徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

ヤクルト本社 ミルミル

2024-09-07 00:51:27 | 
今日はルックルックです。






ヤクルトレディから買えばバラ売りしてもらえるんでしょうけど、スーパーだと3個入りのパック売り。母親のような、やさしすぎる甘さ。
僕が子供のころからありますけど、一時期販売休止になってたんですよね?最近になって販売再開したそうで。幼子にも、社会の荒波にもまれている大人にも、この甘さが必要です。
幼子・・・。そうですね、幼かったころの話をいたしましょう。子供の世界の話。
子供の世界は、暴力に満ちています。子供とは暴力的な存在です。暴力が形をとったのが子供なのだと言ってもいいかもしれません。
同い年の中には、目が合っただけで殴りかかってくるような、粗暴なヤツが何人かいました。獣ですよ、獣。
こちらにしたら、「何もしてないのになんで殴るんだ」と思うわけですが、むこうに言わせれば、「なんで殴るのに理由がなきゃならないんだ」というか、殴られるような原因があるから殴るのではなく、ただ殴りたくなったから殴るという思考回路だったのかもしれません。いや、ひょっとしたら、「殴りたくなった」という考えすらなく、ただ条件反射的、もしくは本能的に手が出ていただけなのかもしれません。
殴ることを心底楽しんでいるようなヤツもいましたね。他人の苦痛を推し量ることができない、共感能力の欠如したヤツだったのかもしれません。
その粗暴なヤツのひとりは、保育園児のころ、ほかの園児に無理矢理石を食わせたことがあるそうです。
僕も保育園児のころに、すべり台がついた、コンクリート製の半円形の山の上から、粗暴なヤツに蹴り落されたことがあります。幼児にしたら、かなりの高さです。そのときだって、僕は何もしてなかったんですよ。何もしてなかったのに、いきなり蹴り落されたのです。まさに暴力。
そこまで粗暴じゃなくても、些細なことで殴り合いになるヤツはけっこういましたね。沸点が低いというか、怒りを抑えたり、話し合いをしたりといった回路がないので、とっさに手が出るのです。社会性と暴力は反比例するということでしょうか。
ただね、個人的にはケンカはある程度させておいたほうがいいと思うんですよね。そーゆー経験を積む中で人とのかかわり方を学んでいくわけですから。
保育園や幼稚園じゃ、子供がケンカしてたらすぐ止めに入るんでしょうけど、ある程度やらせておくことはできないんでしょうかね。やっぱ子供を預かっている以上、ケガさせるワケにはいかないって判断になるわけですかね。場合によっては、子供のあいだの問題にとどまらず、保護者同士の関係にも影響しますからね。中にはケンカしてても止めないって所もあるようですけど、そーゆーのは園長が信念をもってやってるような、ごく一部の園だけのようです。
ケンカをしなかったら、殴られる痛さとか、どれだけやったらケガするとか、そういった感覚をどう学ぶのでしょうか。それらを学ばずに大人になる弊害はないのでしょうか。

平気で万引きするヤツもいましたね。
小学校一年のころ、友達にお菓子を買いに行こうと誘われました。そのお菓子は、オモチャがメインの、小さなラムネがついているやつでした。9割以上がオモチャで、あとはラムネというやつです。ラムネが入ってるからお菓子として取り扱えるけど、実質はオモチャという商品です。
子供相手にたくさん売りさばくために、表向きと実質が違う形式の商品が作り出されていたわけです。オモチャだけならスーパーに置けませんけど、お菓子という名目なら売ることができますからね。そーゆータイプのお菓子、当時は多かったんですね(今もあるんですか?)。
んで、ふたりで近所のスーパーに行きました。友達は目当てのお菓子を手にすると、一目散に出口に向かって走り出しました。
僕は、「あれ、お金は払わないの?」と思いながらも、あとをついていきました。友達は、万引きするとは宣言してなかったのです。
人気のないところまで走っていくと、友達はすぐさま中を開けました。その様子は、万引きし慣れているように見えました。オモチャだけ取り出すと、ゴミはその場にうっちゃったまま立ち去りました。
いったい、どんなキッカケで万引きを始めたのでしょうか。誰かに教わったのでしょうか。自発的に始めたのだとすると、盗むという行為にいっさい抵抗を感じない、倫理観とか、そーゆー感覚が欠如していたヤツだったのかもしれません。
僕には理解不能ですが、そーゆーヤツもいるのですね。一線を踏み越える際、「一線を踏み越えている」という自覚すらないようなヤツ。言葉づかいも態度も、乱暴なところがありました。
今にして思えば、なんでそんなヤツと仲良くしていたのかと思いますが、仲良くなったキッカケ、まったく思い出せません。
そいつは僕にも、半ば強引に万引きをさせました。そして無責任にも、「(家族に)盗んだって言えば?」と言ってきました。そのくせ自分のことは、「盗んだって言うなよ」と念を押してきました。
そいつは万引きの常習犯だったはずで、僕と一緒じゃないときにも万引きくり返してたと思いますが、1度くらい捕まったことはあるのでしょうか。捕まったとしたら、反省はしたのでしょうか。反省という感情は持ちあわせていたのでしょうか。
そいつが今、どこで何をしているのかは知りません。結婚して子供もいるのかもしれません。マトモな社会人になっているのでしょうか。
子供の世界は、暴力に満ちています。

