徳丸無明のブログ

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安易な二元論からの脱却を企図して・後編

2018-06-19 21:20:22 | 雑文
(前編からの続き)


社会派のドキュメンタリー番組にはある種の単調さが伴っている。どれを観てもみな同じに見えてしまうのだ。
もちろん、放送回によって内容もテーマも題材も違ってはいる。にもかかわらず、どれも同じに見えてしまうのだ。それが何故なのか、長らく謎であった。
最近になって、それはドキュメンタリーを制作する側の視点、製作者の、対象に対する整理の仕方の問題なのだと気付いた。
社会派ドキュメンタリーの撮影対象は、概ね被差別者・罹災者・貧者・病者などの「社会的弱者」たちである。つまり、「リベラルな視点」によって撮られているという共通項がある。この「リベラルな視点」こそが単調さの原因であったのだ。
リベラルは基本、「弱者に寄り添う」姿勢をとる。弱者に手を差し伸べ、その声に耳を傾け、背中を支えようとする。その時弱者の声は、「強者の批判」「社会的告発」という文脈に置かれる。すると何が起こるのか。
対象を被差別者に絞って考えてみたい。長らく虐げられてきた被差別者。その被差別者が差別者を告発する。その非道を、冷遇を、理不尽を、悪辣さを。
この〈被差別者‐差別者〉の図式は、そのまま〈善‐悪〉に対応する。そしてこの構図はドキュメンタリーの中では、「悪はこうべを垂れて善の言葉を聞かねばならない」というメッセージを構築する。弱者を支援することが目的である以上、このメッセージは当然のものである。それこそが、あるいはそれだけが社会派ドキュメンタリーの存在意義と言ってもいい。しかし、同じ図式による同じメッセージを何度も何度も反復するとどうなるのか。
悪(差別者)を告発する善(被差別者)という図式が反復されることによって、その図式そのものが強化されてしまう。同じメッセージは何度も繰り返されることで、人々の意識に刷り込まれ、常識として登録される。「差別はよくない」というのが常識であるのと同様、「悪(差別者)はこうべを垂れて善(被差別者)の言葉を聞かねばならない」というのもまた常識だと認識されるようになる。
すると、被差別者は「告発を行う主体」という社会的立ち位置を確固たるものにすることができるが、それと同時に〈善・被差別者‐悪・差別者〉という対立構造も固定化されてしまう。そうなると、被差別者は「差別者を告発する権利」を半永久的に手にする代わりに、その権利が失効するまで被差別者であり続けなくてはならなくなってしまう。「悪(差別者)はこうべを垂れて善(被差別者)の言葉を聞かねばならない」というメッセージが正しいとするならば、告発を行う側の〈善〉は、常に〈被差別者〉でなければならない。
そもそも、差別の告発は何のために行われるのか。差別の解消のため、被差別者という社会的存在を抹消するために行われなければならないはずだ。なのに、〈善・被差別者‐悪・差別者〉という、あまりに単純化された図式で語られてきたために、「悪(差別者)はこうべを垂れて善(被差別者)の言葉を聞かねばならない」というメッセージが、あまりに反復されすぎてしまったがために、被差別者は釘を打たれたようにその立場に留めおかれ、差別者を糾弾する権利を保持できる代償として、差別の構造は解体されず温存されることになってしまった。
つまり、この種のドキュメンタリーに典型的に見て取れる「リベラルな視点」、弱者に寄り添い、強者を告発するという図式が反復・再生産されることによって、弱者は弱者であり続けることを余儀なくされてしまったのである。この面において、日本の左派の責任は重いと思う。
また、深く考えなくてもわかることだが、弱者の主張が必ずしも正しいとは限らない。陰湿で利己的な弱者もいれば、清廉で慈愛に満ちた強者もいる。弱者はゆとりがないため心が狭くなりやすく、強者は逆に心が広い人が多い、ともよく言われる(あくまで傾向の話だが)。弱者が、ただ弱者であるというだけで全面的に肩入れするということは、弱者が抱える歪みを肯定することにも繋がってしまう。
現に存在する社会問題を知るために、その入り口として単純化されたわかりやすい切り口で物語る、というのも必要なことであり、それはドキュメンタリーの優れた形式のひとつと言っていいだろう。しかし、社会はそんなに単純にはできていない。弱者を思いやるがあまり、過剰に肩入れし、その主義主張を全肯定するということは、現実を子供向けの特撮劇のような勧善懲悪のストーリーに落とし込むことで、弱者の誤りに目をつむり、強者の正論から目を逸らすことを意味する。
弱者に寄り添うことは大切だ。必要不可欠と言ってもいい。だが、その言い分を全肯定するとなると話が違ってくる。弱者の論理は常に整合的なのか。過つことが一切ないのか。「思いやる」ことは「全肯定する」ことではない。弱者を、弱者の立場から解き放つためには、全肯定以外の支援する態度が求められる。



