極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

漂流する日本

2015年09月28日 | 環境工学システム論

 

 

    価値観がゼロであろうが、百であろうがどちらでも、一人一人の
        個性に従って自分の本音を言ったってだれからもとがめられる筋
        合いはない、というのが今の社会。それは別に遠慮することはな
        いと僕は思っています。

                                                   吉本 隆明 / 『国家と宗教のあいだ』 

 

 



● 折々の読書 『職業としての小説家』8


中国プラントの仕事を終え、仕事休みの午後、家でアサヒの壜ビールやあるいは35年に米国で、6
5年に日本初めて販売された缶ビールを飲み、81年初めてイタリア最大の調理師学校(CRFP)教授
フランチェスコの技術伝授の伊藤ハムのピッツアを食べながら村上春樹の小説を読むのが楽しみだっ
た時がしばらくつづいたが、コンテンポラリーな軽妙な『風の歌を聴け』と出会うことがなければこ
の生活スタイルはなかっただろうと思う。『羊をめぐる冒険』を経て村上の五作目の『ノルウェイの
森』までそれはつづいたが、それをやめた理由についてはあとにするとして、今夜も読み進めよう。


  ときどき「おまえの文章は翻訳調だ」と言われることがあります。翻訳調というのが正確にど
 ういうことなのか、もうひとつよくわからないのですが、それはある意味ではあたっているし
 る意味でははずれていると思います。最初の一章分を現実に日本語に「翻訳した」という字義通
 りの意味においては、その指摘には一理あるような気もしますが、それはあくまで実際的なプロ
 セスの問題に過ぎません。僕がそこで目指したのはむしろ、余分な修飾を排した「ニュートラル
 な」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を
 書くことではなく、いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかっ
 たところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」こと
 だったのです。そのためには捨て身になる必要がありました。極言すればそのときの僕にとって、
 日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかったということになるかもしれません。

  それを日本語に対する侮辱ととる人も、中にはいるかもしれません。実際にそういう批判を受
 けたこともあります。しかし言語というのはもともとタフなものです。長い歴史に裏付けられた
 強靭な力を有しています。誰にどんな風に荒っぽく扱われようと、その自律性が損なわれるよう
 なことはまずありません。言語の持つ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、その有
 効性の幅をあたう限り押し広げていくことは、すべての作家に与えられた固有の権利なのです。
  そういう冒険心がなければ、新しいものは何も生まれてきません。僕にとっての日本語は今で
 も、ある意味ではツールであり続けています。そしてそのツール性を深く追求していくことは、
 いくぶん大げさにいえば、日本語の再生に繋がっていくはずだと信じています。

  とにかく僕はそうやって新しく獲得した文体を使って、既に書き上げていた「あまり面白くな
 い」小説を、頭から尻尾までそっくり書き直しました。小説の筋そのものはだいたい同じです。
 でも表現方法はまったく違います。読んだ印象もぜんぜん違います。それが今ある『風の歌を聴
 け』という作品です。僕はこの作品の出来に決して満足したわけではありません。書き上げたも
 のを読み直してみて、未熟で、欠点の多い作品だと思いました。自分か表現したいことの二割か
 三割くらいしか書けていない、と。でも初めての小説をなんとか、いちおう納得のいく形で最後
 まで書き上げたことで、自分はひとつの「大事な移動」を為し終えたのだという実感がありまし
 た。言い換えれば、あのときの  epiphany  の感覚に、ある程度自分なりにこたえることができた、
 ということになるかもしれません。

  小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」と
  いうのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、
  頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、
 素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。とにかく真夜中にキッチン・テーブルに向か
 って、新しく獲得した自分の文体で小説(みたいなもの)を書いていると、まるで新しい工作道
 具を手にしたときのように心がわくわくしました。とても楽しかった。そして少なくともそれは、
 僕が三十歳を前にして感じていた心の「空洞」のようなものを、うまく満たしてくれたようでし
 た。

