜びや憎しみの配分は
人によってかなりの差があるようだ

ここに人生の妙があるように感じる

 「何を信じ、何を守ってきたか」

  死の床についたとき

  何を思うのか……

「新たな挑戦」

2008年05月11日 | Weblog
 昨日休みだったので家族でボーリングに行ってきました。私のボールは40年間ストレートボールです。GW前に若い部下達とボーリンングしたとき、1ゲームで6回もスプリットが出て、結局それが原因で大敗しました。200点アップは今年で7回達成している腕前ですが、今までもスプリットが出だすとどうにもとまりません。

 そこで昨日生まれて初めてスプリットの少ないカーブに挑戦しました。やり出した時間は21時30分頃で、終わったときはなんと夜中の1時17分でした。ワイフは6ゲームでリタイアしましたが、25歳の息子とは9ゲームもやってしまいました。最後のゲームはジャスト100点で、右手の握力は10くらいになっており、ほとんど力が入りませんでした。ちなみにスプリットの数は9ゲーム合計で3回で、最高点は164点でした。

 帰りがけに、こんな時ゴルフをやったらいったいどうなるだろう? と思いました。それは「グレイテスト ゲーム」というゴルフ映画の中で、名人がゴルフのエキジビションで幼い子(その子が主人公で、クライマックスは全米オープンでの優勝です)にゴルフスィングを教えるシーンがあります。その時、「小鳥を掴むくらいの力でグリップしなさい」と教えます。


映画「グレイテスト ゲーム」(監督:ビル・パクストン)

特権階級のスポーツだったゴルフ。アメリカで最高の権威のある全米オープンで、初めてブルーカラー出身者が優勝するまでの実話です。その後も彼は実業家となって成功し、アマチュアとしてゴルフの普及と発展に貢献しました。「アメリカゴルフ界の父」と云われたフランシスの若き日の物語です。


 さて、今日も休みだったので夕方から3時間もゴルフの打ちっ放しで汗を流しました。<小鳥を掴むようなソフトグリップ>を確かめるためです。以前も実践したことがあるのですが、クラブを掘り投げてしまいそうで、どうしても力が入りうまくできませんでした。しかし、今日はまだ力を入れたくても入らなかったので、ひよっとするとうまくいくのでは? と思ったのです。

 結果は?

 とてもうまく行きました。今まで以上の飛距離もでました。今まではどうしても無駄な力が入り、いつの間にかストロンググリップになりフェイスがクローズになり引っかかる傾向がありましたが、それがまったくなくなりました。これは大収穫です。ボーリングでも感じましたが、ゆっくりと力を抜くことはどのスポーツでもとても重要なことのようです。それは人生でも大切なコツのようです。

 何が幸いするか、人生は分かりません。思いもよらないことが起こるものですね。「人間万事 塞翁が馬」とはこういう事をいうのでしょうかね。二日間、スポーツ三昧で過ごし、今も手足がガクガクしていますが、心はとてもすっきりしています。

 70台でコースを回ることなど生涯出来ないかもしれませんが、まだ15年は時間があると思っています。ボーリングでもカーブで200点をアップさせてみたいと思っています。幾つになっても何らかな挑戦をしていきたいですね。


皆様も何か新しい挑戦してみて下さい。

健康の維持と心のバランスを保つにはとても有効のような気がしますよ。

「奇跡の人」(原題「The Miracle Worker」)

2008年05月09日 | Weblog
 小学校6年生の時、母と見たアーサー・ペン監督、名女優アン・バンクロフト主演の「奇跡の人」。母が「奇跡の人、ヘレンケラーの物語ですよ」と私に説明したけれど、私は映画を見終わったとき母に「奇跡の人は、サリバン先生の方だよ」と言い返した記憶が残っています。
 
 まるで飼い犬のように育てられた三重苦のヘレンに対して、奇跡のような強い信念で文字を教え「物にはすべて名前があるのですよ」と学ばせようするサリバン先生。
 サりバンは三重苦の娘に対して盲目的に溺愛する両親と必死で戦いながら、ヘレンのイタズラや反応に頭の良さを感じその可能性を信じます。そしてケラー家を出て、長くて辛い二人だけの人間復帰への戦いを始めます。

 そしてついに、ヘレンが水道の蛇口から流れる冷たい水を手に感じ、「これはなんていうの?」と手話でサリバン先生に聞きます。アン・バンクロフト演じるサリバンが、幼いパティー・ディーク演じるヘレンの前に膝まづき、手話で「w a t e r 」と涙ながらに教えるシーンは感動のクライマックスです!
 
