徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

江崎グリコ クリームコロン あっさりミルク・いちご

2023-08-25 23:37:43 | 
今日は回転です。






僕が子供のころからありますけど、前はクリームコロンじゃなくてコロンだったような気がします。やさしいクリームをサクサクのワッフルで巻きました。
子供のころと言えば、僕が10代のころ、1990年代は、いじめが社会問題としてメディアでよく語られていました。長期間にわたる集団いじめを苦にした自殺が多発してたんですね。統計データちゃんと確認したわけじゃないんで、今よりも当時のほうがいじめ自殺の件数多かったかどうかはわかりません。単に当時のメディアのほうがいじめを積極的に取り上げていたというだけで、発生件数は今も昔も変わりがないか、むしろ今のほうが多いのかもしれません。
いずれにせよ、当時はいじめ自殺がセンセーショナルに報じられていたのです。ワイドショーじゃ自殺した子供の遺書を読み上げるなど、悲惨さを過度に強調する演出が目立ちました。このような報道のありかたは自殺の連鎖を招くという指摘がなされており、実際に「誰からどのようないじめを受けたか」を詳細に記したうえでの自殺、模倣とおぼしき自殺が相次ぎました。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が出版された際、主人公のウェルテルに共感した若者の自殺がヨーロッパで相次いだそうで、このような影響のことを「ウェルテル効果」と呼ぶのですが、それと同じことが日本で起きていたのです。(ついでに言わせてもらいますと、鉄道自殺も報道しないほうがいいですよね。あんなの、「死にたくなったら線路に跳び込みましょう」って呼びかけてるようなもんですよ)
そんな当時の、いじめにかんする話です。
番組名や詳しい内容はさっぱり覚えていませんが、何かのテレビ番組を観ていたら、おじさん3人組が街頭インタビューを受けていました。50~60代くらいで、見た目ガテン系の、幼なじみらしき3人でした。
おじさんたちは、最近のいじめについてどう思うかと問われて、「今の若い連中はよくない」と答えていました。さらに話を聞くと、「いじめのやり方が陰湿だ」と憤っていました。
おじさんたちは、「俺たちも若いころにいじめをしていたが、堂々とやっていた。なのに、今の若者はバレないようにコソコソいじめをしている。それがよくない」と続けました。
僕は、「説得力ねーよ」と思いました。
おじさんたちは、いじめを批判していたのではなく、バレないようにいじめをしていたことを批判していたのです。いじめそのものの批判ではなかった。
だから僕は呆れたのです。「いじめそのものはいいのかよ」って。堂々と、先生や保護者に気づかれてもいいようにやればそれでいいのかって。
なんかこういうのも、「昔はよかった」的な語りの一種なんでしょうね。ノスタルジーにまみれた思い出語りは、過去を極度に美化します。その美化作用によって、いじめという悪しき行為も正当化される。いじめが郷愁をかきたてるまぶしい思い出に粉飾されるのです。
この正当化は、周囲にバレないように行われるいじめとの比較によって、さらに強化されます。いじめは本来恥ずべきもの、反省すべきもののはずです。なのに、教師や親の前で堂々とやっていたという点が、バレないように行われるいじめとの差異として自覚されるようになり、客観的に考えるとそれは「よりまし」という差でしかないのに、あたかも罪がないかのような錯覚をもたらしてしまう。
人間というのは、なんと自分に都合よく過去を解釈するのでしょう。いじめを行っていたおじさん3人組ではなく、彼らにいじめられていた人たちのほうに話を聞くべきだったのです。
いじめられていた人たちは、どう答えるでしょうか。「堂々といじめられていたからよかった」と答えるでしょうか。
そんなはずはありません。いじめはいじめ。堂々とやっていようがコソコソやっていようが、やられたほうにとっては許しがたい記憶でしかないはずです。
3人のおじさんたちは、そんな単純な事実にすら思い至ることができなかったようです。被害者だけでなく、加害者側の言い分もちゃんと聞くべきだとはよく言われることですが、加害者のほうが都合よく過去を改変しがちなのです。加害者の言い分は、いくらか割り引いて受け取らないといけない。
つまりは、ひとことでまとめることができます。
いじめ、カッコ悪い。

