徳丸無明のブログ

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愚か者の黙示録――人類の歴史とは総白痴化の過程のことか・後編

2017-10-31 21:54:24 | 雑文
(前編からの続き)

ソクラテス研究者の間では、ソクラテスが文章を残そうとしなかった理由について、もっと多くの可能性が検討されているはずである。しかしそこに踏み込むと、記述があまりにも冗長になってしまうし、主題とは関係なくなってしまうおそれもあるので、ここではこれ以上立ち入らない。
ソクラテスの話を出したのは、文字が人類に及ぼした影響の一端を紹介するためである。文字の誕生は、人類に大きな変化をもたらした。
「口承文学」というものがある。現代の小説のように、書物内に綴られていたり、あるいは電磁パルスに変換された、電脳空間上の物語ではなく、人から人へ、口伝えで語り継がれていく物語のことである。
文字という記録手段が生まれる以前、文学とは、脳内に記録されるものであった。おもに神話、もしくは歴史として語られるその物語は、現代人には記憶するのが困難に思えるほどの長さの話も少なくないのだが、語り部たちは一語一句過たずに諳んじていたという。
ただし、だからといって口承文学が一切の変化を蒙ることなく人から人へと語り継がれてきた、というわけではない。個々の語り部によってアレンジが加えられたり、何らかの思惑によって部分的な加筆・削除が行われたり、記憶障害などの偶発的な事故によって中身が損なわれたりしたことも当然あったはずである。
いずれにせよここで指摘しておきたいのは、文字が誕生する以前――より正確に言えば、文字の誕生以降も、パピルスや紙などの媒体がある程度量産されるようになるまで――、人類は今よりも優れた記憶力を持ち、分厚い書物にも匹敵する物語を頭の中に入れておくことができた、ということである。
現代の人類にそれと同じことができないのは、文字によって情報を記録する術を覚え、それに頼りきりになったために記憶力が衰退したからである。
これを人類の堕落と見做すこともできる。文字記録によって記憶力が衰えたとするならば、「スマホを使っていたらバカになる」というのと同様に、「文字を使っていたらバカになる」という言い分が成り立つ(ソクラテスが考えていたのもこのことであったかもしれない)。
だが、当然それは悪い変化ばかりをもたらしたわけではない。文字記録によって、記憶できる以上の情報にアクセスできるようになったからだ(この流れを「記憶の外部化」と捉える向きもある。書物などの記録媒体が脳の代替の働きをしている、という意味である)。確かに、記憶力という一点にだけ注目すれば人類はバカになったと言えるのだが、記憶可能な情報以上の情報量に触れることが可能になったことで、文字誕生以前にはできなかったことができるようにもなったのだ。
人類は、文字以外にも様々な「便利なもの」を創り出してきた。火の使用・衣服・農耕器具・刃物・船・印刷技術・電気・蒸気機関車・自動車・飛行機・冷蔵庫・電子レンジ・エアコン・電話・インターネット・等々。
それは「能力の外部化」、もしくは「能力の拡張」と言える。
自分の身一つで負担せねばならなかった事柄を、道具によって代行することで、個の能力の限界を超えた営為を行うことが可能となったのだ。人類の歴史とは、「能力の外部化・能力の拡張の歴史」とも言える。人類は次から次に便利なものを創り出し、それに依拠することによって今日の繁栄を築いたわけだ。
なので、「スマホを使っていたらバカになる」というのが正しいとすれば、このベストセラーの著者もまた、原始時代の人類と比べれば相当なバカ者ということになってしまう。果たしてそれこそがこの世の真理と言えるのだろうか。

