徳丸無明のブログ

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政治、この難儀なるもの・前編

2015-09-30 16:04:10 | 雑文
政治に興味が持てない。
一人一人の政治家の能力がどうか、とか、どのような政策が提出されたか、とか、選挙はどうなるか、とか、政党ごとのパワーバランスはどうか、とか…。いろいろ考えることはあるはずなのに、考えたくない。一応最低限の知識は抑えておかねばと思うので、義務的にテレビニュースを眺めるのみだ。
昔はこうではなかった。
政治家の資質を見定め、政策の是非を吟味し、支持政党を持ち、喫緊の議題に関しては、必ず自分の意見が言えるようにならねば、と思っていた。そんな大人になれるように、政治の情報を、日々収集していた。
それが……いつからこうなったのだろう。
小生が悪いのだろうか。
安逸な方に流され、めんどくさいけれども重要な事柄から目を背け、怠惰に陥っているのだろうか。
そうかもしれない。
でも、我が身は可愛いので、そうではない、と言いたい。
なので、自己弁護を展開したい。
そもそも、政治とは何であろうか。
カール・シュミットは、政治を、友と敵を区別するもの、と定義した。いろんな要素が政治にはあるが、余分なものを削ぎ落として、必要最低限、これだけあれば政治と言える、というものを抽出すると、「友と敵を区別する」という要素が残る、と。埴谷雄高も、政治とは「お前は敵だ、死ね!」というものだ、との言葉を残している。
小生は、だから政治はダメなんだ、というか、必要悪なんだと思う。
社会においては、人々の利害が衝突し、それを調節せねばならない時がある。その時に、政治がどうしても必要となる。人々が対立する、そのような局面がなければ、政治は必要ない。本来ならば、そのほうが望ましいだろう。人々の対立がない、政治に出番がない、平和な世の中。それこそが理想だろう。でも、そう理想通りにはいかないので、どうしても政治に頼らざるを得ない。
戦場カメラマンのロバート・キャパは、「夢は自分が失業すること」と言った。政治の究極的な目標も、そうあるべきだと思う。できるだけその役割を小さく、社会に与える影響を少なくしていくべきではないだろうか。
でも、現実はそうなってはいない。政治はどんどん肥大し、その役目は増え、影響力は増大し続けている。
これは、世の中の方が複雑怪奇になってゆき、それに対応するために政治もまた、増殖せざるを得なくなっているのだろうか。
確かに、そういう部分もあるのかもしれない。でも、それだけじゃないと思う。
世の中には、政治が大好きな人間がいる。選挙活動で汗をかき、名刺を配ってコネクションを拡げ、自身の政策の正しさをディベートで立証し、同胞を取り込み、敵対者のウラをかき、ありとあらゆる権謀術数を巡らして、少しでも上の立場、少しでも強い権力を手に入れようとする…そんな政治というものが、好きで好きでしょうがない、という人達がいる。この人達は、政治が好きなだけでなく、「政治というのはたいしたものだ」と言いたがる傾向を持っている。政治は重要なものだ、なくてはならないものだ、だから政治家、およびそれを支える人々は、他の職業の者よりも、重大な役目を負っているのだ、と。
小生は、そうは思わない。政治はやむを得ず存在するものであり、その役割は、必要最小限にとどめるべきだと思っている。
現在、政治が影響を及ぼす範囲は、極めて広範である。しかしそれは、その必要があって範囲が広くなっているのだろうか。「政治はたいしたものだ」と言いたがる人達が、その必要もないのに、自分たちの権力を高めるために、意図的に影響範囲を押し広げているのではないだろうか。その上で「政治の影響力は大きいから、誰しも無関心であってはならない」などとうそぶいているのではないだろうか。いわば、マッチポンプ。何となれば、政治の及ぼす範囲を決めるのもまた、政治であるのだから。
政治というものの、大いなる謎を一つ挙げる。
右翼と左翼の問題だ。
右翼も左翼も、自分達が世の中をより良いものにしようとしている、と主張する。そしてお互い「あいつらは世の中をメチャクチャにしようとしている」と罵り合っている。
これはどういうことなのだろう。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのだろうか。正邪理非が明確にあるのであれば、もう長いこと右と左は争い続けているのだから、いい加減みんなそれに気付いて、左右のどちらが正しいかの結論が下されてもいいはずだ。
でも、そうなっていない。
仮に、右翼が理想とする社会が、完全に達成されたとする。そしたら右翼は万歳をして言祝ぎ、逆に左翼はこの世の終わりとしょんぼりするだろう。反対に、左翼が理想とする社会が到来したらどうだろう。左翼は気色満面で極楽気分(左翼も万歳ってするのかな)、右翼は失意の底に沈むだろう。
右と左の理想とする社会は、共に対極者を不幸にする社会でもある。そんなものが、本当に望ましい社会だと言えるのか。
こう考えると、政治というのは、何が良くて、何を悪いとみるか、という、つまりは価値観の問題、ということになる。価値観なんてものは人それぞれ違っていて当たり前だから、理想の社会像なんか、一致するわけがない。
じゃあ、どうすればいいんだ、という問題はあるとして、とりあえず言えることは、政治というのは、突き詰めれば趣味の領域だ、ということ。
例えば、アメリカで起こった同時多発テロ。アメリカがその後行った、戦争という報復行為はともかくとして、この時、日本人の多くは、アメリカに同情的だった。同情するのが自然な感情として当たり前、とは言えない。アラブ諸国ではむしろ、テロを仕掛けたアルカイダ側を支持していたのだから。日本がアメリカに同情的だったのは、日本とアメリカが、多くの価値観を共有しているからだ。民主主義、基本的人権の尊重、資本主義経済、放置国家、自由と平等、シビリアンコントロール等々。感覚が近いから親近感を持ちやすく、同調しやすい。逆に、アラブ諸国は価値観がだいぶ違うので、心情がアルカイダよりになる。
戦争においては、交戦するA国とB国が、共に「自分たちが正義だ」と主張する。どちらかが「我々は悪だ」などと宣うことはない。これもまた、どちらかが正義だということではなく、何をもって善とするかという、価値観の相違に過ぎない。

