徳丸無明のブログ

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病院の代理としての救急車と、常識を共有できない人たち

2023-01-31 22:38:38 | 時事
不要不急の119番通報が増加しているとの話題が、ちょいちょいメディアを賑わせている。些細なケガや不調など、体調に関する通報もあれば、「電球を換えてほしい」とか「家の鍵をなくした」など、体の具合とは一切関係ないものもあるとのこと。
コロナ禍のため、ただでさえ出動要請が増えている今、ひとりでも多くの命を救うため、安易な通報は控えてほしい、と呼びかけられている。
私見では、救急車を病院代わりに使っている人も一定数いるのではないかと思う。救急隊員は、体調を診てくれる。どこまでしてくれるのか、正確なことは知らないが、脈をとったり熱を測ったり、基本的な容態の確認をしてくれるし、応急処置も求められる仕事だから、止血をしたり包帯を巻いたりなどもしてもらえるだろう。
だから、ちょっと体調が悪いなと思ったら、救急車を呼べばいい、と考える人もいるのではないか。救急車は、呼べば必ず来てくれる。自宅だろうがどこだろうが、向こうからこちらに来てくれる。病院は自分から訪れなければならないが、救急車は向こうから来てくれるのだ。しかもお金がかからない。無料で体調を診てくれる。いいことずくめだ。
だから、病院まで行くのは面倒だし、お金も払いたくないという人が、「病院の代理」として救急車を呼ぶのではないだろうか。
救急車を呼べば、自分の体調がどれほどのものかを診察してもらえる。必要とあらば病院に行くが、病院に行って「来なくてもよかった」となると、診察料を損してしまう。だから、まず救急車。救急隊員に、体調の度合いを診てもらえばいい。病院はそのあとだ。「この程度で通報してはいけない」と文句を言われるかもしれないが、そんなのは聞き流せばいい。どのみち連中は通報があれば必ず駆けつけなければならないのだ。
・・・と、このように考えている人が、少なからずいるのではないだろうか。彼らにとって救急車は、「電話すれば24時間いつでも向こうからやって来てくれる無料の病院」なのだ。
なので、不要不急の119番通報を減らしたいのであれば、今現在の「救急車は本当に体の具合が悪い時しか呼んではいけません」という呼びかけだけでなく、「救急車は都合のいい病院ではありません」という呼びかけもつけ加えるべきではないだろうか。

別角度からもうひとつ。
体調がそれほど悪くないのに救急車が呼ばれた現場に居合わせたことが数回ある。通報者はいずれもおじいさん。70~90くらいの、精彩を欠いた、身寄りもおらず友達もいない、といった風情の高齢者男性だった。
彼らはみな、少し元気がないのかもしれないが、どこもケガしておらず、意識もはっきりしていた。「なんとなく具合が悪い気がする」程度の感覚で呼んでいたようだった。
印象的だったのは、駅前のロータリーでのこと。僕が来た時は、ちょうど救急車が引き上げようとしていた。すでに通報者の容態確認を行い、搬送には値しないと判断していたようだ。
通報者であるおじいさんは、走り去る救急車に大声で「ごめーん!」と叫んでいた。恐らく救急隊員に「この程度で呼ばないでくれ」と注意されたのだろう。そして自分の体調について、ぶつぶつと不満を呟いていた。
その様子は、明らかに「まとも」ではなかった。精神に変調をきたしているように思われた。
それを見て、僕は思った。世の中には特定の常識を共有できない人もいるのだと。
常識を共有できないというのは、「常識に合わせるのが嫌だから拒んでいる」ということではなく、「精神的な理由で常識を理解することができない」ということである。
この場合の常識は「救急車は、自力では動けないほど体調が悪化したり、大きなケガをした時しか呼んではいけない」というものだが、彼らはそれを理解できないのだ。常識は、それを理解できて始めて「受け入れる/受け入れない」の選択をすることができる。理解できないのであれば、選択することすらできない。
悪意があるのではない。診察料を払いたくないという打算があるのでもない。ただ、社会の大多数の人々が当然のこととして共有している常識が、どうしても共有できないのである。本人の悪意や怠惰ではなく、精神の失調によって。
たぶん、この手の人たちには「まともな呼びかけ」は通じない。「救急車は不要不急で呼んではいけない」という常識が共有できないのだ。だから、「常識を共有しろ」という呼びかけ自体が聞き入れられないのである。理解のできないことをいくら訴えてもしょうがない。
不要不急の119番通報をする人は、非常識だと非難される。だがその非難は、相手が常識を共有していなければ意味がない。常識を共有していれば、非難に対して反省したり反発したりといった正常な反応を返すことができるが、共有されていなければ、非難の意味を理解することができない。
だから、常識を共有していない人を非難しても無意味なのだ。非難するそれ以前の問題として、常識が理解できていないのだから。前提がまず成り立っていないのだ。
彼らに必要なのは、常識を説いて聞かせることではなく、非常識さの叱責でもなく、精神の不調に対する手当である。常識を共有できない精神状態という根本を改善しないと、どうしようもない。ひょっとしたら、自分の体調すらうまく感知できていないのかもしれない。
それにしても、どうしてこのような人々が増えているのだろうか。これもまた、現代社会の病理なのだろうか。

