極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

デフレギャップとギリシャ国債

2011年06月26日 | 政策論



 




【打ち出の小槌論】

わたしは、新自由主義・新古典派やこの手の財政規律派官僚やファイナンスアドバイ
ザーは貨幣管理あるいは資本管理や操作技術に長けていても‘貨幣’そのものの深玄
を知らないのではとかねてから思っていた。だからこそ、堀江貴文、木村剛、村上世
彰などをマスコミなどがさんだん持ち上げながら、調活費問題(裏金)にはじまる検
察の国策逮捕劇にあって溺れる犬扱いに至っては沈黙することでしか対応できなかっ
たし、3年前のリーマンショックに至っても敢然と解説し見識を述べる者もいなかっ
たと記憶している。

例えば、周知の通りマルクス経済学では、価値=貨幣ではない。発展した商品生産社
会では、すべての商品の価値は貨幣の一定量によって表現されるが、このことは価値
=貨幣を意味しない。たしかに、貨幣はいかなる商品とも交換可能であり、すべての
商品の価値を表現できる等価物とみなされ、貨幣そのものが価値である、とする観念
が生まれる(=貨幣の物神性)。等価関係におかれた他の商品の使用価値量でしか貨
幣は自己表現できない。他のすべての商品の価値を表現するときのみ特殊な役割の商
品として貨幣となり、他のすべての商品との交換可能性が与えられると。勿論、歴史
的には、金が貨幣の役割を担ってきた。貨幣に一般的等価物の機能を与え、貨幣の使
用価値量(=金の重量)でもって、他のすべての商品の価値を表現する。商品生産社
会で必然的に発生する社会的観念だ。等価交換の基準となる価値という存在は、商品
の生産に必要な労働量により、価格の変動が規制されることを意味する。これが価値
法則である。直接には目に見えず価格として現象しながらも、価格の変動を規制する
法則の価値、これがマルクス経済学における価値であり、マルクス経済学では近代経
済学と違い、価値と価格を厳密に区別し、価値から貨幣と価格を説明する。

これに対し、ケインズは、国全体で生産や消費や投資に何が起きているかを、いった
ん貨幣をはさまずに考え、有効需要の原理を思いついた。このように、貨幣なしに経
済のマクロな構造を分析した上でケインズは、改めて、貨幣の役割を考察することに
戻っている。このようなプロセスを経たことでケインズは、経済の中で貨幣がいかに
特異な存在であるか熟知していた。物理学者が重力や摩擦がない理想空間での運動法
則を理解したあとで初めて、地上での重力や摩擦の法則の特殊性を掌握していたこと
と同じようにだ。そして、生産に従事した貢献分として受けた取った貨幣を支払って、
企業部門から生産物を購入する。それは有効需要を構成する消費の額だけ行われ、残
る貨幣から、貯蓄行動を行う(証券市場で株を買ったり、債券市場で債券を買ったり
する)。この金融部門を通じて企業に提供された貨幣は、それを受け取った企業にと
って、投資のための財購入の資金にあてられることになる。このように、国民の得た
貨幣は2つの経路をへて、企業部門の生産物と交換され、企業部門に流れ戻っていく
ことになると。

1930年、ジョン・メイナード・ケインズは『貨幣論』全二巻を出版。この中で彼は信
用に基づくヴィクセル的信用サイクル理論を提唱している。ケインズはここで利子の
流動性選好の萌芽を明らかにたが、フリードリッヒ・フォン・ハイエクが『貨幣論』
を批判。こうしてケインズ/ハイエク論争がケンブリッジ-L.S.E戦争としてはじまる。
しかし、歴史は無言であるが雄弁であるとは誰がいったか、他ならぬこのわたしだ。
小渕内閣の首相諮問機関「経済戦略会議」に竹中平蔵(経済学者、のちに総務大臣等)
らとともに参加し、1990年代には構造改革推進の立場から政策決定に大きな影響力を
持ちながら、2008年に著書『資本主義はなぜ自壊したのか』で新自由主義や市場原理
主義との決別を表明した中谷巌は、このハイエクの思想を密輸入する、あるいは盲信
することで手酷いしっぺ返しを受けることになった。このことを松岡正剛は次のよう
にたしなめる。

