徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

森永乳業 MOW(モウ) ロイヤルミルクティー・宇治抹茶

2019-11-29 22:52:24 | 
今回は森永のMOWです。






思えば、MOWにはもうずっとお世話になってますね。この値段でこの量、この質。企業努力の賜物です。
というわけで、第1回ガキの使いやあらへんでやあらへんで、チキチキ私が好きなマンガの話~~~!!
はい、これは僕が個人的に気に入ってるマンガ作品をひとつ挙げて好き勝手語りつくすというコーナーです。
記念すべきかどうかわからない初回は、黒田硫黄の『茄子』(全3巻・講談社)です。
これは(ほぼ)1話完結のオムニバス作品で、リアルな人間ドラマや、SFや、コメディーっぽい話まで様々なのですが、作中に必ずナスが出てくる、という共通点があります。その中の1編は『茄子――アンダルシアの夏』と題してスタジオジブリから映画化もされました。また、第1巻の帯に宮崎駿が「この面白さがわかるやつは本物だ」とかいう推薦文を寄せてもいます。なんか駿をはじめとしてスタジオジブリには自転車好きの人たちが多いらしく、自転車レースの話である「アンダルシアの夏」が特にツボにはまったみたいなんですけど、正直言って僕は「アンダルシアの夏」はそんなに好きではありません。
僕が好きなのは、田舎で農業してる厭世家のオヤジの話。なんとも味わい深いんですよね。
黒田さんは「登場人物が何を食べるのか」にこだわる方で、食事や料理の描写がよく出てくるんですけど、それらの日常の風景が、何気ないんだけどそれだけで面白いというか、ああいいなぁってしみじみしちゃいます。
それとね、ストーリーもだけど、絵がとにかく素晴らしい!荒いタッチですので、人によっては単なる雑な絵と思われるかもしれませんが、それは見方が浅い!このマンガの絵は、生きている。
絵を描く喜び、マンガを描く喜びそのものが原稿に刻みつけられています。読んでいると絵の中に充満した喜びがシンクロしてきて、うっとりする。光と影、もしくは明暗の表現も秀逸だし、コマ割りと構図のセンスにもしびれます。僕は連載を追いかけながら、黒田さんは天才だとつくづく感じ入りました。
あんまり内容くわしく語ったら読む楽しみなくなっちゃうんでこれくらいで。

未読の方はぜひご一読を。上下巻の愛蔵版も出ています。お気に入りましたら『大日本天狗党絵詞』や、短編集の『大王』と『黒船』もどうぞ。

森永製菓 板チョコアイス

2019-11-23 22:12:06 | 
今回は森永の板チョコアイスです。




理由はわかりませんが、このアイスは冬季限定なんですね。お店でこれを見かけると冬の訪れを感じる・・・のは全然風流じゃないですね。
前回猫の話をしましたので、今回は犬です。猫ときたら犬!これ必然ね!
だいぶ前のことです。僕が学生時代の一時期に、よく行ってた公園があります。きれいに整備されただだっ広い公園で、木はほとんど植わっておらず、一面芝生が広がっていました。ところどころベンチと東屋があり、中央に人工の川と池がありました。
この公園に、いつも犬を連れて散歩にくるおじいさんがいました。犬はどこにでもいる雑種の中型犬でした。
一見よくある犬と飼い主の散歩でしたが、ひとつ気にかかることがありました。彼らの公園内の散歩ルートはきっちり決まっていたのですが、池の前までくると、犬がぴたりと足を止めるのです。それを、おじいさんが首輪をつかんで犬を池に向かってぶん投げていた。人工の池なので、犬でも足がつくくらいの均一な浅さで、たたきこまれた犬は10メートルほど水をバシャバシャいわせて池の中を横切り陸に上がる、というのがお定まりでした。
いいですか、犬は自分からはけっして池に入ろうとしなかったのです。いつもおじいさんに力ずくでぶちこまれていた。
僕ね、犬は池に入りたくなかったんじゃないかと思うんですよ。おじいさんに「泳いだほうが犬は健康になる」みたいな偏見があって、それで有無を言わさずダイブさせていたのではないかと。池は川につながっていたので、水の入れ替わりはありましたけど、それでも藻がけっこう繁殖してて、落ち葉やらゴミやら、ほかにもなんかヌメヌメしたものが漂っていて、けして衛生的とは言えません。犬にとっては臭い水かもしれないし、おかしな菌をもらったら病気になりかねない。
犬はいつもこう考えていたはずです。「あ~あ・・・今日もまたぶちこまれるんだろうなぁ。いやだなぁ、泳ぎたくないなぁ。でも逃げらんないからなぁ。しょうがない、ガマンしよう。ガマンして今日も乗り切るしかないよ」
おそらく、おじいさんは無理矢理池にたたきこむ以外は、普通の良い飼い主だったんじゃないかと思うんですね。ただ、犬を泳がせるという点だけが人とはちょっと違っていたというか、ズレた価値観だったんじゃないかと。普通に犬をかわいがり、よく面倒を見るご主人様だったけど、1点だけおかしなところがあった。そういうことだったんじゃないかと思います。犬の気持ちを慮るのではなく、自分にとっての「犬かくあるべし」を優先していた。
犬ちょっとかわいそうだな、と思いつつも小心者の僕は、おじいさんに物申すことができませんでした。あれからもう20年以上。犬はとっくに死んでるでしょうし、おじいさんもおそらくは・・・。おじいさんは天国でも犬を池にぶちこんでるのかもしれません。

