年間60発!爆弾テロの巣窟を歩いてみた、フィリピン・マギンダナオ

2019年06月24日 | 海外移住で地獄に堕ちたはなし


年間60発!爆弾テロの巣窟を歩いてみた、フィリピン・マギンダナオ

6/24(月) 12:32配信

Wedge
冒険の作法とゴキブリホテル

 私が子供のころの愛読書のひとつに『冒険王』(秋田書店)という月間漫画雑誌があった。だが今、冒険という言葉は、死言に等しい。ネットなどによる情報技術の発達も影響しているのかもしれない。ニーチェのいう末人が跋扈しているせいかもしれない。「彼らは世界のあらゆる出来事を知っている。そして限りなくあざける」(『ツァラトゥストラかく語りき』)。だがそれは本物の世界ではない。

 先日、フィリピンのマギンダナオ州とコタバト市に足を踏み入れる機会があった。この地を訪れるのは、援助関係者とフリーのジャーナリスト、一部政府要人ぐらい。外務省の海外安全情報サイトも危険度レベル3(訪問中止勧告)となっている。昨年は、未遂を含めて60を越える爆弾事件のあったのだからもっともとも言える。援助関係者が外出するときには、前後に軍の護衛車両がつく。

 けれども再考してみると、私がベネズエラで住んでいたのはレベル3地域、以前訪れた東部レバノンシリア国境地域は、レベル3か4である。

 知らない地やへき地はとかく危険とされるが、爆弾があろうが戦争があろうが、子供も老人も女性もみな普通の生活を営んでいる、あるいは営もうとしている。

 日本だって稀に起こる無差別殺人と、しばしば起こる自然災害を考慮すると、とても安全な国ではないが、我々はその地で普通に生活を営んでいる。

 前述の外務省の世界地図を見ると、アフリカ、中近東、東南アジア、南米の数々の地域が行かないほうがいいことになっている。つまり、見るな聞くなということでもある。誰もその地のことを伝えないと、欧米の報道やSNSの嘘か本当かわからない情報にしか接することができなくなってしまう。
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ダバオのナイトマーケット
紛争地への準備

 今年の1月末に私はドウェルテ大統領の本拠であるミンダナオ島のダバオを訪れた。治安もよく、地元の食事も驚くほど美味く、素晴らしい土地であった。夜5時~早朝2時ころまで開いているナイトマーケットは、圧巻でもあった。数百の屋台が地元の新鮮な肉、魚介類、野菜、果物を安価に提供し、数千人が集まって来る。

 けれども、2016年9月2日、この夜間マーケットでも爆弾テロがあり、15名が殺され、70名強が負傷。夜は軍が装甲車まで出動させて、監視していた。



現地の治安当局者に「陸路、ミンダナオ自治区のマギンダナオ州に入りたい」といったところ次のような答えが返ってきた。

 「行って帰って来るだけで10時間はかかるし、検問所は暗くなると危ない。テロリストが潜んでいる。それに我々の管轄外だ」

 無理強いするわけにはいかない。マギンダナオ州のコタバト市では12月31日に爆弾テロがあり、2名死亡、34人が負傷している。また、1月20日、同市の判事の家に手榴弾2個が投げ込まれている。

 10年ほど前にはマギンダナオの大虐殺として世界を震撼させた事件もあった。地元のボス同士の政治上の抗争から、58人が殺害され、そのうち32人がジャーナリストだという。
日本に本格的なインテリジェンスは不可能な理由

 ミンダナオからの帰国後、コタバト市に長くいた援助関係者を探して、電話で状況を聞いてみると、以下の事情が判明した。

・現地に日本人はほとんどいない。 
・仕事以外は外に出ない。とりわけ夜は出歩かない。
・現場に向かうときは軍に前後をガードしてもらう。ルートは日々変える。
・ホテルには軍の人間といっしょに泊まってもらう。
・高い建物がないので狙撃されることはない。近距離から撃つ。刃物を使うことは少ない。
・ホテルにレストランがないと、外出できないので食事ができない。
・空港からエスコートをつけたほうがいい。

