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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

昔の射程を長くとってみれば②

2015-10-23 23:48:07 | 雑文
(①からの続き)

次は、商店街を巡る議論について。
商店街が次々に潰れている現状を嘆き、ショッピングモールを非難する人達がいる。ショッピングモールの進出が、商店街をシャッター通りへと追いやっており、地域の交流の場を消滅させている、というのだ。この方々によれば、商店街はなくてはならない共同体の一種であるらしい。
だが、この問題も視点を長くとれば、見え方が違ってくる。
言うまでもないことだが、商店街は、人類の誕生と共にあったわけではない。歴史の流れの中で、ある時代から誕生したもののはずだ。小生は詳しいことは知らないのだが、江戸時代にはなかったはずで、とすると明治以降に誕生しており、人類の歴史の中では、それほど古くからあるわけではない。
では、商店街誕生以前のお店のあり方はどうだったか、というと、個人商店が単独で点在してあったはずだ。そこから、点在してるよりも、まとまってあったほうが集客が望めるぞ、って発送で商店街が生まれた。
すると、その時、その時代に、何が起きたか。
新しく誕生した商店街が、点在個人商店を次々に閉店に追いやる、という状況が生まれたはずだ。
ちょうど今の「商店街」対「ショッピングモール」と同じ、「点在個人商店」対「商店街」という図式があっただろう。
もし、商店街の消滅を嘆き、ショッピングモールに敵対する人々が、商店街が誕生した時代を生きていたら、商店街を憎み、点在個人商店を守るための論陣を張っていたものと推測される。
繰り返しになるが、小生は、商店街の歴史を、ちゃんと知っているわけではない。いつごろ誕生したか、その誕生がどのような影響を与えたかは、わからない。なので、上に書いたことは推測である。
だが、推測であっても、ショッピングモールを排斥し、商店街は何が何でも存続させねばならない、という主張が、偏った意見であることはお分かりいただけると思う。
この手の方々は、商店街を守りたい気持ちが先行するあまり、めちゃくちゃな論法を繰り出すことが多い。代表格は、やはり『下流社会』でお馴染み三浦展だろう。三浦は、上野千鶴子との対談で、次のように述べている。


県の商工課が地元の商店街を調べると、賞味期限切れのものをいっぱい売っていたとか、お店に入ったら奥からおじいさんが、「なんだ!」と言ったとか、そういうことが調査されて、「ジャスコ」が来たら、サービスの悪い商店街がつぶれるのはあたりまえと、結果報告される。(中略)
でも、社会に出たら上司に「いらっしゃいませ。こんにちは!」って言われるわけはないし、「なんだ馬鹿!」とか、「コラ!」とか言われるのがあたりまえですよ。(中略)だから商店街に行ったら、「なんだ!」って言うおじいさんがいるのはあたりまえのことで、客の方がペコペコして買う店があったっていいと、僕は思います。
(三浦展・上野千鶴子『消費社会から格差社会へ――中流団塊と下流ジュニアの未来』河出書房新社)


