日本で大失敗したヤマハのバイク フランスで爆発的ヒット、会社を救った奇跡とは

2018年07月19日 | モーターサイクルメーカーなど
日本で大失敗したヤマハのバイク フランスで爆発的ヒット、会社を救った奇跡とは
7/18(水) 6:40配信 NIKKEI STYLE

日本で大失敗したヤマハのバイク フランスで爆発的ヒット、会社を救った奇跡とは

決算説明会に出席した日高祥博社長(2018年2月13日)
■1987年、日高祥博社長(54)はヤマハ発動機に入社した。
 ※ヤマハ発動機社長・日高祥博氏の「私の課長時代(前編)」

 大学時代にバイクを買いに販売店を訪れた際、ヤマハ発の大型バイクにひと目ぼれしました。それからヤマハ党です。配属された購買部でモノ作りをみっちり学びました。

■7年目の春、結婚直後にフランス子会社への赴任が決まる。
 結婚してすぐにフランス赴任を言い渡されました。「家族と相談させてください」と答えながら、内心ではすぐに決心しました。

 フランス子会社のMBKは、モトベカンというバイクメーカーでした。ヤマハ発の傘下に入り再建途上だったのが、私が現地工場の調達部に着任した年に黒字転換しました。日本で大失敗したスクーター「BW’S(ビーウィズ)」の金型が余っていて、MBKに無償で譲渡。日本で支持されなかったデザインが受け、爆発的にヒットしたのです。

 赴任してみると、1モデルごとに原価の構成表や目標コストを立てていくら売れば採算を達成する、というような当たり前の仕組みがありません。5年でこの仕組みを根付かせようと決意しました。

日本で大失敗したヤマハのバイク フランスで爆発的ヒット、会社を救った奇跡とは
ひだか・よしひろ 87年(昭62年)名大法卒、ヤマハ発動機入社。14年執行役員、17年取締役上席執行役員、18年から現職。愛知県出身。
■フランスではビーウィズの新モデルの部材調達が最初の仕事となる。
 初代ビーウィズは日本から型を持ってきて、フランスではほぼ組み立てただけ。新モデルは現地で型を起こし、目標コストを割り当てながら造り込みます。

 上司は数社を渡り歩いてきたスペイン人で、私の考えに理解を示してくれました。しかし、フランス人は頑固でしたね。日本ではコストダウンに誰もノーと言いませんが、現地で返ってくる答えは必ず「Why?」です。

 管理部門の我々は、実際に部品を調達してくるバイヤーに煙たがられます。唯一の同志がジャック・ロブ。上司に「一人俺につけてくれ」と頼んだ部下で、日本で学んだノウハウを教えました。詰め寄られても交渉できる人間が残らなければ、仕組みがあっても機能しません。

 数字で成果が表れると、経営陣も興味を示すようになります。調達部門からバイヤーまで目標コストを意識する良い循環が生まれ、新モデルでも実績を残すことができました。ヒット商品が出るタイミングや同僚に恵まれ、幸運だったと思っています。

【あのころ】
 ヤマハ発動機はホンダと1980年代前半から「HY戦争」と呼ばれる激しい二輪車の販売競争を繰り広げた。傷も癒えないところに85年のプラザ合意による円高の波が押し寄せる。国内市場が縮小に転じる中、二輪各社は世界での生産、供給体制の見直しに追われた。
[日本経済新聞朝刊 2018年6月12日付]





こちら海外アジアだがヤマハは品質が素晴らしい。

販売ネットワークが整備されてるがパーツ供給だけが弱いのが問題だ。

ホンダは販売ネットワークやパーツなご十分だが「肝心のモーターサイクルが駄目」カワサキは販売網さえなく全滅に近い=最早モペットやスクータなどは生産販売していない。バラコという175ccを販売してるが欠陥ミクニキャブなど問題が多い。(インドのバジャに委託して150ccスポーツバイクを流している程度)

スズキは販売網を構築して頑張っているメカニックが良い人材が多い。
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