一枚絵・『マル・サバ』

2024-09-02 23:55:02 | イラスト



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山崎製パン 大きなメンチカツ・大きなハム&たまご

2024-08-31 00:07:01 | 
今日はビッグ・ブレッドです。






大きいことはいいことだ、大は小を兼ねる、などと言いますが、1個で満足できるこのボリューム。グレートな大きさ。
陰湿な話をします。やらしいな~って話。
今じゃもうまったく観かけなくなりましたけど、昔は年末の時期によく、「お騒がせ芸能人」ってのがワイドショーをにぎわせてました。
どーゆーものかというと、年末年始の仕事休みの期間に、芸能人がハワイなどの海外旅行に行く。それをメディアが空港でキャッチして、「どこに行くんですか?」とか、「何泊の予定ですか?」などと質問するのです。
その、メディアが芸能人を捜して空港を右往左往し、突撃取材でワーワー盛り上がる光景、そのソースのことを「お騒がせ芸能人」と呼んでいたのです。今はおそらく、プライバシーへの配慮とか、空き巣に狙われる機会を作ってはいけないといった理由で、なくなってますけどね。
僕が子供のころ(生まれる前からあったのか?)の風物詩で、そんな熱心にワイドショー観ていたわけじゃないんですけど、「年末年始を海外で過ごす芸能人を空港でインタビューする」芸能ネタは、つねに「お騒がせ芸能人」というフレーズで報じられていました。
ボーッとせんべいかじりながら観ていた人たちは、この芸能ニュースと、その紹介の仕方に何の疑問も抱いていなかったと思いますけど、僕はこれ、いかにも日本らしいというか、日本人がよくやるすり替えが行われていたと思うのです。
だって、この芸能ニュース、「芸能人が騒がせている」のではなく、「ニュースを報じるメディアが勝手に騒いでいるだけ」なのですから。
芸能人は、普通に海外旅行に行こうとしただけです。メディアを空港に呼びつけていたわけではない。
「海外旅行に行く芸能人はいいネタになる」と判断したメディアが、自分たちの意思で空港に駆けつけていたのです。そして、突撃取材でワーワー騒いでいた。騒ぎを起こしていたのは、明らかにメディアのほうだったのです。空港側にもそこそこ迷惑をかけていたのかもしれません。
なのに、それを「お騒がせ芸能人」と呼んでいた。露骨なすり替えが行われていたのです。
メディアに突撃された芸能人たちは、カネにならないとわかっていながら、「これも有名税か」と、広い心で取材を受け入れていました。それはどう見てもサービスでした。
なのにメディアは、自分たちに好意的に応じてくれた芸能人たちを、「騒がせている」と言っていたのです。なんと陰湿なやり口でしょう。
いちいち言挙げするようなことではないのかもしれません。芸能人だって、「自分たちが騒がせてるわけじゃないんだけどな」と思いつつも、メディアとの普段からの持ちつ持たれつの関係を友好に保つために、「自分たちが騒がせている」という報じ方を黙認していたのかもしれません。メディアのスタンスとはそもそもそういうものであり、いちいち気にしてもしょうがないと考えていたのかもしれません。
だから、無関係な僕が、そのことについて四の五の言うのはお門違いなのかもしれない。
それでも、これっていかにも日本的というか、日本人の特徴がわかりやすく表れた事例なんじゃないかと思うんですよね。
不倫報道もそうですよね。当人たちは、人に知られないよう、コソコソ不倫をしている。それをメディアがあばいて、視聴者と一緒になってワーワー騒ぐ。
そうなると、不倫した本人が「騒がせてる」と言われるのです。騒いでいるのは、明らかにメディアと視聴者なのに。当人たちは秘密にしようとしていたのに。