「なんだ!」と怒鳴られるような店が、あっていいか否か、と言えば、あっていい、と思う。そこはまあ、経営者の自由というか、「ウチはこれで行く」という判断であれば、どうぞご自由に、という他ない。
だが、経営者の自由と同様に、客の側にも店を選ぶ自由がある。頭を下げてまで買い物したい、と思う人はまずいない。
三浦は、会社に入れば上司に怒鳴られて当たり前、と言う。確かにそれはその通りだ。怒られる立場、新人という立場を経て、人は社会の一員となる。社会人になるためには、誰しもがくぐり抜けねばならないステップである。その意味で、「上司に怒られる」のは、選ぶことができない。
でも、お店は選ぶことができるのである。「選べるもの」と「選べないもの」を、同列に並べ立てて論じることの不自然さに、三浦は気付いていない。
これ以外にも三浦は、商店街とショッピングモールの問題に関して、思わず「んなアホな」とツッコミたくなるような理論を展開しているのだが、それらの主張に共通して言えるのが、「商店街の悪いところには目をつむって良い所だけを挙げ、逆にショッピングモールは良い所を無視して、悪い所だけ列挙している」ということだ。(その一つ一つを論じると煩雑になってしまうので、興味のある向きは、同氏の『ファスト風土化する日本』を読まれたし)
もちろん、商工課のやり方も良くないと思う。商店街の悪い所だけを捕まえて、ジャスコに客を取られるのは当たり前、と結論づけるのは、公平ではないと思う。
でも、三浦の論法は、ちょうどそれを逆にしたやり方なわけで、同じように間違っている、と言わざるを得ない。
小生にも、商店街を守りたい、という気持ちはある。なんとか潰れずに残って欲しい、と思う。けれども、三浦のように、理論をねじ曲げる形で弁護するのは違うだろう。
それに、ショッピングモールを非難するのもおかしいんじゃないだろうか。「商店街」対「ショッピングモール」という、二項対立の図式で考えること自体に問題がある、と言うか、物事を単純化して捉えすぎなんじゃないだろうか。
本当に、ショッピングモールだけが、商店街が潰れる原因なのか。
この世の中は、様々な要因が、複雑に絡み合っている。原因と結果の関係にせよ、単一の原因が結果をを引き起こしているわけではない。
商店街が潰れる原因だって、後継者がいなかったり、相続税を支払うために、やむを得ず土地や建物を売り渡さねばならなかったりする場合もある。
ショッピングモールに全ての原因を帰す、というのは、見立てが単純すぎる。
ショッピングモールには人と人とのふれあいがない、というのもウソだ。どう設計するか、にもよるが、ショッピングモールは充分憩いの場たり得る。商店街にはない良い所だって、いっぱいある。商店街を守るために、ショッピングモールの良い所から目を背けるべきではない。

(③に続く)


オススメ関連本・武田龍夫『福祉国家の闘い――スウェーデンからの教訓』中公新書

昔の射程を長くとってみれば①

2015-10-22 22:25:29 | 雑文
「昔は良かった」式の話をする人がいる。
「昔の日本は良かった。人々は礼節をわきまえて互いに助け合い、貧しいながらも逞しく生きていた。それが今では…」っていうやつ。
極度に美化されている、という点もそうだが、この手の議論に共通して感じるのは、「射程の短さ」である。「昔は良かった」の「昔」は、自分が幼かった頃か、せいぜいその人のおじいちゃんの時代までしか含まれていない。それよりも昔の時代は、まるで存在しなかったかのように切り捨てられている。
中には、「昔は良かった」の「昔」を、自分の生きた時代ではなく、自分が理想とする時代に求める人もいる(特に江戸時代が人気)。しかし、そのタイプの人達とて、「それよりも昔」を無きものとしている、という点では同等である。
まあ、この種の議論というのは、失われたものに対するノスタルジーとして語られることが多いわけで、その限りであれば、さほど問題はない。失われたものの良さを再確認する、という意味では良いことだとも言える。
だが、これが若者や現代社会を批判するために用いられると、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。
「あなたの言う、その『昔』こそが、唯一無二の、理想社会なの?」と。
一コずつ例を挙げてみる。

