徳丸無明のブログ

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マンガ・四コマ・『想像妊娠くん』

2016-06-28 21:36:09 | マンガ
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マンガ・四コマ・『のぐそくん』

2016-06-24 20:14:05 | マンガ
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「さようなら、みなさんさようなら」・後編

2016-06-21 20:52:20 | 雑文
(前編からの続き)

ひょっとしたら、描写が割愛されていたのだろうか?実際には、停電か、それに類するアクシデントが発生していたのだが、その描写はフィルムから省かれていたということだろうか。しかし、映画の見せ場の一つであるこのシーンで、あえてそのような省略が行われるというのは不自然すぎる。やはり、レポーターは逃げられるのに逃げなかったのである。(この論考のためにDVDレンタルして見返してみたが、やはりそのような描写はなかった。余談だが、倒壊したのはテレビ塔ではなく、東京タワーだと記憶違いしていた。『ゴジラ』の公開は1954年、東京タワーの竣工は1958年。映画に出てくるわけがない)
このシーンは、ひとつの謎として、ずっと引っかかっていた。
だが、「太平洋戦争の終結の仕方には問題があり、戦後社会は欺瞞を孕んでいる」とするならば、理論的に説明がつく。
もし、「あのような形で戦争を終わらせるべきではなかった(自分も戦い抜いて死ぬべきだった)」というだけなら、人は自殺という手段を選ぶだろう。また、「戦後社会の在り方は間違っている」というだけなら、何らかの左翼活動、ないしはテロリズムの形をとるはずだ。
「戦争の終わらせ方」も「戦後社会」も、共に間違っている時、それは、文明との心中という形をとる。
テレビ放送と、その電波を届けるテレビ塔は、戦後復興の一つの象徴である。そのタワーの倒壊とともに死ぬ、ということは、戦後社会との心中を意味する。
「さようなら、みなさんさようなら」というレポーターの叫びを聞いた時、当時の観客の多くは、自らをその姿に重ね合わせてはいなかっただろうか。本来なら自分が履行しなくてはならない行動をレポーターに仮託し、ある種の満足を得ていたのではないだろうか。怪獣の残酷さと、都市破壊の恐ろしさのみならず、甘美さをも同時に感じていたのではないだろうか。(ちなみにこの「逃げられるのに逃げず、タワーやビルなどの建造物と共にゴジラに殺される」人物は、ゴジラシリーズの中に、繰り返し登場している)
今のところ最後のゴジラシリーズは、2004年の『ゴジラ Final WARS』である。ゴジラシリーズが制作されなくなったということは、我々は文明との心中願望から脱却できたということなのだろうか。
おそらくは、そうではない。
ゴジラは原爆実験によって進化した怪獣で、放射能を撒き散らしながら行進する。これと同様の存在は、既に現実にある。福島第一原発は、身を持ってそのことを証明した。
我々は、もはやフィクションのゴジラを必要としていない。ゴジラは今や、現実にいる。
このように述べれば、国内の原発は、1966年に稼働を開始した茨木県東海村の東海原発を筆頭として、主に70年代に建設されており、ゴジラシリーズの終結後に作られたのではない、と思われるかもしれない。
しかし、建設されて間もない原発は、ゴジラではない。建設後40~50年を閲して老朽化し、放射能漏れのおそれが高まった原発がゴジラになるのだ。
だとすると、我々の心中願望は、福島の事故によって満たされたのだろうか。
これもやはり否だろう。我々は、これではまだ足りない、と考えている。
だからこそ日本社会は、福島の事故後に高まった脱原発の機運を圧殺し、同様の事故を防ぐ対策を講じえないまま、なし崩し的に原発を稼働させ続けているのだ。
我々はまだ、満足してはいない。次こそは自分が「みなさんさようなら」と叫ぶ番だ。そう思っている。
近々訪れるとされる首都直下型地震。そのシミュレーションを、テレビでよく目にする。だが、人々はそれを、危機意識を持つためではなく、早く訪れて欲しいイベントとして、待望の眼差しで眺めてはいないだろうか。地方に移住するでなく、首都機能を分散するでなく、防災グッズを買い揃えたり、避難誘導マップを作成したりなどの、根本的とは言えない対策に終始しているのだから(文化庁は京都に移転するらしいが)。
では、この状態から脱却するすべはないのだろうか。三度佐藤の言を引こう。