犬の心と言えば、「いろはに千鳥」で離婚を公表した犬の心の押見は嫁の心がわかっていなかった・・・という話はどうでもいいですね。

セブンプレミアム まるでキウイを冷凍したような食感のアイスバー・まるで完熟白桃を冷凍したような食感のアイスバー

2019-11-21 22:10:59 | 
ここまで果物まんまだと、もはやアイスじゃなくて果物のほう食べろよって気がしなくもないですね。






はいはい、今日もまた、取るに足らない思い出話をいたしましょう。
僕は昔ながらのアパートに住んでるんですよね。上下それぞれ3~5部屋ずつの2階建てで、「◯◯荘」とか「◯◯コーポ」とかいう名前のやつあるでしょ。そういう典型的な安アパート暮らしなのです。
僕の部屋は2階なんですけど、2階への階段はアパートの外壁に沿って、廊下とは直角に建てられています。上から見たら廊下と階段合わせてL字型なわけですね。そして、すぐ隣には別のアパートが張りつくように建っているため、2階の廊下は階下からうかがうことはできなくなっています。
ある日、仕事の帰りだったか、夜遅くに帰宅したときのことです。アパートの敷地に自転車を止め、普段と同じように階段を上り始めました。部屋のカギを取り出すために、ポケットをまさぐっていたかもしれません。築年数もけっこう古いため、割と急な階段。その階段を上り終えかけた瞬間、廊下から何かが急に飛び出してきました。その「何か」は、すごい勢いで僕の足元をすり抜け、階段を駆け下りていきました。それは、猫でした。猫はそのまま夜の闇に消えていきました。
猫ってよく夜中にいたるところでのんびりくつろいでますよね。その猫は、その日のくつろぎ場所を、僕のアパートの2階にさだめていたのです。
いや、もちろんびっくりしましたよ。僕はビビりですので、階段から転げ落ちそうになりました。
これを猫の立場で考えてみましょう。ふらりと訪れてみたアパートの2階。誰もいないし静かだし、真横に建物があるから人目にもつかず、風もほとんど吹きこまない。くつろぐには絶好の場所に見える。それではと腰を降ろし、のんびり羽を伸ばしていた。
すると突然、階下で物音が聞こえる。階段がコツコツなる音が近づいてくる。人間だ!人間がやって来る!
性格にもよるでしょうけど、ある種の野良猫というのは、人間にまったくなつきませんよね。極度の警戒をしめします。僕は博愛精神あふれる男ですので、猫だっておおいに可愛がりますけど、その猫からしたらそんなことは知ったこっちゃない。人間に見つかったら捕まってジ・エンド。そんな考えしかなかったはずです。
猫はあわてて方策をめぐらせました。人間が階段を上り切ったら見つかってしまう。見つかったらアウト。しかしこの廊下は2階なので階段しか出入りできる場所がない。柵の隙間はあるけど、そこから飛び降りられる場所がない。袋小路だ。じゃあ方法はただひとつ。人間が階段を上り終える瞬間をねらって、自分が入れ違いに階段に飛び出て駆け降りる。そうすれば、人間はとっさに反応できないだろうから、逃げ切れるはずだ。
・・・で、先のようなドッキリ猫アタックとなったわけです。
これね、もし僕が驚いたときに体をのけぞらせるクセを持っていたら、あるいは足腰の弱い年寄りだったら、足を踏み外して転落していたはずですよ。そして、打ちどころが悪ければそのまま死んでいた。
僕はね、思ったんです。こういう事故というのは、少なからず起きてるんじゃないかと。猫によって驚かされ、事故死してしまった人というのは、けっこういるんじゃないかと。
仮に僕の事例で転落死したとしましょう。警察や検察は、まさか猫がかかわってるなどとは思いもしないでしょうから、運悪く足を滑らせただけの事故という結論を下すはずです。そう、人は普通、猫が犯人である可能性など考えないのです。目撃者や証拠映像があるなら話は別ですが、通常、犯人の可能性があるのは人間だけ。原因のよくわからない事故が起きたとしても、その犯人が猫であることなど、検討すらされない。ただ運の悪い事故とみなされておしまいです。真相は闇から闇へ葬られる。