  最初に書き上げたその「あまり面白くない」作品と、今ある『風の歌を聴け』を並べて比較対
 照できればわかりやすいのでしょうが、残念ながら「あまり面白くない」作品の方は破棄してし
 まったので、それはできません。どんなものだったか、自分でもほとんど覚えていません。とっ
 ておけばよかったんだけど、こんなもの要らないと思って、あっさりゴミ箱に放り込んでしまい
 ました。僕に思い出せるのは、「それを書いているときあまり楽しい気持ちにはなれなかった」
 ということくらいです。そういう文章を書くことが楽しくなかったんですね。それはその文体が、
 自分の中から自然に出てきた文体ではなかったからです。サイズの合わない服を着て運動してい
 るのと同じです。

  「群像」の編集者から「村上さんの応募された小説が、新人賞の最終選考に残りました」とい
 う電話がかかってきたのは、春の日曜日の朝のことです。神宮球場の開幕戦から一年近くが経ち、
 僕は既に三十歳の誕生日を迎えていました。たぶん午前十一時過ぎだったと思うのですが、仕事
 が前の日の夜遅くまであったので、そのときまだぐっすり眠っていました。寝ぼけていて、受話
 器をとったものの、相手がいったい何を僕に伝えようとしているのかうまく理解できません。僕
 は、本当に正直な話、その原稿を「群像」編集部あてに送ったことすらすっかり忘れていたから
 です。それを書き上げ、とりあえず誰かの手に委ねてしまったことで、僕の「何かを書きたい」
 という気持ちはもうすっかり収まっていました。いわば開き直って、思いつくままにすらすら書
 いただけの作品だったから、そんなものが最終選考に残るなんて予想してもいませんでした。原
 稿のコピーさえとっていません。だからもし最終選考に残っていなかったら、その作品はどこか
 に永遠に消えてなくなってしまっていたはずです。そして僕はもう小説なんて二度と書いていな
 かったかもしれません。人生というのは、考えてみれば不思議なものです。

  その編集者の話によれば、僕のものを含めて全部で五篇の作品が最終選考に残ったということ
 です。「へえ」と思いました。でも、眠かったこともあって、あまり実感は湧かなかった。僕は
 布団を出て顔を洗い、着替えて、妻と一緒に外に散歩に出ました。明治通りの千駄谷小学校のそ
 ばを歩いていると、茂みの陰に一羽の伝書鳩が座り込んでいるのが見えました。拾い上げてみる
 と、どうやら翼に怪我をしているようです。脚には金属製の名札がつけられていました。僕はそ
 の鳩を両手にそっと持ち、表参道の同潤会青山アパートメント(今は「表参道ヒルズ」になって
 いますが)の隣にある交番まで持って行きました。それがいちばん近くにある交番だったからで
 す。原宿の裏通りを歩いて行きました。そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく
 震えていました。よく晴れた、とても気持ちの良い日曜日で、あたりの木々や、建物や、店のシ
 ョーウィンドウが春の日差しに明るく、美しく輝いていました。

  そのときに僕ははっと思ったのです。僕は間違いなく「群像」の新入賞をとるだろうと。そし
 てそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。すごく厚かましいみたいですが、
 僕はなぜかそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に
 近いものでした。
  僕は三十数年前の春の午後に神宮球場の外野席で、自分の手のひらにひらひらと降ってきたも
 のの感触をまだはっきり覚えていますし、その一年後に、やはり春の昼下がりに、千駄谷小学校
 のそばで拾った、怪我をした鳩の温もりを、同じ手のひらに記憶しています。そして「小説を書
 く」意味について考えるとき、いつもそれらの感触を思い起こすことになります。僕にとってそ
 のような記憶が意味するのは、自分の中にあるはずの何かを信じることであり、それが育むであ
 ろう可能性を夢見ることでもあります。そういう感触が自分の内にいまだに残っているというの
 は、本当に素晴らしいことです。

