牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

祈りのグッドタイミング

2010-05-03 07:05:52 | Weblog
グッドタイミングで物事が展開していくときに楽しくなり、感謝があふれます。



 下記の内容のはがきが届きました。



 「10月23日、車の助手席に乗せてもらっていた時、上半身の骨がバラバラになる大事故で入院中です。幸いいつも聞いているラジオ放送のイエス様に助けられて一命を救われました。これからが大変だと思いますが、主人もガンで苦しんでおり、一日も早く怪我が回復することを願っています。病床で賛美歌を口ずさみ、主の祈りを唱えています。お祈りをお願いします」



 表書きをみると病院名の記述はなく、「病院にて」とだけありました。長年のラジオ聴取者でもあり、自宅へお見舞いに出かけました。



 マンションの3階のベルを押しても反応はなく、ドアの前で短く祈りました。ポストは階下だけなので見舞カードだけでも入れて帰ろうと思い階段を降りると、エレベーターが上にあがりました。



 もう一度階段を駆け上り、チャイムを鳴らすとグッドタイミング。ちょうど病院から40日ぶりに退院したばかりでした。ともに感謝の祈りをし、さらなる回復を祈りました。



 短い祈りでしたが、とても喜んでくれました。ラジオ放送を長年聞き続けておられ、イエス・キリストの十字架の救いを体験されていました。



 どんなに短くても、単純に素直に祈る時、グッドタイミングの答えが与えられることをしばしば経験でき、感謝しています。



 また、別の機会にお会いした婦人は、乳がん骨転移(複数)のため、5年生存が3割、10年生存が0・7割という診断を受けました。



 10年を元気にこえられる人はまずいないと言われた中、祈りと信仰により9年目、元気に2時間かけて教会に来られるようになりました。



 さらに、乳がん骨転移は、今年の6月に主治医より治療卒業と宣言されました。とりあえず、という言葉はついていますが、長い忍耐と祈りのグッドタイミングだと感謝しておられます。泣いたり笑ったり謝ったりの変な祈りのときもありましたが、神さまの愛とイエス・キリストの救いといやしの御業は変わらずでした。



 その方は、ただ「病の具合がよくなったから」感謝します、というだけではありません。病を与えられたことによって、苦しみの中でいつも神さまが寄り添ってくださり、暗闇の中にいた自分の手をとり、光の中に連れ出してくださり、御国への希望までも与えてくださったこと。それに対して、どう表現していいか分からないほどの感謝にあふれています。



これからの与えられた時間を、「?(疑問のクエスチョンマーク)」ではなく、「!(感動のビックリマーク)」で歩んでいきたいとのお証しでした。



 短い祈りだけでなく、長い忍耐の祈りの中にも神さまの愛のグッドタイミングが豊かにあることを教えられて感謝しています。祈りは、聞かれ続けていました。感謝しますと、栄光を主に帰しつつ喜びにあふれ、今日もまた天国の一日です。



 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6〜7)

今朝初発で沖縄へ5日間

2010-05-03 05:24:24 | Weblog
今朝の初発で関空から沖縄行です。

 ゴールデンウイークですが、今朝は朝一番の飛行機で沖縄へ。レンタカーでうるま市石川まで行き、沖縄エリムの家庭集会を昼間に行います。
 
 また那覇に帰りホテルにチェクイン。午後7時から南城市玉城少年の家研修センターの聖会。

 4日は、4時起床で朝の集会説教へ。さらに午前中と夜に集会です。

 5日も同じ日程で動き、夜はうるま市のサレム宮里教会。

 6日も集会や訪問など動き回り、7日の最終便で帰宅です。

 沖縄はルーツでもあり、と言っても伝説の彼方ですが、行く度に懐かしさとホッとした気持の滞在です。

 ルーツというのは徳之島についても書きましたが、徳之島の首里の主は、琉球王家から島主としての派遣でした。

 源為朝の落胤とも伝えられる舜天の立てた王統が舜天王統であり、 琉球王国の正史『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされています。
 琉球が日本であり、本土との密接な関わりとして伝説的な意味合いの強い歴史ですが、その琉球王家の首里の主として徳之島を統治していたのが先祖になります。

 伝説を遡ると、源 為朝になります。源為義の八男で弓の名手。鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎と呼称。

 保元の乱では父為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流されました。しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害し、切腹による自殺の、史上最初の例だそうです。

 琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする、伝説的な人物でもあり、どちらであれ興味深い人物です。

 そんな文書を読む度に、人はルーツに興味を持つものだと、冷めた目で思いつつも、沖縄や徳之島へ行く度ごとに何かしら懐かしを感じてしまい、祈りを深く導かれます。 

 そして人類の始祖,アダムとエバがルーツであり、さらにイエス・キリストの十字架により、紙をルーツとする幸せを実感しつつ、今日もまた天国の一日です!と告白し続けています。

ローマ人への手紙

5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。