そういえば、こんな話を聞いたこともあります。
僕は夏季限定の草刈りの仕事をしてたこともあるんですけど、その時一緒に働いてた70前後のおじさんから聞いた話です。
そのおじさんが夏の暑い日に車でどっかに出かけて、途中で窓を開けたまま昼寝をした。目覚めてから再び運転していたところ、いつの間にか車内に入りこんでいた蜂が突然暴れ出したそうです。とにかく驚いた、という話でしたが、これだって運が悪ければハンドル操作を誤って事故に至っていたかもしれない。そして事故の結果死亡していたら、蜂が原因であるとは想像だにされず、単なる運転ミスと判断される。
なんかこわくないですか?運の悪い事故で死んじゃうということそれ自体もですけど、虫や動物が事故の原因なのに、その事実に気づかれないということが。
そう思うと、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」って、動物が人の死に絡んでくることの不気味さを巧みに物語化したという点で、ほんとに傑作だったんだなあとつくづく感じ入りました。

「懐かしさ」の正体

2019-11-19 21:52:13 | 雑考
宮台真司の『絶望 断念 福音 映画――「社会」から「世界」への架け橋』(メディアファクトリー)を読んでの気付き。
これは社会学者の宮台が、近代成熟期にある日本社会に適応し、生き残っていくための代替的な実存形式のモデルを、映画を中心としたサブカルチャーの中に求めた――平たく言うとつまり、生きづらさを抱えている人たちのために、こういう生き方もあるよっていう指標を提示することを目的とした――評論集である。
2005年公開の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットした時、不思議な社会現象が生じたことがある。映画の舞台となった時代のことを知らない若者が、「懐かしい」という感情にとらわれたのだ。昭和30年代にはまだ生まれておらず、時代の空気も知らなければ、文物もほとんど見聞きしたことがない若者たちが、なぜか「懐かしい」と感じた。
これまで、この現象を理論的に説明した言説に触れたことはなかった。しかし宮台のこの本の中に、それを見事に説明してくれている箇所があった。
ちなみに、宮台が分析しているのは『ALWAYS 三丁目の夕日』ではなく、鈴木清順監督の『殺しの烙印』(67)なのだが、その理論はそのまま『ALWAYS~』にも当てはめることができる。


「記憶なき世代」は、目に見える個別の文物に「萌えて」いるのではなく、これらの文物の背後に想像される、奥行きのある「昭和30年代的世界」にこそ「萌えて」いる。
(中略)
ある学生が私に述べたことだが、60年代の文物から「60年代的世界」を想像するのは容易でも、80年代の文物から「80年代的世界」を想像するのは困難で、せいぜい80年代のディスコ等を想像するのが関の山だという。
この話で90年代のレトロ・フューチャーのブームを想い出した。要は「未来を懐かしむ」ブームだ。銀色のロケット、テープが回転する電子計算機など、60年代までは「未来」が想像可能だった。「未来」を想像可能だった過去を懐かしむのがレトロ・フューチャーだ。
60年代には生まれていない「記憶なき世代」が、数少ないヒントから「60年代的世界」を想像可能な理由と、60年代には「未来」が想像可能なイメージに溢れていた理由は、同一だろう。実は、そこで想像されているのは、共同体であり、共同体的な共通感覚なのだ。
重化学工業が主要産業だった「近代過渡期」には「モノの豊かさ」という国民的な目標があった。ところが砂利道が舗装され、下水道が整備され、どぶ川は暗渠となり、家には炊飯器・掃除機・洗濯機・テレビが入り、米国製ドラマの如き生活が送れるようになった。
これら耐久消費財が一巡した70年代前半から「近代成熟期」が始まった。もはや「モノの豊かさ」は国民的目標にはなり得ない。そこから先「何が幸いなのか」は人それぞれ分岐し、それゆえに「心の時代」とも呼ばれて、共同体的な共通感覚が急速に失われていく。
更に十年後、お茶の間にテレビが置かれて家族が同じ番組を見た時代が終わる。テレビの個室化と共に歌謡番組やクイズ番組も廃れた。同じ頃、電話の個室化が起こり、家族は各人の個室から各自の別世界(テレクラ!)へと繋がるようになり、動きに拍車が掛かった。
レトロ・フューチャー・ブームの立ち上がりはその数年後。もう明らかだろう。60年代までの先進国には、同じものを同じように見る「体験枠組の共有」があった。社会学的に定義される文字通りの「共同体」があった。憧れられているのは、この「共同体」なのだ。


どうだろうか。
個人的には、すんなり腑に落ちるとまではいかないのだが、これほど説得的な分析は他にはないと思う。