  最初の小説を書いたときに感じた、文章を書くことの「気持ちの良さ」「楽しさ」は、今でも
 基本的に変化していません。毎日朝早く目覚めて、キッチンでコーヒーを温め、大きなマグカッ
 プに注ぎ、そのカップを持って机の前に座り、コンピュータを立ち上げます(ときどき四百字詰
 原稿用紙と、長く愛用していたモンブランの太い万年筆を懐かしく思いますが)。そして「さあ、
 これから何を書こうか」と考えを巡らせます。そのときは本当に幸福です。正直言って、ものを
 書くことを苦痛だと感じたことは一度もありません。小説が書けなくて苦労したという経験も
 (ありかたいことに)ありません。というか、もし楽しくないのなら、そもそも小説を書く意味
 なんてないだろうと考えています。苦役として小説を書くという考え方に、僕はどうしても馴染
 めないのです。小説というのは、基本的にすらすらと湧き出るように書くものだろうと思います。

  僕は何も、自分を天才だと思っているわけではありません。何か特別な才能が自分に具わって
 いると、あらためて考えたこともありません。もちろんこうして三十年以上、専業小説家として
 メシを食っているわけだから、まったく才能がないということはないはずです。たぶんもともと
 何かしらの資質、あるいは個性的な傾向みたいなものはあったのでしょう。でもそんなことにつ
 いて自分であれこれ考えたって、何も利するところはないと思っています。そんな判断は他の誰
 かに――もしそういう人がどこかにいるとすればですが--jまかせておけばいいのです。

  僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばん大事にしている
 のは)「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率
 直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、
 このように小説家になることができました。あくまで結果的にではありますが、僕にはそういう
 「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものご
 との有り様に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与ええられた資格を――ちょうど傷ついた
 鳩を守るように――大事に守り、こうして今でも小説を書き続けていられることをとりあえず喜
 びたい。あとのことはまたあとのことです。

                                     「第二回 小説家になった頃」
                                  村上春樹 『職業としての小説家』 

                                     この項つづく 
                             

 

  

【再エネ百パーセント時代: 時代は太陽道を渡る 15 】 

● データで見る日本のエネルギー政策の孤立性と特異性

 前回段で「ベストミックス」という用語と概念がいかに世界の潮流から乖離した日本固有の発想で
あるかが安田陽氏により論じられた
が、今夜はひきつづき、国際比較分析を進め、日本のエネルギー
政策(特に電源構成のあり
方)がいかに世界から孤立しているかをデータとエビデンスで示していく
上図5、6は前回と同様、90年から13年(現在統計データが入手可能な最新の年)までの電源構成
を時系列
で並べたもので、今回は図5にドイツ、図6に欧州(ただし経済協力開発機構(OECD)
に加盟している欧州25ケ国の
平均)のグラフを示す。前回は変動性再エネ(VRE)の導入が著し
いデンマーク、ポルトガル、スペインの3ヶ国を例にったが、ドイツや欧州全体もこの3ケ国ほどで
はないものの、2000年以降少しずつ再エネ(特に風力と太陽光)の比率(導入率)が増加しており、
電源構成を徐々にかつ確実に変革させてきたことがグラフから読み取れる。

 このように再エネを増加させ、化石燃料を減らす努力を行っているのは何も限られた特殊な国だけ
の試みではなく、世界的な傾向となっている。このことを客観的に視覚化するために、以下では複数
の相関グラフを作成し、より高度な分析を進める。



● 相関図による国際比較分析

 上
図7は横軸に90年と13年の火力発電導入率の差を、縦軸に同再エネ導入率の差を出して各国
のデータをプロッ
トしたもの。図を一瞥してわかるよう、原点から左上ヘプロットが並んでいる分布
傾向が見てとれるが、これ
は「どの国も火力発電の比率を下げながら再エネの比率を上げてきた」と
いう傾
向を示しす。特にデンマークは左上の領域にダントツで飛び抜けており、前述で示したように
90年代にはほ
とんど化石燃料だけで占められていた電源構成を、10年代まで30年かけて劇的に
変革した、ということをよく表している


