極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

天王寺七坂暮情

2015年09月30日 | 時事書評

 

 

    Beer is proof that God loves us and wants us to be happy

         ビールは、神がわれらを愛し、幸せになれと求める証なり。

                      ベンジャミン・フランクリン







【天王寺七坂暮情】


梅田、曾根崎の北区は、日々変化成長する記憶の匂を残しているが、道修町や四天王寺(阿倍
野を含めず)は落ち着いたたたずまいの匂いを残しているのは、享楽街と鉄道駅の集中からは
ずれている所為なのだろう。もっとも、上本町や近鉄が、阿倍野には近鉄と旧国鉄があるもの
の、北の梅田の阪急、阪神、南の難波の南海、旧国鉄(ここだけは環状線の駅はない)の街の
生業に由来するのだろう。ところが、道修町や船場にも大きな神社仏閣が点在するものの、天
王寺の下寺町に仏閣が集中していることに、成人になるまで何の疑問も抱かずにいた。

この下寺町界隈は、南北千四百メートル、東西四百メートルのエリアに約80仏閣が集中し府
内では随一、全国でも珍しい寺町を形成しているが、織田信長と対立し抗争した石難攻不落の
“砦”として10年以上耐え抜いた蓮如による石山本願寺以外には、聖徳太子が建立した四天
王寺、藤原冬嗣発願の藤次寺など、中世からすでに幾つかの寺院が存在していたが、天正11
年(1583年)の豊臣秀吉による大坂の城下町建設とともに――大坂城は上町台地の北端に
位置し、東は平野川・北は大川などが天然の要塞となり、西は東横堀川を開削し守りを固め、
南側の防御を強化するため、上町台地に寺を集中的に移転――寺町作りが始まる。江戸時代に
は11の寺町があり、うち2つは天満に、9つは上町台地に集まっていた。時代によって変遷
があるものの、上町台地の9つの寺町に180余りの寺院が存在し、第二次大戦の大阪大空襲
を免れての現在の仏閣数は、京都を上回る密集状態にある。そういえば、侍という字、寺のひ
とと表し、元来貴族のそばで仕えて仕事をするという意味だが、仏閣を守衛警備という職務も
含まれ、仏閣の造りも、高い壁で守られ、門を閉ざし、高所から矢玉を射掛けやすくなってい
るので大阪城の防衛に機能させたものと考えられる。

ところで、天王寺は、四天王寺の略称として平安時代から使用され、当地で合戦が繰り広げら
れた南北朝時代から地名に転化した。駅北西に位置する一心寺から生國魂神社にかけては「夕
陽丘」と呼ばれ、上町台地はこの辺りが急崖になっており、落陽の眺めが良い。また、天王寺
村は、かつて大阪府東成郡にあった村で、現在の大阪市天王寺区南東半、阿倍野区北西半、生
野区西部、浪速区東部、西成区東部にあたる。さらに、阿倍野は、四天王寺- 住吉大社間の上
町台地上と西斜面をさす地名で、摂津国から和泉国に至る交通の要衝地。高燥地のに荒涼とし
た原野が広がっていたが、中近世には「阿部野」と表記されることが多く、現在でも大阪阿部
野橋駅や阿部野神社にその名残をとどめる。地名の由来として最も有力な説は「阿倍寺」やそ
の建立者である「阿倍氏」とされ、「阿倍野」が近現代においては主流となる。



近世に、東成郡天王寺村と阿部野村となり、天王寺村は既存の7つの集落と四天王寺門前の町
場に加え、天明・寛政年間に天下茶屋を編入し、約1万人の人口を擁する大村となる。一方
阿部野村は1618年(元和4年)に天王寺新家阿部野村になり、1663年(寛文3年)に
天王寺村から分村した人口約三百人の小村で、範囲も狭く、現在の阿倍野区松虫通、晴明通、
相生通、阿倍野元町、王子町、阪南町の2-4丁目付近にすぎず、1889年(明治22年)
に天王寺村と阿部野村が合併して東成郡天王寺村となる。



