徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

備忘録として――少子化問題

2016-02-28 21:43:48 | 雑文
笠井潔と藤田直哉の対談集『文化亡国論』を読んだ。
話題が日本の21世紀の展望に及んだ時、笠井が次のように述べていた。


日本列島で人口が減りはじめたのは、この一万年で最初のことでしょう。縄文時代は増減なし、あるいはきわめて微小な漸増傾向で、弥生時代以降に人口が増えはじめ、明治以降さらに急激に伸びて一億二千万を超えた。それが、ようやく減りはじめたわけです。人口現象は長期的なトレンドであって、一時的な現象でないことははっきりしている。
人口の減少傾向はヨーロッパでも同じことで、増えているアメリカが先進諸国では例外的なんですね。アメリカは特殊な国で、いまでも移民をどんどん入れる。貧富の格差の大きな国で、先進国の豊かさを享受できていないニューカマーの多くは出生率が高い。だから増え続ける。中国が一人っ子政策の緩和に動きはじめたのは、経済的な豊かさが達成されれば、人口の増加傾向は抑制されるという判断があるからでしょう。
狩猟採集生活の段階では人口はあまり増えないけれど、農耕段階に入ると増加しはじめ、産業社会になるとさらに増える。しかし産業社会が成熟すると、どういうわけか出生率が低下しはじめるのは、二十世紀後半からの経験的な事実です。これは文明史を超えて、人類史あるいは生物史の必然性かもしれない。あらゆる生物は、とりわけ動物は飢餓や天敵の脅威にさらされている。この脅威が生物にはデフォルト化されていて、個体は否応なく増殖と多産に駆りたてられる。第二次大戦後の先進諸国が達成した豊かな社会は、人間を飢餓の脅威から開放したわけです。DNAレヴェルで刷りこまれているはずの増殖や多産への圧力が、条件の変動によって低下しはじめたのかもしれない。先進諸国の人口現象には、こんなSF的説明さえ浮かんできますね。


あ、これは自分が『少子化問題の、究極の解決策』(2015・9・27)で展開した主張と同じことを言ってる、と思った。
いや、ただそれだけなんですけどね。ちょっと嬉しかったんで、わざわざ引用しちゃいました。