(後編に続く)


オススメ関連本・鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書

猫よけペットボトルの思想

2015-09-29 21:09:23 | 雑文
ワイドショーで、とある駅前のロータリーに、ムクドリの大群が住み着くようになった、という話題を取り上げていた。
人工的な駅前の環境が快適であるらしいその鳥群は、鳴き声が大変やかましく、フンの被害も凄まじいと。
なので、鳥を追っ払うために、ロータリーにスピーカーを取り付け、そこから鳥が嫌がる音を、定期的に流すようにした。ムクドリは確かに音を嫌がっているが、対策はまだ執られたばかりで、完全にいなくなるかどうかは、推移を見守らなければならない、と結ばれていた。
これを観て、小生は思った。
「仮に追い出せたとしてもさ、鳥は消えてなくなるわけじゃないでしょ。別の街に移り住むだけだよね。だとするとさ、鳴き声やフンの被害を、ヨソに押し付けてるだけなんじゃないの」
なんだか、この、迷惑を他人に押し付けて知らんぷりの、自分さえよければそれでいい式の振る舞いを、至る所で見る気がする。
例えば、猫よけのペットボトル。
これは実際には効き目はないらしいが、自分の土地にフンをされないように設置するものだ。つまり、お隣りさんがいくらフン害に遭おうが、自分の庭さえ綺麗ならばそれでいい、ということだ。そして、これはご近所さんだけでなく、猫に対しても問題がある。
自分の土地、自分の土地と言うが、そもそも土地の所有制度などは、人間が勝手に作った決めごとでしかなく、他の生物には知ったこっちゃないことだ。言うまでもなく、猫には土地を買う権利も能力もないわけで、人間側が土地の所有権をひたすら振りかざしていれば、猫は居場所がなくなってしまう。
通常、生物が自分の生活のために作るのは、巣ぐらいのものである。しかし、人間はそれにとどまらず、道を塗り固め、海岸を壁で覆い、川を堰き止め、森林を切り開き、自分達の快適な暮らしのために、環境を好き勝手作り変えてきた。それも、生活のため、命を守るためのみならず、娯楽のために作り変えている所も多分にある。
その余波を受けて、生物達は、生活環境を変化せざるを得なかったし、死に絶えてしまった者もたくさんいる。
他の生物が人間にかける迷惑よりも、人間が他の生物にかけている迷惑の方が、はるかに多いのである。
フンぐらい我慢しろ、と言いたい。
鳥のフンは、乾燥すればアレルギーの原因になるらしいが、そんなものは町内会なり自治体なりが掃除すればいいことだ。猫のフンだって、片付けるのにそんな手間はかからない。
この他にも、携帯電話の電波塔を、家の近所に設置するのに反対したり、元受刑者の更生・授産施設の開設場所が、小学校の近くなので反対している人達なんかがいた。
この、反対している人達は、適切な設置場所は他にあるはずであり、それを考慮するのは担当者であって、自分達ではない、と考えており、「反対するのは当然の権利で、それを避難される筋合いはない」と反論されるかもしれない。
でも、自分達の所になければそれでいい、という気持ちが、根っこにあることに変わりはなないと思う。
電波塔が無事移転したとして、その移動先が山の中ではなく、他の住宅街だったとして、反対していた人は、そのことを気に止めるだろうか。
更生施設にも同じ事が言える。そもそも、その種の施設というのは、社会復帰を望む人達が集うのであり、再び犯罪を犯すことは、将来を棒に振ることなわけで、いくら元受刑者だからといって、そう軽々に再犯を犯すものではないだろう。それに、釈放された元受刑者というのは、当然自由の身なわけで、自分の足でどこにでも行けるのであり、この手の施設があろうがなかろうが、当該の小学校の前をいくらでも歩くことができるのだ。施設がなければ元受刑者と関わりを持たずに済む、というものではない。
このような問題をつらつら考えるに、やっぱり一番大事なのは、人様を非難するよりも、自己点検を欠かさないことだと結論せざるを得ない。
自分自身はどうだろうか。
自分さえよければそれでいい、という思考に、自らもまた陥ってはいないだろうか。
他人を批判することで、より良き社会の実現を目指そうとする人がいる。
しかし、小生はそれよりも、自省的であろうとするほうが、より有益だと考えるのである。


