徳丸無明のブログ

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理解も解消も困難な差別について③

2016-09-30 22:05:09 | 雑文
(②からの続き)

話をアメリカに戻す。
「差別の構造は複雑だ」と書いたが、この複雑さは「白人対黒人」という二分法だけに還元できない、という意味でもある。
アメリカにおいて差別を受けているのは、黒人だけではない。先住民(インディアン)、ユダヤ人、ヒスパニック、日系、中国系、アラブ系等々。また、一口に白人と言っても、WASPとアイルランド系は違う。
それに、差別は人種においてのみ発生するわけではない。宗教を基にする差別もあれば(同時多発テロ後には、この傾向が顕著になった)、社会的階層に基づく差別もあり、同性愛などの性的志向に関する差別もある。また、実状をよく知らないので憶測でしかないのだが、政治的主義主張に関する差別もあるのかもしれない。
世界中から多くの移民を受け入れてきた多民族国家のアメリカには、かくのごとき多様な「レイヤー」が存する。この複雑に折り重なったレイヤーを見ずして、「白人対黒人」という単純な対立構造に落とし込んで捉えようとする議論は、多くの要素を捨象し、重層的な世界を奥行きのない薄っぺらなものに還元してしまう。階層に基づく差別が生じているとするならば、「黒人の富裕層」の「黒人の貧困層」に対する差別だって起こりうるのだ。
そして、この複雑さはアメリカ固有のものではない。アメリカ以外の国であっても、複数のレイヤーが存在しているのが普通のはずで、ということはつまり、アメリカほど込み入ってはいないにしても、差別の問題は単純な二分法では捉えられないというのは、万国共通の、普遍的な命題だということである。
また、レイヤーが複雑に絡まりあっているということは、被差別者とされる者も、相手が変われば差別者になりうる、ということでもある。
さよう、差別を「特定の集団に偏見を抱き、憎悪・攻撃すること」とするならば、「白人警官はみな差別主義者だ」と断ずるのもまた差別である。
被差別者もまた、差別者たりうる。
これは差別問題の中でも、とりわけ重要なポイントだと思う。そして、この点こそ多くの人が誤解しているポイントであり、差別の解消を願いつつも、なかなか前進が見られないのは、この誤解に躓いているからではないだろうか。
被差別者もまた差別的言動をとることがあり、そもそも差別行為とは感情の派生物であることを鑑みると、人間は誰しもが差別的言動をとりうると言える。
「白人対黒人」という単純な二分法で考えるべきではないと述べたが、それと同じく「差別者対被差別者」という構図で捉えようとするのにも問題がある。
「差別者」と「被差別者」は、截然と分かれてはいない。
誰しもが差別者にも被差別者にもなりうる。
これを踏まえて敢えて分類すると、人間は次の三様に分けられる。

①常に差別意識をあらわにしている人・差別主義者
②たまに差別意識があらわになる人・断続的差別者
③差別意識をあらわにしない人・潜在的差別者

この中で一番マシなのが③であるが、それでも「潜在的差別者」なのである。
そう、差別が感情という、人間なら誰しもが有している機能の産物であるのならば、我々はどれだけ差別を忌み嫌っていようが、潜在的には差別者たらざるを得ない。
差別を巡る言説が、どこか上っ面だけの綺麗事に聞こえてしまうのは、この「人間は誰しも差別者たりうる」という事実を踏まえずに、自分は差別とは無縁な、無垢なる善人であるかのごとき口ぶりで語られているからではないだろうか。
差別者を特定したうえで糾弾・批判し、それで事足れりとする態度も同様である。それが無益とまでは言わないが、現実を勧善懲悪型のストーリーに落とし込むことで、単純な善悪二元論でしか思考できなくなってしまう恐れがある。
そうなると、ここまで何度も繰り返してきた「差別の複雑さ」を理解することができなくなる。
複雑なものを複雑なまま理解することができる差別対策でなくてはならない。
しかし、それはどのような形をとるのだろうか?

(④に続く)

理解も解消も困難な差別について②

2016-09-29 21:07:32 | 雑文
(①からの続き)

