徳丸無明のブログ

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木を見て森を見ぬ議論たち

2018-08-20 23:27:57 | 雑文
長く不況下にあるこの国において、とりわけ人々の耳目を集めるのはお金の話題であるようだ。それも、簡単に、かつ安全にお金を増やすにはどうしたらいいか、という話題が。
しかしながらFXや先物取引には怖くて手が出せないとか、そもそも投資に回すお金がないという人々は、おまじないのごとき手法に命運を託す。そのひとつが、「長財布にするとお金持ちになれる」というもの。
その理論は以下の通り。折り財布だと、紙幣を曲げてしまう。それはお金を痛める、ということ。折り財布は、お金にやさしくない。翻って、長財布だと紙幣を曲げることはない。つまり、長財布はお金にやさしい、ということ。お金にやさしくすればお金に愛される、つまり、お金持ちになれる・・・。
スピリチュアルめいてはいるが、一見もっともらしく聞こえる。また、これには裏付けらしき事実もある。
実際、お金持ちの人達はみな長財布を使っている、という事実が。お金持ちで折り財布を使っている人はほぼいない。お金持ちは、お金に敬意を払い、大切にしてきた。その証拠のひとつが長財布の使用だ。お金を大切にすること、つまり長財布を使用することでお金持ちになれるのだ・・・。
さて、先に「裏付けらしき事実」と書いた。らしき、というのはつまり、もっともらしく聞こえる理屈という意味で、明確な裏付けにはなっていない、ということである。どういうことか。
この理論は、お金持ちの財布にしか注目していない、ということである。どの財布を使うかが収入に影響してくるというならば、お金持ちのみならず、中流や貧乏人も含めて検証すべきである。そうしてこそ財布と収入の相関関係が明らかになる。
しかしながら、小生はすべての階層の所持財布を調べることはできないし、そのようなデータの存在も知らない。なので、ここでは特定の社会集団に焦点を当てることで「長財布理論」の誤りを指摘したいと思う。
特定の社会集団とは、ヤンキー、及び元ヤンである。もうここまで言えばおわかりいただけたかもしれないが、ヤンキー、及び元ヤンも、そのほとんどが長財布所有者である。みな大体安っぽいルイ・ヴィトンの財布を腰に差しているのをご存じだろう(にしても、なんでヴィトンって高級ブランドであるにもかかわらずあんなに安く見えるんでしょうね?単純にユーザーが多すぎるからかな)。
では、彼等はみなお金持ちか。言うまでもなく、特別実入りの良い仕事に就いている者を除いて、その多くは低賃金労働に従事している。
「長財布理論」は、お金持ちにのみ照準を合わせることで成立する、破綻した理論なのである。これが木を見て森を見ぬ議論である。
こんな理論など頭から信じておらず、お金持ちになりたいとも思わない小生は、ポケットに収まりやすく使い勝手がいいので昔から折り財布を使っているのだが、ついでに言うと、この理論には話の順接・因果関係の転倒も含んでいる。つまり、長財布を使っていたからお金持ちになれたのではなく、お金持ちになれたから長財布を使っている、というのが真なのである。

「エグゼクティブは缶コーヒーを飲まない」とかいうタイトルの啓発本もあったな。もちろん缶コーヒーを飲まないからエグゼクティブになれたのではなく、エグゼクティブになれたから缶コーヒーを飲まなくなったというのが真相なわけだ。で、エグゼクティブではない小生は今缶コーヒーを飲みながらこの文章を綴っているわけだが、もう一つ同様の議論を引いておく。
コラムニストの小田嶋隆は、2009年8月に起きた女優の酒井法子とその夫の高相祐一の覚醒剤取締法違反事件、並びに同月に起きた俳優の押尾学がホステスとともに合成麻薬MDMAを服用し、相手を死に至らしめた事件を論じ、タトゥーと麻薬の関連性を指摘している。


エグザイルの面々や、安室奈美恵や、浜崎あゆみ(←タトゥー疑惑あり。グレーゾーンとはいえ濃厚)みたいな、中高生のライフスタイルに巨大な影響力を及ぼしていると思われる芸能人が、いずれもタトゥー入りであることのオーラを利用しつつ、ばんばんテレビに出ている。
これは、異常な事態ではないのだろうか?
(中略)
うちの国は、刺青について、長く暗いネガティブな歴史を持っている。そして、現在でも、スミ入りの人々による威圧は、威圧それ自体として産業になっている。(中略)
21世紀のヨーロッパ社会でタトゥーがファッションアイテムのひとつになっているのは、彼らの文化の中に、刺青についてのネガティブな歴史がなく、入れ墨者に対する恐れや偏見が希薄だからだ。
が、わが国には、長い伝統がある。
その伝統に照らして、入れ墨は、裏社会に閉じ込めておくべきものだと私は考える。
(中略)
タトゥーを入れた人間は、麻薬をやりたくなると決まっているわけではないし、麻薬を吸うと肌にタトゥーが刻まれるというわけでもない。
でも、間接的には関係がある。
(中略)
なんとなれば、人々を動かしているのは、美意識だからだ。
タトゥーのある肌を見て「カッコ良い」と思う美意識の持ち主は、麻薬関連の風俗や事象を同じく「カッコ良い」と思う。
(中略)
タトゥーを彫るリスクと、麻薬に手を出すリスク。リスクを犯す度胸。そして、それを誇示する心性。タトゥーと麻薬には、深く通底する何かがある。文化的には兄弟と言っても良い。タトゥーの痛みに美を見いだす人間は、おそらく、クスリのリスクにも同じ種類の反応を示す。
(小田嶋隆『ザ、コラム――2006‐2014』晶文社)