       江戸の世に各宗派ごと集めたる寺のこぞれりこの七坂に      横山季由



上の一首の「寺のこぞれり」の箇所で流れでつまづく。「寺の挙れり」つまり、寺を残らず集
めたとつづくのでこれは成立するわけだから己の無知を笑うしかない。この短歌は、歌人の横
山季由(ヨコヤマキヨシ)の手になるもの(『天王寺七坂』/「現代短歌」15年9月号)。
なお、作者は、昭和23年5月15日京都府綾部市に生る。昭和42年豊里東小学校、豊里中
学校を経て綾部高校を卒業、4月大阪大学法学部に入学、10月関西アララギに入会。昭和4
4年7月アララギに入会。昭和46年大阪大学を卒業、日本生命に入社。昭和54年早稲田大
学システム科学研究所を卒業(日本生命より派遣)。平成7年三星生命(韓国)顧問。平成1
4年日本生命名古屋支社長、首都圏業務部長、仙台総支社長、営業教育部長等を経てニッセイ
同和損害保険(株)。現在、新アララギ、短歌21世紀、関西アララギ、北陸アララギ(柊)、
放水路、の各会員の経歴をもつ。
 




         一昼夜に四千句も詠みし西鶴の座像は建ちぬ南坊の跡       横山季由

         夕陽ケ丘の一等地に石を建て並べ墓地分譲の幟はためく       同   上 



上の一首は、生玉(生國魂)神社南坊址に、浮世草子の作者の大阪を代表する作家井原西鶴の
像をみて詠
んだもの。この神社は、元は大坂城付近にあり、寺町と同様、秀吉の築城計画に沿
ってこの地へ移した。完成は1585(天正13)年。大坂城の鬼門にあたり、ここも大坂城
防衛戦略に組み込まれた。秀吉は、ここを城の盾とするだけでなく、刀づくりのための鍛冶屋
職人、瓦職人や大工さんなどを集めた技能集団の町に特化させる。生國魂神社境内にある金物
や釜戸の神である鞴(ふいご)社は、製鉄、金属業界の守護神として11月の例祭には多くの
大手製鉄メーカが集まり、家造祖(やづくり]神社にはゼネコンのトップが集まる。

また、江戸時代に生玉神社で活躍した文化人として、上方落語の祖と言われる米沢彦八がいる。
大作家西鶴も初登場の場として生玉神社を選んでいる。このように生玉は、大阪の総鎮守とし
て崇敬されるとともに上方芸能と深い関係がある。また、浄瑠璃・文楽もある。境内には芸能
上達の神「浄瑠璃神社」があり、近松門左衛門をはじめ、三味線、人形遣い、太夫の文楽三業
の物故者が祀られる。

  
 「茶店軒を列ねて賑わしく」「傍邊の貸食屋(りょうりや)には荷葉(蓮の葉)飯を焚て

 進むさる程に遊客の手拍子きねが鼓の音に混じ三絃のしらべ神前の鈴の音に合して四時と
 もに繁盛なる」

                            『摂津名所図会大成』巻四


この賑わいを利用して様々な興行が催され、その中から彦八や西鶴を輩出し今日まで語り継が
れることになる。寛文十三年(1873)三月、当時は井原鶴永と名乗っていた32才の西鶴
が生玉神社南坊で行ったのは「万句興行」。十二日間を要して百韻百巻を成就した一大パフォ
ーマンス。「出座の俳士総べて百五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超
える」(野間光辰 『刪補 西鶴年譜考證』)という大興行。同年(延宝元年)六月にはそれが
『生玉万句』として刊行されるが、それまで無名の西鶴の本格的デビューする。つまり、お笑
いと人情の上方文化を育んだのが"生玉さん"という背景がこの歌に読み込まれている。
    