2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設に、元職員の男が侵入し、入所していた障害者数十人を殺傷する事件が起きた。男の手によって19人が死亡し、26人が怪我を負った。
この事件が許し難い蛮行であるのは言うまでもないことだが、ここで取り上げたいのは犯人の差別意識ではない(この犯人が事件を犯す前に衆院議長公邸に渡そうとした手紙の中には、支離滅裂な記述が数多く見受けられるので、犯行の動機が差別によるものかどうかは議論の余地が残る)。世間やメディアといった、障害者を取り巻く者達の差別意識である。
死亡した被害者たちは皆、匿名で報じられた。警察は匿名発表にした理由を、「被害者が障害者であることに鑑み、また、家族も実名を伏せることを望んだため」とした。メディアもまた、独自に氏名を調べて公表することなく、警察にならった。
小生はここで「実名公表しないのは障害者に対する逆差別だ」と言おうとしているのではない。
よく言われることだが、事件の被害者やその家族は、報道によって二重三重の苦しみを受けることがある。自宅を報道陣に取り囲まれ、事件の傷口に塩を塗り込むような質問を浴びせられ、さらにはその報道によって一般人からのいたずら電話や、インターネット上での誹謗中傷、事実無根の情報開示などの嫌がらせが引き起こされる(差別とは関係ない話だけど、メディアはこの手の問題を引き起こす報道姿勢を改めるべきだと思う)。
すべての事件の被害者とその家族がそのような目に遭うわけではないが、可能性として起こりうる以上、家族が匿名を望むのであれば、それを聞き入れるのは至極当然のことだと思う。
しかし、健常者の被害者は、否応なく実名報道されるのである。被害者側に配慮すべきというのであれば、健常者であっても実名公表の可否を問うべきではないのか。
では、やはりこれは「ねじれた差別」、もしくは「逆差別」なのか、というと・・・。何とも難しい。安易にそう断じてはいけない背景があるような気がするのである。
ただ、ひとつはっきりと言えることがある。我々は障害者に接するとき、どうしても腫れ物に触れるような対応になってしまうのだ。
我々の大多数は、差別を忌み嫌っている。差別主義者を憎んでいるし、自らも差別を行わない人間であろうと思っている。しかしながら、それと同時に、「障害者にはどう接したらいいのかがわからない」という事情も抱えている。
個人的な話をすると、小生は以前、介護施設で働いていた。入所していたのは、全員認知症のお年寄り。なので、当然ながら健常者と同じ接し方では問題が発生してしまう。認知症の症状に応じて、接し方を柔軟に変化させることが求められた。
数分前の出来事も覚えていられない人用の接し方。妄想を現実と思い込んでしまう人用の接し方。遠い昔の記憶を、つい最近の出来事として語る人用の接し方。実在しない人や物が見えてしまう人用の接し方。
それほど長く勤めていたわけではないが、介護士経験を通じて、「健常者以外の人々に接するスキル」「“健常者に対する接し方”という固定観念を括弧に入れ、相手に応じて最適な接し方を模索するスキル」を少なからず蓄積できたと思っている。
しかしそれでも、「障害者にはどう接したらいいのかがわからない」という思いを、小生自身も抱えているのである(認知症者と障害者は全くの別物だからそんなの当り前だろう、と思われるかもしれないが)。
「できるだけ普通に接するのが一番いい」とはよく言われることだが、健常者と全く同じでないからこそ「障害者」という呼称が充てられているのであって、それはつまり、何かしらの欠落を抱えているということだから、その欠落に対する配慮はやはり必要なのである。何でもかんでも健常者と一緒にするわけにはいかない。
決して差別するつもりはない。しかし、障害者への応対は、何が正解なのかがわからない。自分ではそのつもりがなくても、何気ない言動を「差別だ」と受けとめられてしまうかもしれない。
我々健常者の多くは、このようなジレンマを抱えている。ゆえに、障害者に対しては腫れ物扱いになってしまう。
できるだけ穏便に。できるだけ実生活と関わらないように。
敬して遠ざけると言うべきか、触らぬ神に祟りなしと言うべきか、我々は差別をしたくないがゆえに、障害者を視界の外に押しやろうとする。障害者と接することがなければ、差別が発生することもないからだ。だからこその匿名報道でもあるのだろう。被害者とその家族への配慮のみならず、自分達が差別者にならないための匿名選択。
そもそも障害者施設自体に社会からの隔離という意味合いがあるし(この点に興味のある向きは、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読まれたし)、障害者の仕事場が、作業所などの、人と接することの少ない場に限られているのも、それが一因であると言える。
やはりこのような態度を差別と呼ぶことはできないと思う。しかし、差別に反するがゆえに差別「的」な、差別とも受けとめられかねない行いをしてしまう、という逆説めいた状況がここにはある。

(③へ続く)

