徳丸無明のブログ

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マンガ・四コマ・『ヤンキーくん』『全裸ちゃん』

2020-05-26 22:05:50 | マンガ




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サントリー BOSS(ボス) プレミアム・微糖

2020-05-22 21:54:40 | 
矢沢永吉はBOSSのCM出演を機に周囲から「ボス」と呼ばれるようになった・・・というのはどうでもいい話だが、男は黙ってボスプレミアムだ。






本日は第8回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのは岡崎京子の『ジオラマボーイ パノラマガール』(全1巻・マガジンハウス)です。
岡崎さんも有名だから説明する必要はないでしょう。本作は初期のころの、ごくポップな作品です。いちおうラブコメなのですが、話がちょいちょい脱線するので本筋がわかんなくなりがちです。でも実はそこが面白さのポイントで、「ウキウキ」とか「ワクワク」といった気分が作中に充満してます。
んでね、詳しくは読んでもらえばそれでいいとして、僕は岡崎さんにかんして言いたいことがあるんですよ。それは、『リバーズ・エッジ』の評価のことです。
『リバーズ・エッジ』って、一般的にはすごく高く評価されてるじゃないですか。僕はそれが不思議でしょうがないんですよ。というのも、僕の評価は世間とは真逆だからです。はっきり言って僕は、『リバーズ・エッジ』は大駄作だと思ってるんですよね。
『リバーズ・エッジ』には、過激な要素がこれでもかと出てきます。いじめ、ゲイ、レズ、売春、ドラッグ、芸能人の同級生、愛のないセックス、暴力、死体、死・・・。これらの要素は、いずれも上っ面を軽く描写されるだけで、深く掘り下げられないまま話は終わります。僕にはこれは、視聴率を取りたいがために、刺激的な要素を詰め込めるだけ詰め込んだ、なんのメッセージ性もないテレビドラマ(ひと昔前はよくそういうのがありましたよね)のように見えるのです。
だから疑問なのです。「僕の評価が間違っているのか?」と。僕は上に述べた理由から『リバーズ・エッジ』は駄作だと考えている。でも、世間の圧倒的多数は傑作だと言ってる。このズレがモヤモヤするんですよね。
しかも、傑作と評してる人の意見を聞いても、「文学的」だとか「深みがある」とかいう漠然とした評ばかりで、いまいちピンとこないんですよ。
僕はポップな岡崎さんが好きなんです。『ジオラマボーイ~』のほかにも『pink』とか『セカンドバージン』とか『ハッピィ・ハウス』とか大好きなんです。
でもシリアスな岡崎さんはあんまりなんですよ。『チワワちゃん』や『私は貴兄のオモチャなの』までなら受け付けるんですけど、『リバーズ・エッジ』とか、『ヘルタースケルター』なんかは全然ダメ。
なんかね、僕思うんですけど、岡崎さんって交通事故に遭ってマンガ描けなくなっちゃったっていう悲劇のせいで、過剰に神格化されてませんかね?いや、これ僕の思い過ごしだったら申し訳ないんですけど、でも作品の実際の価値以上に持ち上げられてる感じがどうしてもするんですよね。
誰か納得のいく説明をください!『リバーズ・エッジ』はなぜ傑作なの?


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
先週緊急事態宣言が解除されたのを受けて、行きつけの図書館の臨時休館が終わりました。んで約3か月ぶりに行ってきたんですけどね。
でも、マスク着用じゃないと入館お断りというルールができましてね。ウチにはまだアベノマスクも届いておらず、近所の薬局でもマスクの品切れ続いてまして、マスク持ってる人しか図書館利用できんのか?図書館にはマスクの用意がないのか?と思って、確認電話かけたところ、「マスクを持ってない人には自分でマスクを手作りしてもらう」とのこと。
僕ね、手作りっていうから、てっきりマスク製造キットみたいなもんがあるのかと思ったんですよ。したらですよ、ペーパータオルってあるでしょ、公衆トイレの洗面所に備え付けてあるやつ。あれを2つ折りにして、折り曲げた部分に梱包用のビニール紐を通して後頭部でくくりつけて、それを「簡易マスク」としていたんです。見た目ふんどしの前部分が顔についてるような感じです。上は紐を通してるから割としっかりしてますけど、下はヒラヒラしてるのです。なかなか間抜けでしたよ。

