徳丸無明のブログ

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アニメ『化物語』考――翼を持たぬ猫は旅立つ

2016-04-25 20:37:55 | 雑文
阿良々木暦、戦場ヶ原ひたぎ、八九寺真宵、神原駿河・・・・・・。個性的な名前を持つ『化物語』登場人物の中で、唯一ごく普通の名を有している者、それが羽川翼である。なぜ羽川だけが、ごく平凡な、現実世界にもありえる名を付けられているのだろうか。
『化物語』の登場人物は、皆だいたい口癖というか、お決まりのセリフを持っている。羽川翼の場合は、阿良々木暦の「お前はなんでも知ってるな」に対する返答、「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」がそれに当たる。
知的な優等生キャラの羽川は、実際高校3年生にしてはよく物を知っている。それでたびたび阿良々木暦を感嘆させるのだが、羽川自身は自分の知的能力をどう捉えているのだろうか。
知識が増えるというのは、風船が膨らむようなものだ、という比喩を聞いたことがある。
風船は自己、その内側にある空気が知識、外側にあるのが未知なる世界である。
空気を入れれば、当然風船は膨らむ。膨らんだ分だけ、自分の知識(容積)は増える。しかし、それは同時に風船の面積も拡がる、ということである。面積が拡大すれば、それだけ外界、つまり未知の世界との接触面も拡がる。なので、知識が増えれば増えるほど、自分が知らない対象――無知の知――の量もまた増加するのである。
そして、神ならぬ我々人間が、この世界の事象すべてを掌握することなど不可能である。風船の大きさが、世界とイコールになることなどありえない。だから、人は知識を深めれば深めるほど、自分にはまだまだ知らないことがたくさんある、という感覚を強めてしまう、というのだ。
この喩えが真理だとするならば、阿良々木暦が驚嘆するほどに博識の羽川にとって、世界は目も眩むような広大な未知の領域として自己を囲繞しているに違いない。
だからこそ羽川は、第拾参話「つばさキャット其の参」で、決めゼリフを言う流れになったにも関わらず、「何でもは知らないわよ。何にも、知らない」と呟いたのではなかったか。あの一言こそが、彼女の、嘘偽りなき心の声だったのではないだろうか。
では、このジレンマを解決する術はないのだろうか。
ひとつ言えることは、人間の知性の指標は「知識」だけではない、ということ。「知識」の他に「知の枠組み」というものがある、ということだ。
「知識」とは「情報」のことである。「知の枠組み」とは、情報を分析する視点、「フレームワーク」のことである。
例えば、「知の枠組み」を一種類しか有していなければ、一つの情報につき、一つの解釈しかもたらすことができない。だが、十種類のフレームワークがあれば、一つの情報が十通りの解釈で提示される。後者のほうが、世界はより複雑で、奥行きを持ったものとして知覚されるはずである。
右翼思想に染まりきった人は、あらゆる社会問題を、右に偏った視点から評するし、ゴリゴリのフェミニストは、全ての出来事を父権社会の弊害によるものだと断ずる。
1×1は1である。知のフレームワークが一つしかないと、入力した情報量と同じ数の分析しかもたらすことができない。しかもフレームワークは、しばしば自己の願望というバイアスが掛かっているので、そのバイアスに屈折させられた情報は、似たり寄ったりのものへと変質させられてしまう。
この状態を解消するには、知のフレームワークを更新せねばならない。それは、知的欠乏感を補うにも有効である。
それまで自分が居着いていたフレームワークを否定、もしくは発展的に再構築し、さらには複数化させること。そして、それによって、人間の知的能力は、知識を蓄えるだけではないと悟ること。
知識が拡充するほどいや増す欠乏感・不全感は、このような知的ブレークスルーによって解消されうるだろう。

羽川翼は、高校を卒業したら、進学しないで世界を旅して回る、と言った。「自分は知識に依り過ぎているので、経験を積みたいと思った」のが、その理由であるという。
しかし、それは本音だろうか。
羽川は、両親との間に不和を抱えている。そのストレスが原因で、怪異「障り猫」を発症した。
障り猫――忍野メメが命名したところのブラック羽川――は、ストレス発散のため、無差別に市民を襲撃したが、その中に、唯一選択的に襲った相手がいた。それが羽川の両親である。
もし、世界を見て回る真の動機が、両親から離れたい、というものであったとしたらどうだろう。
確かに、海外に旅立てば、家庭から隔たることはできる。しかし、旅というのは、最終的に出発した家に帰ってくることを本義とする。仮に地球の裏側まで行ったとて、旅を中断しない限り、最後は自宅に戻らざるを得ない。
だから、いくら世界に飛び出したとしても、家庭の問題は一時しのぎの誤魔化しにしかならないのである。
では、羽川はどうしたらいいのだろう。
やはり、直接両親と向き合い、自分の力で決別を果たすべきだろう。阿良々木暦がいみじくも指摘したように、「事情はどうあれ、障り猫を出したのは羽川の弱さであり、苦しい役目を障り猫に押し付けたに過ぎない」のだから。
「清濁併せ呑む」という言葉がある。世の中を、単純な善悪二元論で截然と切り分けた上で悪を排斥するのではなく、汚らしい部分も人間、及び人間社会の一部と認めて受け入れ、共存を図る、という意味だ。
しかし、羽川はそれをしなかった。濁りを受け入れることを拒み、自身の外側に排除しようと――つまり、ホワイトであろうと――した。結果として現れたのがブラック羽川である。
怪異が羽川の弱みに付け込んで取り憑いたのではない。羽川が怪異を必要としたのである。
羽川が為すべきは、ブラック羽川を自らの内に取り込むこと。自分で自分の手を汚すことである。
それは何も、ブラック羽川がしたように、両親に加害行為を加えるということではない。言葉でもいいし、態度でもいい、自力で親と対峙し、決別を宣する、ということだ。(ついでに言えば、阿良々木暦への横恋慕の情もそうである。結果として、障り猫が告白してしまったが、羽川本人が何らかの形でケリをつけねばならない)
ホワイトとブラックが混じり合うと、グレーになる。大人とは、多かれ少なかれグレーな存在として生きているものだ。
先程の「知識」と「知の枠組み」の話で言うと、知のフレームワークを更新、もしくは複数化するということは、言葉を換えれば、人間的に成長する、ということである。
やはり羽川翼は、成長せねばならない。