「性善説」と「性悪説」。
人間の性向は本質的に善なのか悪なのか、という疑問に対する二通りの回答。一般的に性悪説を採る者はリアリスト――万人の万人に対する闘争的人間観――であり、性善説を採る者は理想主義者とされる。
しかし、この「性善説と性悪説」という二分法は、善と悪を固定的なものと捉える誤解に基づいている。「善と悪」は、社会的価値判断によって決されるものである。そして価値基準は、社会集団によって異なる。
古代ギリシア時代のスパルタにおいては、子供は7歳から鞭打たれつつ軍事教育を受けることが理にかなっていたし、国家社会主義ドイツ労働者党政権下の第三帝国においては、優生学の見地から精神薄弱者やユダヤ人は断種の対象とするのが社会正義とされていた。何を善と見做すか、何を悪と見做すかは、各共同体の価値基準によって決せられる。
また、基準の適用範囲も様々だ。自分の家族だけが幸せならそれでいいと考える者は、他人にいくらでも冷酷になれるし、限りなき博愛の精神を持つ者は、地球の裏側の顔も知らない相手の苦境にすら心を痛めずにはいられない。
善や悪といった性向が、所与の条件としてあらかじめ人間に備わっているのではない。人間のその時々の言動が、帰属する集団の社会通念に照らし会わされて、事後的に「善」なり「悪」なりといった判定が下されるのである。倫理基準の適用範囲たる集団内部においては当然のように要請される救助も、部外者に対しては一切不要とされる。もちろん社会通念が人間の性向を方向付けるという面もあるわけで、社会通念と人間の性向は相関・輻輳関係にある。
人間の本質は善か悪かを論じることに意味はない。1歳児の行動を観察してみればいい。何の理由もなく同年齢の子供に手を上げたかと思えば、泣いている子におもちゃを渡して慰めようとする。幼児はその都度思いつくまま行動しているだけに過ぎない。善悪の基準を内面化し、自明としている大人が、それを「やさしいね」とか「悪い子」などと裁断しているのだ。
だから、性善説を採って他人を全面的に信用するのも、性悪説を採ってチェック体制を過剰にするのも、どちらも極端と言える。善にも悪にも転びうるのが人間。その本質が善なのか悪なのか、ではなく、どうすればより多くの善を引き出し、悪を抑制できるのかという、社会設計の形が問われなけらばならないのだ。

安易な二元論からの脱却を企図して・前編

2018-06-18 22:05:10 | 雑文
二元論(にげんろん)・・・①一般に対象を考察するのに二つの異なった原理でする考え方。②哲学で、世界が二つの独立した根本原理から成り立っているとする考え方。精神と物質の二つの実体をみとめたデカルトの立場はその代表例。③宗教で、世界を善悪二神の争いと見る考え方。ゾロアスター教・マニ教など。〈対義語〉一元論、多元論。(『日本語大辞典』講談社)



もう5年程前になるだろうか。さまぁ~ずの街ブラ番組「モヤモヤさまぁ~ず2」を観ていた時のこと。テレビ画面には東京都内のどこにでもある住宅街が映し出されていた。なんでもない平凡な風景、その背後に町内の掲示板があった。出演者の笑い声が響く中、掲示板の隅に、「ここより先オウム立ち入り禁止」と書かれていたのがふと目に入った。
その瞬間、かつての差別を思い出した。差別を伝える学習教材に記載された「ここより先ブラク立ち入り禁止」と書かれた看板の、古めかしいモノクロ写真。遥か昔の、日本社会が恥として糾弾してきたはずの陋習は、消え去ってなどいなかった。臆面もなく一部の人々への排除の姿勢を露わにしてみせるその様は、現代にもなお息づいていたのだ。
それとこれとは話が違う、と思われるだろうか。出自だけで不当な扱いをされてきた被差別者と違い、オウム真理教は地下鉄サリン事件を筆頭に数多くの犯罪を犯してきた。未だに何を起こすかわからないカルト集団を恐怖するのは当たり前で、極力排除したいと願うのは当然ではないか。そう思われるだろうか。
しかし、本当にそうだろうか。元オウム真理教、現在のアレフ、ひかりの輪、山田らの集団は、今もなおテロや殺人を犯しかねない潜在的犯罪集団なのだろうか。
映画監督の森達也によれば、元オウムの危険性は、公安調査庁の情報操作によって作り出された面が大きいという。


一九五二年に施行された破壊活動防止法に基づいて、国家の治安・安全保障における脅威に関する情報を収集・分析する情報機関として公安調査庁は設立された。当初の監視の対象は日本共産党であり、その後は新左翼系のセクトなども対象団体になった。しかし冷戦終結後に存在意義を失い、リストラも漸次進行し、サリン事件が起きる直前には解体の声もあった。その公安調査庁にとってオウムは、まさしく生き延びるための糧となった。当時の職員から、地下鉄サリン事件が起きた日の庁内の異常な高揚について聞いたことがある(ほとんど万歳三唱の雰囲気だったという)。つまりオウムの危険性を煽り続けることが、今の彼らにとってのレゾンデートルなのだ。
(森達也『希望の国の少数異見――同調圧力に抗する方法論』言視舎)