         夕陽ケ丘の一等地に石を建て並べ墓地分譲の幟はためく       横山季由

         上町台地の下には海の迫りゐて防人も憶良も船出をしたり       同   上 


山上は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏の出自とされ、山上の名称は大和国添上郡山
辺郷の地名に由来するとされるが、大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌
大宝2年、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。仏教や儒教の思想に傾倒。死や貧、
老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察する。このため、官人にあり
ながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者をを多数詠み、当時
としては異色の社会派歌人で知られるが、「憶良」と「防人」を並べ詠んだのはそのことも意
識したためと思われる。


      下駄をはき僧衣の裾をひるがへし口縄坂を下りゆきたり   横山季由

       口繩坂登れば梅旧禅院あり芭蕉の木像をみ堂に祀りて       同    上

       降り口に桐の花咲く愛染坂を自転車飛ばし若者下る         同  上



松尾芭蕉のお墓は、滋賀の県大津市にある「義仲寺」にあるが、ここ大坂でも、芭蕉を慕う門
人や後世、芭蕉の顕彰に努めた人達により、墓が建てられる。ここ宝光山梅旧禅院は、曹洞宗
の寺院。松尾芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧禅院の住職がお
経を読んだと『花屋日記』に記録されている。境内には「芭蕉堂」があり、中には「芭蕉像」
が安置されている。この像は、もとは円成院に志太野坡が芭蕉の墓や句碑を建てた折、芭蕉の
木造を寄贈したが、この木造が粗末に扱われたため、これを知った不二庵二柳が怒り、芭蕉像
を引き取り梅旧禅院に芭蕉堂を建て、安置したと伝わる。口縄坂(くちなわざか)は、天王寺
区にある「天王寺七坂」のひとつ。「大阪みどりの百選」に選定されている。「口縄」とは大
阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることから
そう呼ばれるようになった。芭蕉の供養塔もこ坂界隈の梅旧院の中にある。

同じく、愛染坂の上には、
勝鬘院(しょうまんいん)がある。この寺院は、和宗の寺院。山号
は荒陵山。本尊は愛染明王で、愛染堂とも呼ばれ、四天王寺別院、西国愛染十七霊場・第一番
札所、聖徳太子霊跡・第二十九番札所である。
   

       

 
      北鮮系の人手に渡りし雲水寺今は統国寺とその名を変へぬ  横山季由

      茂吉らの歌会開きし雲水寺にアララギに繋がる吾らの集ふ  同  上

      昭和十年五月五日の憲吉忌茂吉文明ら雲水寺に集ひき    同  上

      茂吉らに繋がる吾らのひらく歌会を喜び下さる住職夫人は  同  上 

      戦火にも焼けず残りし雲水寺人手に渡り寺の名変へき    同  上



ここの雲水寺、つまり和気山統国寺は釈迦三尊を本尊とする在日コリアンの寺です。境内は
茶臼山史蹟の南部に隣接し難波の百済寺(難波百済古念仏寺)があったといわれている。茶臼
山池(河底池)を望む絶景地で大阪の名勝して知られる。元は聖徳太子が寺をの創建。602
年来日し暦法・天文学・地理学・方術などを伝えた百済の僧観勒(かんろく)が飛鳥寺で仏法
を説き僧正に任ぜられた後 開山住持としてここに招かれ、百済古念仏寺と名づけられ推古天
皇の帰依により国家の厚い保護を受け、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で、徳川方に加
勢したため 真田幸村軍の攻撃により全山焼失するが、1689年黄檗宗の法源和尚により再
興されている。

また、宝永6年(1709年)、黄檗四代独湛(どくたん)和尚を招請して黄檗宗(おうばく
しゅう)に属し名を邦福寺と改め、さらに、近くの和気清麻呂が開いた和気堀にちなみ和気山
の山号をつけ。門前には 禅の修行僧が食べた普茶料理をだす坂口楼があり、昭和44年(19
69年)に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、統国寺と改名され再復興する。朝鮮仏教儀礼
と朝鮮の伝統のある儀式を行い、納骨堂には朝鮮人殉難者達の遺骨が奉安され、諸精霊の供養
を通して世界平和を祈る。