そんな、いかにも日本的な言い方が端的に表れてると思ったのが、「魔性の女」という呼称にかんしてです。
女優の葉月里緒奈さんが1995年に、不倫をしたことで「魔性の女」と呼ばれることになってしまったのですね。芸能ゴシップについて話したいわけじゃないんで、詳細が知りたい方は各自調べていただくとして、1996~7年ごろ、何かの囲み取材で葉月さん(当時の芸名は葉月里緒菜)に、「魔性の女と呼ばれていることをどう思いますか?」と尋ねている記者がいたんですよ。
僕は、「いや、“呼ばれている”じゃなくて、“呼んでいる”だろ」と思いました。
だって、葉月さんに「魔性の女」という呼び名を与えたのは、ほかならぬマスメディアですからね。
自分たちで「魔性の女」という称号を与えておいて、「呼ばれている」とは何事か?
自分たちが「魔性の女」と呼んでいるクセに、あたかもほかの誰か、自分たち以外の誰かが「魔性の女」と言っているのであって、自分たちはそんなこと言ってませんとばかりの、陰湿と言えばあまりに陰湿なすり替え。実に汚いやり口です。
このすり替え、メディアの態度にわかりやすく表れていますけど、日本人に広く共通しているものでもあると思うんですね。
自分でやっているのに、やっていないフリをする。自分じゃなくて、自分以外の誰か、もしくはみんながやっているかのように装う。
この陰湿なすり替え、いかにも日本的で、日本社会にはびこるいじめの手口そのものだと思うんです。「自分じゃない、自分以外の人がやってる」と言い張りながら行ういじめ。ズルくて、卑怯で、無責任な手口。
このやり口がいじめを正当化させている、もしくはいじめを生み出す土壌となっていると思うんですよね。だからなくしたほうがいいんですけど、このやり口を認識している人、どれくらいいるのかとも思うんですよね。
「魔性の女と呼ばれている」と言った記者さんは、責任逃れのためにそういう言い方をしたのではなく、ほんとに「自分以外の誰かが言っている(自分は言ってない)」と思っていたのでしょう。「自分じゃなくて、自分以外の人がやってる」といういじめも同様です。
みんな本気で「自分は悪くない」と信じ込んでいるのです。自分も一枚かんでいるのに、日本的すり替え言い回しによって、無関係だと信じている。
そうやって、関わっている人全員が、「自分じゃなくて、ほかの誰かが」と言うのです。実際に「魔性の女」という言葉が使われているのに、みんながみんな、「ほかの人がそう呼んでいる」と言う。「自分がそう呼んでいる」と手を上げる人はひとりもいないのに、なぜか「魔性の女」という言葉は流通しているのです。
この陰湿な空気、なんとかならないものでしょうか。

