(①からの続き)
次に、②の、適度な貧困感を燃料とする、について。
日本は、ついこの間までGDPが世界第二位で、現在でも三位である。
しかし、長いこと二位だった時代もだし、今もそうなのだが、「自分は貧乏だ」と言う人がすごく多い。
これは何故なのか。
理由としては、経済活動の規模と純利益の違いだとか、ベースアップが実現し、所得が増えても、インフレが起こる(こともある)ので、豊かさが実感されにくいとか、税制と福利厚生の問題だとか、最近よく言われる格差が原因だとか、もしくは、日本人の特質たる謙虚・謙遜の表れだとか、いろんなことが指摘できると思う。
小生がひとつ思うのは、「資本主義の要請がある」ということ。「資本主義の要請があって、貧しいと感じている」ということだ。正確には「感じている」のではなく、「感じさせられている」と言うべきか。
どういうことかと言うと、資本主義は、とにかく人々に働いてもらう必要があるわけで、そのためには「稼ぎたい」という動機が不可欠である。で、「稼ぎたい」と思うのは、その根本に「自分は貧しい」という自覚がなければならない。
要するに、資本主義は、自らを稼働させる燃料として、「適度な貧困感」を必要としているのである。
この、「適度な貧困感」という言葉に、よくよく注意してもらいたい。「貧困」ではなく、「貧困感」である。実際に貧しいかどうかではなく、貧しいという自覚がある、ということだ、また、「適度な」というのは、あまりに貧しさの感覚が強すぎると、働くことをハナから放棄してしまったり、自暴自棄になって犯罪に走ったりしてしまうので、その感覚は、ほどほどでなければならない、というワケだ。
日本は資本主義というシステムを採用している。
なので、日本列島は「資本主義の空気」にスッポリと覆われている。
列島に住まう者は皆、この空気を吸って生きていかざるを得ない。資本主義は、日本国民に、空気を読むことを要請する。
「自分は貧乏だ」という揚言は、資本主義の空気を正しく読んでいることの表れなのである。日本人は、資本主義によって、自分は貧乏だと思い込まされている。
「日本は豊かだし、自分もそれなりに裕福だ。働かなくてもなんとかやっていける。仕事よりも、私生活を大事にしよう」
そんなことを多くの国民が考えるようになったら、資本主義は動力を失ってしまう。だから、言葉を変えて言うと、資本主義は、国民に豊かさを感じることを許さない。この先、いくらGDPが伸びていこうとも、資本主義という経済体制が変わらぬ限り、日本人は、自分のことを貧乏だ、と言い続けるだろう。
小生は、アメリカや中国で「貧乏じゃないのに自分を貧乏だという人」が、どれほどいるのかよく知らない。知らないので、比較論を軽々しく語るべきではないだろうが、日本人はとりわけ「空気を読む」ことに長けている、あるいは、日本というのは、「空気を読まないとやっていけない」、同調圧力の高い国だということが言えるかも知れない。(その辺の理屈を詳しく知りたい人は、山本七平の『空気の研究』でも読んどくれ)
新橋の駅前で、サラリーマンに「ニートをどう思いますか?」と質問したとする。
20年、30年とコツコツ働いてきたサラリーマンは、ほぼ全員否定的な答え方をするだろう。そして、その理由を尋ねると、「国の経済が立ち行かなくなる」とか「年金制度が崩壊する」とか、尤もらしい説明をする。
だが、サラリーマンのおじさんたちは、そんなことを本気で心配しているわけではない。20年、30年とサラリーマンをやっている、ということは、資本主義の空気を正しく読んでいる、ということである。それに対して、ニートは空気を読んでいない種族だ。
空気を読めないことをKYと呼ぶが、ニートは「資本主義的にKY」なのである。
「俺はきちんと空気を読んで、真面目にコツコツ働いているのに、ニートときたら何だ。許せん。空気読めよ」
それがサラリーマンの本音である。
空気というのは、喩えとして言い得て妙で、それは目に見えない。見えないから、意識することが難しく、それが自分自身にどのような影響を与えているか、その影響によって、どんな建前を語らされているか、建前抜きの、自身の本音とは如何なるものか、に、自分でも気づかなかったりする。
サラリーマンは、日本経済全体のことや、お年寄りの老後の暮らしなど、本気で心配しているわけではない(少しは気にしてるだろうけど)。ただ、ニートのことが、感情的に気に食わないだけである。
そんな本音に、自分で気づいていないから――もしくは、気づいていたとしても、感情論を語るのは憚られるから――御国の行く末がどうのこうのと、経世済民としての、利いた風な理屈をこねるのである。
ニートは、おそらくこの空気が見えている。そしてその上で、空気を読むこと――資本主義の要請に従うこと――のバカらしさを感じているのだろう。だから、働かない。
サラリーマンとニート、どちらが正しいのか、どちらがあり得べき姿なのか。ここで言わんとしているのは、そんな単純な二元論ではない。ただ、ニートの視点を通すと、見えてくるものがあるわけで、資本主義を相対化して考えるためには、そのような視点も必要になってくる、ということだ。
(③に続く)
オススメ関連本・間宮陽介『ケインズとハイエク――「自由」の変容』中公新書
