徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

一枚絵・『マタチネス』

2021-11-28 00:00:17 | イラスト



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リアライズプランニング アサヒテング ビーフジャーキー味じゃがスティック

2021-11-26 22:05:49 | 
今日は天狗になってるジャーキーに見せかけといてスナックです。




有名な、天狗のマークのビーフジャーキー。その味を再現したポテトフライです。ほんとにジャーキーの味がします。香辛料がたっぷりめにかかってますけど、辛いわけではなく、マイルドです。
しかしこれ、売ってるお店少ないんですよね。僕はディスカウントショップで入手しました。
本日は第42回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのはねこぢるの『ぢるぢる旅行記 総集編』(全1巻・青林堂)です。もともと『ぢるぢる旅行記 インド編』(ぶんか社)があったんですけど、のちにネパールの旅も含めた総集編が出ました。しかしいずれも絶版。古本を探してください。
ガロ系のマンガ家として活動していた夫の山野一さんに見いだされてマンガ家デビューし、独特の可愛い絵柄と残酷なストーリーで、一大ブームを巻き起こしたねこぢるさん。『ねこぢるうどん』や『ねこ神さま』が代表作ですが、僕はそちらはちょっと苦手。
この『ぢるぢる旅行記』は残酷描写薄めで、異国のカルチャーに触れる旅行記マンガとして、単純に楽しめます。インドの悲惨な境遇に置かれた人たちが出てくるんで、ちょっとしんどくなりますが。
本書はねこぢるさんと山野さんの2人旅の記録。インドでの貧乏バックパッカー旅なので、当然のように事件が頻発します。また、日本じゃ手出ししてはいけないものを楽しんじゃってて、最初に読んだときは、「いくらインドで合法とはいえ、こんなん描いちゃって大丈夫なのかな」って不安になりました。食事シーンもけっこう出てきますけど、美味しそうなのは少なめ。でもサモサは食べてみたい!
ねこぢるさんは人の内面を鋭く見抜く直感力など、優れた感性を持っておられて、その能力も作品の描写に遺憾なく発揮されてます。
よく言われているように、インドってかなりデタラメな国で、日本を窮屈に感じている人にはそのデタラメさが開放的に思えるけど、日本的な「キッチリ」がないと許せないという人は、インドが嫌いなんですよね。好き嫌いがわかれる国、インド。しかし日本の閉塞感を打ち破るヒントがあるような気もします。本書でそれを探してみてください。
現在、ねこぢるさんの著作はほとんど絶版になっているようです。電子書籍で文藝春秋から『ねこぢる大全』ってのが出てますけど、差別用語修正されていたりなど、改変が著しいそうで、ファンからは評判がよくないそうです。
マンガではなく、絵日記の形式で描かれた作品なんですけど、『ぢるぢる日記』(二見書房)っていうのがほかにおススメできる作品。
ねこぢるさんは1998年に31歳の若さで自ら命を絶たれました。その原因についてはいろいろ言われていますが、僕はただ魂の安らかならんことを祈るばかりです。妻に先立たれた山野さんにも幸多からんことを。
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一枚絵・『オライビ』

2021-11-24 22:43:37 | イラスト



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一枚絵・『キッタカッテ』

2021-11-22 22:02:59 | イラスト



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無敵の人との戦い方

2021-11-21 21:55:38 | 時事
10月31日、東京都調布市を走行中の京王線の電車内で、24歳の男が、乗客の男性をサバイバルナイフで刺したうえ、車両にライターオイルを撒いて火をつけるという事件が発生した。刺された男性は重体。煙を吸い込むなどした16人が軽傷を負った。居合わせた乗客によって撮影された事件の動画は、緊迫感とともにたちまち拡散された。
衆院選最終日、選挙特番のさなかに伝わってきた事件の一報に触れたとき、僕は、それが速報であることをとっさに理解できなかった。見覚えのある映像だったし、過去の事件の続報かと思ったのだ。それくらい既視感のある、反復された事件だった。
容疑者が参照したのは今年8月に起きた小田急線の無差別刺傷事件だが、その前にも2015年6月に新幹線の車内で焼身自殺を目的とした火災事件が起こっているし、さらに遡れば、「人を殺して死刑になりたかった」という動機による事件もいくつか起きている。
司法による裁きを目的とした事件にせよ無差別刺傷にせよ、最近になって急に起こり始めたわけではなく、犯罪史的にも珍しいものではない。ただ、「模倣」という形で連続して発生しているというのが、これまでになかった現代的な特徴である。

