コリン・タッジの『農業は人類の原罪である』を読んだ。
この本の、タイトルが指し示す内容は次のとおり。
かつて、自然が豊かであった頃、人類は主に狩猟採集を生業としていた。だが、環境の変化によって、動物や木の実などがとれにくくなってくると、農耕に力を入れざるを得なくなる。
その試みは成功し、人類は、農耕によって食料を確保するすべを確立した。しかし、それは上手くいきすぎてしまった。食料が大量に得られるようになった結果、人類はかつてないほど人口を増加させるようになり、その増えた人口の糧を確保するために、農耕の規模を拡大せざるを得ず、するとまた人口が増え…という、終わりのない循環に陥ってしまった。
読後、思った。
あれ……これって資本主義じゃねえか。
資本主義は、資本(お金)の絶えざる増殖を追求するものである。ひとつでも多く生産し、一円でも多く稼ぐ。昨日よりも今日、決して後退することなく突き進み、ゴールは設定されていない。増殖することが第一目的になっているので、それ以外は顧みられないことが多く、本来は人の暮らしの豊かさのためであったはずのものが、逆に人を苦しめる要因に成り果てていたりする。
このタッジが記述するところの農耕は、まさに資本主義そのものだ。
全ては、産業革命から始まったと思っていた(いや、歴史よく知らないんだけどさ)。
プロテスタントの倫理と資本主義の精神Shit!と思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
「貨幣」とか「資本」とかの概念によって指し示される事物が誕生する遥か以前から、人類の中には、資本主義のエートスが宿っていたのだ。原‐資本主義、もしくは前資本主義とでも呼ぶべきものが。そして、そのエートスが、貨幣経済に取り込まれることで強烈な原動力となり、現在の高度資本主義へと経済活動を突き動かした。そういうことではないのか。
カルチャー・culture〈文化〉の語源は「耕す」であるという。まさに、耕すことから始まっていたのだ。
これは、西田正規の『人類史のなかの定住革命』とも平仄が合っている。
定住革命とは何か。
およそ一万年前に、人類はそれまで行ってきた遊動生活を捨て、定住生活を始めた。人類が誕生したのは、遅くとも400万年前とされており、遊動を行っていた期間の方が、はるかに長い。元々類人猿が遊動を習性としており、人類はそれを引き継いでいたのだ。
遊動生活では、移動するたびに新しい環境に適応せねばならない。人類はそのために、探索能力を発展させた。だが、定住してしまえば、その探索能力を発揮する場面が失われていく。なので、人類は、宗教や芸術や音楽や工芸などに、その有り余った能力を振り向けた。
まさに「革命」と呼べるほど、「遊動」時にはなかったものが、「定住」後に爆発的に生み出されるようになった。人類は、物理的な空間を移動しない代わりに、心理的な空間を拡大させるようになった。
これが定住革命。
しかし、だとすると問題の根は深い。資本主義ならば、人類の歴史の中ではごく最近生まれたばかりだから、どうとでもなるような気もするが、「資本主義的なるもの」は、もっと古くからあり、人類の精神に深く食い入っているはずで、だとすると、そう易々と剔抉できるものではないだろう。
環境破壊、資源の枯渇、労働者の疎外、経済格差等々、資本主義の限界が喧伝されるようになって久しい。これをなんとかしなくては、ということも、世界中で言われている。
では、そのために必要な視点とは?
この問題に関しては、産業革命、もしくは貨幣経済の興りから、長くても、物々交換が行われていた頃から説き起こすのが常だ。
だが、それだけでは充分ではないのかもしれない。もっと長い射程、人類が農耕を始めた頃から眺める視点が必要なのかもしれない。
オススメ関連本・鯖田豊之『肉食の思想――ヨーロッパ精神の再発見』中公文庫
この本の、タイトルが指し示す内容は次のとおり。
かつて、自然が豊かであった頃、人類は主に狩猟採集を生業としていた。だが、環境の変化によって、動物や木の実などがとれにくくなってくると、農耕に力を入れざるを得なくなる。
その試みは成功し、人類は、農耕によって食料を確保するすべを確立した。しかし、それは上手くいきすぎてしまった。食料が大量に得られるようになった結果、人類はかつてないほど人口を増加させるようになり、その増えた人口の糧を確保するために、農耕の規模を拡大せざるを得ず、するとまた人口が増え…という、終わりのない循環に陥ってしまった。
読後、思った。
あれ……これって資本主義じゃねえか。
資本主義は、資本(お金)の絶えざる増殖を追求するものである。ひとつでも多く生産し、一円でも多く稼ぐ。昨日よりも今日、決して後退することなく突き進み、ゴールは設定されていない。増殖することが第一目的になっているので、それ以外は顧みられないことが多く、本来は人の暮らしの豊かさのためであったはずのものが、逆に人を苦しめる要因に成り果てていたりする。
このタッジが記述するところの農耕は、まさに資本主義そのものだ。
全ては、産業革命から始まったと思っていた(いや、歴史よく知らないんだけどさ)。
プロテスタントの倫理と資本主義の精神Shit!と思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
「貨幣」とか「資本」とかの概念によって指し示される事物が誕生する遥か以前から、人類の中には、資本主義のエートスが宿っていたのだ。原‐資本主義、もしくは前資本主義とでも呼ぶべきものが。そして、そのエートスが、貨幣経済に取り込まれることで強烈な原動力となり、現在の高度資本主義へと経済活動を突き動かした。そういうことではないのか。
カルチャー・culture〈文化〉の語源は「耕す」であるという。まさに、耕すことから始まっていたのだ。
これは、西田正規の『人類史のなかの定住革命』とも平仄が合っている。
定住革命とは何か。
およそ一万年前に、人類はそれまで行ってきた遊動生活を捨て、定住生活を始めた。人類が誕生したのは、遅くとも400万年前とされており、遊動を行っていた期間の方が、はるかに長い。元々類人猿が遊動を習性としており、人類はそれを引き継いでいたのだ。
遊動生活では、移動するたびに新しい環境に適応せねばならない。人類はそのために、探索能力を発展させた。だが、定住してしまえば、その探索能力を発揮する場面が失われていく。なので、人類は、宗教や芸術や音楽や工芸などに、その有り余った能力を振り向けた。
まさに「革命」と呼べるほど、「遊動」時にはなかったものが、「定住」後に爆発的に生み出されるようになった。人類は、物理的な空間を移動しない代わりに、心理的な空間を拡大させるようになった。
これが定住革命。
しかし、だとすると問題の根は深い。資本主義ならば、人類の歴史の中ではごく最近生まれたばかりだから、どうとでもなるような気もするが、「資本主義的なるもの」は、もっと古くからあり、人類の精神に深く食い入っているはずで、だとすると、そう易々と剔抉できるものではないだろう。
環境破壊、資源の枯渇、労働者の疎外、経済格差等々、資本主義の限界が喧伝されるようになって久しい。これをなんとかしなくては、ということも、世界中で言われている。
では、そのために必要な視点とは?
この問題に関しては、産業革命、もしくは貨幣経済の興りから、長くても、物々交換が行われていた頃から説き起こすのが常だ。
だが、それだけでは充分ではないのかもしれない。もっと長い射程、人類が農耕を始めた頃から眺める視点が必要なのかもしれない。
オススメ関連本・鯖田豊之『肉食の思想――ヨーロッパ精神の再発見』中公文庫