古くより 文化人に愛され、斉藤茂吉のアララギ派大阪歌会もここで しばしばおこなわれて
いる。上の一首の憲吉は、この俳人、随筆家。大阪府生まれ。実家は料亭・なだ万の楠本憲吉。
文明は、歌人・国文学者の土屋文明。茂吉は、歌人、精神科医で、伊藤左千夫門下で、大正か
ら昭和前期にかけてのアララギの中心人物の斎藤茂吉。しかし、昭和10年(1935年)5
月5日が意味するところ不詳(要調査)。



      通天閣も統べてビルなかに群を抜きあべのハルカス高く天指す  横山季由




 


さて、今夜は短歌から、天王寺七坂を巡ってみた。思えば、四天王寺は、推古天皇元年(59
3年)に建立。「日本書紀」によると、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏に
ついた聖徳太子が形勢の不利を打開のために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝たせ
ていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう。」と誓願し、勝利の後その誓い
を果すために建立された。敏達元年 (572)、物部守屋は排仏派として、崇仏派の大臣蘇我
馬子と対立していた。同14年(585)諸国に疫病が流行すると,守屋は,この疫病の流行
を馬子が仏像を礼拝し寺塔を建立したためであるとして,寺塔を焼き,仏像を難波堀江に捨て
ている。そう、堀江といえばわたしの実家があったところだった。





● 折々の読書 『職業としての小説家』10

   ときどき世間の人はどうしてこんなに芥川賞のことばかり気にするんだろうと不思議に
 思うことがあります。しばらく前のことですが、書店に行ったら『村上春樹はなぜ芥川賞
 をとれなかったか』みたいなタイトルの本が平積みになっていました。どんな内容だか、
 読んでないのでわからないけど――恥ずかしくてとても本人は買えませんよね――でもそ
 ういう本が出版されること自体、「なんか不思議なものだな」と首を傾げないわけにはい
 きません。だって僕が仮にそのとき芥川賞をとっていたとして、それによって世界の運命
 が変わっていたとは思えないし、僕の人生が大きく様変わりしていたとも思えないからで
 す。世界はおおむね今ある状態のままだったはずだし、僕も以来三十年以上、まあ少しく
 らいの誤差はあったかもしれないけど、だいたい同じようなペースで執筆を続けてきたは
 ずです。

  僕が芥川賞をとろうがとるまいが、僕の書く小説はおそらく同じような種類の人々に受
 け入れられ、同じような種類の人々を苛立たせてきたはずです(少なからざる数のある種
 の人々を苛立たせるのは、文学賞とは関係な(僕の生まれつきの資質のようです)。
  僕がもし芥川賞をとっていたら、イラク戦争は起こっていなかったみたいなことであれ
 ば、僕としてももちろん責任を感じるのでしょうが、そんなことはあり得ない。なのにど
 うして、僕が芥川賞をとらなかったことがわざわざ一冊の本になったりするのか? 

  正直言ってもうひとつ理解できないところです。僕が芥川賞をとったかとらなかったか
 なんて、コップの中の嵐というか……嵐どころか、つむじ風にもならないような些細なこ
 とです。 こういうことを言うと角が立ちそうですが、芥川賞というのはもともと文藷春
 秋という一出版社が主宰するひとつの賞に過ぎません。文熱春秋はそれを商売としてやっ
 ている-とまでは言わないけど、まったく商売にしていないといえば嘘になります。

  いずれにせよ、長く小説家をやっている人間として、実感で言わせてもらえれば、新人
 レベルの作家の書いたものの中から真に刮目すべき作品が出ることは、だいたい五年に一
 度くらいのものじやないでしょうか。少し甘めに水準を設定して二、三年に一度というと
 ころでしょう。なのにそれを年に二度も選出しようとするわけだから、どうしても水増し
 気味になります。もちろんそれはそれでぜんぜんかまわないんだけど(賞というのは多か
 れ少なかれ励ましというか、ご祝儀のようなものだし、間口を広げるのは悪いことではな
 いから)、でも客観的に見て、そんなに毎回マスコミあげて社会行事のように大騒ぎする
 レベルのものなのだろうかと思ってしまいます。

