北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<24>

2008-03-10 07:45:43 | Weblog

1972・9・11(月) 雨のち曇り オマハ→シャイアン(ワイオミング州)

午前5:40起床。雨。昨夜は、かなりの雨が降って、時々、目を覚ました。朝、Mr.Johnsonが、車でオマハのバスターミナルまで送ってくれた。6:30着。メンバーの中で一番乗りだ。バスが遅れて、結局8:00に出発。

激しい雨だったが、コロンバス、グランドアイランド、シドニーなどを経て、午後7:30無事シャイアン(ワイオミング州)着。それにしても、雄大な岩肌がそびえる中を、どこまでも西部劇の舞台そのままに広大な荒野が続く。シャイアンはホテルに一泊するだけ。

到着後、すぐにビールを飲みに行く。グッとこたえた。ダンスホールもあったが、誰も踊っていない。夕食も食べて満腹。ここで、学生と、サラリーマンであるという二人の日本人に会った。彼らも途中で一緒になったそうだ。T君とホテルに帰る。ロビーで皆と10:30まで話し込む。その後、すぐに就寝。
      
        ☆        ☆

           西部劇の思い出

田舎育ちである私が、西部劇を観るようになったのは高校を卒業して札幌で浪人生活を送っていた頃から、大学時代にかけてである。

とにかく広い西部をバスで走っていると、映画の「駅馬車」「シェーン」「荒野の用心棒」「荒野の七人」、テレビ映画でやっていた「ラミー牧場」「ローハイド」などの場面が実感として伝わってきて懐かしい思いに駆られた。

ジョン・フォード監督やジョン・ウェイン、バートランカスター、スティーブマックイーン、チャールズ・ブロンソン、などという名前を知ったのも、この頃だった。

ところが、大学の探検部に所属し、夏合宿で1か月間テント生活をしているとき、たまたま映画の話になった。そのメンバーの中に、やたらと映画に詳しい男がいて、何時間でも話しているのだ。もちろん、横文字の映画スターの名前などをほとんど覚えている。全く話についていけなかった。正直言って、このとき、初めてカルチャーショックというものを感じた。

その彼は今、売れっ子の直木賞作家として大活躍している。北海道の田舎から東京へ出て行った割には、それほどのカルチャーショックを受けなかったのだが。

   ☆          ☆

1972・9・12(火) 晴れ シャイアン→
ソルトレーク・シティ(ユタ州)


午前6:45起床。軽い朝食。8:30一路ソルトレーク・シティへ。今日は見通しも良く、最高のバスツアー日和だ。アメリカの広いことを、まざまざと見せつけられた。昨日は、緑の広大な原野を、そして今日はロッキーの山越えだ。

これが地球上かと思われるほど、果てしなく続く直線コース。まるで、地平線に向って走るような錯覚を起こした。映画でお馴染みのララミー牧場も通ったが、自分がカウボーイにでもなったような気分だ。

山並みは、すでに紅葉し始めており、その美しさは格別だ。広大な平原を走っていると、この厳しい自然の中に、われわれ人間が道をつくり、橋を架け、汽車を走らせたが、果たしてどんなに過酷な歴史があったのか、想像するに余りある。途中、岩石群に囲まれた街が幾つかあったが、一体どんな生活をしているのだろうか。

ララミーには牛や馬が放たれ、実に牧歌的というか詩情豊かな風景に出合った。午後5:30ロッキーを越えると、眼下に湖とソルトレーク・シティが見えた。オマハを出発してから20時間、やっと着いた。

私とT君が美人の奥さんの車に乗せられ、調子よく「グッド!」などと言って期待していたら、なんと、ホストファミリーは別の家だった。しかし、子どもが3人いて楽しそうだ。夕食後、トランプをしたりして遊ぶ。お土産に、箸、舞妓さんの下駄、鈴、バッジ、扇子などを渡す。なかなか寝付かれなくて参った。      

   ☆          ☆

  北海道開拓と島義勇・坂本龍馬

人間が厳しい大自然に挑み、今日の豊かな社会を築いてきた歴史を見たとき、やはり北海道の開拓も想像を絶する日々だったのだろうと思った。なにしろ、熊や狼が生息し、とくに冬は極寒の地だ。本州から開拓のため渡ってきた人たちの多くは、二度と帰れないという悲壮な決意をもってやってきたのだ。

開拓にはアイヌの人たちや囚人たちの力も必要としたという。北海道開拓には、外国人を含め多くの人たちが足跡を残しているが、その代表的な一人は北海道開拓史初代判官・島義勇(よしたけ)だろう。

北海道の冬の風物詩「さっぽろ雪祭り」や、夏の風物詩「よさこいソーラン祭り」の舞台となっている大通り公園。これを画定(明治2年)したのが島判官だった。島の都市計画はスケールの大きいものだった。その心意気を、自ら次のように歌っている。

河水遠く流れて山隅にそばだつ 平原千里地は膏腴(こうゆ) 四通八達宜しく府を開くべし他日五洲第一の都 

その意味は、遠くゆるやかに川が流れ、一方の隅に山がそびえている。ひろびろとした平原が千里のかなたまで続き、地味は豊かだ。北海道の各地へ道を通じるに便利で、首府をおくに最適のところ。何時の日か、おそらく世界第一の都となるであろうーというものである。

そして、意外な人物が北海道開拓に夢を馳せていた。坂本龍馬である。本人は北海道に行ったことはなかったが、尊攘の浪士約200人で、北辺の開拓と防備に当たらせるという屯田兵の先駆的構想を立て、幕府の勝海舟などから資金を出させる約束を取り付けていた。しかし、池田屋事件や、その後の情勢から龍馬の夢は叶わなかった。

それでも、龍馬の姉夫婦の次男・坂本直寛が新天地開拓を志し、東部の訓子府や空知の浦臼などで農場を経営したりしていたので、多少なりとも龍馬の夢を引き継いでいたとも言えよう。

この直寛の長女直意の婿養子が弥太郎で、その次男に坂本直行という画家がいた。十勝の開拓や山の絵を描く画家として知られるが、今や全国ブランドとなった六花亭のお菓子の包装紙は、坂本直行が描いたもので、こんなところにも龍馬と北海道の縁があったと思うと、明治維新の立役者も少しばかり近い存在に思えてくる。

今年は、北海道洞爺湖サミットが開かれ、北海道は今、世界に向って大きく羽ばたこうとしている。それは、140年近く前に島義勇が描いた壮大な夢への挑戦でもある。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)