徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

「名指し」の効果――ゆとり世代の本当の被害

2019-05-31 23:08:55 | 雑文
ゆとり世代に関する、ある種の固定的なイメージについて。
ゆとり世代より上の世代の人達に「ゆとり世代をどう思うか」と尋ねると、「諦めやすい」「やる気が希薄」「ストレスに弱い」「自己中心的」などといった定型的な答えが返ってくる。テレビの街頭インタビューではおなじみの光景だ。
だが、その見解は正しいのか。これら特定のイメージは、ある思い込みの産物なのではないか。
佐藤博志と岡本智周の共著『「ゆとり」批判はどうつくられたのか――世代論を解きほぐす』(太郎次郎社エディタス)によれば、ゆとり世代とは、2002年度に実施された1998年小中学校学習指導要領、もしくは2003年度に実施された1999年高等学校学習指導要領で学んだ、1987年4月2日から2004年4月1日生まれの人達のことを指す。1998年小中学校学習指導要領は、「生きる力」を身に付けることを目的とし、それ以前からの変化としては、総合的な学習の時間の導入、完全学校週5日制の実施、授業時数と教育内容の削減などが挙げられる。

小生は、ゆとり世代が、それ以外の世代と比べて、とりたてて劣っているとは思わない。はっきり言って、授業時間が短いとか、学習内容が簡素だとかいうだけで、人格に特徴的な変容、それも、他の世代と極端に異なる変容をきたすとは考えられない。
では、何故ゆとり世代は、ここまで否定的に語られているのだろうか。答えを先に言えば、それは「ゆとり世代」と命名されてしまったことそれ自体が原因なのだと思う。
まず、ゆとり教育が施行された時点では、彼らは何者でもない。新たな試みを受けている新世代に過ぎない。それがひとたび、「ゆとり」という呼称を与えられたら、どうなるか。「ゆとり」という言葉から連想されるイメージ、これまでの「ゆとり」という言葉の使われ方の蓄積が、そのまま「ゆとり世代」に結びつく。「ゆとり」という言葉それ自体が、「ゆとり世代」の特徴を基礎づける、という事態が発生してしまうのだ。当然その語には、ネガティブなイメージが多くまとわりついている。もちろんポジティブなイメージも含まれるのだが、教育現場における「ゆとり」は、ネガティブなイメージとの親和性が高い。非ゆとり世代の人々は、そのネガティブなイメージを通して、ゆとり世代を眺めるようになる。
一口にゆとり世代と言っても、性格は人それぞれであるはずだ。努力家もいれば、粘り強い人もいるし、上昇志向の強い人だって当然いるだろう。それに、当たり前のことだが、ひとりの人間の中にも、ポジティブな面とネガティブな面が同居しているのが普通であって、ゆとり世代の人々も両面兼ね備えているはずである。しかし、非ゆとり世代の人々は、ゆとり世代のポジティブな面を見ようとはしない。あくまで「ゆとり」という語にふさわしい、ネガティブな面だけを選択的に見ようとする。「ゆとり」という言葉に適合的な、「いかにもゆとり」という特徴。非ゆとり世代の人々は、そこだけを探し当て、そこだけを情報として集積し、ゆとり世代のイメージを築き上げていく。
それは、冒頭で挙げた街頭インタビューの報じられかたとも関連する。インタビューの過程では、ゆとり世代のポジティブな一面を語る人も僅かながら出てくるはずである。しかし、そちらはすべて「カット」となる。「いかにもゆとり」というイメージに合致する発言だけが選択され、テレビ画面上に流されるのだ。
話はそれだけにとどまらない。当のゆとり世代の人々もまた、非ゆとり世代からの、「ゆとりとはこのようなものである」という指摘を受け、その特徴を内面化してゆく。もともと自分(達)にネガティブなイメージを抱いていたにせよいなかったにせよ、周囲からのネガティブな指摘を受け続けることによって、ネガティブな自覚が生まれてしまう。その自覚が、実体のないイメージに過ぎなかった「ゆとり世代の特徴」を、確固とした実体へと変容させてしまう。
そうなってしまえば、「いかにもなゆとり世代の特徴」は、非ゆとり世代の目から見て、疑う余地のない真実と化してしまう。非ゆとり世代は、繰り返しゆとり世代のネガティブさをあげつらい、ゆとり世代は繰り返しそれを内面化させてゆく。「ゆとり世代のスパイラル」の完成だ。かくして、漠然としたイメージでしかなかったはずの「ゆとり世代の特徴」は、たしかな実体となって定着する。あたかも、いま説明したプロセスなしに、最初からそこに存在していたかのように。
「ゆとり世代」という名称それ自体が、ゆとり世代を性格づけてしまうのだ。これが「名指し」の効果である。
だから、ゆとり世代の人々が被った本当の被害というのは、ゆとり教育を受けたことなどではなく、「ゆとり世代」という総称を与えられてしまったことそれ自体にあるのではないか、と思うのだ。