 海外で犠牲になるのは、援助関係者、プラント事業関係者、フリーのジャーナリストの順であろう。私はこの3者のいずれにもかかわっているし、いくつかの事件については内情を知る立場にもあった。

 一方PKOなどで海外に赴任する自衛隊には犠牲者が出ていない。政治的な理由から彼らに何かあれば、大騒ぎになるだろう。だから我々日本人は自衛隊が被害にあわないように配慮する必要がある。

 また、大手マスコミの記者もそうだ。ベトナム戦争のころは、自社の記者が、命を張っていたが、今大手の新聞やテレビ局の社員が紛争地に行くことはまずない。なにかあればライバルのマスコミから叩かれるし、犠牲になれば慰労金も大変な額だろう。危険地は命の安いフリーランス頼りだ。

 さらに大使館職員も危険地には入れない。自身が退避を勧告しているのだ。人質にでもなれば、それこそマスコミの餌食であるし、将来の出世もおぼつかない。その意味で日本には本格的なインテリジェンスの活動は期待できない。

 例外は援助の専門家だろう。今年の2月以降、コタバト市を拠点とするミンダナオ和平国際監視団(International Monitoring Team:IMT)に彼らを再派遣することになる。




空港で想定外の事態が

 4カ月後、私はコタバト市を目指してマニラのニノイアキノ国際空港を3時間遅れで離陸したフィリピン航空エアバスA320の機上にいた。ヒジャブで頭を覆った女性の数からすると、旅客の中でイスラム系は3分の1前後だろう。男性はその宗教を見分けるのは難しい。

 離陸体制に入った飛行機の眼下には、永遠と思われるほどの緑が広がり、青い線があちらこちらに走っている。海を臨む大地に、広大な森林が鬱蒼と繁茂し、その間を河川が縦横に流れているのだ。アジアの原風景といえるかもしれない。飛行機がいっそう高度を下げると、真っ白なモスクが目をかすめる。

 この地にイスラム教が伝わるのは、1475年、マレーシアからイスラム教徒が到着してからである。17世紀中盤、スルタン・クダラットの時代にマギンダナオ王国は、周辺国との交易で繁栄を迎える。その後カトリックのスペインにルソン島などが植民地化される中、この地では300年以上に渡ってイスラム教VSキリスト教の勢力争いが続いた。
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暑いので傘を差し出してくれるコタバト アワン空港

 2022年には新たにイスラム自治政府が発足する。目的はイスラム教徒のアイデンティティの承認、治安の安定、投資活性化、生活水準の向上などである。移行期にある政府の新庁舎はこのコタバト市にある。

 コタバト市のアワン空港に着陸し、機内から出て空港施設まで歩く。日射しがマニラよりもずっと強い。滑走路にいるフィリピン航空の職員が、女性には日傘を差し出してくれる。

 荷物の受け取り場は狭いこともあり、大混乱である。人込みの中に、フィリピン当局のツテを頼って依頼していた治安関係のエスコートを探す。だが、私の名前を書いたネームプレートを持っている人間はいない。駆け寄って来る者もいない。

 ツーリストオフィスらしきところがあるが、誰もいないし、まるで残骸のようなありさまである。

 しかたがない。タクシーのようなもので行くことにした。空港警備の職員に頼むと、空港施設への通路で待ち構えていた人の好さそうなおっちゃんを紹介してくれた。ベネズエラのような職員が信じられない国では、このような行為は致命傷になる。

 20分ほどでホテルに着いた。小さなホテルでスーパーマーケットと同じ建物に同居している。レストランはない。レセプションでは3人の高校正に見える女性がだべっている。チェックインし、スーツケースを持って3階の階段を上る。ドアの鍵はいちおうは電子式だ。部屋に入り、ほっとする。第一関門終了。ところが……。



ゴキブリホテルの責苦

 部屋の広さは横2メートル半、縦3メートルほどと狭く、ベットと机がひとつある。トイレ・シャワー室もついている。エアコンもある。ほっとするのもつかの間、木机の上をゴキブリ数匹が我が物顔に動き回っているではないか! 