オススメ関連本・鷲田清一、内田樹『大人のいない国』文春文庫

人類のポジション

2015-09-28 23:06:18 | 雑文
前回、食物連鎖を用いて少子化を解読した。先進国は、食物連鎖の上位に位置しているのだ、と。
だが、人類という種全体は、食物連鎖の内部には配置していない、と小生は考えている。
人類と他の生物との違い。人類は道具を使い、技術を蓄積し、それらを使いこなすことで、本来備わっている以上の力を振るい、その力でもって、他の生物を圧倒するようになった。
通常生物は、自分の下位に位置する、数種類の生物をエサにするが、人類は、ありとあらゆる階級の生物を糧にする。食料にしない生物も、資源として利用する。
それに対し、人類が他の生物に食べられることは、ほとんどない。
生物界では、食べられることで生を終えるのが普通だが、人類はそうならないよう、武器や建築物、その他様々な手段を講じて防護している。で、生きたまま食べられないのであれば、死んでのち微生物に分解され、土に還ることになるのだが、柩や棺桶、骨壷を用いてお墓に埋葬を行う人類には――土葬、風葬、鳥葬など、伝統的な埋葬を行う一部の文明を除いて――そんな最期すらない。
なので、よく人類は食物連鎖の頂点に立った、と言われるが、小生はそうではなく、人類は食物連鎖を超越したのだと思う。
頂点に立った、というのであれば、あくまで連鎖の内部に位置し、他の生物と食ったり食われたりの関係にある。だが、一方的に食うばかりで、食われることはほぼ皆無の人類は、その内部にはいない。
人類は食物連鎖を超越した。これが小生の見立てである。