偽善とは何か――他人の足を引っぱりたがる人達

2024-08-28 00:54:53 | 雑文
日本は災害が多発する国である。台風がしょっちゅう訪れるし、地震も定期的に起こる。地震には津波が伴うこともあるし、稀に火山の噴火も発生する。梅雨の集中豪雨による水害もある。近年は特に、線状降水帯によるゲリラ雷雨が頻発している。
災害が発生すると、被災者が生まれる。被災者は一時的に自宅に戻れなくなったり、悪くすると住み家を失ってしまう。そこまでいかなくても、自宅が一部損壊したり、家具家電を破損してしまったりする場合もある。困窮した人々が一定数生み出されてしまうのだ。
それら困窮者には、支援が必要になる。政府が救済に動くし、メディアで寄付が呼びかけられる。中には、著名人が多額の献金を行うこともある。人より多く稼いでいるなら、献金の額が大きくなってしかるべきだし、より多くの人を、より素早く助けるためには、寄付の額は多いほうがいい。だから、多額の寄付は肯定されるべきである。
だが、そんな著名人には批判が集まりがちだ。そんなのは偽善だ、と。
とあるサッカー選手が、難病の子供の支援の顔役を買って出たことがある。治療の難しい病で、アメリカでしか手術が受けられない。そのための医療費も、渡航費用も高くつく。なので、その子供に手術を受けさせるために、サッカー選手が呼びかけ人となり、寄付を募ったのだ。元々家族が支援を求めていたのだが、それよりも著名人が呼びかけたほうが、多くのお金が集まるだろうと考えたわけだ。
そうしたら、そのサッカー選手に非難の声が上がった。その子だけ助けるのは不平等だ、と。
同じ病気に罹っている子供は他にもいて、みんな同じように苦しみ、死の間際にいるのに、なぜその子だけにしか手を差し伸べないのだ。それは平等ではない。止めるべきだ。そんな非難の声が上がったのだ。
彼らの言い分は、一見もっともらしく聞こえる。不平等なのはよくない。応対は平等であるべき。議論の余地のない正論に思える。
では、そのサッカー選手は、平等な扱いをすべきだったのだろうか。ちなみにこの場合、平等な対応は2つに分かれる。

①同じ難病の子供全員のサポートに乗り出す
②その難病の子供をひとりも助けない

①は原理的に不可能である。ひとりの人間が、数十人、もしくは数百人いるであろう難病の子供全員のサポートを行うなど、できるはずがない。金銭的にも、時間的にも、物理的にも不可能である。
ならば、平等を達成するには②しかない。ひとりの子供も助けない。誰にも救いの手を差し伸べず、命が尽きるに任せる。これなら確かに平等だ。
では、そのサッカー選手は、平等のために、誰も助けるべきではなかったのだろうか。
そんなことはない。「ひとりも助けない」よりは、「ひとりだけでも助ける」ほうが遥かにマシだ。
つまりサッカー選手は、平等を最優先事項にすることはせず、自分のできる範囲で人助けを行おうとしたのである。平等とは、いついかなる時でも最優先されるべきものではない。平等より大切なものなど、いくらでもある。「ひとりも助けない平等」よりも「助けられるひとりの命」が優先されるのは当然のことだ。そのサッカー選手は、正しい判断をしたのである。なのに何故、批判されてしまったのだろうか。
サッカー選手を批判していた人達は、現実的に可能かどうかをよく考えず、助けるなら全員助けるべきだと主張していたのかもしれない。だが、実際問題として全員を助けることなど不可能であり、そのうえで平等を重視するなら、ひとりも助けるべきではない、という結論に到達してしまうのである。
批判していた人達は、そこまで考えていなかったのかもしれない。だが、そんな考えなしの批判によって、「ひとりの命も救われない」という事態を招いていたかもしれないのだ。もし、このサッカー選手が批判の声に傾き、「平等に反するから誰も助けるべきではない」という誤った考えに落ち込み、サポートを撤回していたら、その子供は助からなかったかもしれない。「平等じゃないからよくない」という非難の声が、ひとりの子供の命を失わせてしまっていたかもしれないのである。
このように、他人を偽善者呼ばわりする人達、他人の足を引っぱりたがる人達というのは、社会に一定数存在する。彼らは、何が目的なのだろうか。何を考えているのだろうか。