 一方、図7には比較のために、日本の
10年(原発事故直前)、13年(原発事故後入手可能な最
新のデータ)30
年のデータもプロットしている。まず10年のプロットを見ると、90年に対する
変化幅がマイナス、すなわち、
再エネの比率を下げていることがわかります。これは他の主要先進国
の傾向
と比較すると、特異的な現象であると言える。日本は原発事故前まで、再エネの比率を上げる
努力をしてこなかっ
たばかりか、むしろ結果的に下げてしまった(すなわち再エネ以外の電源の比率
を上げることに専心していた)ことがわかる。

 さらに
、日本は11年の原発事故の後、火力発電を増加させざるを得なかったが、他国並みに早い
年代から再
エネを推進していれば、その分火力の増加もこれほど極端ではなかった可能性もあること
がこのグラフから推測できる。30年の目標案でも、「現在のフランス・米国より少しマシ」といっ
た程度に留まり、主要先進国各国の現在の実績(すなわち、30年から振り返ると15年以上も前の
各国実績)に遠く及ばない。というポジションであることが明らかになる。

● 石炭と再エネの相関に注目

 各国が火力の比率を下げ、再エネを増加させる努力を行っているのは、ひとえに地球温暖化防止(
最近では「気候変
動緩和」と呼ばれることの方が多い)のための二酸化炭素排出量削減が目的として
いる
。それに加えエネルギー輸入依存率の低減といったエネルギー安全保障の観点を重視するす。二
酸化炭素排出量削減という点で
は、化石燃料の中でも最も二酸化炭素排出量が多く気候変動枠組条約
締約国会議
(COP)でも削減が強く叫ばれている石炭火力に着目して、上図7と同様の分析を行う。

 上図8は石炭火力と再エネの相関に着目した90年比の増減ポイントの相関グラフです。90年か
ら13年の約30年間で石炭の比率を増加させている国はほとんどない。この理由としては、昨夜の
図2の欧州全体の電源構成の変遷を見るとわかる。欧州の多くの国では2000年前後からガス火力
を新設し、石炭火力の比率を下げる努力を行ってきたからだと理解できます。
 一方、下図4のプロットの分布状況から一瞥して明らかな通り、日本のみが突出し(グラフの右下
の領域に位置しています。すなわち日本は主要先進国の中で唯一「再エネを増やさず石炭を大きく増
やしている」国であることがわかる。さらに、30年の目標でも石炭は大きく増えたままとなってお
り、日本は石炭を削減する意思がない、とも読み取れる

 

● 世界のトレンドと日本のポジション

 さらに、90年からの各国の電源構成の変革の履歴に関しても、相関グラフで分析すると、下図9
は横軸に火力発電導入率、縦軸に再エネ導入率を取った相関グラフ。各国の90年から

5年ごとの履歴をプロットしたもの(最終年のみ最新データである13年をプロット)。図(a)に
変動性再エネ(VRE)の導入率トップ5の国(デンマーク、ポルトガル、スペイン、アイルランド、
ドイツ、図(b)にそれ以外の主要先進国をプロットしている。この図9から、各国とも年を追うごと
にグ
ラフの右下から左上ヘプロットが移動していく傾向が見てとれる。特にデンマーク・ポルトガル・
アイルランド
の3ヶ国は原子力発電を持たないため、再エネが増えた分だけそのまま火力が減ること
で左上がりの45度線上にプロ
ットがきれいに並ぶことがわかる。