オススメ関連本・久坂部羊『日本人の死に時――そんなに長生きしたいですか』幻冬舎新書

少子化問題の、究極の解決策

2015-09-27 20:37:05 | 雑文
少子化が叫ばれるようになって久しい。
小生は、子供が減って何が悪いのか、よくわからない。こんなことは問題だと考えるから問題になるのであって、気にしなければ問題にはならないのではないだろうか。
何をバカなことを、問題あるから問題なんだよ、と思われたろうか。
でも、少子化を問題視している人は、ちゃんと突き詰めて考えているんだろうか。ただ単に、増えるのはいいことで、減るのはよくないことだと思い込んでいるだけではないのか。
既にいろんな人達が、少子化問題に対して異論を唱えているが、小生の考えをいくつか述べる。
まず、経済の規模が縮小してしまう、という点だが、人口が減るのであれば、それだけ必要なお金も減るのだから、その規模に見合った経済活動をしていけばいいのではないか。なにもGDP世界三位を堅持する必要はない。
また、年金制度が維持できなくなる、という点だが、そもそも、若者の数がお年寄りより多くなければ維持できないという、制度設定自体に問題があるのであり、少子化そのものは、ファクターのひとつに過ぎない。問題のある制度を取り繕うために、何も悪くない若者が責められる、という図式は、倒錯している。(若者に対して、面と向かって「私達の年金のために、子供を設けろ」と言う年配者はいないだろうが、言外のプレッシャーとして、そのようなメッセージを感じ取っている若者はいるのではないだろうか。であれば、それに対する反発として、逆に子供を設けない、という行動をとりうることも予測される)
日本列島に一億二千万人は多すぎるので、ある程度減ったほうがいいと小生は考えているのだが、それには他の現実的な問題もある。
少子化というのは、先進国に共通の現象であり、途上国は今も増え続けているのだが、人口増加率で見れば、先進国、途上国の変わりなく、世界的な傾向として、1970年前後をピークとして、減少傾向にあるらしい。つまり、途上国は、もうしばらくの間は人口が増え続けるけど、いずれはどこの国でも減少に転じることが予想されており、20世紀に起こったような人口爆発は、人類の歴史においては、おそらく一回性のものでしかない、ということだ。
で、とりあえずの所は、日本の人口が減るのに対し、世界人口は2050年頃までは増え続けると目されている。
その時起こると言われているのが、世界的な食糧不足。もちろん食料のみならず、様々な資源、エネルギーも足りなくなり、水すら奪い合うようになるという。
その状況において、日本国民すべてに、安定的に食料、資源、エネルギーを行き渡らせることを考えたら、人口は多いよりも少ないほうが、確実性が増すだろう。つまり、リアルな日本の生き残り戦略として――利己的な考え方になってしまうが――数が少ないほうが、より望ましいのではないか、ということ。
小生の知識は限られているので、そもそも少子化にまつわる本当の問題は何か、そしてそれはどうすれば解決できるのかは、これ以上議論することができない。
なので、根本的な問題として、なぜ少子化が起こるのか、について考えてみたい。
先程も述べたように、少子化傾向は、まず先進国において現れる。
これはどうしてか。
この現象は、食物連鎖に当てはめてみるとわかりやすいと思う。
先進国とは、豊かな国である。お金を持っており、食べ物が豊富にあり、医療水準が高く、上下水道ガス電気、その他インフラが整っており、治安が安定している。
それは、人がなかなか死なない社会だ。人々は、安心して生きることができる。
これは、食物連鎖の上位に位置する社会だ。食物連鎖の図は、ピラミッド型をしており、上に行くほど個体数が少なくなる。食べられる(命を落とす)可能性が低くなるので、少ない個体数でもやっていけるわけだ。逆に、下に行くほど食べられる割合が多くなり、多くの個体数が必要となる。
つまり先進国は、命の危険に晒されることが少なく、安心安全な雰囲気に包み込まれており、人々はその――自分達は食物連鎖の上位に位置している、という――空気を感知し、この社会は、個体数が少なくてもいいのだ、という気持ちになる。
だから少子化は、若年層の貧困化や、核家族化、結婚観や価値観の変化のみならず、豊かな社会が作り出す空気が、大きな要因になっているのではないだろうか。
だとすると、ここから導かれる少子化解決策は簡単だ。
食料を不足させ、医療水準を押し下げ、インフラを壊滅させ、治安を悪化させればいい。そうすれば、人々は「子供を増やさないと、社会が滅んでしまう」と意識するようになるだろう。
そんな世の中、まっぴらゴメンだって?
小生もそう思う。
だから、少子化は問題なのではなく、言祝ぐべき人類の達成だというのだよ。


オススメ関連本 ローレンス・トーブ『3つの原理――セックス・年齢・社会階層が未来を突き動かす』ダイヤモンド社

理屈で学ぶ水泳教室・後編

2015-09-26 16:01:38 | 雑文
(前編からの続き)