明治屋 スキッピー スーパーチャンク・クリーミー

2023-01-27 23:40:16 | 
今日は塗る豆です。






ピーナッツバターって食文化史に記録される一大発明ですよね。幼いころに『エルマーのぼうけん』を読んで、その未知の食べ物に憧れました。チャンクは粒ありでクリーミーは粒なし。
普通はパンに塗って食べますけど、僕はスプーンですくって直食べするんですね。甘さひかえめでコクがあります。
また思い出話でもしましょうかね。僕は以前、イベント運営のバイトをしていました。その中で一番多かったのが福岡ドームでの野球の仕事。野球の試合のときに、接客をするのです。
ある日、コカコーラの社長さんが始球式を務めたことがありました。コカコーラウエストだったか、コカコーラの西日本支社の社長さんということで、50歳くらいの人でした。
その日のラッキーセブンの風船上げのとき、ドームのスクリーンに、コカコーラの社長が大映しになりました。通常福岡ドームでは、7回裏のホークスの攻撃の前に、「いざゆけ若鷹軍団」が流れ、お客さんが風船を飛ばします。その間スクリーンには、お客さんの姿が映し出されます。だいたいカメラは10秒ごとに切り替わり、曲の終わりまでに平均20~30人ほど映し出されるのです。
しかしその日は、コカコーラの社長ひとりしか映し出されませんでした。福岡ドームの上のほうには、ボックスシートっつう席がありまして、まあ言うたらお金持ってる人が優雅にくつろぎながら観戦するための席なんですけど、カメラはその席に座るコカコーラの社長を固定で映し続けていたのです。曲の始まりから終わりまで、社長ひとりしか映されませんでした。
僕は、「ケッ、スポンサーに媚びやがって」と腹を立てました。一般のお客さんは無視して、大口のスポンサー様を優遇するやり方に反発を感じたのです。
ですが社長の笑顔は、この上ないほどさわやかなものでした。自分がスクリーンに映っていると気づいた社長は、カメラに向かって全力で手を振っていたんですけど、その笑顔がとにかくさわやかだったんですね。
まさにさわやかそのものというか、さわやかを体現した笑顔というか、この人ほどコカコーラの社長にふさわしい人はいない、と思わされるほどの強烈なさわやかさでした。「さわやか」がウリのコカコーラ。そのコカコーラの社長として、適任者であることを納得せざるを得ないさわやか笑顔だったのです。
社長は、スポンサーとか、大人の関係とか、会社の利害とか、そういったしがらみをいっさい考慮に入れず、ひたすら無心に、一生懸命手を振っていました。僕のひねくれた心をあざ笑うかのようでもありました。
皆さんにそのときの社長の笑顔をお見せすることはできませんから、僕が言いたいことがうまく伝わっていないかもしれませんが、とにかくコカコーラの社長の笑顔はこの上なくさわやかだったのです。
僕はスポンサーに媚びるドームの姿勢に反発しつつも、そのさわやかさに圧倒させられてしまいました。
あれからもう15年ほど経ちました。超絶さわやかなコカコーラの社長は、まだ社長の座にいるのでしょうか。それとも、代替わりによって引退してしまったのでしょうか。ひょっとしたら既に会長の座に登りつめ、さわやかの覇者の名をほしいままにしているのかもしれません。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
本日政府が、5月8日にコロナを感染症法の2類相当から5類に引き下げるとの決定を行いました。この動きに合わせて、屋内でのマスク着用も不要とすべきかという議論が出ています。現在は屋外では不要、屋内でも他者との距離が取れていれば不要とされていますが、公共交通機関、および病院や飲食店などの経営側から求められる場合を除いて、屋内も基本的にマスク不要としていいのではないか、という提案です。今回政府が示した指針は、「屋内外を問わず個人の判断にゆだねる」という、責任逃れとも取れるものでした。
個人的には解除賛成なのですが、反対している人たちも当然います。なので、当たり前の話ですが、解除しようがしまいが、万人に納得のいく決定とはならないのですね。
コロナにかんして、どの決定もすべてそうだったように思います。どの選択にも賛成派と反対派がそれぞれ一定数以上いて、どちらを選ぼうが不満が残る人たちが生み出されてしまう。
社会的決定とはいずれもそのような性格のものではありますが、感染症においては「死の危険」をはらむ決定なので、不満がしこりになりやすい。そしてそのしこりは、社会に「分断」をもたらしかねないのです。
「分断」という言葉は少し強すぎるかもしれません。たとえばアメリカであれば、人種も出自も信仰も階層もまったく違う人々の寄り集まりなので、同じ国に暮らしていても、みな交わることのない個別の中間共同体に属しており、それゆえ生々しい分断が存在します。それらバラバラな人たちがアメリカ人としてひとつになるのは、唯一戦争ぐらいしかない、という悲しい現実があるのです。
しかし日本は、「単一民族幻想」がぬけぬけとまかり通ってしまうほどに均質性の高い国。対立が生じることもありますが、最終的には「なんだかんだ言っても同じ日本人じゃないか」みたいなノリでまとまろうとします。
ただ、これからもそのノリが通じるのだろうか、という気もするのです。ポスト・トゥルースの時代。何を正しいと信じるかは好みの問題でしかない時代。価値観は多様性を極め、これから先も多様化が進みこそすれ、縮減することはまずありえないことを思うと、それぞれの信念は拡散するばかり。
日本社会において、今まではリアリティがなかった「分断」という言葉が、コロナを機に現実的なものとなってきはしまいか、と思うのです。
いや、単なる気のせいかもしれませんけどね。
でもコロナが人々の間の空間的距離を拡大したように、意識の上での距離も拡大させてしまったらどうでしょう。それは病のダメージよりもよっぽど大きな痛みを社会に及ぼしてしまうのかもしれません。