急に話題が飛ぶようだが、ここで身体障害者の話をする。
小生の母親に、盲目の友人がいる。母親がその友人と遊びに出かけた時に、手を怪我したことがあった。かすり傷程度だったので、友人には怪我したことは言わずに、黙ってカバンから絆創膏を取り出した。その絆創膏の封を開けた瞬間、友人が「ケガしたの?」と訊いてきたという。
「絆創膏の封を開ける音」という微細な音を聞き洩らさなかった、というだけではない。似たような音など他にいくらでもあるだろうに、「絆創膏の封を開ける音」と「それ以外の様々な音」を聴き分けることができたということでもある。そして、一瞬の聴き分けによって母が怪我をしたと悟ったのだ。
この種の、身体障害者による驚異的な能力の話(見えていないのに見えているかのように障害物をよける、声によって何人もの人を個体識別して記憶する等)は、誰しも一度や二度は聞いたことがあるはずだ。それくらい「身体障害者の驚異の能力」というのは普遍的な現象なのである。おそらく身体障害者であれば、みな何かしら健常者を驚かせる能力を備えているはずである。
これは何を意味するか。一部の能力が欠如することで、その欠落を補うために他の能力が高度に発展する、ということだろうか。
もっと単純にこう考えてもいいと思う。人間が五感に配分できる能力を「パワーポイント」と呼ぶとする。パワーポイントには上限がある。仮にこれを100とすると、それぞれ〈視覚60・聴覚20・嗅覚10・触覚5・味覚5〉といった具合に分配されるだろう(均等な配分ではなく、感覚の重要度に応じて、このように数値が偏るはずである)。
そこで視覚が失われたとする。すると行き場を無くした60のパワーは、残りの感覚に再分配される。それによって生じた健常者とは違うパワーポイントバランスが、健常者にとって脅威的な身体能力となって発現するのだ。
人間と道具(便利なもの)との関係も、これと同じようなものではないだろうか。人間の頭の良し悪しは、今も昔もさほど変わらない。便利なものが生まれれば、それに頼りきりになることで、本来備えていた能力を喪失してしまうこともある。だが、パワーポイントの総数自体は変わらないので、失った能力以外の能力にポイントを振り分けることができる。
こうして、便利なものの誕生によって、元々の能力が失われてきた面はあるものの、その代わりに便利なものを自分の一部として使いこなすことによって、人類は相対的にパフォーマンス能力を向上させてきた。・・・というのが真相なのではないだろうか。
それでも、なおもバカという言葉を使いたいのなら、こう言うべきだろう。「人類は、今も昔も同じぐらいバカなのである」と。
コメント

愚か者の黙示録――人類の歴史とは総白痴化の過程のことか・前編

2017-10-30 21:57:42 | 雑文
今も売れ続けているのかもしれないが、少し前に90過ぎの女性が書いたエッセイがベストセラーになった。歯に衣着せぬ物言いがヒットを呼んだ、と喧伝されていた。そのブームのさなかに、NHKがニュースで内容を一部紹介していた。
その著者がタクシーに乗った時、高齢の運転手とスマホの話になったらしい。運転手は、自分はスマホを使っていないのだが、子供や孫は使いこなしており、電話ができるのみならず、天気予報や時刻表や動画撮影など、様々な機能が備わっているそうだと説明した。それを受けて著者曰く、「そんな便利なものを使っていたら人間はバカになる」。
正直、脱力した。長い人生経験に裏打ちされた深い洞察が語られていると思っていたのだが、これは単なる年寄りの繰り言に過ぎない。(もちろん抜粋されたのは全体の中のごく一部分である。一部をもって全体を判断するつもりはない。引用箇所以外の部分ではなるほどと唸らされる叡智が記されているのかもしれない)
この種の言論が好評を博す理由自体はよくわかる。いつの時代にも新しいものについていけず、それを貶めることによって「ついていける人」よりも「ついていけない自分」のほうが優れているのだと自らに言い聞かせて自尊心を保とうとする人や、新しいものには必ずひととおり難癖を付けねば気が済まないひねくれ者などが一定数おり、それゆえこの種の愚痴・皮肉・嫌味発言には常に需要があるのだ。あまり建設的とは思えないが、それによって留飲を下げ、心穏やかに生きていくことができるのなら、清涼剤的な役割を果たしているという意味で、社会的な存在意義はあるのだろう。
さて、小生は何もここでこの著者を批判しようとしているのではない。ベストセラー現象の浅墓さを嘆いているのでもない。
「便利なものを使っていたら人間はバカになる」という主張に考察を加えてみたいと思っているのだ。