前前前世・・・じゃなくて前々回に、疫学的にはある程度積極的に伝染病に感染して抗体作るのが終息の近道と言える、という話をしました。
スウェーデンでは、ステイホームの呼びかけも、お店への自粛要請もなく、以前とほとんど変わらない生活を続けているそうですね。これ、日本とスウェーデンのどちらがいいか、という話ではありません。どちらのほうがいいのかは、一律には言えない。
スウェーデンって個人主義が強い国で、日本のように「一丸になる」ことがありません。そのため他人にはけっこう冷たく、スウェーデン人同士であっても、親身になる、ということが期待できません(あくまで傾向の話ですよ)。
「ひとつになる」ことが大好きな日本人にとっては、暮らしにくい国と言えるでしょう。そして、感染するままに任せているから、死亡者数もかなり多いはずです。しかしその代わり、これまでの日常が変更されることなく、経済活動もほとんど落ち込まずで、間接的な「コロナ禍」のダメージを被らずにすんでいるのです。
国民性というものを考えると、日本ではスウェーデンのような対応は採れませんね。それに、現状の日本でこれ以上医療現場には負担をかけられないから、感染するに任せるわけにはいかないでしょう。しかし、「感染症を抑え込む」という点においては、ひとつのいい見本といえますし、日本のコロナ対策を相対化してくれる。
潔癖なまでの感染症対策はある意味「病的」だし、不合理で、場合によってはむしろ悪影響となりかねない。もはや「コロナ以前」の世界は戻ってこず、コロナと共存するほかない以上、「コロナに感染する弊害」だけでなく、「コロナを過剰に避けることの弊害」も考えて、うまくバランスとって暮らしていかなくてはならないでしょう。

「感染リスク」といったときに、「ある」か「ない」か、もしくは「1」か「0」かで考える人もいるんじゃないでしょうか。しかし、リスクとは明確にあるなしで二分できるものではないのです。
「生きている」ということは、少なからず、常になんらかのリスクに晒されている、ということです。自宅でくつろいでいたら、家に放火されて焼死してしまうかもしれない。いつもの通り道をいつものように歩いていたら、通り魔に刺されて死んでしまうかもしれない。確率的には0,1パーセント未満の、ほとんどありえないことでしょうが、ゼロではない。
感染症(コロナ)もそうです。感染確率をゼロにすることはできません。感染確率は、高いか低いかという状態の差があるだけで、ゼロにはできない。
リスクをゼロにする方法はただひとつ、「死ぬ」ことだけです。死ねば感染することはありませんからね。
くだらない屁理屈言うなって思いました?でも真理でしょ。
生きてる以上感染リスクは常に付きまとう、という事実に思い至らない人が、県外ナンバーの車を傷つけたり、医療関係者を排除したりするのではないでしょうか。これらのコロナにまつわるイザコザは、「差別」と言われてますけど、差別というよりも、感染症というものに対する理解の浅さからくる誤りだと僕は思うんですよね。
感染リスクを「ある」か「ない」か、もしくは「1」か「0」かで考えているから、感染源(に見える人)を遠ざければそれでいいと考えてしまうのではないでしょうか。
でも、感染源(に見える人)を遠ざけても、リスクはゼロにはなりません。ウイルスという、人間の目に見えない存在は、どこに潜んでいるかわからない。どんなに感染対策に気を配っていようと、運悪く罹患してしまうかもしれない。
感染リスクは「高い/低い」があるだけで、ゼロにはならないから、そういうことが起こりえます。感染を避ける取り組みは、確率を極限まで下げることはできても、ゼロにはできない。この事実をよくよく考えると、感染を避ける取り組みのアレコレに、どれほどの必然性があるのか、学業や仕事や経済活動と比較考量した場合に、どれほど重きを置くべきなのか、という疑問がわくはずです。
もちろん「これが唯一の正解」というものはありません。「どの選択を正しいと信じて選ぶか」であって、あらかじめ正解があるわけではない。
ただ、感染リスクについて正しい理解ができていないと、選択肢を提示して比較衡量するという、当然行ってしかるべきことがあらかじめ放棄されてしまいます。それは、日本の将来の可能性を狭めてしまうことになります。それはあってはならない。
だから、せめて感染リスクについて正しく理解しましょう、そこから話を始めましょう、と申し上げているのです。