まずは、「性の低年齢化」について。
「若者の性は乱れている。若いうちから簡単に体の関係を持つようになった。昔はこうではなかった。皆、貞操観念があった」
かつて日本には、「夜這い」という習慣があった。夜中に、男が女のもとを訪れる、というやつだ。この習慣がいつ生まれたか、は小生は知らない。では、いつまであったか、だが、少なくとも江戸時代までは当たり前のものとしてあった。
それが明治以降、開国し、西洋の習慣や学問が流入してくると、変容を迫られることになる。大日本帝国は和魂洋才を掲げたので、西洋的見地から、日本の恥と映るものを排除してゆく。キリスト教道徳に基づいた、貞操観念の感覚に反する夜這いの習慣も、当然改められる。それまでにあった習わしを、すぐになくすことはできなかったろうが、時間をかけて、少しずつ終わらせていったものと思われる。
この夜這いについて調査した、赤松啓介の『夜這いの民俗学』なる本がある。この本によれば、夜這いは村単位で行われており、村の中で、一定の年齢に達した男女は、皆一斉に初体験を済ませる決まりになっていたという。
いつ初体験を行うか、というデータも、各村ごとに、赤松が調べた範囲で載っているのだが、ザッと目算したところでは、平均して大体13歳くらいで済ませているのである。
13歳。今の中一。それくらいで初体験を済ませるのが、当たり前の時代があったのだ。
ただし、これはあくまで村社会の話である。都市部においても同じ事が言えるかどうかはわからないし、江戸以前には身分もあったので、身分ごとの習慣の違いもある。皆が皆、13歳くらいで初体験を済ませていた、とは言えない。
それから、これは特に強調しておかねばならないのだが、だからと言って、「性の低年齢化には何の問題もない」というわけではない。昔、13歳くらいで初体験を済ませていたのは、それなりの事情、背景がある。
現代の日本には、結核や破傷風のような伝染病、感染症のワクチンがある。夜這いの習慣があった時代には、それがなかった。なので、子供がコロコロ死んでいた。
そんな時代において、子孫を確実に残すためにはどうしたらいいか。なるだけ早いうちからセックスをし始め、ひとりでも多く子供を設けねばならないだろう。大人だって、今と比べればだいぶ寿命が短かった。平均13歳くらいで初体験を済ませるというのは、そのような歴史的背景があればこそ、だ。今はもう、事情が違う。
ただ、日本人に貞操観念があったのは、明治以降の教育によるもので、ずっと昔からそうだったわけではない、というのはお分かりいただけるだろう。
では「お前は要するに、性の低年齢化に対して、どう考えるべきだというのか」と尋ねられたら…。
うーん……。何とも言えない。
「ごく一部に過ぎないんだから、やりたい奴は好きにやらせとけばいいんじゃないの」という気もするけど、かと言って、低年齢化を推奨するのはちょっと違うんじゃないかとも思うし、道徳教育を強化したほうがいいような気もする。何とも、判然としないのである。
ただ、射程を長くとってみれば、様子が違って見えてくることは間違いないだろう。性の低年齢化は「絶対に解消すべき大問題」としか思えなかったのが、少し違ったものに見えてくるはずだ。
射程を長くとってみることの大切さというのは、そういうことだ。

(②に続く)


オススメ関連本・高橋秀実『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』新潮文庫

自由とアメリカと男と女

2015-10-21 22:29:25 | 雑文
テレビを観ていたら、「日本をどう思うか」というテーマの特集があり、その中で行われていた街頭インタビューで、ハタチくらいの女の子が、
「日本よりアメリカの方が、自由でいいと思う」
と答えていた。
う~~~ん。思わずこのコと話してみたい衝動に駆られたぞ。

「日本よりアメリカのほうがいいっていうのは、世の中はより自由な方が望ましいってこと?」
「そうです」
「じゃあさ、人を殺す自由ってあったほうがいい?」
「それは…ダメです」
「なんで?」
「だって…犯罪だし」
「いや、殺人が犯罪なのはさ、法律で規制されてるからでしょ。殺人を自由化するっていうのは、法律を無くしちゃうってことだから、そうなったら犯罪には当たらなくなるんだよ」
「でも…家族とか悲しむし…」
「うん、そうだね。それじゃあ銃を所持する自由はどう?あったほうがいい?」
「それもダメです」
「君は日本よりもアメリカの方が自由でいいって言ったよね。日本になくてアメリカにある自由と言ったら、銃を所持する自由だと思うんだけど」
「だけど…あぶない」
「銃がありふれていると発砲事件が頻発するからね。これもさっきの話と繋がってくる」
「なんか…ヘンなことばっかり言ってる」
「なんで?君は日本よりアメリカのほうがいいと言ったし、より自由な社会の方が理想的だとも言った。僕はそれに合わせているだけだよ」
「でも…うーん」
「例えば、満員電車に乗っているとしようか。その中で、思いっきりうーーんって伸びをすると、隣の人に腕が当たるよね。隣の人にとっちゃ迷惑だ」
「はい」
「じゃあその時、俺には腕を伸ばす自由があるんだ、って言い張るのが正しいか。そんなことはない。他人に迷惑をかけてまで許される自由はない。だから、自由というのは、他人に迷惑や危害が及ばない範囲で、っていう限定が付けられるんだ。とにかく自由であればあるほどいい、ということにはならない。限度がある」
「それはわかります。でも、アタシが言いたかったのは、アメリカンドリームとか…」
「どういうこと?」
「アメリカンドリームってあるじゃないですか。音楽とかスポーツとかで成功してスターになるっていう…。そういう自由のことを言いたかったんです」
「何らかの分野で成功してスターやお金持ちになるチャンスだったら、日本にもあるよ」
「でもアメリカの方が、スケールが大きいし」
「それは日本とアメリカの国力の違いでしょ。あと、国際社会の中の位置づけの違いでもある。自由の度合いの問題じゃないよ」
「どういうことですか?」
「アメリカは世界一の大国でしょ。世界で一番注目度が高いのがアメリカと言える。それから、国際的に一番流通している英語が母国語だし、自国の貨幣のドルは基軸通貨だ。だから、アメリカ国内で売れっ子になることは、世界中で売れることとほぼイコールになる。“なぜ日本からはレディー・ガガのようなスターが出てこないのか”という話を聞いたことがあるけど、これなんかも国の立場の違いをわきまえていない議論なわけで、もし日本とアメリカの立場が逆だったら、倖田來未あたりがレディー・ガガのような、世界的スターになっていたんじゃないかな。つまり、一人一人の才能の問題じゃなくて、どの国に所属しているかの問題ってこと」
「…そうなんですかね」
「あとさ、アメリカにはスラムってあるでしょ」
「はい」
「自由度が高い社会っていうのは、とにかく競争させる社会なわけね。で、競争ってのは、勝者がいれば、当然敗者が出る。勝負が一回限りなら、勝者と敗者は半々になるけど、実際の世の中は勝負は一度きりじゃない。トーナメント戦のようなものだ。そこでは最終的な勝者は一人だけで、あとは全員敗者になる。言い換えれば、自由度が高い競争社会というのは、一人の勝者の栄光のために、残りの多くの人間が踏み台になる社会、一人の勝者の対極に、多くの敗者を生み出す社会ってこと。日本にもスラムってあったほうがいい?」
「…いえ」