公安調査庁は、アレフとひかりの輪の脱会者数を伏せ、入会者数のみ強調することで、あたかも信者が急増しているかのような印象操作を行っているという。つまり、公調の存続のために、元オウムは今も危険な団体だとアピールされ続けているのだ。おそらく、公調の監視対象となる団体が新たに出現しない限り、元オウムは半永久的に当局から危険視され続けることだろう。
警察発表を無批判的にたれ流す御用マスコミが決して書かない真実である。しかし、小生はアレフ等オウムの流れを汲む団体が、もう2度と罪を犯すことはない、と言うつもりはない。その可能性は、ゼロではない。ここで言いたいのは、「罪を犯すことのない善良な一般市民である我々」と、それに対する「いつ犯罪に手を染めるかわからない潜在的犯罪者(もしくは犯罪者集団)」という二項対立で捉えるべきではない、ということである。
平凡な一般人として暮らしている人々は、自分自身を無条件に「これまでもこれからも犯罪など犯さない善良な市民」だと思い込んでいる。そして、その対極、もしくは別世界に「悪質な犯罪者」がいると考えている。
だが、そうではない。我々は、多かれ少なかれ潜在的には犯罪者なのである。殺人事件の加害者の知人がよく「とても良い人でそんなことをするようには」と語っているように、いくつかの条件が重なれば、人間だれしも犯罪と親和的になる。個人的な資質によってのみ法を犯すのではなく、置かれた立場が犯罪へと後押しするのである。
もちろんアレフとひかりの輪と山田らの集団は、教団名がオウム真理教であった時代の数々の犯罪行為を自分達の十字架として語り継いでいかねばならないし、95年当時に信者でなかった者も、その罪を我がこととして受け止めるべきだと思う。
しかし、それはそれとして、「罪を犯さない善良な一般市民」と「罪を犯しうる潜在的犯罪者(もしくは犯罪者集団)」という単純な二分法で分断するのも間違っている。人間は、程度の差こそあれみな潜在的には犯罪者なのである。



いつだったか、市民プールの排水溝の蓋が開いていて、子供がそこに吸い込まれて命を落とすという悲惨な事故が起きたことがあった。その事故を報じるニュースの中で、街頭インタビューに応じた子持ちの男性が「プールのような施設は管理をきちんとしてリスクをゼロにしてほしい」と答えていた。
子供を持つ親としてのその気持ちはよくわかる。だが、原理的にリスクはゼロにすることはできない。
この世には、「リスクがある状態」と「リスクのない状態」の二極があるのではない。「リスクの高低差のある状態」があるだけなのである。
リスクとは、施設などの場の在り方によってのみ決されるのではない。場所と人間の関係性によって決されるのである。そして人間とは、生きている以上常に死の可能性に脅かされているものである。いくら場所の安全性を高めようとも、生身の存在たる人間が関わってくる以上、リスクをゼロにすることは不可能である。
原理的に言ってリスクをゼロにする方法はただ一つ。「死ぬ」ことだけである。
小生はなにも屁理屈を弄しているのではない。生身の存在たる人間は、常に何らかのリスクに脅かされている。例えば、いつも通勤や通学で歩いている道を、いつものとおり歩いていたら、通り魔に刺されてしまうかもしれない。自宅で普段どおりくつろいでいたら、放火されて焼け死んでしまうかもしれない。それらの可能性は限りなく低いものの、ゼロではない。0,1%未満の確率でしかなくても、人間には常に何かしらのリスクが付きまとっている。それが生きるということである。
だから、リスクを完全に排したいのであれば、死ぬしかないのだ。死ねばリスクに脅かされることはないからね。
もちろんプールなどの施設の管理者は、最大限安全に配慮すべきだろう。だが、「リスクゼロ」を求めるのは、リスクというものの在り方について根本的な誤解をしている。人間は、リスクを限りなくゼロに近づけるよう努力することはできる。だが、「限りなく近づけられる」だけで、「完全なゼロ」にはならない。
リスクのこのような性質を理解していないと、人の努力によっては回避できないリスクまで責任者のせいにする見解が出てくる。その果てに極端な犯人探しが行われ、責任を取りたくない大人達の手によって公園の遊具がすべて撤去されるに至るのである。
同様の思考によって、医療ミスに対する訴訟が起こる。手術の難易度というのは病状によって様々だろうが、100%成功する手術というのはあり得ない。医者も人間である以上、一定の確率でミスは発生しうる。ミスによって後遺症を抱えることになったり、家族を失った人達には気の毒ではあるが、それは起きるときには起きてしまう。そのやむを得ない可能性を理解できず、100%成功させて当たり前と考える者が医療ミスの訴訟を起こす。
確かに、医療ミスの中には常識的な手順を踏めば起こらないような性質のものもあるわけで、その判別は難しいところではあるが、ろくに医学の知識のない判事と裁判官が、やむを得ないミスまで有罪とするケースがある。すると訴訟のリスクを嫌う医者が難しい手術を避けはじめる。結果として患者全体の不利益に繋がってしまう。
思えば、過度な自己責任論は、リスクゼロ願望の対極に位置している。どちらも中間がないという点で極端だ。「白か黒か」の二分法でしか考えられないから極端に走る。大抵世の中の真相というのは、白でも黒でもない、その中間に位置しているものである。

(後編に続く)