フタバ食品 サクレ レモン・パイン

2023-08-18 23:26:09 | 
今日はサクッとするレです。






サッパリかき氷。レモンはスライスレモン入り。パインは果肉入り。日本のしつこい猛暑をこいつで乗りきりましょう。
わりと誰にでもあるんじゃないかって話をします。無意識にかかわる話です。
僕は以前、福岡ドームで野球の試合の接客の仕事をしていました。入口のもぎりとか、立ち入り禁止の場所の見張りとか、配置はいろいろあります。あるとき、スタンドの席案内を割り振られた日のことです。
席案内は、何もすることがないときには通路に立ちます。外側の、売店が並ぶコンコース通路と、スタンドをつなぐ入場通路です。そこに立って、自分の席がわからないお客さんが来るのを待ち、スタンドで異変が起きていないか、試合前であればバッティング練習のボールが飛び込んでこないかなどにも気を配るのです。ボールがスタンドに飛んできたら、笛を吹いて危険を知らせねばなりません。
その日の試合前、ヒマな時間帯が訪れ、僕はボールの行方を目で追いながら、少しボーッとしていました。あまり打球が伸びない選手が練習に立っており、警戒心も緩み気味でした。客の入りはまだまばらでした。
すると、チーフが僕の元にやってきました。チーフというのは、バイトのリーダー格の人です。チーフは、「お客さんからあくびしてるって言われたよ」と告げました。
なんでも、ひとりのお客さんが僕のことを指して、「あいつずっとあくびばっかりしてるけど大丈夫か」って指摘したらしいのです。なのでチーフは、みっともないからやめるようにと僕を注意しにきたのでした。
しかし僕は、いっさい心当たりがありませんでした。あくびなどしておらず、普通に立っていただけなのです。
だから、「あくびなんかしていない。お客さんの勘違いだ」と反論しました。チーフは、「でもお客さんがそうおっしゃってるし、しているんじゃないか」と答えました。
僕はムキになり、「絶対にしていない。言いがかりはやめてほしい」と突っぱねました。チーフはあきれた様子で、「やるなら気づかれないよう、こっそりとね・・・」と言い残して去っていきました。
僕はなぜそんな嘘っぱちを言われなくちゃならないんだと腹を立てました。あくびなどしておらず、マジメにやっているのにと。
気持ちを切り替えて仕事を続けようと、再びグラウンドのバッティング練習に目をやりました。
すると、数秒後、僕の口からあくびがあふれ出ました。
「あ、やってる!」
僕は驚きました。まったくの無自覚のうちにあくびをしていたのです。
お客さんは正しかった。言いがかりでもなんでもなかったのです。
こーゆーことって、けっこうあるんじゃないでしょうか。ちょっとしたクセのようなもの。自分ではいっさいの自覚なしにやってしまってる行為。
しかしなぜ自分で気づかないのでしょうか。自覚しないことが、自分の心にとってプラスの働きになっているのでしょうか。精神分析的には、苦痛に感じるものを認識の外に追いやる、ということがあるからです。
ですが、ちょっとしたクセくらいなら自覚しててもそこまで苦痛ではないはずです。だから、理由がよくわからない。
皆さんはこれ、どう思いますか。

でね、それはそれとして、僕思うんですけどね、日本人のあくびのイメージって間違ってますよね。
あくびをするヤツはやる気がない。人の話をちゃんと聞こうとしていないからあくびが出る。もしくは、寝ようとしている。そんなふうに思われていますよね。
でも僕はそれは違うと言いたい。なんでも、あくびってのは脳の酸素が不足したときに起こるそうじゃないですか。酸素が足りてないから、供給を増やすために起こる生理的反応があくびなのだと。
じゃあですよ、意識をしっかりさせるため、やる気を保つためにあくびをしているってことじゃないですか。ホントにやる気がないなら、あくびが出ることはないんですよ。あくびをしないまま眠ってしまうはずです。
あくびをするのは、眠らないようにするためです。眠気を覚ますためにあくびをしているのであって、寝るためにしているのではない。
だから、あくびをする人を悪く言うべきではないんですよ。むしろ頑張ろうとしているのだと、前向きに評価すべきなんです。
問題なのは、あくびをする人が置かれた環境のほうです。脳の酸素が足りないからあくびをするということは、その場所の酸素が薄いということでしょ。酸素濃度が低いからあくびが出るんですよ。
つまり、酸素が薄い環境が悪いのであって、あくびをする人が悪いわけではないのです。あくびをする人は被害者なのですよ。酸素が薄い環境の被害者なのです。
だから認識を改めましょう。もっと積極的にあくびをすべきだと。あくびは仕事を頑張るために不可欠なものなのだと。やる気があるからあくびが出るのだと。
あくびを許容し、みんなが気兼ねなくあくびのできる社会を実現させましょう。
あくびは必要です。さあご一緒に。