と、まあこんな感じになるだろうか。
ハタチそこそこの女の子やり込めてもしょうがないけどさ。
ところで、アメリカってほんと、自由って言葉好きよね。前のアフガニスタン戦争の時、フランスが開戦に反対したことを受けて、アメリカ国内で反フランス感情が高まったんだけど、その時フレンチフライ(フライドポテトのアメリカでの名称)を、フリーダムフライに改称しよう、という動きが一部で起こったんだって。
自由を揚げてどうする。


オススメ関連本・森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』講談社選書メチエ

電車内化粧を禁止するということ

2015-10-20 22:27:44 | 雑文
以前、電車内で化粧する女性が、ちょっとした社会問題になったことがあった。さんざん叩かれていたので、もういなくなってしまったのではないかと思うが、主におじさんを中心とした年配の人達が怒っていた。
起こっていた理由は、「みっともない」というものだった。小生は、なぜこんな些細なことをムキになって言挙げするのか、不思議でならなかった。
電車内化粧に怒っていたおじさんたちに質問したい。
「電車の中で、新聞や本を読むのは、みっともないからやめろ、と言う人が出てきたら、どうしますか?」
おじさんは電車の中で新聞や本を読むだろう。それをみっともないからやめろ、と言われたらどうするのか。
「そんなおかしなことを言うヤツなんか相手にしない」
そう答えるだろうか。
確かに、そのように主張する人が、一人しかいなかったら、黙殺されるだけだろう。でも、一万人がそう言い出したらどうだろうか。
おじさんたちが声を合わせて、化粧女を排除したように、一万人が「電車での読書をやめろ」と言い出したら、無視できなくなるのではないか。
そんなこと起こり得ないって?いや、仮にありえたとして考えて欲しいんですよ。
何が言いたいかというと、「みっともない」というだけでは、他人の行動を規制することはできない、ってこと。
みっともない、というのは、美意識に関わる感情で、何を美しく、何を醜いと感じるかという、個人の価値観の問題である。何を美しいと感じるか、何を醜いと見るか、それは、一人一人違う。
だから、おじさん世代は、電車内化粧をみっともないと感じるのに対し、若い女の子は、それの何が問題なのか理解できない。
おじさんの方が声がでかいし、社会的影響力も強いので、圧力に晒された女性達は、電車内化粧をやめざるを得なかった(ご愁傷さま)。
でも、本当はみっともないという理由で、他人の行為をやめさせることはできない。
電車内化粧をめぐる議論の中で、隣に座っている人がスプレーを使って、それが自分にもかかった、という話を聞いたことがある。これは明らかな実害である。実害があるなら、はっきりと「やめてくれ」と言うことができる。だが、「みっともないから」というのは、美意識の押し付けだ。美意識を押し付けていい権利など、誰にもない。
中には、年配者だということだけで、美意識・価値観を押し付けていい、と思い込んでいる輩もいる。だが、それは人の頭の中を、恣意的に作り変えるということだ。北朝鮮のような思想教育を行う国家を、是とするのか?
でも、この手のおじさんたちって、ホント、人の話を聞かないんだよね…。