ちなみに、先に挙げた『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』は、参考資料として目を通してみたのだが、ゆとり教育とゆとり世代に対する世間一般のイメージは誤っているとして、その反証と、「ゆとり世代」という名称の変更の提案を目的として著されており、その点、本論と意識を共にしている。
同書の中から、重要な箇所をいくつか抜き出しておきたい。まずは、「ゆとり教育」の定義に対する疑義について。


一九九八年版の学習指導要領の内容が「ゆとり教育」の最たるものとして批判の標的になることが多いわけですが、それは実施に移されるまえから批判され、また、始まったとたんに見直されたものでした。他方で、二〇〇八年版の学習指導要領は「脱ゆとり」の教育にシフトしたと表現されもしますが、実際には以前の要領と変わらない共通点をもっています。そもそも学校教育における「ゆとり」の必要性は一九七〇年代から議論されはじめていたのであり、「ゆとり教育」への転換の起源は、一九七七年版の学習指導要領や、一九八九年版の学習指導要領に求められることもあります。


つまり、一般的に「ゆとり教育を受けた人達=ゆとり世代」というふうに理解されているけれど、ゆとり教育の範囲がそもそも明瞭ではない、ということ。
また、ゆとり教育のせいで日本の学力が低下したとされているのは、「TIMSS」と「PISA」という2種類の学力調査テストの相違からくる誤解であるという。PISAは2000年から施行され、日本は当初低い成績を記録したため、それがきっかけでゆとり教育の見直しが叫ばれるようになったのだが(いわゆるPISAショック)、そのPISAは、それ以前から行われていたTIMSSとは毛色が違っていた。
詳細は略すが、日本のPISAの成績が最初のうち低かったのは、「日本の子どもがPISAの設問に慣れていなかった」からだという。PISA型に慣れてくると成績は上昇し、2012年の調査では特に高い結果を出しているが、この年にテストを受けたのはゆとり世代に含まれる人々だし(つまり、脱ゆとりの結果として学力が向上したわけではないということ)、TIMSSのほうでは、「「ゆとり世代」と呼ばれる人たちが児童・生徒の時代も含めて、ずっと日本の成績は上位だった」という。
ゆとり教育の範囲が明確でないうえ、ちゃんと調べてみると、ゆとり世代の人達の学力も、けっして低いわけではないのだ。
それから、ゴシップ的な引用もひとつ。元文部科学省事務次官の小野元之の、円周率の「およそ3」に関する次のような指摘。


ある塾がPRのために作った宣伝ですが、『ゆとり教育』で学習指導要領の中身を大幅に縮減するということで、『π(円周率)を小学校では3で教えることになった』と、そういうものがありました。いわばデマゴーグのようなもので、これは明らかに誤解です。これは塾が『これからは、「ゆとり教育」のために公立学校で教える中身がどんどん減ってしまうので、うちに来なければだめですよ』というPRのために行ったことですが、世の中に広がりすぎてしまいました。(中略)小学校ではキチンと円周率は『3・14』で教えています。ただし実際の生活の中で、この周りは大体どのくらいかという時に、3を使うことがありうるというだけで、『πが3である』と教えることはありません。