県外ナンバーの車を傷つけたり、医療関係者を排除したりしている人たちや、自粛警察の人たちは、「絶対に他人からコロナをうつされたくない」と考えているのでしょうか。しかし、人間社会というのは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中にあります。人間社会に生れ落ちるということ、人間社会の中で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中にいるということです。
社会の中で生きていく以上、だれしも人様に迷惑をかけることもあるし、かけられることもある。それを拒絶しては、生きていくことができません。この社会で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」を受け入れるということです。それが嫌ならば、リスクをゼロにする方法と同じように、「死ぬ」しかありません。
もちろん積極的に迷惑をかけるべきではないのと同じように、できるだけ他人にコロナをうつさない心がけはすべきでしょう。でも、人間社会の網の目の中では、迷惑をかけられることも、感染リスクも、ゼロにできない。「どうしてもイヤなら社会を離脱しろよ」ということになってしまいます。

コロナによるストレスで、鬱になったり希死念慮が生じている人がいると聞きました。しかし、「ひょっとしたらコロナに感染するかもしれない」と日々怯えて暮らすのは、「ひょっとしたら(病気や事故で)死ぬかもしれない」と考えながら一生を過ごすようなものです。
人は生きている以上、常になんらかのリスクに晒されています。コロナに限らず、ほかの病気や事故で命を落とすかもしれない。逆に言えば、新型コロナが発生する以前から、常に病気や事故のリスクはあって、コロナはそれら大勢の様々なリスクに、新たに付け加わったひとつのリスクにすぎない、ということです。
コロナ以前は、病気や事故のリスクなど、まず起こりえない、起きるときは起きるのだから、起きないうちから考えていても仕方ない、というふうに割り切っていたはずです。だったら、コロナも同じように割り切るべきではないでしょうか。
僕はコロナが流行の兆しを見せたときも、「感染したら、そのときはそのときだべ」と思いました。感染してもいないのに、感染したときのことを考えてクヨクヨしたり、余計なストレスをためるようなことはしませんでした。
「感染するかもしれない」と考えようが考えまいが、感染するときは感染する。感染してもいないのに、感染した場合のことで思い悩むのは、ありもしない悩みを自分ででっち上げているのと同じです。人間どうせ、死ぬときは死ぬ。生きてる以上、リスクはゼロにできない。
だったら、感染は「まず起きないもの」と割り切って、これまでと変わらない日常を送るのがベストなのではないでしょうか。もちろん感染防止の取り組みはできるだけ行うべきでしょうし、感染した場合の対処を冷静にシミュレーションしておくのもいいでしょう。でも、ストレスになるほど気にするべきではない。
「コロナとの戦い」とは、「コロナを相手にしすぎない」ということでもあるはずです。
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マンガ・四コマ・『殴り者』

2020-05-19 23:10:51 | マンガ
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無印良品 ごぼうスナック