日本を現在の混迷から脱却させるには、われわれも何らかの神とつながりを持たねばならない。ところが面白いことに、「ゴジラ」を英語で表記するとGodzillaなんです。
最初の三文字が「God」、つまり神。続く「zilla」は、トカゲを意味する「lizard」の綴りを並べ替えたように読めるので、「トカゲの神」ということになります。
(中略)
ならば、ゴジラはどこにいるのか?保守派の多くが、この怪獣の来襲をひそかに待ち望んでいることが示すとおりです。すなわち、われわれの中。
あまり自己過信に陥ると、ゴジラは現実の世界に出てきて、いろいろぶち壊し始める。
(中略)
「改革の使徒」ではなく、「破壊の化身」としてゴジラの存在を信じる。これが手始めです。となれば、どうやって抑え込むかという話になるでしょう。
(中略)
昔、「心に太陽を持て」というフレーズがありましたが、今や保守をめざすのなら、正しい形で心にゴジラを持たねばなりません。
(前掲書)


病気の治癒は、病識を持つことから始まる、と言う。まずは我々が破滅願望・文明との心中願望を抱いている、と自覚すること。それがはじめの一歩だ。そこから始めねばならないし、おそらくはそこからしか始まらない。
手遅れにならなければいいのだが。


オススメ関連本・中沢新一『日本の大転換』集英社新書
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「さようなら、みなさんさようなら」・前編

2016-06-20 20:49:39 | 雑文
日本人は破滅を求めているのだろうか。
もとより、インターネットの匿名の場では、「こんな国滅びればいい」などという怨嗟の声はいくらでもあった。しかし最近、著述家の間でも破滅願望を指摘し、警鐘を鳴らす声が上がっているようだ。
例えば、思想家の内田樹はこう述べる。


多くの人がこの国にうんざりしているというのは事実なんです。過労死寸前のサラリーマンでも誰でも、みんなこんな生活は嫌だと思っている。それが、選挙を通じて政権を代えて漸進的に変化するのではなく、「こんな国もう壊したらいいんじゃないか。いっそ戦争でもしてみたらいいんじゃないか」というふうに表出している。「一回壊しちゃえばいいんだよ」というような絶望的な思いはこの体制下で苦しんでいる人たちの中に確かにあると思います。
(中略)
「ガラガラポン」願望です。ガラガラポンに類する言葉って、たぶん他の国の言語にはないんじゃないかな。ヨーロッパでは、ドイツでもイタリアでも、市街が空襲で焼き払われたあと、中世の都市をそのままに再構築しますよね。でも、日本はそういうことをしなかった。まったく違う町並みを作った。それに飽きたらまたそれを壊して、次のものを作る。変なものを作って、すぐ嫌になって、嫌になったら全部壊す。これって『方丈記』以来の日本人の心性かもしれないです。
(内田樹、福島みずほ『「意地悪」化する日本』岩波書店)


また、評論家の佐藤建志は次のように述べている。


彼[引用者注・哲学史家のスティーブン・トゥルミン]によれば「ご破産で願いましては神話」こそ、近代の改革志向の根底にある発想です。
簡単に要約すれば以下のとおり。物事がうまくいっていないときは、障害となっている要因をできるだけ徹底的に解体し、一から新たに作り直すのが良い。ゆえに社会システムが機能不全に陥っているときは、システム全体をいったん破壊するのが正しい対応である。
(中略)
「ご破産で願いましては神話」の問題は、破壊が美化されてしまうこと。現在のシステムに問題があるとしても、すべてをいったんチャラにしたあとで、もっと良いシステムが作られるという保証はどこにもない。
いや、たいていの場合は「今までのシステムの良い点まで壊したあげく、欠点だらけの新システムを苦しまぎれにでっちあげる」という、洒落にならない結末を迎える。歴史上、「ご破産で願いましては神話」を初めて本格的に実践したフランス革命は、みごとにそうなりました。
(佐藤建志、中野剛志『国家のツジツマ――新たな日本への筋立て』VNC新書)