いや、どこの塾だよこれ。事実なら相当罪重いぞ。
以上はゆとり世代に対する考察であるが、「名指し」という行為が社会に及ぼす影響、「名指し」が、名指されるものそれ自体を特徴づけたり実体化してしまうという現象は、どんな対象にでも起こりうる普遍的なものである。
ひとつ具体例を挙げて説明したい。第2次安倍内閣が発足した2012年12月26日の翌日、安倍政権が主導する経済政策として、「アベノミクス」という新造語がメディア上に躍っていた(アベノミクスという言葉自体は、第1次安倍内閣の頃から既にあったらしいが、広く使われだしたのは第2次内閣以降である)。誰が仕掛けたのかはわからない。だが、この「アベノミクス」が大々的に打ち出されるや否や、株価が急上昇したのである。
まだ「アベノミクス」という呼び名が生まれただけで、その内実がいかなるものであるかについては、何も明らかではなかったにもかかわらず、である。その耳慣れない言葉が、かつてない好況を及ぼしてくれるのではないか、という想像を喚起したのだろう。「景気は期待で動く」とはよく言うが、まさに「アベノミクス」という言葉が、その言葉だけが株価を押し上げたのである。
「名指し」の持つ影響力を有効に使えばこのような効果をもたらすことができる、というひとつの例証といえよう。

話を戻す。
だいたい、「ゆとり世代」という名称には、必然性がない。「生きる力」を重視し、受け身の学習から能動的・発信型の学習へと転換が図られたというのなら、「創発世代」や「主体的世代」でもよかったはずである。しかし、彼らを指し示すのに選び取られたのは、「ゆとり」という言葉であった。ここには、ある種の恣意的な判断が介在している。(ちなみに、「ゆとり教育」は文部科学省が正式に用いている呼称ではなく、俗称である)
では、その恣意とは何か。おそらくそれは――世代論には定番の言説ではあるが――、いつの時代にも抜き差し難く存在する、「上の世代が下の世代を見下したがる」願望なのだと思う。その願望は、かつて団塊世代の人々が、自分達の下の世代に「新人類」なる総称を与えたことと根を同じくしていると推察する。小生は、「新人類」という言葉が生まれた時代の空気を知る者ではないが、たぶんそこには、団塊世代のなにがしかの優越感が込められているはずである。
ただし、「新人類」と「ゆとり世代」には、相違点がふたつある。まず、「新人類」には、上の世代の見下した眼差しだけが注がれていたわけではなく、「旧人類が理解できない人種」に対する、ある種の敬意――敬して遠ざけるという作法に基づく敬意――も含まれていた。しかし、「ゆとり世代」には「見下した眼差し」があるだけで、敬意がない。
もうひとつは、「新人類」は見下されることはあっても、それはあくまで上の世代だけに限定されていたのに対し、「ゆとり世代」は下の世代からもバカにされてしまう、という点である。
これらの事例は、「ゆとり」という言葉が、いかにネガティブな効果をもたらしてしまうかを、よく表していると思う。

だとすれば、ゆとり世代の人々が採るべき最良の道は何か。それは、「ゆとり世代」という呼称の変更を社会に訴えていくことではないだろうか。「自分達はけっして自堕落なわけでも目標がないわけでもない。ゆとりという不当な総称を与えられたことで悪しきイメージによって語られてしまうようになっただけであって、イメージはあくまでイメージに過ぎない。それは自分達の実体とはかけ離れている。「ゆとり」という偏見に満ちた呼び名を改めていただきたい」
このような訴えかけによって、世代の名称を「ゆとり」ではない、もっとポジティブな含意のある言葉と取り換えることができれば、非ゆとり世代の人々の、ゆとり世代に対する眼差しは一新され、また、それに伴い、ゆとり世代の評価も一変し、彼らはそれなりの敬意をもって遇されるようになるのではないだろうか。
「自分達はゆとりではない」とゆとり世代の人々自身が思い込むことができれば、それは自信に繋がり、内面も変化してゆく。ゆとり世代は、これまでとは打って変わって、ポジティブに評価されるようになるだろう。