理解も解消も困難な差別について①

2016-09-28 21:02:44 | 雑文
今回は差別について書こうと思っている。
具体的に書き出す前にこのような断り書きから始めるのは、このテーマが複雑な代物で、一筋縄ではいかないからだ。
これまでにも数多くの人が差別について言及してきたし、差別をなくす取り組みも絶えず行われてきた。だが、差別は相も変わらずこの世界に存在するし、抜本的な対策も見つかっていない。
これはつまり、差別をなくすことは不可能であり、我々に出来ることといったら、なんとかそれと折り合いを付けていくことだけだということなのだろうか。悲しいけれど、それが真理なのかもしれない。でもひょっとしたら、人類の、差別に対する理解がまだまだ浅いだけで、理解を深めることによって解決への道が開けるのかもしれない。
諦めるのはまだ早い。差別について考え続けるのは、決して無駄ではないはずだ。
小生も差別のことは昔からずーっと考えてきた。それなりにわかったこともある。なので、ここではそれをまとめておきたい。
あくまで、現時点での知見である。30そこそこの若輩者が、差別の全てを理解しうるはずがない。なので、ここで示されるのは、最終回答ではなく、暫定的な知見である。現時点での小生の差別に対する理解の程度では、差別解消の一助にすらならないかもしれないし、おそらくは、結論めいたものを提示することさえできずに、尻切れトンボな終わり方をするのではないかと思う。
だが、暫定的なものであっても、差別理解を深める手立てぐらいにはなりうると思う。また、自らの思考を文章化することで、自身の視界がクリアになる効果もあるのではないかと期待している。
言い訳のような、能書きのような前口上はここで終わり。以下、本編に入る。

2016年7月26日、アメリカのミネソタ州セントポール郊外にて、車を運転していた黒人男性を、白人の警察官が射殺する事件が起きた。黒人男性は、警官に停車を命じられ、免許証の提示を求められたので、懐に手を入れようとしたところ、銃撃された。事件の様子を、助手席に同乗していた黒人女性がスマートフォンで撮影し、フェイスブックで公開したことから拡く知れ渡り、大きな騒ぎとなった。当然のごとく、白人による黒人差別だとして、批判の声が沸き起こり、抗議デモも発生した。
しかし、白人が黒人を射殺すれば差別なのだろうか。
警察は、治安の維持を本務としている。そのためには不審者、あるいは明らかに危険な人物と接触しなければならないわけだが、銃社会アメリカでは、相手が銃を所持しているのではないか、ヘタな対応をすれば自分が撃たれるのではないか、という不安が常につきまとう。それは、極言すれば「撃たなければ撃たれる」ということである。アメリカの警察官は、勤務中は常にこの不安につきまとわれざるを得ない。(ゆえに、不審者に対してはまず銃口を向け、「ドント・ムーブ」と命じる)
この不安の下では、「自らが撃たれるくらいなら、相手を撃つ方を選ぶ」という思いを禁じえなくなる。もしも自分がアメリカの警察官だったら、と仮定してほしい。「そうそう人殺しなどしたくはないが、殉職するよりは相手を射殺する方がマシだ」と考えずにいられるだろうか。
当該事件の動画をニュースで観た。顔は映っていなかったが、白人警官の口調は恐怖に怯えているようにも聞こえた(報道によれば、黒人運転手が「合法的に銃を所持している」と話した後で、免許証を出すために懐に手を入れたところを撃ったらしいので、撃たれるかもしれない恐怖に囚われていた可能性は高い)。この白人警官には差別意識などなかった、と言いたいわけではない。ましてや、正当防衛が認められると言いたいわけでもない。差別意識は、あったかもしれないし、なかったかもしれない。ニュースで伝え聞いた範囲だけでは、どちらとも判じ難い。
より正確を期して言うならば、仮にこの白人警官が差別主義者であり、日頃から「ニガー」などの蔑称を平気で口にする人物だったとしても、発砲そのものは差別感情に基づいて行われたわけではなく、恐怖心によるものであったかもしれないのだ。ただし、日頃から差別感情を抱いている相手の方が、そうでない相手よりも、引き金を引くことへの心理的抵抗が弱い、というのもまた事実であるかもしれないが。
ここで言いたいのは、白人が黒人を射殺したからといって、安易に差別だと断じるべきではない、ということ、差別以外の原因を可能性として検証すべきだ、ということである。安易な決めつけは差別を解消するどころか、問題をよりこじらせる結果に繋がってしまう。
この事件で問題にすべきはむしろ、警官が「撃たなければ撃たれるかもしれない」というプレッシャーにつきまとわれざるを得ない銃社会の構造のほうではないだろうか。
事件を報じるに際して、人種ごとの警察に射殺された人数が、データとして紹介されていた。今年(2016年)に入って警官発砲により死亡したのは約500人であり、黒人はそのうちの約4分の1を占め、人口比率と比較すると倍近くなる、とのことだった。
ここで見落としてはならないのは、必ずしも黒人だけが射殺されているのではない、ということ。また、当たり前だが、警察=白人ではない、ということだ。黒人の警察だっているわけで、つまりは黒人警官による白人の一般市民の射殺や、黒人警官による黒人の一般市民の射殺だって行われているのだ。黒人が射殺されたからといって、それを即「差別だ」と断じるのはあまりに乱暴すぎる。
また、もっと複雑な問題もある。アメリカでは、過去に黒人が差別を受けてきた、というのは疑いようのない歴史的事実である。この過去を踏まえて起こりうるのが、白人側の「黒人は自分達に敵意を抱いているのではないか」という恐怖心である。
黒人は、「白人どもはみんな差別主義者だ」と思い込んでいるのではないか、敵意をもって自分達に接してくるのではないか、自分の言動の全てを差別の表れだと解釈されてしまうのではないか・・・。白人は、そんな恐怖心に囚われてしまう可能性を秘めている。
これは、実際に黒人がそう思っているかどうかとは無関係である。過去に、白人が黒人を差別してきたという、動かしようのない事実が、そのような恐怖心を生み出してしまうのだ。そして、その恐怖心を白人が抱いている時、その場に差別感情が皆無であったとしても、あたかも差別が存在しているかのような状況が出現してしまう。
先程言及した事件の動画で、白人警官は恐怖に怯えているようであった、と書いたが、それは「撃たれるかもしれない」という恐怖ではなく、「相手(黒人)が自分に敵意を抱いているのではないか」という恐怖であったかもしれない(その両方の可能性もある)。
差別意識がなかったとしても、過去に差別が行われてきた歴史があるという事実が、差別が今もなお存在しているかのような状況を生み出し、差別の問題を複雑で、解決の困難なものにしている。
ことほど左様に、差別とはその全容を掴むのが難しい問題なのである。
この黒人運転手射殺事件に憤りを覚えた他の黒人が、報復として白人警官を無差別に銃撃する事件を起こした。このとき数人の白人が殺害されたが、彼等が差別主義者であったかどうかはわからない。
くり返しになるが、差別は複雑で、理解するのが難しい問題である。その複雑さを、複雑なまま理解しようとせず、単純化して捉えようとする者が、「白人警官はみな差別主義者だ」という短絡を起こすのである。
真に差別の解消を目指すのであれば、複雑さに耐えうる知的耐久性が求められる。
とは言え、望みもある。黒人運転手射殺事件に対して起こされた抗議デモの中には、白人の参加者も散見されたからだ。(確か、1994年のO・J・シンプソン裁判の時には、白人と黒人の間に深い断裂があったと記憶している)
差別意識は、人種や職業に帰属するのではなく、あくまで属人的なものであるということ。この事実が、常識として広まりつつあるのだろう。アメリカ市民の良識に期待したい。