「これをよく言えば、ハイエクの自由はどんな力とも富とも与(くみ)さ
ない自由だ
ということでは、たいへんナチュラルである。しかしながら、このような自由は個人
に付与されたミニマム(あるいはマキシマム)なものとしてはナチュラルでピュアで
あったとしても、さて、これが市場を出入りするときの自由性を保証している証拠な
のかといえば、これはあやしいと言わざるをえない。つまり自由資本主義とか資本主
義的自由というものとハイエクの自由とが結びつくのは、理屈のうえでも考えにくい
のだ。とくに市場に出入りするのが企業や組織であるばあい、それがハイエクの自由
によって資本主義的自由を成立させているとは言いにくい
。むしろ資本主義的自由の
名のもとに隠れて、企業も組織も投資家も法すれすれをすりぬけて利得に走っている
から、それが不安定であれ市場の自由を保証していると言ったほうが実態に近いはず
なのだ。というわけで、どうもハイエクは自由を正当化しすぎたか、あるいは、自由
の正当性をハイエク自身のワンウェイ社会理論のために純化しすぎたとみなされるの
だ」(千夜千冊「フリードリヒ・ハイエク」2009.12.27)と。

 

  ただし、エコノミスト諸氏にとっては周知のことであろうが、新自由主義・新古
 典派経済学グループのカリスマ的な指導者ルーカス教授の「ルーカス型総供給方
 程式」の理論によれば、市場経済では、「自然失業率」に対応した水準のところ
 で、経済は成長しえなくなり、上にも下にも行けない、にっちもさっちもいかな
 い状態になってしまって、総需要が増えただけ、物価が上がるにすぎないという
 「定理」になっている。つまり、ケインズ的政策によるマクロ的有効需要政策は
 無効だと、決めつけられてしまっているのである。このルーカス理論は、新自由
 主義・新古典派のパラダイムで支配されてきた過去四半世紀のわが国の経済学界・
 経済論壇では、ほとんど神格化されてきた(中略)ルーカス教授のこのような奇
 妙な結論は、需要が増えても減っても、企業は、そのような需要の変動に応じて
 生産設備の稼働率を変えて調整・対応するということを、全く行なわないものと
 するという、おそろしく非現実的な仮定を暗黙のうちに設定したことによって、
 トリック的に導き出されたミスリーディングな定理でしかないのである。そのこ
 とを見破って、私(丹羽)が、需要の変動に応じて、企業は、雇用量とともに資
 本設備の稼働率も変化させて対応するものとするという、現実的かつ一般的に妥
 当性の高い想定を置いて、ルーカス体系を数理経済学的に再構成してみた。そう
 してみたところ、総需要が増えれば、それにまさしく応じて経済は成長し(すな
 わち、実質GDPが成長し)、「自然失業率」なるものも、どんどん低くなって、
 経済は完全雇用・完全操業の状態に近づいていくということがわかったのである。

                    丹羽春喜『ルーカス理論の非現実性


 現在のわが国は、破綻の危機にひんしている政府財政の再建、経済のマクロ的停
 滞状態からの脱却による国力の振興と貧富の格差問題の克服、年金制度など社会
 保障システムの整備、自然環境の改善、ハブ空港の建設など社会資本のいっそう
 の充実、そして、なによりも、防衛力の拡充、等々、の重要な国家政策の遂行を
 急がねばならない状況にある。近時、「もはや、国の政策には頼らない!」とい
 ったことが叫ばれ、あたかも、そのようなスタンスが美徳であるかのごとく、も
 てはやされている。しかし、自由放任的な市場経済のもとでの民間の個人や個々
 の企業がどのように奮励努力しようとも、それだけでは、これらの重要な国策の
 実現は、ぜったいに達成されはしない。すなわち、どうしても、政府による財政・
 金融政策──事実上のケインズ的政策──の大規模な発動が必要なのである。