体の力を抜くためのレッスン。
まずは、浮き輪やビート板等を使い、ただひたすら仰向けに浮いてみるといい。深いプールだと恐怖心に囚われやすいので、子供向けの浅いプールを選ぶこと。もちろん浮かんでいる時は、体の力を抜くのを意識すべきだが、それよりも、水に浮かぶことの気持ちよさを、しっかり味わってもらいたい。
泳げない人は、恐怖、嫌悪感等、水に対するマイナスの記憶がある。この記憶が、泳げない人を泳げないままにさせている。なので、水の気持ちよさを知ってもらい、その気持ちよさ――つまり、プラスの記憶――で、マイナスの記憶を上書きする。そうしていけば、マイナスの記憶が少しずつ薄れ、力の強張りが抜けていくはずだ。
ある程度浮かぶことに慣れてきたら、浮き輪等を外し、単独で浮かぶチャレンジをする。ここがなかなか難しいかもしれないが、確実にクリアしなければならないポイントだ。言い換えると――泳ぐことと浮かぶことはほぼイコールなので――これが出来れば泳げるようになったも同然である。
ここに至るまでには、いくら口で説明してもどうにもならないので、各自実践してもらいたい。
で、これをクリアできたとして、次はどうするか。理屈を続けたい。
浮かべるようになればいいとは言っても、完全に脱力しきっているだけでは、泳いでいるのではなく、ただ浮いているだけである。当然手足の動きが必要になる。それには、力を入れないといけない。
浮かぶためには力を抜かねばならないが、泳ぐためには力を入れねばならない。この矛盾を、どう架橋するか。
必要最小限の力で手足を動かせばいいのである。
ただ手足を動かしたとしても、関節に力が入ってないと、グニャグニャした動きになり、推進力には繋がらない。関節を固定する力も必要である。すなわち、泳ぐための必要最小限の力とは、手足を動かす力+それによって関節がグニャグニャにならないよう固定する力である。
この最小限の力だけであれば、入れても沈まない。
それ以上の力を入れれば、沈む。
泳ぐというのは、そういうことである。
さて、小生は泳ぐことは浮かぶことだと言った。だから、浮かび方を教えた以上、他に教えるべきことはほとんど残されていない。
最後に、技術的なことを幾つか。
息継ぎに関してであるが、呼吸というのは、吸って、吐いてのくり返しである。吸ったあとは、必ず吐かねばならない。吸い続けることも、吐き続けることもできない。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、上手な息継ぎのためには、この点をよく押さえておかねばならない。
泳いでいるときは、基本顔を水に浸けており、一瞬だけ浮かべるのが息継ぎである。この、顔を浮かべていられる時間は、結構短い。この短い時間に、適切に息継ぎをするにはどうしたらいいか。
水中では息を止めて、顔を上げてから吐いて、吸って、としていると、“吸う”ことに充分時間を取れない。なので、水中にいるときに、鼻から息を吐いておく。そして、顔を上げた時には、もう“吸うだけ”にしておく。
水中で息を吐いておかないと、顔を上げてから吐かねばならない。吐く時間と、吸う時間の、両方が必要になる。水中で吐いておけば、顔を上げてからは吸うだけでよくなる。
これが適切な息継ぎである。このような息継ぎができないのも、カナヅチの人が苦しくなる一因だろう。
ただ、鼻から息を吐くといっても、顔を水につけ、次に上がるまでの間、どのタイミングで、どれくらいのペースで吐けばいいのかが、よくわからないだろう。とりあえずは、泳がずに顔だけ水に浸けて、息継ぎのリズムを身につける練習をすればいい。
それから、バタ足。
このバタ足を、バシャバシャと水を蹴り上げるものだと思い込んでいる人もいるかと思う。バシャバシャが大きければ大きいほどいい、と。しかし、そもそもバタ足は何のためにするのかと言えば、前に進むための推進力を生むためである。しかるに、バシャバシャは水を上に飛ばす働きであって、ここからは推進力は生まれない。水は上ではなくて、後ろに押しやらねばならない。なので、バタ足の時は、水をバシャバシャさせるのではなく、後ろに押しやることを意識してやるべきなのだ。このような誤解が生まれている原因は、おそらく「バタ足」という名称にあるのだろう。
なぜバタ足がバシャバシャしているかと言えば、水面に浮いている以上、どうしても力が上に漏れてしまうので、それがバシャバシャを生じさせているのである。つまり、バシャバシャはやむを得ず現れてしまう産物であり、できれば無くすべきもの、必要のないものなのである。

さて、どうだろうか。
ここまで学んできて、話を聞いただけなのに、なんだかもう泳げるような気がしてきたのではないだろうか。あなたが要領を理解したならば、あとはそれを体に伝えるだけだ。きっと泳げるようになる。
あとは、自らの実践で頑張って欲しい。


オススメ関連本・高橋秀実『はい、泳げません』新潮文庫