徳丸無明のブログ

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ヘイトスピーチのある風景・後編

2015-10-19 22:46:38 | 雑文
(前編からの続き)

思うに、感情が先行しすぎる事からくる弊害がある。
人間は感情の生き物なので、完全に感情を排することはできない。だが、できるだけ感情を抑え、冷静に吟味すべき場面というのがある。
かつて、ベストセラーになった『嫌韓流』なるマンガがある。これは、日韓の間に横たわる確執を取り上げた世評マンガで、作中で提示されていた一つ一つの問題は、検討に値するものであったと思う。だが、「嫌韓」、つまり「韓国が嫌い」というスタンスで打ち出したのはマズかった。
通常、人は「お前のことが嫌いだ」と面と向かって言われると、不愉快になり、「ああそうかい、俺もお前のことが嫌いだよ」と返すだろう。そうなると、後はもうひたすら負の感情の応酬が続くことになり、そこには、建設的な何かは芽生えない。
『嫌韓流』の作者は、同作のヒットを受けて、「悪いのはコイツらだ!」と名指すことにより、現状に不満を抱く人達のルサンチマンをくすぐる作品を描き続けている。実に不毛なことだと思う。この作者は、自分のマンガが、ヘイトスピーチ、並びにインターメット上に跋扈する朝鮮差別のもといになったことを、今どう思っているのだろう。
森達也が、オウム真理教をテーマに撮影した『A』というドキュメンタリー映画があるのだが、その続編『A2』の中で、某右翼団体が、オウムに抗議デモを行う場面がある。デモ開始前の打ち合わせで、構成員の一人が、「死ねとか出て行けとかの言葉を使ってはいけない」と言っており、それを観た時に、「よくわかってるじゃん」と思った(えらそうだね)。
しかし。しかし、である。できるだけ感情を排することは大切なのだが、感情を排した声というのは、小さくて、弱い。
感情ムキ出しのヘイトスピーカーの声は、大きくて力強い。それに比して、冷静に「朝鮮人差別はやめましょう」と呼びかける声は、弱々しい。なので、感情を抑えた声は、感情的な声に勝つことはできないのである。どうしても勝とうと思ったら、相手に対抗して感情を昂め、声をデカくするしかない(実際そのようにして、ヘイトスピーチを行うデモ隊と、それに反対するデモ隊の衝突が起きている)。
これは、平和を訴えるジレンマとも共通する。戦争賛成を叫ぶ声は大きく、反対する声は小さい。戦争という暴力行為に働きかけようとしているわけだから、その声は、大きいだけでなく、攻撃的だ。その攻撃的な声に、非暴力で応じようとする声は、簡単にやられてしまう。だからこそ「平和のための戦争」という、笑えない冗談のような事態が、現実に起こるのである。
以前北朝鮮が、日本海に向けて、大陸間弾道ミサイルを発射したことがあった。その翌日、右翼(前出の右翼とは別団体)が抗議の街宣活動をしており、「これは我が国に対する宣戦布告であります」と叫んでいた。どこかで聞いたような口振りだと思ったら、朝鮮中央放送の、あの有名な女性アナウンサーの口調と同一であった。相手(北朝鮮)を憎み、相手に対抗しようとするあまり、相手と同じ言葉遣いになっていたのである。
排外的な言葉に、排外的な言葉で応じてはならない。感情を抑制せなばならない場面がある。ヘイトスピーカーもまた、救われねばならない。
ここまでは理屈でわかった。でも、具体的にどうすれば?
やはり、現状に不満を抱く人達ひとりひとりに、個別的に対応していくしかないのだろうか。これといった結論がないまま終わるのはよくないと言われるかもしれないが、安易に結論を出すことの危険性もある。
この問題については、これからも考えていきたい。


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