  そのへんのバランスがちょっとおかしくなっている。

  しかしそんなことを言い出したら、芥川賞のみならず、世界中すべての文学賞が「どれ
 だけの実質的価値がそこにあるのか?」という話になってしまいますし、そうなると話が
 前に進まなくなる。だって賃と名の付くもの、アカデミー賃からノーベル文学賃に至るま
 で、評価基準が数値に限定された特殊なものを除けば、その価値の客観的裏付けなんてい
 うものはどこにもないからです。けちをつけようと思えば、いくらでもつけられる。あり
 がたがろうと思えば、いくらでもありがたがれる。



  レイモンド・チャソドラーはある手紙の中で、ノーベル文学賞についてこのように書い
 ています。「私は大作家になりたいだろうか? 私はノーベル文学賃を取りたいだろうか?
 ノーベル文学賞がなんだっていうんだ。あまりに多くの二流作家にこの賃が贈られている。
 読む気もかき立てられないような作家たちに。だいたいあんなものを取ったら、ストック
 ホルムまで行って、正装して、スピーチをしなくちゃならない。ノーベル文学賃がそれだ
 けの手間に値するか? 断じてノーだ」

  アメリカの作家ネルソン・オルグレン(『黄金の腕を持った男』『荒野を歩け』)はカ
 ート・ヴォネガットの強い推薦を受けて、1974年にアメリカ文学芸術アカデミーの功
 労賃受賞者に選ばれたのですが、そのへんのバーで女の子と飲んだくれていて、授賃式を
 すっぽかしました。もちろん意図的にです。送られてきたメダルをどうしたかと尋ねられ
 て、「さあ……どこかに投げ捨てたような気がする」と答えました。『スタッズ・ターケ
 ル自伝』という本にそんなエピソード
が書いてありました。

  もちろんこの二人は過激な例外なのかもしれません。独自のスタイルと、一貫した反骨
 精神を
持って人生を生きた人たちですから。しかし彼らが共通して感じていたのは、ある
 いは態度によ
って表明したかったのはおそらく、「真の作家にとっては、文学賞なんかよ
 り大事なものがいく
つもある」ということでしょう。そのひとつは自分が意味のあるもの
 を生み出しているという手
応えであり、もうひとつはその意味を正当に評価してくれる読
 者が――数の多少はともかく――
きちんとそこに存在するという手応えです。そのふたつ
 の確かな手応えさえあれば、作家にとっ
ては賞なんてどうでもいいものになってしまう。
 そんなものはあくまで社会的な、あるいは文壇
的な形式上の追認に過ぎません。

  しかし世間の人々は多くの場合、具体的なかたちになったものにしか目を向けないとい
 うこと
も、また真実です。文学作品の質はあくまで無形のものですが、賞なりメダルなり
 が与えられる
と、そこに具体的なかたちがつきます。そして人々はその「かたち」に目を
 向けることができま
す。そのような文学性とは無縁の形式主義が、そしてまた「賞を与え
 てやるから、ここまで取り
に来なさい」という権威側の「上から目線」が、チャンドラー
 やオルグレンを必要以上に苛立た
せたのではないでしょうか。

  僕もインタビューを受けて、賞関連のことを質問されるたびに(国内でも海外でも、な
 ぜかよく質問されます)、「何より大事なのは良き読者です。どのような文学賞も、勲章
 も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味
 を持ちません」と答えることにしています。自分でも飽き飽きするくらい何度も何度も繰
 り返し、同じ答えを返しているのですが、ほとんど誰もそういう僕の言い分には本気で耳
 を貸してくれないみたいです。多くの場合無視されます。

  でも考えてみたら、これはたしかに実際、退屈な回答かもしれませんね。行儀の良い「
 表向きの発言」みたいに聞こえなくもない。自分でも時々そう思います。少なくともジャ
 ーナリストが興味をそそられる類のコメントではない。しかしいくら退屈でありふれた回
 答であっても、それが僕にとっては正直な事実なのだから仕方ありません。だから何度で
 も同じことを繰り返し口にします。読者が千数百円、あるいは数千円の金を払って一冊の
 本を買うとき、そこには思惑も何もありません。あるのは「この本を読んでみよう」とい
 う(たぶん)率直な心持ちだけです。

