徳丸無明のブログ

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認知症者の生きる孤独――記憶力と時間感覚④

2017-05-18 21:09:57 | 雑文
(③からの続き)

「人生50年」と言われていたのは、つい最近の事だ。人類は、その歴史のほとんどを、“老後”を知らずに生きてきた(あるいは、40~50くらいが老後とされていた、とみるべきか)。そんな時代と、現代と、一体どちらの方が幸せなのだろう?
ひとつはっきり言えることは、今の介護現場が最良ではない、ということだ。介護施設を概観すると、入所者(利用者)は、ただ「管理されているだけ」「生かされているだけ」という感想を禁じえない。まだまだ改善の余地はいくらでもある。
たとえば、あと10~20年もすれば、人間の仕事の何割かをAI(人工知能)が代行するようになる、と言われている。この流れはもはや決定的なものであり、抗うことはできないという。ならば、AIには働けるだけ働いてもらい、存分に稼いでもらう。AIはエネルギーとメンテナンス以外ではお金を使うことがないので、余剰がたくさん生じるはずだから、そのアガリから福祉予算をたっぷり取らせていただく。そしてその金で、AIに職を奪われた失業者を、「認知症者相手のお喋り専門要員」として雇い入れる・・・。
そんな社会を設計することはできないだろうか?あながち夢物語ではないと思うのだが。
ただ、AIに職を奪われた人々の中には、認知症者との接し方がわからないとか、他人とコミュニケーションを取ること自体が苦手だとかいう人もいるだろう。だから、そういう人には炊事や掃除など、認知症者との関わりの低い仕事に専念してもらい、先に介護士として働いている人にお喋り専門要員になってもらうようにしてもいい。現在介護職に従事している人々の中には、「もっと入居者(利用者)とお喋りする時間が欲しい」と思いながら、記録の作成やベッドメイキングなどの雑務に日々追われている人が大勢いるだろうから。また、AIに職を奪われた「認知症者との接し方がわからない人」も、認知症者に近いところで日々働いているうちに少しずつ接し方がわかってくるだろうから、あとからお喋り専門要員に転じる、という選択肢もあるだろう。
いずれにせよ、介護施設が抱えている問題点は、予算の少なさゆえにギリギリの人員しか雇えない、という制約にある。予算を充実させ、介護士を増やすことができれば、より理想的な介護現場を作り出せるのだ。そして、福祉予算からの扶助によって、介護サービスを今より大幅に安く使うことができれば、家庭での介護・老老介護の負担減少にも繋がる。
(また、福祉予算を拡充させることができれば、介護とともに人員不足が叫ばれている保育現場にもプラスになるはずだ。保育士の確保が難しいのは、第一に給料の安さが原因と言われている。平均給与と同額になるくらいの手当てを福祉予算から捻出できるようになれば、その問題は解決するだろう)
そして、認知症者につきっきりでいることのメリットは、孤独を解消できる、という面だけにとどまらない。それは、同時に「認知症者の事故を防ぐ」ことにも繋がる。
以前、自宅で家族に介護されていた認知症者が、家族が気付かないうちに家を抜け出し、路上を徘徊した末に電車に轢かれて死亡する、という事件が起こった。鉄道会社は家族の監視責任に問題ありとして提訴、一時は原告の訴えが認められたものの、最終的には棄却されている。
介護経験者として言わせてもらえば、原告の主張は介護の実情を知らない者の的外れな言い草である。
どんな行動を取るかわからない認知症者の事故を完全に防ぐためには、「その認知症者を、24時間休むことなく見つめ続ける」しかない。だが通常、家庭での介護にせよ、介護施設にせよ、「他の仕事を行いながらの見守り」をするしかない。そうしないと、生活の基盤が回っていかないからだ。家庭にせよ介護施設にせよ、生活の基盤を回していくことが第一だ。そうしないと、介護を行うための条件が損なわれてしまう。正しく介護を行うためには、生活の基盤を第一にせねばならない。
小生が務めていた施設には、自力では歩けないほど足が弱っているにもかかわらず、認知症のためそのことが自覚できず、いつも急に立ち上がってしまう入所者がいた。なので、その方が覚醒されている間(つまり、寝ていない時)は、常に立ち上がりがないか、目を光らせていなければならなかった。
もし、介護予算がもっとたくさんあるならば、「入所者見守り専門の介護士」を付けることができるだろう。だが、限られた予算の中で、限られた人数の介護士しか雇えないのであれば、「他の業務を行いながらの見守り」にするしかない。そして、他の業務を行いながらであれば、どうしたって一瞬のスキができる。そのスキの発生時に認知症者は予想外の行動を取り、事故が起きてしまうのである。もちろんこれは、家庭での家族による介護にも言えることである。
だから、「認知症者相手のお喋り専門要員」を配置することができれば、それは孤独の解消のみならず、事故の防止にも繋がるのである。

繰り返す。今の介護現場は、最良ではない。
何も博愛主義の精神を発揮する必要はない。今の認知症者の在り様は、現在健常者として生きる我々の行く末でもあるからだ。
「将来高齢者になった時、「限りなく無限に近い現在」を、ひとりぼっちの寝たきり状態で過ごしたいか否か」。それを己に問うてみればいい。
自分にとって望ましい老後とは何か。望ましい老後を将来享受するためには、今のうちに介護現場でそれを作り出しておかねばならない。
小生が提唱した方策だけが唯一の正解ではないだろう。一人一人が介護について考え続ける中で、辿るべき道筋が自然と形成されてくるはずである。
いつか誰かに、自分の手を握り締めてもらうために、今、高齢者の手を握るのだ。