「〇〇を使っていたらバカになる」という意見もまた、取り立てて目新しいものではない。「テレビばかり観ていたらバカになる」や「ゲームばかりしていたらバカになる」などといった派生形も含め、「何かに頼りきりになることで元々の能力を喪失してしまう」という考え方は昔からある。
どれくらい昔からあるのか。私見の及ぶ限りでは、それは文字の誕生の頃からあったと推察される。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「産婆術」という独自の対話法によって思索を行うことを哲学的営為の中枢に据えていた。対話によって自分と相手がこれまで意識してこなかった問題を浮かび上がらせ、これまで辿り着けなかった結論を導き出す。それがソクラテスの“生きた哲学”であった。
ソクラテスの思想は弟子のプラトンによって記録されており、そのおかげで今もなお彼の叡智に触れることができるのだが(プラトン以外にもソクラテスの言葉を記録していた同時代人はいたのかもしれないが、その辺に詳しくない小生には詳細はわからない。悪しからず)、ソクラテス自身は己の思索を文章という形で残そうとはしなかった。ソクラテスは文字というもの、文章という書き記されたものにはよく注意するようにと口にしていたという。それは一体どういうことなのか。
我々の感覚では、優れた知性の持ち主であれば、それを人類の共通財とすべく文章化し、後世に伝えるべきではないか、と思えてしまう。しかし、ソクラテスはそうしなかった。
何故ソクラテスは、自身の思想を文章で記録しようとしなかったのか。
ひとつは、ソクラテスにとって思想とは、常に生成変化する動的なものと覚知されていたからではないか、と考えられる。対話によって生み出されるのが思想なのだとすると、文字によって綴られた思想は、テクスト上にその動きを封じられ、一切の変化の可能性を断たれた標本のようなものということになるだろう。
人間というものが常に変化し続ける存在であるのと同様に、思想もまた変わり続けねばならない。心臓が鼓動を打つのを止めた時に人間の生命活動が終わりを告げるように、思想もまた文字によってその活動を封じられた時に死ぬ。ソクラテスはそう考えていたのかもしれない。もっと言えば、思想の内容がどうあるかに関わりなく、動的であることそれ自体が重要なのだと思っていた可能性もある。
もうひとつ考えられる理由は、テクストの対話不能性を嫌ったのではないか、ということ。読書とは、読者による一方的な読み込み作業である。そこには、対話のような双方向性は確保されていない。
読者は、能動的にテクストを読み、その内容を受容する。この読み込みとは、必ずしもそこに書かれた意味をそのまま理解することではない。往々にしてそれは「解釈」となる。自分自身の主義主張にとって都合のいいように内容を捻じ曲げ、あるいは自身の微細な知的容量の範囲内に収まるようにそのサイズを切り詰めて理解する。それが“読み”において――往々にして、というより、むしろ抜き差し難く――発生してしまう「解釈」という現象である。
ただ読み込む過程では、そこに書かれてはいないものを見つける、という事態も起こりうる。なんとなれば、“読み”というのは、書かれたものを一方的に受容することのみならず、書かれたものと読者の知性の衝突・相克であるからだ。それは産婆術と同様、動的で生産的な行為と言えるので、必ずしも書かれたものを読むことは思想の停止を意味するものではない。
その意味で、読書を「著者と読者の対話」と捉えることもできなくはない。実際そのように考えている人は少なくない。
しかしそのような場合であっても、読者の対話相手となるのは、本物の著者ではない。テクストを通じて、読者によって仮想された、仮構としての著者である。プラトンの著作を読み込むことで立ち現れてくるプラトン像は、プラトン本人の忠実な写像ではない。しかも大半の場合、読者の知的スケールに合わせて歪められたり撓められたりして、矮小化されたプラトンになってしまう。
だからソクラテスは、偽者のソクラテスを生み出されることを嫌った、とも考えられる。

(後編に続く)
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