  あるいは期待感だけです。そういう読者のみなさんに対しては、僕は心から本当にあり
 かたいと思っています。それに比べれば――いや、あえて具体的に比較するまでもないで
 しょう。
  あらためて言うまでもありませんが、後世に残るのは作品であり、賞ではありません。
 二年前の芥川賞の受賞作を覚えている人も、三年前のノーベル文学賞の受貧者を覚えてい
 る人も、世間にはおそらくそれほど多くはいないはずです。あなたは覚えていますか? 
  しかしひとつの作品が真に優れていれば、しかるべき時の試練を経て、人はいつまでも
 その作品を記憶にとどめます。



  アーネスト・ヘミングウェイがノーベル文学賞をとったかどうか(とりました)、ホル
 ヘールイス・ボルヘスがノーベル文学賞をとったかどうか(とったっけ?)、そんなこと
 をいったい誰が気にするでしょう? 文学賞は特定の作品に脚光をあてることはできるけ
 れど、その作品に生命を吹き込むことまではできません。いちいち断るまでもないことで
 すが。芥川賞をもらわなくて損したことが何かあったか? ちょっと頭を巡らしてみたん
 ですが、それらしきことはひとつも思いつけませんでした。じゃあ得をしたことはあった
 か? どうだろう、芥川賞をもらわなかったせいで得をしたということも、べつになかっ
 たような気がします。

  ただひとつ、自分の名前の横に「芥川賞作家」という「肩書き」がつかないことについ
 てはいささか喜ばしく思っているところがあるかもしれません。あくまで予想に過ぎない
 のですが、いちいち自分の名前のわきにそんな肩書きがついたら、なんだか「おまえは芥
 川賞の助けを借りてこれまでやってこれたんだ」みたいなことを示唆されているようで、
 いくぶん煩わしい気持ちになったんじゃないかという気がします。今の僕にはとくにそれ
 らしい肩書きが何もないので、身軽というか、気楽でいいです。ただの村上春樹である(
 でしかない)というのは、なかなか悪くないことです。少なくとも本人にとっては、そん
 なに悪くないです。 

  でもそれは芥川賞に対して反感を持っているからではなく(繰り返すようだけど、そん
 なもの僕の中にはまったくありません)、自分があくまで僕という「個人の資格」でもの
 を書き、人生を生きてきたことについて、僕なりにささやかな誇りを持っているからです。
 たいしたものじゃないかもしれないけど、それは僕にとっては少なからず大事なことなの
 です。



  あくまで目安に過ぎないのですが、習慣的に積極的に文芸書を手に取る層は、総人口の
 おおよそ五パーセントくらいではないかと僕は推測しています。読者人口の核とも言うべ
 き五パーセントです。現在、書物離れ、活字離れということがよく言われているし、それ
 はある程度そのとおりだと思うんだけど、その五パーセント前後の人々は、たとえ「本を
 読むな」と上から強制されるようなことがあっても、おそらくなんらかのかたちで本を読
 み続けるのではないかと想像します。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』みたいに、
 弾圧を逃れて森に隠れ、みんなで本を暗記しあう――とまではいかずとも、こっそりどこ
 かで本を読み続けるんじゃないかと。もちろん僕だってそのうちの一人です。

  本を読む習慣がいったん身についてしまうと-そういう習慣は多くの場合若い時期に身
 につくのですが―それほどあっさりと読書を放棄することはできません。手近にYouTube
  があろうが、3Dビデオゲームがあろうが、暇があれば(あるいは暇がなくても)進んで
 本を手に取る。

                                     「第三回 文学賞について」
                              村上春樹 『職業としての小説家』 


今回もとりたてて食いつくところがなかった。次回はこの続きと、「第四回 オリジナリティ
について」に入る。


                                   この項つづく






  

 

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