小田嶋は非常に聡明な男で、小生は彼の主張にはおおむね賛成しているのだが、上の発言には批判を加えざるを得ない。
まず、「タトゥー」と「入れ墨(刺青)」という2つの言葉が、特に断りもなく文中に併用されているが、タトゥーは「洋彫り」、入れ墨(刺青)は「和彫り」を指し示していると思われる。こう整理すると、小田嶋は洋彫りと和彫りを区別しているようでしていない、ということがわかる。
俗に倶利伽羅紋々と呼ばれる「昇り龍」や「般若面」、つまり和彫りは、長い歴史があるかどうかはともかく、裏社会の伝統とともにあるのは事実で、そちらはなんらかの排除・規制の対象となるのはやむを得ないかもしれない。だが、洋彫りは違う。タトゥーという総称で呼ばれる、ポップなイラスト、文字や数字、抽象的紋様などは、そんな伝統になど根差してはいない。日本の伝統の流れを汲む和彫りと、それとは無縁な洋彫りを同等に扱うのは無理がある。洋彫りは、基本的にファッションでしかない。テレビに出ている芸能人が入れているのはみな洋彫りであり、それはなんら「異常な事態」とは言えない。
また、和彫りにしたところで、暴対法などの締め付けや時代の流れによって、威圧的効果は弱体、もしくは形骸化しつつある。伝統はいつまでも有効に機能し続けるものではない。
ただ、例外的に「威圧目的で洋彫りを入れる者」や「ファッションとして和彫りを入れる者」もいるかもしれない。なので、和彫りと洋彫りを截然と二分して考えるべきではないだろう。だがいずれにせよ、スミが入っているかどうかではなく、態度・言動が威圧的であるかどうかで規制の対象にすべきだ。おとなしく、礼儀正しくしているのに、スミが入っているというだけで排除されねばならないのはおかしい。
また、タトゥーと麻薬に相通じるという美意識の問題だが、これは薬物使用者全体を見れば、そのほとんどがタトゥー(入れ墨)を入れているという事実からくる誤解ではないかと思われる。「薬物使用者全体」は「木」である。そして、「有タトゥー(入れ墨)者全体」が「森」である。常識的に考えて、「薬物使用者全体」よりも「有タトゥー(入れ墨)者全体」のほうがずっと多い。
たしかに「木」を見れば、タトゥー(入れ墨)との深い関連性を見いだせる。しかし「森」を見れば、その中の麻薬と関連のある者はごくごく少数であることがわかるはずだ。
森を見ずに木を見て、麻薬とともにタトゥー(入れ墨)を規制すべきとするのは論理の飛躍である。
ただし、「美意識」だけに注目するなら、小田嶋の言い分も少しはわからなくはない。タトゥー(入れ墨)をかっこいいと思う者は麻薬もかっこいいと思う。たしかに、そこの関連性はあるかもしれない。しかし、「かっこいいと思う」ということと「実際に薬物に手を出す」ことは次元が違う。誰かを殺してやりたいという感情を抱くことは取り立てて珍しくもないが、そのことと、実際に殺人に手を染めるまでの間には千里の径庭がある。それと同じである。
ヤクザや暴走族を主題とした娯楽作品に触れるとき、彼等の生き様に魂を震わされることは珍しくない。だからといって、ヤクザや暴走族を現実社会において肯定しようとは思わないはずだ。人は、現実的感覚では排除や消滅を願う対象にすら美を見いだしてしまう生き物なのである。
問題は「美を見いだす」かどうかではない、「実際に手を出す」かどうかである。麻薬に美を見いだしたとしても、手を出しさえしなければ問題に値しない。
また、小田嶋は「タトゥーを彫るリスクと麻薬に手を出すリスク」を同列に並べて論じているが、和彫りにはいくらかリスクがあるのに対し、洋彫りはほぼゼロである。それに、使用、もしくは所持すれば例外なく刑法に抵触する麻薬と、入れただけでは(未成年を除いて)犯罪には当たらないタトゥー(入れ墨)を同等に捉えるのは無理がある。
おそらく小田嶋は、有タトゥー(入れ墨)者に関する嫌な思い出があるか、あるいはアウトローに理解を示すような偽悪的なマネをするのは、文筆家として危ない橋を渡るようなものだという危機管理意識があり、それが潔癖なまでの主張に繋がっているのではないかと思う。「タトゥー(入れ墨)オッケー!」って言うよりは、「いかがなものか」って呟いてたほうが無難だもんね。
つーわけで、木を見ずに森を見よう、という話でした。