さて、冒頭の問いに立ち返ろう。
なぜ羽川翼は、化物語世界において、唯一平凡な名前を冠されているのか。
これは、他の登場人物から見たほうがわかり易いかも知れない。
個性的で奇抜な名前。およそ現実世界にはありえない名前。それらが指し示しているのは何か。
考えられるのが、現実には実在しない人物である点を強調している、ということだ。阿良々木暦は、その名をもって、「私はフィクションの世界の住人です」と宣言させられている。奇抜な名によって、「非実在青少年」のタグを付与されているのだ。奇抜な名前は、そのような働きを持つ記号として機能する。
しかるに羽川翼は、そのラベリングを免れている。ただひとり羽川だけが、フィクションの世界にいながら、フィクションの住人としての認定を受けていないのだ。これは何を意味するのか。
羽川翼は、フィクションと現実の中間に位置している、あるいは、フィクションと現実を架橋する役目を果たしている、という解釈はどうだろう。
芝居には、「狂言回し」なる役どころがある。主人公ではないが、物語の進行係として、展開を作ったり、登場人物同士を結びつけたりする者のことを指す。
『化物語』において、羽川翼が狂言回しの任を担っていることは明白である。この狂言回しは、登場人物同士の仲介のみならず、芝居と観客の仲介も受け持つことがある。本人にとってはわかりきったことや、心の声を敢えて口にしたり、現実では決して言わないような解説的セリフを吐いたりするのがそれに当たる。観客に、物語展開や、登場人物の心理を噛み砕いて伝えるための所作なのだ。それは、観客に対する「目配せ」である。
「こういうことですよ。理解してね」
狂言回しは、芝居を続けながら――つまり、フィクションの世界を生きながら――観客(現実)にアピールする。
それが、フィクションと現実の中間を生き、両世界を媒介する者である。
そういえば、羽川翼はDVDとブルーレイのオーディオコメンタリーのメインパーソナリティを務めてもいた。アニメ世界と、視聴者の中間に位置しているオーディオコメンタリーの。
さてしかし、「羽川翼=媒介者説」とは別の解釈も成り立つように思われる。
ごく平凡な名前とは、現実世界に実在してもおかしくない名前ということでもある。
羽川翼は、現実に存在しうる。それは、現実世界を生きる私やあなたもまた、ほかならぬ羽川翼であるかもしれないということ、もしくは、我々は皆「羽川翼的なるもの」を内に秘めている、ということではないだろうか。
だとすると、「成長せよ」というメッセージは、羽川翼を経由して、我々に向けて照射されていることになるだろう。視聴者である我々もまた、成長することを求められているのだ。
この解釈は、突飛すぎるだろうか。

羽川翼本人に話を戻そう。彼女は、旅立とうとしてるのだった。
旅は人を成長させるという。しかし、羽川の旅は、羽川自身を成長させることはない。成長するには何を為さねばならないかを、気付かせてくれるに過ぎない。
いくら見聞を深めようとも、知的欠乏感はより一層強まるだけだろう。いくら両親から隔たろうとも、家庭の不和の悩みは、どこまでも付きまとうだろう。
羽川が悟るべきは、次の2点である。
ひとつは、知識を拡充すればするほど、自分は何も知らないという実感を強めてしまうということ。その循環から逃れるには、知のフレームワークを組み立て直さねばならないということ(その意味で、知識に依らずに経験を積むべきという自覚は、いい所を突いている)。
そしてもうひとつは、両親から取るべきは、空間的な距離ではなく、精神的な距離なのだということ。
おそらく羽川翼は、旅を終えてようやく、成長するためのスタートラインに立てるのだ。

犬は人に懐き、猫は家に懐くという。ペット連れで引っ越しをすると、犬は平然としているが、猫はしばらくの間落ち着きをなくす。
やはり、猫には帰るべき家が必要である。それが手に入らないのであれば、野良になる他ない。
真に帰るべき家を持たぬ猫、羽川翼。彼女はいつの日か、自らが望む住処に辿り着けるのだろうか。
ともあれ、今は旅程の無事を祈るとしよう。


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