2020-05-15 23:05:18 | 
シンプルイズベスト!末永く愛されるであろう無印のごぼうスナックです。




本日は第7回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのは松本大洋の『花男』(小学館・全3巻)です。
この『花男』というタイトルですけど、エレファントカシマシの曲名からきてるんですよね。ファンなのでしょう。その縁あって、エレカシのカバーアルバムのジャケットイラストに『花男』が使われています。ついでに言うと、新井英樹さんもエレカシのファンみたいで、『宮本から君へ』の主人公は宮本浩次から造形されています。
ただ、エレカシは大まかに言って「悲しみの果て/以前」と「以降」にわかれるんですけど、松本さんは「以前」のファンだと思います。「悲しみの果て」でブレイクしたエレカシ。この曲を機に、広く大衆に膾炙する、ポップなミュージシャンに転向したわけですが、それ以前はすごく尖ってたんですよね。
「花男」はファーストアルバムに収録されてるんですけど、その初期のころの、「尖ったエレカシ」を松本さんは(たぶん新井さんも)愛してたんじゃないかと思うんですね。
僕も「悲しみの果て/以前」のエレカシが好きでねぇ・・・。「デーデ」や「奴隷天国」みたいなパンクな曲なんかたまらないし、「浮雲男」や「上野の山」のような演歌調の曲も好きだし、「冬の夜」や「何も無き一夜」みたいな静謐な曲もいいし、「遁世」みたいな暗すぎる曲も沁みるし・・・。
え、マンガの話?
トランキーロ!あっせんなよ!

松本大洋さんはまあ有名ですよね。この『花男』は、「これぞマンガ!」っていう作品です。
僕はごくまれに「これぞマンガ!」と感じることがあります。その感覚はどこから来るのか。非現実的なキャラクターや世界設定、エログロナンセンスなどのキャッチ―な要素、目まぐるしいストーリー展開といった「過剰な要素」を極力削ぎ落し、シンプルな設定とストーリーだけで充分「魅せる」内容に作り上げている作品・・・。
そういう作品から、マンガの原初的な面白さが漂ってくるんですね。それが「これぞマンガ!」というマンガのことです。
で、この『花男』が、「これぞマンガ!」と感じられる数少ないマンガのひとつなのですよ。いい歳こいてプロ野球選手を目指している天然親父と、そんな父に反発しているニヒリストの息子の物語。マンガの原初的な面白さと、松本さん独自の、のびやかで個性的な画風がすごくマッチしてて、奇跡的な仕上がりになっています。
こういう作品を1本残せただけで、作家としては成功と言っていいんじゃないでしょうか。
僕は『花男』以外では『ピンポン』と短編集の『青い春』が好きですね。『鉄コン筋クリート』はそれほどでもないです。そして『GOGOモンスター』、『ナンバーファイブ』あたりで、「松本さんは僕が好まない方向に行こうとしてるな」って思って、それ以降はフォローしていません。今も描いていらっしゃるんですかね?


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
福岡は昨日緊急事態宣言が解除されました。これで飲食店が通常営業に戻ってくれればありがたいです。

僕は新型コロナにかんしては、一貫して「火消し」を意識してきました。メディアというのは、基本的に「大袈裟」に騒ぎ立てます。騒ぎが大きくなるほうがお金になるからです。そして世間の側にも、騒ぎたい、騒ぎに乗じたい、という願望をかかえた人たちがいます。
「騒がせたいメディア」と「騒ぎたい世間」がスクラムを組み、循環構造を生み出すと、騒ぎはどんどん大きくなっていきます。実際の問題以上に、「騒ぎ」のほうが大きくなってしまう。
さて、新型コロナウイルスは、どれほどのものでしょうか。「騒ぎ」と「実態」の間に、かなりの落差があるのではないでしょうか。
現在までで感染者数は約16000人。死亡者は約700人。
あくまで数字だけ見るなら、それほどの被害は出ていませんね。もちろん日本の抑え込み対策がうまくいったからでもあるでしょうけれども。これぐらいならインフルエンザや旧型の肺炎のほうがよっぽど死者を出してるでしょう。「正しく恐れよ」って言葉が繰り返しつぶやかれてましたけど、それは「恐れすぎるな」とか、「恐れによって、コロナを実態以上に大きく見せるな」ということでもあるはずです。
僕が火消しを心掛けていたのは、騒ぎを実態以上に大きくしたくなかったからであり、意見を相対化するために、あえて世間とは反対の意見を述べる必要がある、と考えたからでもあります。「皆さんそうおっしゃってますけど、こういう考え方もありますよ」ってね。そうすりゃ騒ぎもいくらか治まり、人々の頭も少しは冷静になるだろうと期待したのです。
パチンコ屋もそうですよ。営業自粛しないパチンコ屋が連日批判的に取り上げられていましたけど、パチンコ屋で感染が起きたという話は1件もありませんよね(今のところは、ですけど)。もちろんそれは結果論です。たまたま感染が起きなかった、というだけなのかもしれない。それに、感染の発生の有無にかかわらず、3密を避けなかったという点は道徳的に非難されて当然なのかもしれない。
でもそれと同時に、メディアと世間には、パチンコ屋に批判的な態度を取り続けてきたことに対する反省が、多少はあってしかるべきではないでしょうか。営業をやめないというだけで批判していい、と考えるのは正しくないのではないでしょうか。国か自治体が、自粛要請してすぐに、休業しても困らないくらいの補償金を提示していたならともかく、店舗にしてみたら安心して休業できる状態になかったわけですからね。