 その二人の配置、少し下からとらえた二人の顔に水しぶきがかかる光と陰の映像はモノクロ映画とは思えないほど見事でした。
 
 そして周りの木や草、イスを叩きながら「この名は? この名は? この名は?」と聞き回るヘレンにサリバンは必死について行きながら手話で教えます。ヘレンもまた記憶した名前を手話でサリバンに確認します。それが合っているとサリバンはヘレンの手を持って自分の頭に乗せて首を縦に振ります。OKサインです。生まれて初めて会話ができたのです。

 最後にヘレンはサリバン先生の顔を叩き、「あなたの名前は?」と手話で尋ねます。
 サリバンは涙を流しながらヘレンに初めて手話で名のり、二人は初めて抱き合うのです。
 それは獣から人間に復帰できたことを確認し合う二人の喜びの抱擁でもありました。
 私の記憶に残る映画史上最高のシーンの一つです。
 

 ヘレンとアン・サリヴァンの半生は、『奇跡の人』(原題:The Miracle Worker)として舞台化及び映画化されており、日本でも何度も上演されている。原題の"The Miracle Worker"には「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味があり、アン・サリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。

「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か。
(Life is either a daring adventure or nothing.)」の言葉でも知られる。  (ウィキペデイアより)


 アン先生が家庭教師としてヘレンと出会ったのは、弱冠20歳の時でした。今回初めてこのことを知ったのですが、この若さでどうしてヘレンに信念ある堅固な教育が出来たのだろう。まさに奇跡と云うより他はありません。

 映画ではアンがまるで獣のような生活を送っていたヘレンにテーブルマナーを必死で教え込もうと涙ぐましい努力を繰り返しますが、ヘレンはそう簡単に受け入れるはずがありません。飼い犬に「お手」や「お座り」「待て」を教えても、犬は餌欲しさで飼い主に従うだけでそれが礼儀とは理解できません。しかし人はその形からその心をいずれ学んでいきます。

 茶道にも「形決まれば自ずと心決まる」という言葉があります。

「かしこい子の育て方」という本の中で一人でオシッコがちゃんと出来るように指導し、背筋を伸ばした姿勢や挨拶をしっかりと習慣づけること、スプーン、はさみ、鉛筆、お箸など手の使い方を教えることは、人の話を聴くという心の姿勢を身につけ自立心を育てることに役立つと書かれていました。

 このように形から入る初等教育はどうやら欠かせないと思います。そして現在では上記のような4歳までの幼児教育が大切だ思っている親は決して多くはないと思います。

 結婚を前にしている若い人や今から幼児を育てようとしているご夫婦がいらっしゃったら、この機会にどうかお二人で幼児教育をじっくり話し合ってみてはいかがでしょうか。

<ナタリー・ポートマン>

2008年05月02日 | Weblog
 先日、アクターズ・スタジオのナタリー・ポートマン自らを語るを見ました。12歳の頃から映画に出演しながらハーバート大学(心理学)に入学し、優秀な成績で卒業した彼女に以前から関心があり、彼女の作品はほとんど見ています。ハリウッドでは子役は大成しないと言われていますが、ナタリーの成功が何処にあるのかを見届けたいと思っているからです。

 彼女の作品と云えば、初めての出演作「レオン」。忘れられない衝撃的な映画です。「ニキータ」のL・ベッソンが初めてアメリカで製作したバイオレンス・アクションの傑作。大都会の片隅で出会った凄腕の殺し屋レオンと12歳の少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)。孤独なふたりの葛藤と壮絶なシーンのそれぞれが素晴らしい。牛乳しか口にしない殺し屋レオン(ジャン・レノ)と繊細でいてたくましいマチルダとの純愛は、やがて壮絶な結末を迎える。ゲイリー・オールドマンのキレまくった麻薬捜査官役も忘れられません。


 番組の中でナタリーは、聡明さを証明するような素晴らしいスタンスを語っていましたので紹介しておきます。

『自分が他人より優れていると思ったら他人は理解できません。
 俳優の仕事に必要なのは他人に共感しその人生を想像できること。
 自分の人生は楽しむべきだけどバランスが大切。
 一人の人間として他人への共感を失ったら俳優の仕事は出来ないと思う。

 生前に良いことをするのは天国に行くためじゃない。
 天国があるかどうか分からないけど、あるというのはいい考えじゃないわ。
 すべての行動が自分のためになってしまうから。
 そういう考え方は人間の心を駄目にすると思う。
 手段ではなく目的として良いことをしたいの。』

これらの言葉には、自らの成功や慢心を押さえる自律的スタンスを強く感じます。「天才」とか「傲慢」という言葉が嫌いとも語っていましたが、「クローサー」や舞台の「アンネの日記」演出したマイク・ニクルズ監督(「卒業」「ワーキング・ガール」「心の旅」「日の名残り」)との出会いが彼女にとって大きな宝物になったようです。

これからも注目していきたい女優の一人です。