10年ぐらい前からだろうか、「無敵の人」という言葉をよく耳にするようになった。「無敵の人」とは、社会の底辺に押しやられていて、仕事でも人間関係でもうまくいかず、多くの不平不満を抱えており、失うものが何もなく、それゆえに怖いものがないという社会的立場の人物を指す。(厳密にはこの「失うものが何もない」というのは、客観的な事実ではなく、主観による解釈で決せられるため、傍から見たら「そんなに不幸でもないじゃないか」と感じられる場合も多々ある)
人は多かれ少なかれ、承認欲求を抱えている。通常は友達などの人間関係や、仕事での社会的地位の確立、あるいは金儲けによって承認欲求は満たされる。しかし社会状況や個々の能力、時の運によっては、それら「通常ルート」ではうまくやれず、承認欲求を満たせない人も出てくる。
そんな不遇の身にある者には、「悪名」こそが最後の手段として映る。社会的に肯定された手段で承認欲求を満たすことができないのなら、せめて「悪名」でも、と思えてくる。同時に、社会に報復したいという願望もあるならば、なおのこと無差別刺傷は最適な手段に思えるだろう。ついでに死刑にしてもらえるなら、クソみたいな人生とおさらばできて万々歳というわけだ。
「人は誰でも生涯のうちに15分だけなら有名になれる」という言葉を残したのはポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルだが、無差別刺傷(および放火)ほどお手軽で、かつ急速に知名度を上げられる手段はほかにない。

『バットマン』の悪役、ジョーカーに憧れていたという犯人の服部恭太。事件後、ジョーカーに扮した姿で電車のシートに座り、落ち着きはらった風情でタバコをくゆらす服部の映像が、集中的にメディアに流された。拘禁中の容疑者は、自身の報道に触れることがないよう、厳重に情報を遮断されているが、もし服部が自分のあの映像を見たら、狂喜したことだろう。あの姿は露骨に、「こう見られたい」というセルフイメージを具体化したものであった。恐らくタバコも吸いたくて吸っていたのではなく、犯行後に周囲の乗客にレンズを向けられることを見越して、いかに見栄えよく映るかを計算したうえで「喫煙姿」を選んだのだと思う(ちゃんと顔が映るように、ホームと反対側のシートに座っていた)。
ハロウィン当日に合わせて犯行が行われた点もそうだが、過剰な自己演出臭のする事件だった。服部は逮捕後に「人を殺して死刑になりたかった」と供述したそうだが、死刑になるだけならここまでの演出は必要ない。この自己演出は、「死刑になりたい」という以上の何か、動機の余剰を含んでいる。それはやはり悪名でもいいから名を残し、承認欲求を満たしたいという願望のなせる業なのだろう。服部が自分のことを無敵の人と呼んでいるという情報は出ていないようだが、当人の感覚的にはそれに近いものと自己規定していたはずだ。
そもそも本当に死刑になりたいのであれば、1人刺しただけで他の人を襲おうとせず、警察が駆けつけるまでのんびりシートに座っていたのは不自然だ。あの行動は、「死刑になりたい」よりも「承認欲求を満たしたい」という願望が強かったことの表れではないだろうか。
この種の事件が起きると、一部で共感や称賛の声が上がることがある。やはり無敵の人の系譜に位置している、2008年6月の秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大に対してもそのような反応が見られた。極端な人は英雄視していたし、そこまではいかなくても、自分と加藤を重ね合わせ、「まるで他人とは思えない」と同一視していた。
自称「良識のある大人」たちは眉をひそめ、あるいは声を荒げて𠮟責した。「こんな身勝手な犯罪者に共感するとは何事か」と。
しかし「良識のある大人」たちは、ひとつ決定的な見落としをしている。無敵の人にとっては、称賛も罵倒も等価なのだ。
悪名でもいいから承認欲求を満たしたいと願うとき、称賛であれ罵倒であれ、「自分の言動に起きた反応」すべてが評価としてポイント換算される。「良識のある大人」は、犯人を非難することで、有益な言葉を社会に振りまいているつもりなのかもしれないが、それは犯人の思う壺でしかないのだ。非難の声も、犯人には成果としてカウントされてしまう。社会に影響を及ぼすことそれ自体が犯人の目的なのだから。
どのような形であれ、事件に反応してしまえば、犯人を喜ばせてしまう。彼の承認欲求を満たすことによって。たとえ非の打ち所のない正論でも、犯人の人格を貶める誹謗中傷でも、感情的な罵詈雑言でも、事件に反応してしまった時点で、犯人を利することになってしまうのだ。何らかの反応を示すのであれば、最低限その前提を踏まえたうえで行わなければならない。僕も今、その前提の上に立って、当たり障りのない正論や、良い人アピールしたいだけの綺麗事よりは有益な言葉を紡ぐためにこの論考を書いている。

ニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターは、苦々しい顔で事件に言及する。起きてはならない事件が起きてしまったと。本当はこんなニュースを伝えたくはなかったと言わんばかりに。
だがその実、メディア関係者は小躍りしている。悲惨な事件は、視聴率を稼ぎ、部数を伸ばす、格好のネタなのだから。
だから、内心事件を歓迎している彼らは、微に入り細を穿ち、詳細を報じる。犯人の来歴に始まり、いつから犯行を計画したのか、事前に何を準備したのか、直前の足取りはどうだったのか、犯行に用いた道具は何か、具体的な犯行の流れはどうだったのか。
これらの報道はすべて、無敵の人、およびその予備軍にとっての「ヒント」になる。彼らは、「こうすれは曲がりなりにも承認欲求を満たすことができ、しかも社会に復讐できるんだ」と受け止める。あるいは、「自分もこうすれば死刑にしてもらえるかもしれない」と考える。「自分も服部のように大々的に報じられることで、悪名という形にせよ一躍有名になることができるのではないか」と考える。
そして、服部自身が模倣犯であったように、次なる模倣犯が生まれていく。(11月8日には九州新幹線の車内で、69歳の男が放火未遂を犯した。男は「京王線の事件の真似をした」と供述している)

メディアは、なぜこのような事件が起こったのか、犯人の半生を振り返り、人となりを調べ、社会背景に火種を捜す。しかし唯一、「自分たちの過剰報道が模倣犯にヒントを提供したのではないか」という可能性については一切言及しない。
またメディアは、どうすれば同様の事件の再発を防げるかについても、乗客の手荷物検査や、警備員の増強、監視カメラの拡充など、あらゆる手段について検討する。さらには、「実際に事件に巻き込まれた場合にはどう対処すればいいか」というシミュレーションまでご丁寧に行って見せる。しかし唯一、「自分たちが過剰報道を自制することが模倣犯を生み出さないことにつながるのではないか」とだけは決して言おうとしない。
メディアが唯一、絶対に言わないこと。それは、他ならぬ自分たちこそが模倣犯を次々輩出している元凶なのではないか、ということだ。
もっと踏み込んで言えば、メディアが、自分たちのメシのタネを確保するために、社会の安全を犠牲にしている、ということだ。このことに自覚的な、「良心のある」メディア関係者はいないのだろうか。(今日ではメディアのみならず、ネットとSNSの影響力も大きいわけだが、これらは相関関係にある。ここで言うメディアとは、その一部にネットとSNSを含むものと理解していただきたい)
本当に事件の再発を防ぎたいのであれば、メディアは、メシのタネをある程度犠牲にすべきなのだ。いくらか視聴率が下がり、部数が減少するのを覚悟して、過剰報道を抑制せねばならない。事件の情報に触れる機会が減れば減るほど、無敵の人が模倣犯に転じる確率は低下するのだから。
メディアは鉄道現場での警備強化の必要性を訴える。実際警備員が増えたところもあるようだし、警察が事件防止の訓練をしたりもしている。それらももちろんあったほうがいい。しかし、メディアが報道を自制することなく警備強化を言い立てるのは、自分たちが増幅させた危機によって行わねばならなくなった不審者対策・犯罪者対策を、鉄道職員と警備員と警察官に押し付けている、ということに他ならない。鉄道関係者は今、メディアに腹を立てているのではないだろうか。