           丹羽春喜『深憂! 重要国策の遂行が不可能にされている』

 
政府の公共投資などによる財政支出の増加によって、政策的に人々のマネタリーな所
得が高められて消費支出が増えても、上述のごとく、それには「生産力向上」の効果
がともなっていないとして、景気回復や経済成長を促進する効果が無いと主張する「
反ケインズ」主義者たちの奇妙な見解は、つきつめていくと、自由企業制度に基づく
市場経済システムの主要な幾つかのメリット、そのなかでも、とくに「消費者主権」
のメカニズムを無視・忘却していることから来ているように思われる。
1つの理論が
上手くいけそうに思えるときでも、誤差(=誤謬)が皆無でないとするのが多変量解
析などの解析学の基本原則だと丹羽春喜もケイジアンでないわたし(たち)-もっと
も、あの偉大な? レーガン大統領の経済政策を‘軍事ケインズ主義’と看破してい
た数少ない日本人の経済学の素人の一人だったと自負しているが-わかった上での話
だが、新自由主義のどこが良いのか、どこがわるいのかは断片的であるこのブログで
も記載してきた
。例えば「高速道路料金無料化」「法人税引き下げ」(かわりに所得
税・消費税へのシフト)などの‘新楽市楽座’政策の提案であり、少子化対策として
子ども手当による所得再配分の促進(社会保障制度の拡充=社会主義的政策)の双方
同時展開(プロジェクト‘双頭の狗鷲’)などで金融・財政政策はリフレ政策、また
エネルギー政策として太陽光発電の推進(=贈与経済政策)なども合わせて提案して
きた。その意味で丹羽春喜教授の理論的、思想的な骨組みの提供は、わたし(たち)
には強力な後押しとなっている。

 市場経済システムが人類文明にもたらしている主要なメリットとしては、最も基
 本的には、

 
   (1)価格によって合理的な経済計算ができる
   (2)自動的な需給均衡作用がある
   (3)「消費者主権」の原理が作動する
   (4)為替レートを媒介とする自由貿易で国際分業の利益が得られる

 といったことを挙げることができるであろうが、このなかでも、とりわけ(3)
 の「消費者主権」の原理が、きわめて重要な役割をはたしている。

 どういうことかと言うと、市場経済とは、ありとあらゆる商品についての「人気
 投票」が、四六時中、行なわれている巨大な投票システムのようなものであると
 考えることができるのであり、人々が諸商品を購入するために支出する「お金」
 の一枚一枚は、いわば、投票切符のように機能しているということである。経済
 学の教科書で「ドル投票」(dollar ballot)のメカニズムとして解説されている
 ことが、これである。しかも、生産財・資本財の生産・建設も、突き詰めて考え
 てみると「究極的な最終財」としての消費財(サービスをも含む)を生産・供給
 するために行なわれるのであるから、結局、当該の経済社会においてどのような
 商品(消費財だけではなく生産財や投資財をも含めて)がどれだけ生産・供給さ
 れるかということは、「究極的な最終需要支出」にほかならないところの「人々
 (ならびに政府)の消費支出」によって決まってくるということである。これが、
 「消費者主権」の原理である。そして、上記の(1)価格による合理的な経済計
 算、(2)自動的な需給均衡作用、および、(4)為替レートを媒介とした自由貿
 易による国際分業も、この(3)の「消費者主権」の原理を促進・貫徹させるよ
 うな効果を発揮しつつ絶えず作用しているわけである。このことこそが、市場経
 済システムの最大のメリットなのである。

                丹羽春喜『消費者主権の原理を無視・忘却』 

ギリシャ国債の格付けが下がるということの意味は、ミクロでみれば不可避なことか
もしれないが、軍事的な、地租区画的な国家の枠組みを超えて共同体社会を構築して
いこうとする積極的な国民の意志を‘、大義’を掲げ、前進していこうとする勇気あ
る行動を称賛してやまない。そのことはまたマルクスもケインズも天国で肯首してく
れていると思っている。経済活動を限定的な思考枠やルールに当てはめ判断しようと
する余り、複雑系の中にある現実社会を己が世界観に閉じこめ支配する錯誤だけは避
けて欲しいと思うものである。