オススメ関連本・大塚英志、中森明夫『Mの世代――ぼくらとミヤザキ君』太田出版

セブンプレミアム バナナチップスチョコ

2019-05-28 22:44:02 | 
今回はセブンイレブンオリジナルのバナナチップスチョコです。




ところで、この手の形状のお菓子といえばチョコフレークですよね。森永が今年の夏まででチョコフレークの生産を終了するって発表したじゃないですか。で、その理由が「今はみんなしょっちゅうスマホを操作していて、手が汚れることを避けるから」だとのこと。
僕はね、ほとほと呆れ果てましたよ。手が汚れるから売れなくなるのなら、ポテトチップス全滅じゃねーか!でもポテトチップスは変わらず販売を続けてますよね?つまりどういうことか?スマホとの相性が悪いから売れなくなった、という説明はデタラメだということですよ!
僕はね、ポテトチップスを食べるときは、袋に口を付けて流しこんでるんですね。手を油まみれにしないようにするためです。チョコフレークだってそうすればいいし、なんならスプーンですくって食べることもできますよ。手を汚さずに食べる方法なんて、いくらでもあるんです。
それからね、チョコフレークは森永だけじゃなくて、日清シスコも製造してるんですよ。じゃあ日清シスコのチョコフレークの状況はどうかっつったら、こちらは変わらず販売され続けるとのことで。「森永が日清シスコとのシェア争いに敗れたというのが生産終了の真相」という意見もあるんですね。このことだけから見ても、「手が汚れるから云々」という説明がいかにデタラメかがわかるでしょ。
社会問題の原因を新しい事象にもとめるというのは、年寄りの常套手段ですけど、まさか食品メーカーが同じ手口を使うとはね。ただ単にテメーんとこの商品の人気がなくなっただけだろって。それをスマホのせいにすんじゃねーっつーの!
さらに言うとね、コンビニに100円均一のお菓子あるじゃないですか。今、ローソンの100円菓子の中に、森永チョコフレークがあるんですよ。そうするとですよ、元々のパッケージでの生産は終了しても、形を変えて販売し続ける可能性があるということですよ。そんで2,3年後に「お客様のアンコールにお応えして」とかなんとか言って、復刻版まで出しちゃったりとかさあ・・・。
そうなるともう、これは「生産終了商法」ですよ。いや、もっとはっきり「生産終了詐欺」と言い切ったほうがいいかもしれません。

あ、そう言えばさ、ビーノってあるじゃないですか。あれね、普通のやつはうすしお味なんですけど、ローソンの100円菓子の中にもビーノがあって、そっちはスパイスが効いたうま塩こしょう味で、結構おいしいんですよ。
皆さんはコンビニの100円菓子は何が好き?僕はピーナッツブロックチョコとかですかね。やっぱシンプルなのが一番という・・・あ、でもしみチョココーンもいいなあ。そういえば最近食べてないな。あした買ってこようかな。

オハヨー ブリュレ チョコレート

2019-05-14 21:39:58 | 
今回は前にご紹介したブリュレアイスのチョコ版です。




前回も書きましたけど、ブリュレはかつてブームになったじゃないですか。僕ね、食の流行りに関して思うところがありまして。ティラミスも1990年頃にブームになったでしょ。ただ、ブームが去ったあと、ティラミスはパタリと姿を消したんですよ。ブームのさなかは至る所で売られていたのに、途端に買うことができなくなってしまったんですね。今はコンビニとかでも当たり前のようにティラミス並んでますけど、当時は全然売れなくなったのか、絶滅危惧種のように消えてしまっていたのです。しかも「ティラミスはダサい」なんて言われてたんですよ。ダサいってなんですか?食いモンはうまいかうまくないかでしょ。オシャレかどうかで判断すんじゃねーっつうの!