それでもメディアが事件を取り上げ、その内実に言及するのであれば、模倣犯を減らすために語るべき言葉がある。それは、「人はそう簡単に殺せるものではないし、事件を起こしても死刑になる確率は限りなく低い。仮に死刑を宣告されたとしても、執行までの月日は長く、その間ひたすら苦しみに耐えなければならない」ということだ。
僕の考えでは、これこそが唯一模倣犯を減らすことができる、メディアで積極的に語られるべき言葉だと思うのだが、寡聞にして一度も聞いたことがない。あまりにも非道徳的だからだろう。しかし、道徳に反していようが苦情が殺到しようが、模倣犯の発生を1件でも減らせるならば、ためらうことなく口にすべきなのだ。「死刑になるのは難しい」と。
それこそが、真にあるべき「無敵の人との戦い方」に他ならない。
むろんこれは対処療法に過ぎない。事件を起こしても起こさなくても、無敵の人が存在しているというだけで、その社会は不健全だ。無敵の人が生まれてくる土壌である日本社会こそが、おおもとの原因。根本的な対策は、無敵の人を生み出さないようにすることであって、そのためには社会基盤の改革が必須。
だがそれと同時に、生まれてしまった無敵の人に、きっかけを与えないようにしなくてはならない。きっかけは過剰報道、つまり、「模倣犯を生み出さないためにはどうすればいいか」について、言及すればするほど模倣犯が増えてしまうという逆説にある。
この逆説に気づき、身を切る覚悟で報道の抑制を提案、もしくは法制度化を行うメディア関係者が出てくることはないのだろうか。

映画『ジョーカー』では、主人公のアーサー・フレックが、汲むべき事情によって残虐な怪物へと変貌を遂げる様が描かれていた。不幸にあえぐ人たちには、悪漢こそが崇敬すべき英雄に映る。服部恭太もまた、メディアの過剰報道によって、ダークヒーローに仕立て上げられてしまった。ジョーカーの服装でタバコをふかすその姿は、すでにイコンになっている。
服部は、憧れていたジョーカーになった。願いが叶えられたのだ。服部を批判していたメディアの手によって。
先に、この種の事件には少なからず称賛や共感の声が上がる、と書いた。服部を自己と同一視する者もいるはずだ。やはり「良識のある大人」たちは、理解できないものを見る眼差しとともに、非難の声をあげるだろう。(またぞろ「死ぬなら一人で死ね」などとお門違いなことを口走る単細胞が出てきはしないかと憂慮していたが、さすがにそれはなかったようだ)
だが、お説教だけで事が解決するなら世話はない。彼らは、それが非人道的な犯罪であることを重々承知したうえで共感を寄せているのだ。
では、なぜ共感するのか。そのような犯行こそが、閉塞した不遇の身を開放する、最後の救済に思えるからだ。否応なく生み出されてしまった無敵の人たちは、ダークヒーローの凶行に「救い」を見る。
救いは、無差別刺傷とは違う形で提示されなくてはならない。その道筋はどこにあるのか。
日本はまだ、ダークナイトの只中にある。
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