 それ以外の国も増減の大きさには差が
あるものの、いずれもグラフの左上に移動する傾向を示す。
一方、日
本のプロット点の移動を見ると、他国と逆方向へ動いている。一番右のプロットである原発
事故後の13
年を例外と見たとしても、90年から10年まではほぼ同じ位置に留まり、日本以外の
他の先進国とは明ら
かに異なる傾向となっている。同様に石炭火力と再エネの相関も90年からの履
歴を取ってみると、図6のようにな。ここでもほとんどの国がグラフ左上ヘプロットが移動する履歴
(すなわち石炭を下げ、再エネを上げる傾向)が見て取れる。なお、10年から13年にかけていくつ
かの欧州諸国で石炭の導入率が若干上昇する傾向を見せており、ここだけを取り出し、「再エネが増
えているのに石炭が増えており、再エネは二酸化炭素削減の役に立たない」とする主張も一部に見ら
れる
が、90年からの長期的傾向を見れば、このような主張が近視眼的な分析であることが一目瞭然
となる。

 なお、この欧州の石炭の増加傾向の主原因は、再エネの増加というよりシェールガスに押された米
国産の安価な石炭の流人によるものだと推測されると安田氏は推測している。


下図10における日本の傾向に注目すると、グラフ右側へ水平移動している(すなわち再エネを増や
さず石炭を増やす)という傾向がはっきり見て取れれす。日本以外のすべての国がグラフ左上へ移動
する傾向を示すのとはまったく対照的に、日本のみが極めて特異な傾向を見せていることが、この相
関グラフの分折で明らかである。



これは、風力発電の導入量の数量をみると明らかである。先日、新エネルギー・産業技術総合開発機
構(NEDO)によると、3月末時点の日本の風力発電設備の導入は発電規模を示す出力ベースで2
93万キロワットだった。設置数は2034基。前年と比べ発電規模で24万キロワット、設置数で
113基それぞれ増えた。固定価格買い取り制度開始前の12年3月時点との比較では38万キロワ
ット、168基の増加にとどまる。2000万キロワットの設置がある太陽光発電に比べると導入ペ
ースは遅いと報告しているが
(下図/上)、世界は370ギガワット(14年実績、下図/下)だか
日本のそれはわずか、0.8%と極端な特徴パラメータとなっている。

 

● 日本はどこへ向かうべきか?

  以上のように、再エネと火力発電(特に石炭火力)の相関グラフを用いた分析
から明らかになった
ことをまとめると、
主要先進国はどの国も火力発電(とりわけ石炭火力)を下げながら再エネを増
す努力を行ってきている傾向がはっき
りと読み取れる。火力低減や再エネ増加の度合いについては各
国でスピード感
が異なるものの、その方向性にほとんど違いはない。それに対し、日本のみ、再エネ
を増
やさず石炭を増やすという、他の先進国の傾向から大きく乖離した特異性を見せている、という
ことがわかる。

 このように、統計データを用いて客観的な国際比較分析を行ってみると、いかに日本のエネルギー
政策が他の主要先進国の動向から乖離しており、特異性と孤立性を際立たせているかが浮かび上がり
ます。もちろん、必ずしも他国に追従せず独自路線を歩むという選択肢もありますが、その場合でも
特異性や孤立性ではなく、他国から「やはり日本の取り組みはすばらしい」と技術力や姿勢を賞賛さ
れるような独自性が好ましい。現在日本で盛んに議論されているエネルギーミックス(電源構成)は、
今回分析したように国際的潮流から俯瞰すると特異で孤立しており、国際社会の一員としての日本の
立ち位置を認識して議論しないと、国の将来を見誤る可能性があると安田氏はこのように解説する。
しかし、これに対し、現自民党政権は、素直に耳を傾け反応するだろうか?答えは明確である。

                                                                              この項了




今日は午後1時過ぎ、宗安時で母の初回忌・納骨式を無事すませる。夜はスーパームーンの特別な中
秋の名月を迎えた
。ただ、月見団子は土曜日に彼女が食べろと言うことですませている。

菩提寺の控え室での待ち時間、奥にある納牌堂をのぞくと、日光東照大権現家康の位牌も納められる
ことを知る(施錠されているので現認できず)。これも大総督の井伊家の所以かと感心する。

                                          合掌 

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