 南米のアマゾン在住時、即席ラーメンを作ったら、いつの間にか汁の中を夥しい蟻が入っていて、アリ盛りラーメンになったことを思い出した。

 しかたない。超安ホテルなのだ。

 ゴキブリを放置し、汗だくなのでバスルームに入り、洗面所の水を流す。あれれれ、今度は水が流れない。みるみる水が溜まっていく。試しにシャワールームのせんをひねる。生ぬるい水が出て来る。ところが、シャワーのせんをひると、部屋の電気が消え暗くなる。まか不思議。それにトイレットペーパーもバスタオルもない。もちろんWifiは部屋からは通じない。

 観光客など来ないのだから、こうしてサービスは低水準にとどまり続けることになる。
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Grand Mosque ブルネイのスルタンが寄付をした。市街からは遠く、閑散としていた
現地仕様化は成功しすぎた

 治安関係の人間とやっと連絡がとれて、なぜ空港で彼らと落ち合えなかったかが判明した。

 インテリジェンス系の人間が2人空港に来ていたが、見知らぬ日本人を見つけることができなかったのだ。彼らは、大目玉を食らったようである。

 すなわち、私は完全現地仕様化していた。

 誰もが、あらゆることに先入観を持ち、類型外であると、見逃す、騙される。以前、軍事政権下のミャンマーに行くときにも、日本で土産を買ったら、私のことをミャンマー人だと思い、店舗の女将が小学生でも知る日本の歴史を長々と私に説明し始めたことがある。

 「これは将軍といって、江戸時代というのがあって、云々……」

 私は頬髭、顎髭を伸ばし、外に出るときは短パン、サンダル履き、アロファシャツ、手にはスーパーでもらうビニール袋、中に必要ならばカメラや財布を入れ、肩で風を切って歩く。場合によってはサングラスをかける。コタバト市でも何度かタガログ語で話かけられる。これがもっとも安くつく安全策である。 

 けれどもこの街は夜歩く気になれない。ホテルの左右にあるのは雑貨屋の類はすべて夕方6時には閉まり、あっとう間に闇の帳が落ちて来る。路上を歩いてみると、不穏な風が吹き、ごみが舞い上がる。外に出ても行くところがない。唯一夜空いているのはマッサージパーラーのようだが、タクシーを飛ばしてまでいく気にはなれない。


テロリストの標的はどこか?

 夕方と早朝にホテルの位置を確認した。半径100メートルの中に無差別爆弾テロの標的となる可能性のある場所が3か所あった。もちろんこのゴキブリホテルは標的外である。

1.Jollibee

 フィリピン全土で1000を越える店舗を持つファーストフード店。マクドナルドを凌ぐ。秘密はフィリピン人大好きなご飯があるからである。ホテルにあるのはレセプションで販売しているカップヌードルだけなので、私はここに通い詰めることになった。資本は華僑系である。

2.リサールショッピングモール

 1階にピザハウスと中華系のファーストフード店が入る。2階は衣料品、食品を販売する巨大スーパー。ここも資本は華僑系。

3.市民の台所の巨大市場

 かつての築地を凌ぐほどの広さと人込みである。朝夕は人、人、人の波である。とりわけラマダン中だったので、夕方5時前後の混雑はすさまじかった。魚、肉、野菜、果物が所狭しと販売されていて、安価でもある。

 さて読者への質問。昨年12月31日の夕刻にISの影響を受けたBangsamoro Islamic  Freedom Fighers が爆弾テロを実行したのは、このうちのどれかである。

 周囲は殺人事件も時折起こっており、けっして安全な地域ではない(ほかに海外援助関係者が宿泊するまともなホテルが郊外にあり、現状ではそちらのほうが安全である)。

 答えは、ショッピングモール。荷物カウンターに爆弾がしかけられた。
マギンダナオと日本、どちらが危ない?