次に、②の、適度な貧困感を燃料とする、について。
日本は、ついこの間までGDPが世界第二位で、現在でも三位である。
しかし、長いこと二位だった時代もだし、今もそうなのだが、「自分は貧乏だ」と言う人がすごく多い。
これは何故なのか。
理由としては、経済活動の規模と純利益の違いだとか、ベースアップが実現し、所得が増えても、インフレが起こる(こともある)ので、豊かさが実感されにくいとか、税制と福利厚生の問題だとか、最近よく言われる格差が原因だとか、もしくは、日本人の特質たる謙虚・謙遜の表れだとか、いろんなことが指摘できると思う。
小生がひとつ思うのは、「資本主義の要請がある」ということ。「資本主義の要請があって、貧しいと感じている」ということだ。正確には「感じている」のではなく、「感じさせられている」と言うべきか。
どういうことかと言うと、資本主義は、とにかく人々に働いてもらう必要があるわけで、そのためには「稼ぎたい」という動機が不可欠である。で、「稼ぎたい」と思うのは、その根本に「自分は貧しい」という自覚がなければならない。
要するに、資本主義は、自らを稼働させる燃料として、「適度な貧困感」を必要としているのである。
この、「適度な貧困感」という言葉に、よくよく注意してもらいたい。「貧困」ではなく、「貧困感」である。実際に貧しいかどうかではなく、貧しいという自覚がある、ということだ、また、「適度な」というのは、あまりに貧しさの感覚が強すぎると、働くことをハナから放棄してしまったり、自暴自棄になって犯罪に走ったりしてしまうので、その感覚は、ほどほどでなければならない、というワケだ。
日本は資本主義というシステムを採用している。
なので、日本列島は「資本主義の空気」にスッポリと覆われている。
列島に住まう者は皆、この空気を吸って生きていかざるを得ない。資本主義は、日本国民に、空気を読むことを要請する。
「自分は貧乏だ」という揚言は、資本主義の空気を正しく読んでいることの表れなのである。日本人は、資本主義によって、自分は貧乏だと思い込まされている。
「日本は豊かだし、自分もそれなりに裕福だ。働かなくてもなんとかやっていける。仕事よりも、私生活を大事にしよう」
そんなことを多くの国民が考えるようになったら、資本主義は動力を失ってしまう。だから、言葉を変えて言うと、資本主義は、国民に豊かさを感じることを許さない。この先、いくらGDPが伸びていこうとも、資本主義という経済体制が変わらぬ限り、日本人は、自分のことを貧乏だ、と言い続けるだろう。
小生は、アメリカや中国で「貧乏じゃないのに自分を貧乏だという人」が、どれほどいるのかよく知らない。知らないので、比較論を軽々しく語るべきではないだろうが、日本人はとりわけ「空気を読む」ことに長けている、あるいは、日本というのは、「空気を読まないとやっていけない」、同調圧力の高い国だということが言えるかも知れない。(その辺の理屈を詳しく知りたい人は、山本七平の『空気の研究』でも読んどくれ)
新橋の駅前で、サラリーマンに「ニートをどう思いますか?」と質問したとする。
20年、30年とコツコツ働いてきたサラリーマンは、ほぼ全員否定的な答え方をするだろう。そして、その理由を尋ねると、「国の経済が立ち行かなくなる」とか「年金制度が崩壊する」とか、尤もらしい説明をする。
だが、サラリーマンのおじさんたちは、そんなことを本気で心配しているわけではない。20年、30年とサラリーマンをやっている、ということは、資本主義の空気を正しく読んでいる、ということである。それに対して、ニートは空気を読んでいない種族だ。
空気を読めないことをKYと呼ぶが、ニートは「資本主義的にKY」なのである。
「俺はきちんと空気を読んで、真面目にコツコツ働いているのに、ニートときたら何だ。許せん。空気読めよ」
それがサラリーマンの本音である。
空気というのは、喩えとして言い得て妙で、それは目に見えない。見えないから、意識することが難しく、それが自分自身にどのような影響を与えているか、その影響によって、どんな建前を語らされているか、建前抜きの、自身の本音とは如何なるものか、に、自分でも気づかなかったりする。
サラリーマンは、日本経済全体のことや、お年寄りの老後の暮らしなど、本気で心配しているわけではない(少しは気にしてるだろうけど)。ただ、ニートのことが、感情的に気に食わないだけである。
そんな本音に、自分で気づいていないから――もしくは、気づいていたとしても、感情論を語るのは憚られるから――御国の行く末がどうのこうのと、経世済民としての、利いた風な理屈をこねるのである。
ニートは、おそらくこの空気が見えている。そしてその上で、空気を読むこと――資本主義の要請に従うこと――のバカらしさを感じているのだろう。だから、働かない。
サラリーマンとニート、どちらが正しいのか、どちらがあり得べき姿なのか。ここで言わんとしているのは、そんな単純な二元論ではない。ただ、ニートの視点を通すと、見えてくるものがあるわけで、資本主義を相対化して考えるためには、そのような視点も必要になってくる、ということだ。
(③に続く)
オススメ関連本・間宮陽介『ケインズとハイエク――「自由」の変容』中公新書