内田の言う「ガラガラポン願望」と、トゥルミン、及び佐藤の言う「ご破産で願いましては神話」は、同じ心的欲求を指し示しているとみていいだろう。たったふた例しか取り上げられないのは恐縮だが、同様の主張をしている知識人は、探せばまだまだ見つかる筈である。
ところで佐藤は、「ポップカルチャーを通じて現実社会を分析する」手法を得意としているが、その題材として最も多く俎上にのせているのが『ゴジラ』である。


『震災ゴジラ!』でも触れましたけど、東日本大震災が発生したとき、いわゆるインテリを中心に、世直し実行(=抜本的な構造改革)のチャンスが転がり込んできたかのごとくハシャいだ連中が少なからずいます。(中略)
被災地や被災者のことをどう思っているのかと言いたくなるものの、「ご破産で願いましては神話」のもとでは、むしろ当然なんですね。この神話に取りつかれると、物事がうまくいくのを阻害している原因を見つけだし、破壊しなければならない強迫観念に駆られる。
(中略)
物事がうまくいかないからには、まだ破壊が足りなかったんだと考え、より大きな破壊を待ち望むようになるのです!震災でも不足だった以上、次はゴジラにでも来てもらい、何もかもぶち壊してグレート・リセットしなければ、そんな話になるでしょう。
日本の保守派の多くは、このような意味で、ひそかにゴジラを夢見ています。
(前掲書)


また佐藤は、『震災ゴジラ!』の中で、戦後日本は虚妄であるとも述べている。
太平洋戦争時、一億玉砕を唱えていながら、最後はあっさりと降伏に転じ、それまで鬼畜と呼んでいた相手にすり寄るいう変節を見せ、それとともに、自国の正義と信じてきたものを「悪しき帝国主義的な野望」として否定した。あまつさえ、「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」と呼び変えたり、戦後復興を遂げると、「繁栄こそが勝利なのだ」と主張するなどして、戦争に負けた事実を糊塗しようとした。そのことによって、戦後の日本は虚妄を孕んでおり、その後ろめたさから、歴史に筋を通すために、「本土決戦を遂行したい願望」を抱くようになった。
そして、その願望の反映こそが、繰り返し何度も日本に来襲するゴジラである、というのだ。(もっとも、佐藤によれば戦後のみならず、戦前の日本も虚妄であるという。詳しくは『震災ゴジラ!』を読まれたし)
ゴジラといえば、小生にも思い当たるフシがある。
第一作目の『ゴジラ』に関してだ。同作には、テレビ塔の展望台で中継を行っていたレポーターがゴジラに襲撃され、「さようなら、みなさんさようなら」と叫び、タワーと共に倒壊する、有名なシーンがある。
小生は、映画を頭から通して鑑賞する前に、この場面だけをテレビの特番か何かで観ていた。で、「このレポーターは、ゴジラに襲われる直前に展望台を脱出するつもりでいたのだが、停電か何かのイレギュラーな事態の発生により展望台に閉じ込められてしまい、やむを得ず腹をくくって最期までレポートを続けることにしたのだろう」と思っていた。
しかし、そうではなかった。
後年、改めて『ゴジラ』を観てみると、展望台から脱出できなくなる事態は、何ら発生していなかったのだ。レポーターは、逃げられるのに逃げなかったのである。
これには結構驚いた。

(後編に続く)


オススメ関連本・大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』岩波新書
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マンガ・四コマ・『酒と薔薇の日々』

2016-06-17 22:38:07 | マンガ
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