徳丸無明のブログ

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政治、この難儀なるもの・後編

2015-10-01 16:40:28 | 雑文
(前編からの続き)

政治上の議題をもうひとつ挙げる。
「軍隊は、なぜ平時においても存在するか」
軍隊とは、戦争を遂行するものである。戦時においては働きを要するが、平時にはやることがないはずだ。しかし、平時においても、軍隊は常に存在する。これはなぜなのか。
これに対する模範解答、つまり、政治の世界におけるスタンダードは、次のとおり。
軍隊は自衛能力を有している。もし、軍隊が不在であるならば、他国にあっという間に侵略されてしまう。国の防衛、他国の牽制のために、必要欠くべからざる存在なのだ。
…ということなのだ。
これが国際的常識であるらしい。
なんかヘンだ。
なんで軍隊がないからといって、他国(の軍隊)は攻めて来るのだろう。そりゃ、軍隊がなければ、侵略、制圧するのは容易い。でも、人様の国を、独自の文化を持った暮らしを、尊い人命を、そう気軽に踏みにじっていいものではないはずだ。でも、この国際的常識によれば、軍隊がなければ、気軽に踏みにじられて当たり前、という事になっている。
「世の中、そんな甘ったるいものじゃない。血で血を洗う狼の世界と一緒だ。徹底したリアリズムでなければ、真の平和は達成されんのだ」
どうやら、政治の世界というのは、リアリストでないと生き残っていけないらしい。
でも、やっぱりおかしいよ。
自称リアリストさんに問いたい。この問題を、我が事として考えたことあるの?
仮にさ、他国から軍隊がなくなったら、侵略したいと思う?
世の中には好戦的な方もおられるので、中には「是非大日本帝国の領土を拡大したい」などと宣う御人も居られるかも知れない。でも、まずほとんどの人は、そんな非道いこと、出来るからといってしたくない、と答えるだろう。
逆に、自国に軍隊がなければ、被侵略を受容するか?
これは、問い自体がナンセンスと言われるだろう。「絶対に侵略なんかされたくない。だから、軍隊をなくしてはならない。軍隊がなくなるという前提自体、あってはならない」と。でもさ、そう答えるってことは、自国の軍隊がなくなれば、間違いなく他国が侵略してくると思い込んでるってことだよね。
すご~~~~~くヘンだ。
みんな侵略したいとは思わないし、侵略されたいとも思っていない。この、侵略はしたくもされたくもない、というのは、日本のみならず、ほとんどの国のマジョリティの意見であるはずだ。なのに、自分達はそうだけど、他国民はそうじゃない、他国は狼で、軍隊がなければ侵略してくる、と言う。
これがリアリズムだというのであれば、リアリズムこそがむしろ真の平和の達成を妨げている要因と言えるのではないか。
確かに、綺麗事だけではやっていけないかもしれない。軍隊をなくしたくても、すぐにはなくせないかもしれない。
でも、この状態がヘンだ、という事は、もっと言っていかないといけない。
軍隊がないからといって、侵略してもいい、というのはヘンだ。誰しも、侵略したくもされたくもないはずだ。軍隊がない国であっても、侵略することは許されない。…ということを、積極的に訴えるべきではないか。そして、そのような働きかけを通じて、それを国際社会の常識に変えていくべきではないか。
そうでないと、世の中、相互不信の状態から抜け出せないままじゃないか。ホッブスのリヴァイアサンを引き合いに出して、得々としている場合じゃない。(ふと思ったんだけど、この「リヴァイアサン」って概念が、結構クセ者なんじゃなかろうか。男って怪獣好きだし、名前からしてカッコいいし。怪獣好きの精神と、政治のリアリズムが結びつくことで、根強い相互不信が醸成されているのではないだろうか。だとすると、ホッブスの罪は、なかなか重い)
この相互不信が、人類が絶滅するかもしれない核のネットワークをもたらしている事を考えてもそうだ(核のネットワークが、戦争を起こしにくくする形で、部分的に平和に貢献している、という点は、どうしても認めざるを得ないが)。他国に対抗するために、際限のない軍備拡張・増強を続けてきた歴史を、不毛だとは思わないのか。
コラムニストの小田嶋隆が『脱グローバル論』の中で、「橋下さん(引用者注・現大阪市長の橋下徹)は「平和、平和と唱えて平和が来るなら、そんな簡単な話はない。そうじゃないから、われわれは国防について現実的な考え方をしなきゃいけない」みたいなことを書いてましたけども、これって大きな落とし穴で、僕は世界平和にとって一番大切なのは、まさに「平和、平和」とお題目を唱え続けることだと思うんですよ。」と言っていた。ああ、良かった、ここにも仲間がいた、と思った。
小生は、平和の理想像を、コスプレに見る。
日本のマンガ、アニメは広く世界中に受け入れられ、コミックマーケットや、それに類するイベントも、数多くの国で開催されている。そんなイベント会場において、日本人と、現地の国の人が、仲良くコスプレして遊んでいるのを、テレビで観たことがある。言葉なんか、全く通じていないのに、同じアニメが好き、このキャラクターが好き、という共通点で繋がって、和気藹々としているのである。
もし、世界中の人達が、みんなこのようなコスプレイヤーであれば、世界平和なんか、簡単に達成できるはずだ。もちろん、非現実的な仮定であることはわかっている。だが、理屈で言えばそうだろう。みんなでコスプレやって楽しく遊んでいれば、争いなんか起こらない。
これは、平和のためにみんなでコスプレをしよう、という事ではない。できるだけ政治を遠ざけたほうが、より平和に近くなる、ということだ。
話がいろんな所をフラフラしてきたが、以上が小生が政治に興味が持てない理由である。
「じゃあ、お前には自分の意見、希望というものがないのか」とか「必要悪だといっても、世の中には問題が山積されており、それは政治によって解決せねばならないだろう」といった反論が予想される。
うん、もちろんそのとおり。
解決すべき問題に関しては、内容によっては加担することもやぶかさではない。誰が考えてもこうすべき、あるいは全体の事を慮るとこうすべき、というのが明らかで、あとはみんなで力を合わせる必要がある、という場合。それなら難しくない。それなら、小生も協力しよう。
でも、必ずしも誰の目にも明らかでない考えを、理想としている人もいるだろう。これは、さっきから述べているように、必ずしも間違っている、ということではなく、価値観の違いである。この人達に対しては、どうぞご自由に、と言いたい。理想を達成するために、好きなように政治に働きかけてもらえばいい。
小生は、そうしない。理由は、右翼と左翼で説明したのと同じだ。自分にとって理想的な社会というのは、どこかの他人にとっては、不愉快な社会かもしれない。だから、自分からは変えない。
小生は、今ある社会、誰かがそれを変えたのであれば、変化した社会の、その枠組みの中でどう振舞うか、を考える。枠組み作りは人にお任せし、自分はその形に沿うように振舞う。自分の方を世の中に合わせる、付和雷同を目指していきたい。
理想社会の実現が達成できるか否かに拘らず、政治的意見を言う、という事は、立場を明らかにする、という事で、立場が明確になるという事は、そこに対立が生じる、という事だ。当然、自分とは違った意見の人もいるはずから、右であれば左の人と、左であれば右の人と対立することになる。で、極端な言い方をするなら、対立は争いを生み、平和を遠ざけてしまうことになる。だから、小生は政治的意見を言わない。
できるだけ政治的立場を明確にしないこと、これが肝要。


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