僕には、彼らの考えていることが手に取るようにわかる。彼らは、「疚しい」のである。
彼らは普段から、困窮している人達に対して、何も行っていない。被災している人達、難病を患っている人達が今、同じ社会にいることを知りながら、寄付のひとつもすることなく、安穏と暮らしているのだ。だから彼らは、そんな我が身を後ろめたく思っている。困窮している人、被災して家を失った人、病に苦しんでいる人がいるのに、自分は何もしなくていいのかと。
その一方で、多額の寄付をしている人もいる。難病の子供のために、多くの時間と労力を費やしている人もいる。何もしていない自分とは違う。
彼らは、疚しさを感じる。自分が冷血であるかのように、無慈悲な悪人であるかのように思えてくる。この疚しさをなんとかしたい。疚しさを拭い去りたい。そうしないと、いても立ってもいられない。
そこでふと気づく。そうだ、多額の寄付をしている人や、難病の子供を援助している人を、偽善者ということにしてしまえばいい。そうすれば、自分は偽善者よりマシ、ということになる。自分は困っている人がいると知りながら、何もしていない。あまりいい人間ではない。でも、そんな自分でも、偽善者よりはマシだ。自分の下には、偽善者がいる。多額の寄付や、難病の援助は、実は偽善なのだ。偽善をやっている人より、何もしていない自分のほうがよっぽどマシだ。自分の下には、偽善者という、自分より悪いヤツらがいる。だから自分は疚しさを感じる必要などないのだ。偽善者よりはずっとマシなのだから。
これが他人を偽善者呼ばわりする人々の心理である。彼らは、自分の疚しさを帳消しにしたいがために、他人に偽善者のレッテルを貼りつけているのだ。「疚しさを感じたくない」という、ただそれだけの、利己的な理由で。
これは自信を持って断言できる。なんなら、彼らに質問してみるといい。「あなたは他人を偽善者と決めつけているが、「善」と「偽善」を明確に区別したうえで言っているのか。あなたは「善」と「偽善」をどう定義しているのか」と。
間違いなく、誰ひとり答えることはできないだろう。彼らは、「善」と「偽善」について真剣に考えたことなど、ただの一度もないはずだ。何が「善」で、何が「偽善」なのか、きちんと考え抜いたうえで「偽善だ」と指摘しているのではなく、疚しさから逃れるために他人を偽善者呼ばわりしているだけなのだから。何が「善」で、何が「偽善」なのか、その定義もできていないくせに、ただ自分の疚しさを帳消しにしたいがために他人を偽善者呼ばわりしているのだ。
この、自分の疚しさを帳消しにしたいだけの人々こそが、多くのお金や時間を費やして人助けをしようとしている人を偽善者と呼び、足を引っぱっているのだ。

一応、僕が考える「善」と「偽善」の定義を述べておく。まず、人が誰かのためにする行為は、「相手」と「自分」がいて成立するものである。「相手」だけでも、「自分」だけでも成立しない。ゆえに、その行為には、基本的に「相手への思い」と、「自分への思い」が共に含まれるはずである。
ここで議論している行為は「善行」であるが、ひとつの「善行」の中には、「相手への思い」と「自分への思い」が込められている。「相手への思い」は、例えば「苦痛から解放してあげたい」とか、「笑顔にしてあげたい」などがあるだろう。「自分への思い」だと、「モテたい」とか、「お礼をしてほしい」などがあるはずだ。
人というのは、基本的に純粋な善人でも純粋な悪人でもない。善と悪がひとりの中に同居しているのが普通である。ゆえに、純粋に相手のためだけを思って善行を行うのは、ほぼ不可能である。善行には、少なからず「見返り」が込められる。「いい人に見られたい」とか、「あとでウマい目に合いたい」などといった見返りが。それらが「自分への思い」=「偽善」である。
ただしその場合でも、パーセンテージで見ると、「自分への思い」より「相手への思い」の比率のほうが高かったりする。純粋な善人でも純粋な悪人でもない普通の人が善行を成す時、どうしても「見返り」という不純物が紛れ込むのだが、それは比率では低めで、「相手を助けたい」とか、「相手のためになりたい」という、「相手への思い」の比率のほうが高いことのほうが多いはずだ。
つまり、ひとつの「善行」の中には、「相手を助けたい」とか、「いい人に見られたい」などの、複数の思いが混在している。そしてそれぞれ、「相手を助けたい」30%、「笑顔にしてあげたい」25%、「いい人に見られたい」10%、「モテたい」5%というふうに、パーセンテージで比率を表すことができる。とすると、ひとつの「善行」の中に混在している「相手への思い」と「自分への思い」をそれぞれ合計し、「相手への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「善」で、「自分への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「偽善」だと見做せよう。
自我というものがいっさい存在せず、純粋に相手のためだけに行動を起こせるような人であれば、混じりっけなし100%の「善」を行えるし、他人の感情をまったく考慮することができないサイコパスのような人であれば、100%の「偽善」を行いえるのかもしれない。だが、ほとんどの人はそのような、純粋な「善」も純粋な「偽善」も行いえず、その中間の「善=相手への思い」と「偽善=自分への思い」が入り混じった「善行」を行うのが通常であるはずだ。「見返り=自分への思い=偽善」がいっさい含まれていないというのは、自我が存在しないということと同義である。
以上が僕の考える「善」と「偽善」の定義である。もちろん個人的な見解でしかないので、同意してもらえなくてもいっこうに構わない。ここで言いたいのは、他人を偽善者呼ばわりしている人達は、ちゃんとここまで考えたうえで指摘しているわけではない、ということだ。偽善者という言葉を使うのであれば、最低限これくらいは考え抜いて使うべきなのだが、彼らは、何が「善」で、何が「偽善」か、ロクに考えもせずに他人を偽善者呼ばわりしているのだ。