宇宙人とグローバルスタンダード

2016-02-23 22:30:09 | 雑文
子供の頃、ずっと疑問に思っていたことがある。
「宇宙人はみんな一緒」であることを。
主にSFなどのフィクションで、地球にやってきたり、宇宙空間上で地球人と遭遇する宇宙人は、皆同じ姿形をしている。地球人類は、肌、髪の毛、瞳の色など、外見上の違いがあり、言語や生活習慣も様々だ。しかし、宇宙人にはそのような差異は存在しない。皆同じ相貌で、単一の言語を用いて「チキュウノミナサンコンニチワ」と話す。
また、物語が彼等の星で展開することもあるが、どうもそこには「国」という区分が存在しないらしいのである。人種も、国籍も、文明圏もなく、皆一様に「〇〇星人」というのっぺりした統一体として登場するのだ。
複数の宇宙人が登場する物語もある。その場合、A星人とB星人の姿形は、明確に異なっている。だが、A星人同士、B星人同士はみんな一緒なのである。
この事実が、ずっと謎であった。いや、謎というよりは、リアリティの欠如と捉えたほうが正確だろう。
「宇宙人もの」のフィクションは、文化・習慣・概念・価値観など、地球人類とはかけ離れた基盤を持つ主体との接触により発生する、誤解や困惑や軋轢を描写することを主眼とする。そこでクローズアップされるのは、「地球人と宇宙人の相違」であり、仮に宇宙人の側に人種や言語の違いが存する設定にしていれば、本来描くべき「地球人対宇宙人」というポイントがブレてしまう。
だから、リアリティに欠けると言えばその通りなのだが、それは「宇宙人もの」フィクションを成立させるための必要不可欠な、いわば暗黙の了解によるリアリティの排除ということになる。
「宇宙人がみんな一緒」である点を好意的に解釈すれば、このように説明できる。実際に小生は、このように理解していた。
だが、長ずるにつれ、その理解は違うのではないか、という疑問がもたげてきた。実は、「宇宙人はみんな一緒」なのは、リアリティの欠如などではなく、逆にリアリティの高い設定なのではないか、と思うようになったのである。
その理路を述べる。
地球人類と接触する宇宙人は、基本的にみな、地球よりも高い科学力を誇っている。地球にはない移動手段、地球にはない兵器、地球にはないテクノロジーを有している、それが宇宙人である。
それだけ科学力の差がある、ということは、科学以外の分野においても地球を優越している可能性が高い。であれば、地球人類が理想として掲げながらも、未だ達成できていない目標を、宇宙人は既にクリアしていることになるだろう。その最たるものは、やはり世界平和ではないだろうか。
ここで現実世界に目を転じてみる。現在の、国民国家としての日本国の成立は1868年。この時から「日本列島は全部ひっくるめてひとつの国」となった。それ以前は「藩」が国であり、「郷里」の字で表されるように、国とは、列島の中の、その土地土地に点在するものであった。
つまり、人々が共同体としての意識を持ち得るのは、郷里の単位に対してであり、同じ日本列島の住人であっても、違う土地に住んでいれば異邦人であった。
で、今現在、我々日本人はその共同体意識を、日本列島の単位で抱いている。今の我々は、「日本人同士が敵味方に分かれて戦争を行う」という事態を想像できない。日本人同士は同胞であり、その同胞と殺し合うことなど考えられないからだ。
だが、国民国家としての日本国が成立する以前は、このような共同体意識はなかった。なので、藩同士、郷里の単位同士での戦争が起こっていたのである。
太平洋戦争終結後、アメリカとソ連が、日本を分断統治する案があったらしい。もしそうなっていれば、日本が今の朝鮮半島のようになっていたはずで、それならば日本人同士が二手に別れて戦う、という図式は現実的なものとなっていただろう。
また、旧会津藩の人々が、旧長州藩の人々を恨み続ける、という問題もあったし、在日やアイヌなどの民族問題も存在する。
だがそれでも、日本列島の住人のひと纏まり感は、割と強固なものとしてあり、日本人同士で戦争する、という事態は考えにくい。
であれば、この同胞意識を、国民国家のレベルから、地球規模のレベルまでスケールアップできれば、それは世界平和の達成になるのではないか。
「同じ地球人同士で戦争するなんて考えられない」、そんな意識を、地球人類が持つことができれば、地球上から戦争行為を一掃できるのではないか。
ここまでくれば、「宇宙人はみんな一緒」のリアリティについて、おわかりいただけると思う。
地球人類よりも遥かに進んでいる宇宙人は、既に自分達の星において、戦争を根絶している。ひとつの星の単位で、同胞意識を有しているのだ。
では、その過程で何が起こったか。互いを理解するための、異人種間交流が活発に行われただろう。交流は、ただ単に関わりを持つ、というだけに留まらず、異人種間の結婚も頻繁に取り交わされるようになる。異人種間の交配が進めば、人種は均質に均されてゆく。それに並行して、言語・文明・習慣も徐々に収斂していくだろう。国境はなおも残っているかもしれないが、住所や行政区分と同等の、便宜上の線引きに堕していることだろう。
だから、「敵味方に別れて戦争するなど考えられない」意識を星の単位で持つに至った宇宙人は、「みんな一緒」になるのである。ご理解いただけただろうか。

さて、ここまではただのバカ話である。だが、この推論が正しいとするならば、避けて通ることのできない問題が生じてしまう。
グローバルスタンダードに関してだ。グローバルスタンダードは、個々の文化を破壊し、単一の原理で塗り込めようとするものとして、多文化尊重の立場から忌み嫌われている。
しかし、先の推論に照らし合わせて考えると、グローバルスタンダードには、世界平和の達成に貢献する側面も兼ね備えていることになる。これは、嫌でも認めざるを得ない。
バベルの塔の建立を企図した時、人類は共通の言語で話していたとされる。これはつまり、人類が最大の能力を発揮したくば、共通の言語を用いねばならない、という真理を示しているのではないだろうか。
うーん、困った。
小生自身、心情的には反グロスタなのだが、同時に世界平和の到来を待ち望んでもいるのである。
多文化尊重を保持して、戦争が起こりうる可能性を残存させるか、世界平和達成のために、地球人類の文化を均してしまうか、どちらかを選ばねばならなくなる。
いや、しかしグローバルスタンダードだけが世界平和のための唯一の道だとは言い切れまい。グローバルスタンダードに依らずに世界平和を達成する手段を模索すれば……。
だが、小生の頭には具体的なアイディアが思い浮かばないのだ。
誰か、知恵を貸してくれないか。


オススメ関連本・尾辻克彦、赤瀬川原平『本物そっくりの夢』筑摩書房