北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<27>

2008-03-13 07:51:12 | Weblog
1972・9・17(日) 曇りのち晴れ 
サンフランシスコ (カリフォルニア州)

午前9:00起床。10:00からサンフランシスコ市内見学。市役所、日本人街、フィッシング・ファーマシー、山上の展望台、ゴールデンゲートブリッジなどを見学。日本人街には、ほんとうに多くの商社が入り乱れていて、とてもアメリカだとは思えない。行く先々で「メイド・イン・ジャパン」に出合うのには参る。

金門橋はさすがに長くて美しい姿を見せている。今は、ゴールデンではなくレッドと言ったほうがいいような感じだ。サンフランシスコには日本的な家の建て方をしたところが少なくない。市内見学は14:00で終了。

あとは、フリータイム。仲間と一緒にギフトショップを見たり、昼食をとったりする。徒歩で坂を上り下りして3:30にホテルに到着。坂の多い街だが、そのかわり、すごく見晴らしがいい。意外と近いところにスラム街があり、ヒッピーの溜り場になっている。

5:30、ミーティング。7:00から仲間と街へ出かける。日本料理店の「松屋」で食事しょうとしたら、あいにく休み。「やまと」というスキ焼屋に入る。久しぶりに、サッポロビール、サシミ、貝のみそ汁、漬け物などの日本食を味わう。(5ドル) なぜか、恋愛や結婚の話になる。ビールの小瓶6本、酒2~3本飲む。9:00切り上げる。

そのまま、街を歩く。東京や札幌と、さほど変わらない。ダンスホールに入る。黒人や若い女の子が、かなり来ていた。私は踊らなかった。10:30引き揚げる。部屋で、途中から別行動をとった、4人がなかなか帰ってこないので心配する。特に、リーダーのH先生が「遅いな!」と怒り出し、私とK君がなだめ役となる。なかなか大変だった。やがて、帰ってきたが、大事にならずに済んだ。リーダーは少し頑固なところがあるから、少しばかりハラハラしたが、一件落着。シャワーを浴びて、0:30就寝。      

     ☆          ☆
             
      日本食と日本の伝統文化

今や日本食は、アメリカ、フランス、イタリアなど、世界の多くの国で大抵のものが食べることができる時代だ。納豆、豆腐、てんぷら、寿司、すき焼き、刺身、ラーメンから始まって、味噌、醤油などの調味料まで、ほとんど揃っている。

イチローや松井などが寿司などの日本食を食べに出かけたという記事を、時々目にする。 5~6年前、スイスアルプスの麓にあるスーパーに入ったら、インスタントラーメンが売っていて、びっくりしたことがある。また、アメリカでは、日本食はオシャレだとされ、箸を使って日本食を食べられるということが一種のステータスになっているという話をインターネットで読んだことがある。やっぱり日本食は美味しい。

海外旅行で、食事が旨いと思ったのは香港だけだ。アメリカは、「まず,まず」という感じ。ドイツなどは、何でも、しょっぱくて参った。あれは、ビールを飲みながら食べるには、ちょうどいい味になっているのかもしれない。イタリアのパスタも口に合わなかった。ツアーでの食事が殆どだから、その国のほんとうに美味しい料理に出合っていないということかもしれないが。

最近は、日本食が、健康に良いという評価が高まってきているということもあって、一種のブームになっているようだ。世界一の長寿国とあれば、分かるような気がする。

「食」について書いたので、「衣」についても触れておきたい。日本の代表的な精神文化の一つである「きもの」。このきものを茶道や華道と同じように「装道」というものを提唱し、40年以上にわたってその普及に情熱をかけてきた人がいる。「装道礼法きもの学院」学長・山中典士氏である。

私がPR会社に勤めていた時代に出会った。山中氏は1970年から海外へ「装道きもの文化使節団」を毎回100人以上派遣しており、昨年で100か国訪問を達成したというから凄い。きものパレード、きものショー、講演などを開いて、きものを通して日本の精神文化を世界にアピールしてきた。故パウロ二世への謁見や国連からの招請による二度の講演も行って大きな反響を呼んだ。

このように、日本の「食」や「衣」の文化などを通して、日本の心を伝え、日本に対する理解が深めることは、結局、政治や経済などにも良い影響を与えることになる。われわれも、「21世紀は日本の時代だ」というぐらいの気概で前進したいものだ。とくに、各界のリーダーには、是非とも、そんな気概で頑張ってもらいたい。

   ☆          ☆             

1972・9・18(月) 晴れ 
サンフランシスコ(カリフォルニア州)

午前7:45起床。今日はお土産を買わなければならないので、10:00出発。江戸屋という日本人経営の店に行って、30,000円を両替(96ドル)。市内のデパート巡りをしたが、あまり気の利いたものはない。

そこで、昨日行ったフイッシング・ファーマシーまで、一人でタクシーに乗って出かける。ここで、考えていた通り、ほとんどの買い物ができた。ケネディコイン、ネックレスなど。お土産のことを考えると頭が痛かったが。帰りも一人で歩いてホテルまで帰ってきた。

サンフランシスコには東洋人が非常に多いので、ほかの都市ほど外国という印象はあまりしない。荷物の整理をして、夕食会の中華料理レストラン「ジョー・ジョーンズ」へ。

ここでのトンプソン女史(今回のプロジェクトにおけるアメリカの責任者)の日本語による話には、大変感銘を受けた。「われわれは、言葉は十分ではないけれど、心と心で話しましょう!」「われわれの経験を北海道の人たちにも大いに分けてあげましょう」。M団長の言葉も、含蓄に富んだものだった。われわれの35日間の足跡を振り返り、データを示して明らかにした。