(②に続く)

RIZIN FIGHTING WORLD GP 2016 無差別級トーナメント開幕戦観戦記

2016-09-26 22:13:44 | 雑文
お久しぶりの観戦記。それにしても大会名長いね。


木村“フィリップ”ミノルVSチャールズ・“クレイジー・ホース”・ベネット・・・・・・クレイジーホース、な、懐かしい。まだ現役だったのね。そして、塀のこちら側にいたのね。格闘技観ててこんな気持ちになろうとは。
ミノル君の負けっぷりに笑わせてもらいました。

アンディ・サワーVSダロン・クルックシャンク・・・・・・クルックシャンクの、場面ごとの対応力が見事。「この状態ではこうする」という判断が的確。また観たい。

才賀紀左衛門VS山本アーセン・・・・・・アーセン勝ったけど、回し蹴りとかバックドロップとか、余計なスタミナ消費する動きが目立ったような気がした。試合中もワイプで抜かれるあびるは、すでにネタと化しているのだろうか。

藤田和之VSバルト・・・・・・前回のRIZIN1での藤田参戦の一報を聞いた時の僕の反応は、「ウォー、藤田がMMA復帰!」「いや、でも藤田って今いくつだっけ?」「45?そりゃキツイなあ」「しかも相手が若手でイケイケのプロハースカって、そりゃ無茶でしょ」・・・・・・で、大方の予想通り完敗を喫したわけですが、まだやる気だったんですね。
いや、藤田好きなんですよ。好きなんだけど、トーナメントにエントリーするのは違うというか、「最強を決める」所とは別枠でやるべきではないでしょうか。試合っていうのは単純に強弱を決するというだけではなく、戦いを通じてドラマを感じるものでもあるわけで、無理して最前線に立とうとしなくても、ドラマを感じる試合ができればそれでいいと思う。でも、無茶を承知でトップを目指すのもまたドラマなわけで・・・・・・。
結果次第では藤田とミルコの再戦もありうるかと思ったけど、ミルコとヴァンダレイも悪くない。なんか、ノスタルジックMMA。

クロン・グレイシーVS所英男・・・・・・クロンの実力がよくわかった。こりゃ本物だね。
しかしこうなると、適当な対戦相手って誰がいるかな。