ただし上の考えを前提とすると、次のような問題が起こる。定義上、「相手への思い」が51%で「自分への思い」が49%の行為は「善」で、「相手への思い」が49%で「自分への思い」が51%の行為は「偽善」となるが、比率がほとんど変わらないのに、明確に峻別してもいいものだろうか。また、「相手への思い」と「自分への思い」がちょうど50%ずつだったらどう判断すればいいのか。パーセンテージで捉えようとすると、このような問題が発生してしまうのである。
この問題はどうすれば解消するだろうか。もっと明瞭に「善」と「偽善」を峻別することはできないだろうか。
僕は、それはできないと考えている。「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中にグジャグジャと入り混じっているものであり、明確に峻別することはできない。パーセンテージによる比較も、あくまで便宜的なものであって、人の思いが目に見えず、数量化もできない以上、それは確固として存在しているものではなく、そのように考えることもできるという、方便のようなものだ。だから、明確に「善」と「偽善」を峻別することはできない。
しかしそうすると、ひとつの「善行」が「善」であるか「偽善」であるか、正確に指摘することはできなくなってしまう。でも、僕はそれでいいと思う。そもそも他人の心の中を見ることなどできないわけで、「善行」の中に「相手への思い」と「自分への思い」がそれぞれどれだけ込められているかなど、本人以外にわかりようがない(自分で自分の気持ちがわからないこともよくあるので、自身でも判断がつかなかったりするだろう)。だから、人様の行為に対して、偽善だのなんだの、知ったように指摘することがそもそも間違いなのである。
そして、僕が「善」と「偽善」を峻別する必要がないというのは、「善」か「偽善」かを見分けること自体が無意味だと考えているからである。どういうことか。例を挙げて説明しよう。とある人が、誰かのために「善行」を行ったとする。その人の行為の中身は、「お礼をしてほしい」という「自分への思い」が90%で、「助けてあげたい」という「相手への思い」が10%だった。圧倒的に偽善的な行為だったわけだ。だが、「お礼をしてほしい」という願いは叶えられなかった。相手が自己中心的な人だったのか、思いがうまく伝わらなかったのか、ただその行為だけが達成され、見返りはいっさい発生しなかった。
こうなったらどうだろう。その行為は「偽善」として出発したにも関わらず、目論見は挫折し、行為だけが「善行」として相手に受け止められた。つまりその行為は、純粋に相手のためだけに働き、行為者は見返りを受け取ることはなかったのである。そうなると、その「善行」は、目論見としては「偽善」であったにも関わらず、「偽善」が挫折したことによって、純粋な「善」として終わってしまったことになる。
こういうことだってよくあるのだ。行為が「偽善」として出発しても、結果的に純粋な「善」になってしまうことが。もちろんその逆もあるのだが、いずれにせよここで言いたいのは、「善」の目論見も「偽善」の目論見も、必ずしも果たせるとは限らないということである。
だから、ひとつの行為を「善」か「偽善」かという水準で議論することに意味はないのだ。哲学的、もしくは形而上学的になら、「善」か「偽善」かを議論することは、学問的価値があるのかもしれない。だが、日常生活の基準に、そんな七面倒くさい議論を持ち込む必要などない。
だから、「善」か「偽善」かではなく、その行為が「相手のためになっているか否か」という水準で判断するべきなのである。この点を踏まえ、もう一歩踏み込んで考えると、「相手のためになった行為」を「善」、「相手のためにならなかった行為」を「偽善」と見做すこともできるかもしれない。だが僕としては、あくまで行為者の内面の水準で「善」と「偽善」を見定めるべきで、「相手のためになったか否か」は、「有益」か「無益」(もしくは「有害」)かという分類で見るべきだと思う。
つまりまとめると、「「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中に同居しているのが普通であり、純粋な「善」も、純粋な「偽善」も、ごく一部の人にしか行いえない。ゆえに、ひとつの「善行」を、「善」なのか「偽善」なのか判断しようとするのは、意味がない。そうではなく、その「善行」が、「相手のためになった」か、「相手のためにならなかった」かで判断するべきである」ということだ。