考えてみれば、この旅は充実した内容、スケールの大きさなど素晴らしいものだった。感動、感激の連続だった。ISS(今回の事業での受け入れ側)の方々のような仕事は、感謝とともに、ほんとうに見習うべき点が多い。心から「ありがとう!」を言いたい。8:30夕食会終了。

K君、T君と街を歩く。派手なネオンが輝く建物の前を通りかかると、「日本人どうぞ」「お父さん、チチあるよ」「最初は実演」などと、若者が呼び込みをやっている。まぁ、どこにも日本人が行っているということだ。

裏通りを歩いていると、車に乗った女性の二人連れに呼び止められ、「Do you like Geisha?」ときた。なかなかの美人。20~22歳ぐらいか。一緒のK君は、英語の教師だが、札幌オリンピックの通訳を務めたほどの英語達者。もちろん、遊ぶつもりもないが、興味半分、彼が聞いてみると、40ドルで、彼女たちが指定するホテルへ先に行っているようにとのこと。後から、彼女たちが来るという。
2日前には、リーダーのH先生が昼間の2:00ごろだというのに、そばに寄ってきて、手のひらをコチョ、コチョと、いたずらされたと驚いていた。 

35日間のアメリカ生活で、飲み屋が少ないのには、少しばかり参った。確かに、ビールは安いが、女性はいない。フロアは、ただ広いだけ。こうした店でのサービスは、日本のバーなどとは全く違う。酒や女性に対する考え方が基本的に違うからだろう。キリスト教は、酒、タバコ、コーヒーなどを禁じている。要するに、刺激のあるものはダメだということらしい。

11:00ホテルへ。K君が、まだ帰ってきていないということで、ロビーで待つ。0:30ごろ帰って来た。シャワーを浴びてから、ホテルのバーへ行く。1:30だった。それから、ちょいと街へ出ようと、30分ほどブラブラ。タクシーで帰ってくる。2:30就寝。       

    ☆           ☆             

       日本人は狙われている

海外旅行で日本人が犯罪に巻き込まれるケースが増えている。甘い話には、くれぐれもご注意だ。20年前のゴールデンウィーク、仲間3人とタイ・インド・ネパールへ10日間の旅をした。一番のお目当てはヒマラヤの大パノラマを上空から見る1時間のマウンテン・フライト。

当日は曇り空で、あまりクリアには見えなかったが、前日、ドゥリッケルという1,524mの高原から、エベレストをはじめ、8,000m級の山々が連なるヒマラヤ山脈を一望した。 

旅の始まりはタイのバンコク。失敗は第一日目に起こしてしまった。空港へ現地のガイドが迎えに来ているはずが、なかなか見つからない。そこで、仲間の一人が、自分の名前を「○○でーす」(こんなことを言ってはいけなかったのだが)と言ってガイドを捜していたところ、「○○さん、○○さん」と言って、3人の若い連中が駆け寄ってきた。

そして、すぐに、3人のスーツケースを待たせてあった車に乗せてくれた。いやに親切だなと思っていたら、車はなかなか出発しない。そのうちに、「チップをくれ」という。もちろん、「冗談じゃない!」と撥ね付け、車を走らせた。

そこで、「これは、おかしいぞ」ということになった。 運転手は、ちょっとした日本語を話すので、「何分ぐらいでホテルに着くか」などと聞きながら車に乗っていた。30分ぐらい走ったあたりから、だんだん灯りが暗くなり、ホテルがある中心部とは違う方向に走っているらしいことに気づいた。

「コノヤロー、どういうことなんだ!」と、3人で怒鳴りつけた。すると、運転手は、「日本語がよく分からない」と言い出した。挙句の果てに、「女性がいる、いいところがあるから、そこへちょっと寄って行って欲しい」という。夜10:00頃の話だ。

そうこうするうちに、煌びやかなネオンに彩られたホテルのような建物が見えてきた。何と売春宿だったのだ。運転手は、そこで車をストップさせて走らせる様子はない。われわれは、「責任者を出せ」と凄んだところ、中年の女性が出てきた。これが何と日本人だった。聞けば、経営者だという。

事情を話し、タクシーを呼んでもらい、さらにタクシー代2,000円はいらないということで、目的のホテルまで送ってもらった。 ホテルに着いたのは11:00を回っていた。現地のガイドは渋滞で迎えが遅れたのだという。当時はケータイもなく、連絡もうまく取れなかったための大騒動だった。

それから、確か1年も経たない頃だったと記憶するが、同じバンコクで日本人の新婚さんが、タクシーの運転手に殺されるという痛ましい事件が起こり、ぞっとした覚えがある。

14年前のアンコールワットでは、物売りと物乞いにしつこく付きまとわれたことがある。6年前には、パリでタクシーの運転手に、ニセ札をつかまされたことがあるし、3年前には、ローマ三越前で写真を撮っていたら、突然若い女二人が肩を引っ張って仲通りに行こうと強引に誘ってきた。「うるさい、コノヤロー!」と、どなりつけて追い返したこともある。とにかく、日本人は狙われているから気をつけることに越したことはない。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 



   


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