 翌日、コタバト市からリオ・グランデ・デ・ミンダナオ川を越え、マギンダナオ州のスルタン・クダラットに入った。イスラム色が強くなり、軍の検問が次々と現れる。時折、戦車と行き違うこともある。警察なども軍化していて自動小銃で武装している。マニラとはまったく違う。

 同行してくれた、若い治安関係者はマラウイの戦い(2017年)のときは、動員されてISと戦っていた。ISはシリアで豊富な経験を積んでいて、トンネル建設、作戦など戦闘に長けていて、仲間が日々やられ、辛かったという。

 「職場は、おおまかにいって、イスラム教徒40%、キリスト教徒40%、先住民20%で、仲良くやっている。テロリストはキリスト教徒を襲うだけではなく、収穫期には先住民の農産物を盗みにくる。彼らは、病気だ。おかげで戒厳令だし、まったく退屈な街だ。そのうち、街への出入りが夜は禁止されそうな状況だよ」

 若者には出歩く場所がないのである。そんな状況を変えようと、コタバト市警のトップには、フィリピン警察のエースが赴任した。Portia Manalad女史である。コソボ紛争や東チモール紛争でPKOに参加し、修士の称号も持っている。またマギンダナオ州は女性の進出が進んでいて、州知事には新たに Bai Mariam Sangki女史が選ばれている。   

 ところで、ちょうどこの日に日本では川崎で通り魔事件があった。無差別殺人は、どこにでもあるが、むしろ日本の通り魔事件のほうが、予測しにくく、防御にしにくい。テロリストが爆弾を仕掛けるのは、教会、ショッピングセンター、マーケット、インターネットカフェなどである。他にはハイウェイに即席爆弾をしかける。多くはミンダナオの場合は、コタバトからキリスト教徒の多い、南の端のゼネラル・サントス市への道路上となる。

観光の圧巻は市場

 私はテロの巣窟だろうが、観光するのである。興味を惹く良い場所が必ずある。長所を探すことも、地元の人々への礼儀だろう。もっと足を延ばせば、ピンクモスクなどの見所があったが、今回は、コタバトにある巨大モスク、海をいく漁民のアウトリガーボートを見るぐらいにとどまった。
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うまそうな巨大マグロもある

 観光の目玉は、前述の市場である。うれしいことにゴキブリホテルから歩いて3分の所にある。地面には濁水が流れているが、それでも美しい。巨大マグロ、フィリピン特有のバロット(孵化直前のアヒルのたまご)、肉、マンゴ、パイナップル、セニョリータ(小粒のバナナ)などなど、どれも安価で色彩豊かである。買い物客と商人が大声でやりとりしている。生命力が市場そのものから湧き出てくる。

 けれども、思う。住民は家庭ですばらしいものを食べているのだ。その代わり、私はホテルのフロントにあるカップヌードルとファーストフードの鳥の空揚げご飯ぐらいしか食べることができない。空腹でひもじい。早々マニラに戻ることにした。

 マニラに戻って、ビールで一人乾杯をした。

 美味い! 

 そう感じるのも、マギンダナオとコタバト市を訪れたおかげである。

 同じ日常が続くと人はそのありがたさがわからなくなる。欠乏や危険を時折経験することで、初めて平和のありがたさや、なにごともない日常に幸せを感じることができる。それが紛争地を訪れることで得られるものでもある。

 最後に、信条はともあれ、理由はともあれ、これまでに紛争地でテロの犠牲となった、数多くの援助関係者、ジャーナリスト、プラント関係者、外務省職員、ぶらっと訪れた若者、いっしょに働く機会のあった大学教授‐これらの人々の冥福を祈って、筆を置く。

風樹茂 (作家、国際コンサルタント)
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