僕は「ひとつになれ」という言説に、どうしても気持ち悪さを感じてしまいます。
動物行動学では、「ひとつになる」のは、非常に危険なこととされています。遺伝情報がみな同じだったら、伝染病が発生したときに一気に絶滅してしまうかもしれない。小魚がスイミーよろしく一塊になっていたら、クジラにひと飲みにされて全滅してしまうかもしれない。
だから遺伝情報はできるだけバラけていたほうがいいし、群れの中には全体とは違う行動をとる個体が1~2割はいたほうがいい、とされています。それが生物にとっての生き残り戦略なのですね。
だから、日本で今言われてるように「ひとつになれ」という訴えは、極めて危険な、生き残り戦略に反した意見だと思うのです。生き残り戦略を念頭に置いて考えると、営業をやめなかったパチンコ屋と、そこに通い続けた客は、「集団とは違う行動をとる1~2割の個体」だと言えます。だから、僕は彼らをわりと好ましく感じていました。
もちろん天敵に襲われた場合、群れを成している集団よりも、別行動をとっている1~2割のほうが先にやられがちですし、パチンコ屋に通い続けていた客のほうが、そうでない人よりも、確率的には新型コロナに感染しやすかったでしょう。
でも、動物行動学的には、ひとつになってはいけないのです。ひとつになることほど危険なことはないのです。生き残りたいのであれば、ひとつになってはいけない。僕が「ひとつになれ」というメッセージに気持ちの悪さを感じてしまうのは、生き残り戦略に反しているからです。
「お前がそうしたいならそうすればいいよ。俺はこうするから。どっちが正解かはわからないけど、どちらかは生き残るだろうさ」。そうやって行動をバラけさせるのが、絶滅を避け、種を存続させるための必須の策略なのです。
日本人は、「ひとつになれ」というメッセージに対する抵抗感が弱すぎます。先の戦争の翼賛体制や、一億総玉砕を持ち出すまでもなく、ひとつになるのは危険であることは明白です。「ひとつになれ」というメッセージに、本能的に反発してしまう人がいることは、多様性が確保されていて、種が生き残る可能性が高い証拠です。それは肯定的に捉えられなくてはなりません。
マジョリティとは違う発言をして意見を相対化するのも、集団と離れて別行動をとるのも、どちらも同じことです。いずれも「多様性を確保する」という目的に則した行為なのです。
ひとつになりたくてしょうがない人たちは、本気で総玉砕(絶滅)したがっているのでしょうか。北朝鮮のマスゲームを見て、うらやましく思っているのでしょうか。
ひとつになりたくない人がいるなら、放っておきましょう。それは、集団の多様性が担保されているという、きわめて健全な証なのですから。集団とは違う行動をしている彼らのほうが、生き残ってくれるかもしれない。ひとつになって全滅するより、バラバラになって生き残るべし、です。
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マンガ・四コマ・『木綿のハンカチーフ』

2020-05-12 22:21:46 | マンガ
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