まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

クリス・レアが好きだ!(明るく、踊るべし!)

2020-08-15 07:04:15 | 日記
これまた、老人ホームで勤務している実感ですけれども、男ってのは、概ね、ど~しようもない存在ですな。特に、「生活」においては。しかしながら、むろん、例外も多々あって、例えば、Sさん、Sさん、Kさん。いい男だったな。ひそかに道楽を好み、子供みたいな心を持ちつつ、頑固で、けれども、協調はしていて、自分の運命を受け入れていて、つまり、達観していて。みんな死んじゃったけど、忘れてないよ。対して女性は、すべからく?惚れます。104歳であれ、何歳であれ、その魅力には、逆らえません。あ、ひとりだけ苦手な方が存在しました。前世で、なにか変な因果があったのではないか、というような・・・。

2017年のクリス・レアを見ていて、その老い方を見ていて、どうにも感じるところがありました。なんとも素敵だなぁ、と。

最近、「禅とジブリ」著者=鈴木敏夫、という本を読んでいました。僕の場合、両親の実家のどちらも曹洞宗だったこともあって、禅そのものには関心がなかったとしても、親近感はあるのです。僕が思うに、禅というのは、悟りの方法論のひとつなのであって、つまり、他の方法で悟るのも可能なのではないか、ということ。例えば、イチローにとっての悟りは、野球を経て得たもので、彼にとてっての禅は、野球であった、というような。聖キース・リチャーズの場合は、音楽だったのでしょうし。

「足るを知る」ということが、悟りと通じているのかどうか。僕のような努力不足のまぬけには、わかりません。わかりませんけれども、死や老いを実感した時に、どのような行動をするのかは、ひとそれぞれで、そのそれぞれのひとつが、禅なのでしょうか、ねぇ。庭のバラの葉は、相変わらず虫の幼虫に喰われ続けています。なるようにしかならないけど、僕は自分の役割に徹するようなことしか出来ませんので、せっせと苗に水は与え続けています。いつか、花が咲けばいいな、って。


「Lets Dance」Chris Rea

↑ この映像は2009年、11年前のクリス・レア。
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実践(理)性批判

2020-08-15 05:15:24 | 日記
一昨日、エミちゃんのお店に行ったのです。髪はのび放題だったし、お祝いの言葉もかけたかったし。で、向かう途中に、越谷方面の雷が凄いことになっているなぁ、と思っていたら、案の定、局地的なゲリラ豪雨に見舞われていて、停電していて、信号も止まっていました。そんなわけで、無理強いはせず、スゴスゴと帰宅したようなわけだったので、やむを得ず、昨日は久しぶりに近所の床屋に行きました。で、なんか、こわかったんです。コロナが。実際に濃厚接触が避けられないのは仕方がないとしても、心の問題として、受け入れ難かった。つまり、親しくさせて頂いている方や、仕事上における感染であれば、受け入れる準備があるけれど、ここでリスクを背負うのは、嫌だ、ということを、実感しました。

僕の心配、関心は、3つのことに集約されているように思います。お年寄りのお客さまたちに感染させたくない。コロナの予後(子供たちの後遺症)はまだ明らかになっていない。濃厚接触の減少や、経済的な心配などによるわが国の出生率の因果関係がまだわかっていない。僕自身は、例えくたばったとしても、それが運命だったのだろうと、諦められますけれども、ねぇ。

昔、「白い巨塔」という田宮二郎のドラマがありまして、印象に残っているのは、主人公が癌におかされて死を悟った時に、子孫を残そうと試みるんです。危機における防衛本能として描きたかったのかどうか。で、僕が思うに、この感覚が大切なのかなぁ、ということ。むろん、それは僕自身のことではなく、若者たちに向かって、物申しているわけれすけれども。そうして、コロナとは無関係だったとしても、あえてこの時期に結婚したエミちゃんや、新たな命を授かったカオは、偉いと思うし、積極的に応援したい。実際に、こんな時期だからこその不具合(渡航禁止や面会禁止)ってのは、確実に存在しているわけですし。

だから、と言っては何ですけれども、今は、モテる男や女の不倫程度のことで、ガタガタ言うなって、思うんです。むろん、よくないことなのでしょうけれども、罪は罪として、罰を被っているのであれば、許してやれよ、って。人に迷惑をかけずに生きることは出来ないし、ちょっとした浮気心を抱かない人もいないだろうし、過ちを犯さない人もいないでしょ、って。まずは、自らを省みてから、発言をして欲しい、というか、そうありたいですな。
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