こんかいの大震災で、折角構築した防潮堤がいとも簡単に破壊された。しかしながら
この堤がなければもっと被害が大きかったという識者の発言は重い。これを蟷螂の斧
と蔑むなら議論の余地はない。道路にしろ、鉄道にしろ、この防潮堤にしろ「コンク
リーから人へ」のスローガンの下で切り捨てられるとしたなら、わたし(たち)は敢
然と反旗を翻すだろう。四半世紀前から比べ、道路にしろ、鉄道にしろ、この防潮堤
にしろ価値は増しているのである。それらの価値が市場競争を通して相対化され評価
されないとするならどうなるのだろう。先端経済学はその疑問に真摯に答えて欲しい
しと思うのである。

日本の国民の誰もがギリシャ周辺地中海諸国をゆったりと年金旅行でき、円がその旅
行先で落とされギリシャなどの周辺地中海諸国が豊かであれば仕合わせこの上ないと
思いつつこの項を了とする。

 

【補注:IS-LM曲線とは】

 

 

IS 曲線とは、財市場の均衡を達成する国民所得 Y と利子率 r の組み合わせを表した
グラフ。財市場の均衡とは、財市場における有効需要(消費+投資)と供給(三面等
価の原則により、国民所得に等しい)が一致することを指す。消費の定義は国民所得
-貯蓄なので需給が一致している点では投資と貯蓄が必然的に等しくなるというもも。

     有効需要 (Yd) = 消費 (C)+ 投資 (I)
     総 供 給 (Ys) = 国民所得 (Y)

C ≡ Y - 貯蓄 (S) だから、Y = C + S であって、財市場の均衡条件は、Yd=Ys
り C + I = C + S。すなわち I(投資)= S(貯蓄)。

利子率が下がれば、貯蓄するより投資するほうが収益性が高くなるので投資が増える。
他方で投資の増加分による乗数効果によって有効需要が増加する。これにより新しい
財市場の均衡点では、国民所得が増加することとなる。この貯蓄と投資が等しくなる
利子率と国民所得の組み合わせを示す曲線を IS 曲線という。この曲線は、縦軸に利
子率、横軸に国民所得をとれば、特別な場合を除いて右下がりの曲線になる。

LM曲線とは、貨幣市場の均衡を達成する国民所得 Y と利子率 r の組み合わせを表し
たグラフである。貨幣市場は貨幣の供給と貨幣の需要で成立している。貨幣供給量は
中央銀行(日本銀行)がコントロールしている貨幣(ハイパワードマネー)の大きさ
だけでなく、銀行の信用創造(貸出行動)の活発度にも依存して決定される。一方、
貨幣の需要は、ものを買う時に使うための取引需要(国民所得の増加関数)や、債券
保有による損失を防ぐために債券よりも貨幣として保有しようとする投機的需要(ま
たは資産需要、利子率の減少関数)で構成される。

     貨幣需要量 (L) = 取引需要 (L1) + 投機的需要 (L2)

貨幣市場の均衡条件は
 
     実質貨幣供給量 (Ms) = L(Y, r) = L1(Y) + L2(r)

国民所得が増えると、取引需要による貨幣の需要が高まる。このとき貨幣供給量一定
の下で貨幣の需給を一致(貨幣市場の均衡)させるためには、投機的需要による貨幣
の需要を減少させることが必要となる。これは債券価格が下落し、利子率が上昇する
ことによって達成される。このときの利子率と国民所得の組み合わせは、IS曲線と同
様に縦軸に利子率、横軸に国民所得をとれば、特別な場合を除いて右上がりの曲線と
なる。仮に経済が LM 曲線の左側にあるならば、利子率が高いため貨幣の投機的需要
が少ない、もしくは国民所得水準が低いため貨幣の取引需要が少ない。そのため貨幣
の超過供給が発生している。反対に、経済が LM 曲線の右側にある場合は、貨幣の超
過需要が発生している。

 

※「IS-LM曲線と現代マクロ経済学」
※「IS-LMのどこがケインズ的でないか—スラッファを媒介にした解明
※「IS-LM体系の動学分析とケインジアンマクロ経済政策
※「IS-LM分析の誤謬-ヒックスの間違いはこの世界にいかなる影響を与えたのか?」
※「インフレと景気循環のケインジアン動学とマクロ経済政策
※「ミクロ経済学入門
※「経済原論テキスト
※「経済思想史;ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes), 1883-1946
 

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