オススメ関連本・河合隼雄『中年クライシス』朝日文芸文庫

ヘイトスピーチのある風景・後編

2015-10-19 22:46:38 | 雑文
(前編からの続き)

思うに、感情が先行しすぎる事からくる弊害がある。
人間は感情の生き物なので、完全に感情を排することはできない。だが、できるだけ感情を抑え、冷静に吟味すべき場面というのがある。
かつて、ベストセラーになった『嫌韓流』なるマンガがある。これは、日韓の間に横たわる確執を取り上げた世評マンガで、作中で提示されていた一つ一つの問題は、検討に値するものであったと思う。だが、「嫌韓」、つまり「韓国が嫌い」というスタンスで打ち出したのはマズかった。
通常、人は「お前のことが嫌いだ」と面と向かって言われると、不愉快になり、「ああそうかい、俺もお前のことが嫌いだよ」と返すだろう。そうなると、後はもうひたすら負の感情の応酬が続くことになり、そこには、建設的な何かは芽生えない。
『嫌韓流』の作者は、同作のヒットを受けて、「悪いのはコイツらだ!」と名指すことにより、現状に不満を抱く人達のルサンチマンをくすぐる作品を描き続けている。実に不毛なことだと思う。この作者は、自分のマンガが、ヘイトスピーチ、並びにインターメット上に跋扈する朝鮮差別のもといになったことを、今どう思っているのだろう。
森達也が、オウム真理教をテーマに撮影した『A』というドキュメンタリー映画があるのだが、その続編『A2』の中で、某右翼団体が、オウムに抗議デモを行う場面がある。デモ開始前の打ち合わせで、構成員の一人が、「死ねとか出て行けとかの言葉を使ってはいけない」と言っており、それを観た時に、「よくわかってるじゃん」と思った(えらそうだね)。
しかし。しかし、である。できるだけ感情を排することは大切なのだが、感情を排した声というのは、小さくて、弱い。
感情ムキ出しのヘイトスピーカーの声は、大きくて力強い。それに比して、冷静に「朝鮮人差別はやめましょう」と呼びかける声は、弱々しい。なので、感情を抑えた声は、感情的な声に勝つことはできないのである。どうしても勝とうと思ったら、相手に対抗して感情を昂め、声をデカくするしかない(実際そのようにして、ヘイトスピーチを行うデモ隊と、それに反対するデモ隊の衝突が起きている)。
これは、平和を訴えるジレンマとも共通する。戦争賛成を叫ぶ声は大きく、反対する声は小さい。戦争という暴力行為に働きかけようとしているわけだから、その声は、大きいだけでなく、攻撃的だ。その攻撃的な声に、非暴力で応じようとする声は、簡単にやられてしまう。だからこそ「平和のための戦争」という、笑えない冗談のような事態が、現実に起こるのである。
以前北朝鮮が、日本海に向けて、大陸間弾道ミサイルを発射したことがあった。その翌日、右翼(前出の右翼とは別団体)が抗議の街宣活動をしており、「これは我が国に対する宣戦布告であります」と叫んでいた。どこかで聞いたような口振りだと思ったら、朝鮮中央放送の、あの有名な女性アナウンサーの口調と同一であった。相手(北朝鮮)を憎み、相手に対抗しようとするあまり、相手と同じ言葉遣いになっていたのである。
排外的な言葉に、排外的な言葉で応じてはならない。感情を抑制せなばならない場面がある。ヘイトスピーカーもまた、救われねばならない。
ここまでは理屈でわかった。でも、具体的にどうすれば?
やはり、現状に不満を抱く人達ひとりひとりに、個別的に対応していくしかないのだろうか。これといった結論がないまま終わるのはよくないと言われるかもしれないが、安易に結論を出すことの危険性もある。
この問題については、これからも考えていきたい。


オススメ関連本・橋本治『宗教なんかこわくない!』ちくま文庫