それで言うとタピオカですよ。今はもう猫も杓子もタピオカじゃないですか。僕がたまに行くショッピングモールにもタピオカドリンクのお店ありまして、そこで飲むこともあるんですけど、正直タピオカはどうでもいいって思ってるんですよ。僕が好きなのはピーチミルクスムージーのやつなんですけど、スムージーがおいしいから飲んでいるのであって、タピオカは入ってなくてもいいんですよね。スムージーだけのがあるならそっちにするけど、タピオカ入りのやつしかないからそれを頼んでいるんです。
僕はね、いまタピオカにハマっている人達に聞きたい。「タピオカ、本当にいる?」って。ミルクティーとかスムージーとか、ドリンクのほうがおいしいのであって、タピオカはあくまで「添え物」に過ぎないんじゃないの?ほとんど味しねーし、食感だけのモノでしょ。ドリンクのアクセントでしかないじゃない。
たとえばさ、ホイップクリームが乗ったドリンクありますけど、それを「ホイップ」って呼びますか?呼ばないでしょ。脇役でしかないモノにフォーカスするのはおかしいんですよ。なのにタピオカ入りドリンクは、添え物のタピオカがメインであるかのように扱ってさあ・・・。あげく「タピる」なんて動詞まで作りやがって。
だから、「タピオカいる?」じゃなくて、「おいしいのはドリンクのほうでしょ?」って問うべきなのかもしれませんね。とにかく流行だからって飲みに行って、「タピオカおいしいおいしい」なんて言ってるけど、味しねえだろタピオカは。ドリンクがおいしいだけだろって。
よく考えて下さいよ。タピオカ「だけ」食べてる人なんていますか?いないでしょ。タピオカ単品なんて食えたもんじゃないんですよ。つまりどういうことか?ドリンクあってのタピオカであって、タピオカあってのドリンクではないということです。

皆さんはタピオカ食べたことあります?あれの食感って、餅に近いんですよね。だから餅好きの日本人のDNAに訴えかけてくるものがあるんじゃないか、っていう気もするんですけどね。
餅と言えばさ、毎年正月に年寄りが餅を喉に引っ掛けて亡くなってるでしょ。あれも不思議ですよね。なぜ年寄りは餅が危ないってわかっていながら食べるのか。思うにね、餅には人の理性を狂わす物質が含まれてるんじゃないかと。危険と知りつつも食べさせてしまう、そんな蠱惑的な誘導力を持った物質が・・・。
まあそれは冗談にしてもだ、レバ刺しは一度死者が出ただけで食べられなくなってしまったにも関わらず、餅は毎年死人が出てるのに、なぜ禁止しない?餅を禁止したほうが、よっぽど死人を減らせると思うんだけど。餅は日本の文化だから無くせないってこと?それとも、餅で死ぬのはお年寄りだからまあいいか、ってこと?
最近高齢者の運転免許返納が話題になってますけど、餅を食べていい年齢の上限も規定したほうがいいんじゃないですかね。法律で規制することはできないでしょうけど、あくまで「目安」、もしくは「推奨」として、「◯歳以上は食べないほうがいいですよ」っていうお触れを出すべきではないでしょうか。

毎年死人がでるって言えばさ、台風がきた時にさ、川とか用水路の様子を見に行って溺死する人いるでしょ。あれもなんなの、って思いますよ。毎回ニュースで言ってるじゃないですか。毎回言ってますよ。「様子を見に行って溺死」って。わかってるでしょ、もう。様子を見に行ったら溺死するかもしれない、ってわかっていながら様子を見に行って溺死してるわけでしょ。何考えて生きてんだっつーの!死んでるけどさ。溺死したくて行ってんのか?だったらいいけどさ・・・いやよくないけどさ。
だからね、いいですか?台風の時には河川が増水するから、川幅も広がるし、普段は道であるところが道でなくなる。だから普段通りの感覚で様子見に行かないこと!それからタピオカも餅みたいに喉に詰まらす可能性あるから、勢いよく吸い込まない!ゆっくり吸って、よく噛みながら食べること!わかりましたか!?