僕がこんなことをくだくだと書き綴っているのは、他人を偽善者呼ばわりする行為が、本人の疚しさを帳消しにするのみならず、公共の福祉を減少させてしまいかねないからである。百歩譲って、「あいつは偽善者だ」という言葉を、心の中で呟くだけなら黙認してもいいと思う。その場合は、本人の疚しさが解消されるだけだからだ。だが、その言葉が直接相手に向けられたらどうだろう。その相手は、たじろぐかもしれない。自分がやろうとしていることは、間違っているのだろうかと戸惑うかもしれない。迷った挙句、寄付や援助を取り消してしまうかもしれない。
そうなったらどうだろう。多額の寄付があれば新しい住まいを手に入れられていたはずの被災者が、体育館での避難生活を長引かせることになってしまうかもしれない。著名人のサポートがあれば多額の寄付を集め、手術を受けられたはずの難病の子供が、目標の金額を集めることができず、そのまま亡くなってしまうかもしれない。
他人を偽善者呼ばわりする人達のせいで、被災者はより困窮し、難病の子供は命を落としてしまいかねないのだ。自身の疚しさから逃れたいという、そんな身勝手な動機によって、他人を不幸に陥れてしまうかもしれない。他人を偽善者呼ばわりする行為は、それほどの問題を孕んでいるのである。
だから、他人を偽善者呼ばわりしている人には、たったひとこと、こう言ってやればいい。
「そんなことを言っているヒマがあったら、お前もお前のできる範囲で誰かを助けてやれ」
難病の子供のサポートを行ったサッカー選手は、「平等じゃない」と批判された。だが、そのサッカー選手ひとりだけでは、できることに限りがある。難病の子供全員を救うことなどできるはずがない。
では仮に、サッカー選手を批判していた人達が、他の難病の子供の支援に動いたらどうだろう。そうしたら、サッカー選手だけではひとりしか救えなかったのが、ふたりさんにんと、救える子供の数を増やしていけるかもしれない。その援助の輪がどんどん大きくなっていけば、難病の子供全員を救うことだって可能になるのだ。そうなれば、事実上「平等な援助」の達成となる。
だから、他人を批判しているヒマがあったら、自分で援助に乗り出すべきなのである。できる範囲でいい。寄付するだけでもいい。お金にゆとりがないのであれば、100円でも10円でもいい。やらないよりはやったほうがいいのだ。その一助によって、命が助かる子供がひとりだけでも増やせるかもしれないのだから。
だから、他人を偽善者だの不平等だのと批判するより、できる範囲の援助をすべきなのである。
そのうえで、さらにひとこと付け加えるならこうだ。
「それができないのなら、せめて他人を偽善者呼ばわりするようなマネだけはするな」
どうしてもお金と時間に余裕がなくて、寄付もサポートもできないというなら、それは仕方ない。援助は無理強いするべきものではない。
だがそれなら、せめてものマナーとして、他人の足を引っぱるマネだけはすべきじゃない。足を引っぱるというのは、これまで散々繰り返してきたように、他人を偽善者呼ばわりすることである。「偽善だ」という指摘によって、指摘された人は、寄付を取り止めるかもしれない。サポートを中止するかもしれない。そうなれば、助かるはずの人も助からなくなってしまう。他人を偽善者呼ばわりすることで自分の疚しさを帳消しにしたいという卑しい願望によって、助けを逃してしまう人が出てくるかもしれないのだ。それは場合によっては命にかかわる。疚しさを帳消しにしたいという身勝手な動機のせいで、最悪人の命を奪ってしまうことになるのだ。だから他人を偽善者呼ばわりしないというのは、せめてものマナーとすべきなのである。
上のふたつの言い分を、どちらも聞き入れられないというなら、最後にこう言わなければならない。
「どうしても自分の疚しさを帳消しにしたくて、他人を偽善者呼ばわりせずにはいられないというのなら、最低限のルールとして、誰にも聞こえないように言え」
「それは偽善だ」という指摘は、本人の耳に届くと、寄付やサポートをキャンセルしてしまいかねない。世の援助を減少させる、極めて有害な行為なのだ。だから厳に慎まれなければならないのだが、それでも疚しさをなんとかしたくてしょうがないという人もいるだろう。その願望は、人間らしいといえばあまりに人間らしいものだ。僕はその人間らしさそのものを否定するつもりはない。
だから、どうしてもというのなら、疚しさを帳消しにすることそれ自体は黙認されるべきである。しかしだとしても、それが援助の減少に繋がるようなことになってはならない。だから、「誰にも聞こえないように言う」。これが譲ることのできない最終ラインだ。最低限度、これだけは弁えておかねばならないルールなのだ。
いっさい寄付をしない(誰も助けない)のは認めてもいい。疚しさを帳消しにするのも、まあいい。だが最低限、誰の足も引っぱらない形で疚しさを帳消しにするべきだ。それだけは守ってもらわねばならない。
「偽善だ」という指摘が――直接的であれ間接的であれ――援助をしようとしている人の耳に入ると、援助が取り消されてしまうかもしれない。だからその指摘は、本人の耳に入れてはならない。いや、本人以外の耳にも入れてはいけないのだ。今はしていないけど、将来的には寄付をするかもしれない人の耳に、「寄付は偽善」という声が入ったらどうなるか。それを真に受けて、これから先もずっと寄付をするまいという判断を下してしまうかもしれない。つまり、「偽善だ」という声は、現在だけでなく、将来の寄付まで取り消しにしてしまいかねないのである。今現在でも「偽善だ」という指摘を真に受けている人、真に受けながら生きてきた人は一定数いるはずで、それによって失われてきた寄付の総額はかなりの額に上るであろうことは、想像に難くない。
だから、誰にも聞かせてはならない。地面に掘った穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶがごとく、誰にも聞こえないように言わなければならないのだ。それこそが、「いいことなど何ひとつしてなくて、自分は自分のことしか考えていないのではないかという疚しさを抱えている人」が弁えるべき、最低限のルールなのである。

