徳丸無明のブログ

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チロルチョコ ごえんがあるよ

2022-01-28 22:39:32 | 
今日はチョコレートのような硬貨です。






僕が子供のころは1個5円でバラ売りされてましたけど、今は袋売りのやつのみのようです。チロルチョコの会社だから美味しさは間違いなし。
ご縁があるといいね!
これは僕が小学6年の時の話です。6年生の時、1泊2日の修学旅行がありました。行き先は長崎。「原爆の被害を学び、平和について考えるため」です。
旅行には専属のカメラマンが付き添っていました。旅行中の生徒の姿を撮影してもらうために、学校に雇われてたんですね。
宿泊先での入浴中、カメラマンが大浴場に入り込んできて、シャッターを切りまくりました。「お風呂での和気あいあい」の様子を撮影していたのです。
修学旅行後しばらくして、現像された写真が学校の廊下に張り出されました。写真には番号がふられており、生徒は好きな写真を選んで購入できるのです。
風呂場で撮影された写真の中に、思いっきりチ◯コが映りこんでいる1枚がありました。湯船にカメラを向けたとき、お湯につかってた数人がピースサインで応じたんですけど、その中のひとりのお調子モンが、立ち上がってダブルピースしていたのです。
そのお調子モンは羞恥心が欠如していたようで、気にすることなく笑い飛ばしていましたし、ほかの男子も「バカだなー」ってのんきに笑ってました。女子はちょっとだけ「やーねー」って反応でしたけど、大半はやはり笑うだけで、あまり気にしてなかったようです。
しかし当時から繊細で、人一倍羞恥心が強かった僕は、「もし自分がこのような目にあったら」を想像し、ゾッとしていました。
もし自分がチ◯コの写真を撮られ、学校の廊下に張り出され、同級生全員に見られてしまったら。しかもその写真は、誰でも購入できるのです。
もしそうなったら、ショックのあまり登校拒否になっていたかもしれません。
当時、1990年代前半は、まだそういう時代でした。教員側は生徒の羞恥に無配慮で、生徒の側もまた、そんなの気にするようなことじゃないと思い込んでいた。いや、「思い込まされていた」と言ったほうが正確かもしれません。そういう空気が支配的でした。女子はいくらか配慮されていましたが、男子の羞恥心は、あってなきものと思われていた。
でも僕は、違和感を覚えていました。こんなことをするのはおかしいんじゃないかと。
正直、カメラマンが風呂場に入ってきたというだけで抵抗感があったのです。撮影された写真の中には、蛇口の前で体を洗う男子生徒の後ろ姿も多く映りこんでおり、当然イスに座ってるお尻が丸見えでした。顔は映っていなかったのですが、この中に自分もいるかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになったのです。
今はもうそんなことはないでしょうね。カメラマンが入ってきたのは男風呂だけで、当時、男の羞恥心なんてまるで存在しないものであるかのような扱いを受けていましたが、今は男女の別なく配慮が働くようになっているはずです。
時代は変わる。ふり返ると、乱雑で恐ろしい時代がありました。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
オミクロン株に対して、慎重な意見がまだ根強くありますね。慎重派の人たちの言い分は、「感染力が高くて毒性は弱いと言われているが、まだ性質が充分に解明されたわけじゃない」というもの。一見もっともらしいというか、正論に聞こえます。
しかし、性質が100%解明されるまで慎重になる必要などあるでしょうか。既存の感染症であっても、性質が完全に把握されていないヤツもあるはずです。それでも、「大体こういう特徴」だとわかっていれば、ベストとまではいかなくても、セカンドベストくらいの対応はできます。その性質が8,9割くらい理解できていれば、高い確率で正しい対応を導き出せるし、残りの1,2割の不明点は、無視しても差し支えない程度のものかもしれないのです。そんな僅かな不明点のために、そこまで慎重になる必要などあるでしょうか。
ウイルスは変質します。DNAと違って、RNAは不安定だからです。インフルエンザも毎年違っています。それでも「わかっている範囲」で最善の対応をすれば、社会が混乱するほどの被害を出すことはないのです。

慎重派の人たちに共通しているのは、「ゴールが見えない」という点です。ゴール、つまりコロナ終息のことですが、慎重派の人たちは、とにかく感染者を増やさないようにしましょう、って言ってるばかりで、コロナ終息の道筋をまったく提示できていないのです。新型コロナウイルスは、なくなることはありません。その他の感染症と同じように、共存していくしかない。
なら、事態がどうなれば終息と判断できるのか?コロナ以前のように、ひとつの感染症に人々が振り回されない状況の到来は、どのような形になるのか?そういったビジョンもなく、ただただ「感染しないこと」ばかり追求するのは、コロナに振り回されてる現状を、いたずらに長引かせてしまいかねません。
現在、医療関係者は感染者対応のために過重な労働を強いられ、飲食店と旅行関連業の人たちは減収に苦しみ、倒産も相次いでいます(もちろん、その他の職種の人たちも、少なからず苦しんでいます)。「とにかく感染者を出さなければそれでいい」というスタンスは、医療関係者・飲食店・旅行関連業の人たちの苦しみを無意味に長引かせるばかりで、むしろ損害のほうが大きいかもしれない。コロナ終息を先送りにするばかりで、苦しみを増やしてしまっているのかもしれない。

何度も言ってることですが、重視すべきは感染者数ではなく致死率です。イギリスのデータによると、デルタ株の致死率は1.5%で、オミクロン株は0.15%とのこと。対して、インフルエンザの致死率は0.05%。1日あたりのコロナの死者数は、第6波以前は0~1ケタで、第6波以降は30~40人ほどです。
これをどう見るか。評価は分かれるでしょうが、感染者数の増加ほどには死者数は増えていないと見ることもできます。「すでにインフルエンザ並みになっている」という意見にも、一理あるのです。
インフルエンザによって一定の死者が出るけど、そのために制限や規制を設けたりしないように、コロナもまた、社会の一部として許容できるレベルの感染症になっている、という解釈も可能です。だとすると、すでにゴールは通り過ぎていることになります。様々な業種に負担をかけながら、無意味なコロナ対策を継続しているということです。
イギリスでは、感染者数がいまだに高いのに、公共の場でのマスク着用の義務などのコロナ対策を撤廃しました。これは、感染者数ではなく、重症者数と死者数という、本当に重要な数字に着目しての判断なのでしょう。日本もそういう冷静な判断をすべきなのに、そうなっていないし、なりそうにない。
こんな調子でダラダラとコロナ対策を引き延ばし続けるのでしょうか。感染者以外の犠牲のほうが拡大するばかりになりそうですね。