徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

高齢ドライバーの免許返納、それを阻む壁について

2024-06-25 23:23:57 | 時事
高齢ドライバーの免許返納が社会問題のひとつになっている。ブレーキとアクセルの踏み間違いや車道の逆走など、認知機能の低下によって引き起こされる運転ミスが、連日のように事故を発生させているのだ。運悪くその場に居合わせた幼児や若者が命を失う事例も多々あり、この問題解消はもはや急務と言える。
75歳以上であれば、免許更新時に認知機能検査の受検が義務付けられているが、更新の間の期間に認知機能が衰えるのが普通で、それは3年に一度(72歳以上は、ブルー免許もゴールド免許も有効期間は3年)の検査では捕捉することができない。また、75歳以上のドライバーが、認知機能の低下によって生じやすい違反行為を犯した場合、臨時の認知機能検査を受検させられるのだが、軽微な事故の前に死傷者を出す事故を起こしてしまう事例も多い。
そのため、運転能力の衰えた高齢ドライバーには、速やかに運転免許を自主返納してもらわねばならないのだが、それを強固に拒む人は少なくない。何故速やかな自主返納はなかなか行われないのか。それを阻むものはなんなのか。
多くの人は、それを移動手段の問題と捉えている。高齢ドライバーにとって、自動車が唯一の移動手段で、居住地域にはそれに代わる交通の足がない。もしくは、電車やバスがあるにはあるのだが、駅が遠かったり、便数が少なかったり、路線が行きたい方向に走ってなかったりなど、何かと不便な点が多く、利用しづらい。そして、タクシーを利用できるほど金銭に余裕がない。そのような事情があるため、車を手放すに手放せない高齢者が多いのだ、と。
だから、問題をそのように捉えている人々は、代替の移動手段を用意しようとする。通常より安い運賃で電車に乗車できるパスやタクシーチケットの配布、コミュニティバスの開通など。それらの代替手段によって交通・移動の不便さを解消しようという狙いだ。
確かに、そのような取り組みも必要不可欠ではある。自動車が普及して以降、モータリゼーションに基づいて国土を設計してきた現代日本では、自動車か、それに類する移動手段がないと、生活が立ちゆかないからだ。自動車以外の移動手段があれば、喜んで免許を返納するという高齢者も大勢いるだろう。
だが、僕はそれだけで充分だとは思わない。「移動手段の確保」という観点だけでは、運転免許の自主返納を推進させることはできないと思う。もっと他に、視野に入れるべき事柄があると思うのだ。
高齢ドライバーの中には、代わりの移動手段を提示されたとしても、頑なに免許返納を拒む人がいる。移動手段に困らないのに、である。何故だろうか。そこの所こそが、高齢ドライバーの自主返納がスムーズに行われていない要因のひとつであり、多くの人が見落としている、「自主返納を阻む壁」なのだ。では、その壁とは何か。

僕は、それは「男のプライド」なのだと思う。これを聞いて、疑問に思われる方もいるだろう。高齢ドライバーには、当然ながら女性もいる。なのに何故、「男のプライド」なのかと。
それは、この問題の対象となるのは、高齢女性よりも高齢男性のほうが断然多いから、だ。運転免許の自主返納を強固に拒みがちなのは、もっぱら高齢男性である。高齢女性であっても、「車がないと困る」という人もいる。だが、代わりの移動手段の有無に関わらず、頑固と言えるほどに免許を返納しようとしないのは、圧倒的に高齢男性のほうなのである。その理由はなんだろうか。
今の高齢者、75歳であれば1949年生まれ。90を超えて運転する人はほぼいないだろうから、高齢ドライバーを75~85歳ぐらいだとすると、1939~49年生まれの人達ということになる。その時代、日本はまだまだ男尊女卑の考えが根強くあり、男は女に威張り散らしていた。ただし、男が偉いとされる社会は、必ずしも男にとって天国とは限らない。そのような社会では、男は強さを求められる。厳しい生き方を良しとされ、甘えることは許されない。強さを求められる男は、早く立派な男になりたいと、日々奮闘する。「男はかくあるべし」「一人前の男はこうでなくてはならない」といった画一的な共通の理想像があり、そこに向けて切磋琢磨しなければならなかったのだ。
「一人前の男」の条件の中には、「正社員になる」や「結婚する」や「家を建てる」などがあっただろうが、恐らくは、「免許を取る」のもそのうちのひとつだったはずである。自家用車を持ち、乗り回す。それもまた、男が一人前であることの条件であったに違いない。
なら、その免許の返納は、何を意味することになるだろうか。それは必然的に、「一人前の男ではなくなる」ということになる。自分のことは全部自分ででき、家族も養ってきた。自分は一人前の男だと、誇りを持っていた。なのに、その一人前の証である運転免許を返すべきだと言われた。そんなのは、未熟な未成年者に後戻りするようなものではないか。大人から半人前扱いされ、悔しい思いをしてきたあの頃に、また戻らなければならないのか。そのように考えてしまうのだろう。だから一部の高齢男性は自主返納を頑なに拒むのである。「男のプライド」とは、そういうことだ。「移動手段をどう確保するか」という視点だけでなく、「男のプライドをどうケアするか」という視点も持たねばならなかったのだ。(ついでに言うと、今後世代交代が進み、男女平等の考えが当たり前の世代が高齢者になれば、男のプライドをケアする必要性は低下し、免許の自主返納はずっとスムーズに行われるようになるはずである)
今、高齢ドライバーの免許返納を議論している人達は、「代替の移動手段をどう確保するか」という点しか見ていない。「男のプライド」という、もうひとつの問題点が見えていないのだ。高齢ドライバーの免許返納を阻む壁。それは、「移動手段」と「男のプライド」のふたつが合わさって出来ている。多くの人は、「移動手段」という、壁の半面しか見ていない。「男のプライド」という、もう半面が視野に入っていないのだ。「移動手段をどう確保するか」という視点だけで免許返納を勧めようとするからスムーズにいかないのである。もうひとつの、「男のプライドをどうケアするか」という視点も織り込み、そのふたつを合一した視野によって問題に取り組まねばならないのである。