自らの卑小な自尊心を慰めるため、疚しさを払拭するために他人を偽善者呼ばわりし、公共の福祉を減少させている人達。いい加減気づいてもらわねばならない。自分がどれだけ卑しいことをしているのかを。何が「善」で何が「偽善」であるかの区別すらついていないということを。知ったふうに偽善だと指摘することで、どれだけ害悪を撒き散らしているのかを。
自分が世の中のために何もしておらず、そのことを疚しく感じているのなら、せめてその疚しさに向き合い、受け入れ、耐えるだけの度量を持つべきである。どうしようもなく存在する疚しさは、他人の足を引っぱることで解消するものではなく、己の卑小さを自覚するために共存すべきものだ。「自分は何もしていない」という自覚とともに、謙虚に生きていく。それが分別ある大人の在り方というものだ。
僕は人の卑しさそのものを否定するつもりはない。そもそも人間というのは卑しい生き物であり、だからこそ愛おしいとすら思っている。問題は卑しさの在り方だ。卑しさとどう向き合うか。どうやって卑しさを飼い馴らすか。率直に「自分は卑しい」という自覚を持ったうえで、いかに謙虚に生きていくか。
「謙虚に生きる」という境地に辿り着けない人が、他人を偽善者呼ばわりするのである。自分の卑しさを自覚することも、卑しさと共存することもできない未熟な人が。

一枚絵・『エフライム』

2024-08-27 00:02:56 | イラスト



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