高齢男性に対して、その家族が免許の返納を提言する場面を想像してみよう。妻でも子供でもいいが、家族であれば、遠慮のない直截的な言い方になりがちだろう。「父さんももう年なんだし、事故を起こさないうちに返納すべきじゃない」などと言うのではないか。傍から聞いていればもっともな言い分であり、家族として思いやりを持って進言しているのだということがわかる。だが、言われた本人にしてみたらどうだろう。それは、「あなたはもう一人前の男ではない」「半人前として家族の世話になるべきだ」などと言われているのと同然なのではないか。だから自主返納を拒むのだ。運転する資格ではなく、己のプライドを守ろうとして。
自主返納を提言する人達は、「高齢ドライバーが事故を起こさないこと」を気にかけるばかりで、「プライドを損なわないこと」をいっさい考慮してこなかった。だから「事故を起こす前に返納しましょう」と、単刀直入に申し出てきた。だが、「あなたはもう年だから、事故を起こす確率が高い」という申し出は、「あなたはもう衰えた」「車の運転もまともにできないくらい耄碌している」と言っているに等しい。少し大袈裟に受け止めれば、「あなたはもうすぐ死ぬ」とも聞こえる。そんな言われ方をして、素直に返納に応じようという気になれるだろうか。
それゆえ自主返納を拒むのは、プライドを守ろうとしているのみならず、老いを受け入れたくないという側面もあるのだろう。老いに抵抗を感じるのは女性も同じだろうが、「強さ」を求められる男性のほうが、より抵抗感が強いはずである。今の日本では、若さを過度に賛美し、老いを否定的に語る風潮が目立つが、若さも老いも等価なものとして肯定する思想が必要なのではないか。あるいは、衰えの苦痛を緩和する思想が。そのような思想もまた、免許のスムーズな自主返納に資するはずである。
高齢男性に免許の返納を提言するには、「いかに男のプライドを傷つけないか」という心掛けが必要だ。あるいは、自主返納が否応なしにプライドを損なってしまうというのであれば、「傷ついてしまったプライドをどうケアするか」という心掛けが。「いかに男のプライドを傷つけないか」という心掛けも、「傷ついてしまったプライドをどうケアするか」という心掛けも、今の日本社会には欠落している。そこに気づかないことには、いつまでたっても高齢ドライバーの免許返納はスムーズに進まず、悲惨な事故は頻発し続けるだろう。
では、「男のプライドとは、どうやってケアすればいいのか」と思われるだろう。申し訳ないが、僕にはその具体的な案まではないのだ。でも多分、たったひとつの「これ」というやり方はないのだろうと思う。ひとくちに高齢男性と言っても性格はまちまちで、だからひとりひとりに応じた、個別的なケアの仕方が求められるのではないかと思う。家族や友人であれば、その辺のツボというか、うまい接し方を熟知しているはずだ。だから、その人をよく知っている人が、その人となりに応じたケアをする。それが最良なのではないかと思う。具体的な案がないというのは、本当に返す返すも申し訳ないのだが、それでも、「プライドのケアも必要」という意識を持っているだけでも、高齢男性に免許を返納させる成功率が格段に上がるであろうことは間違いない。今までは、あまりに無配慮過ぎたのだ。
たとえ自主返納をさせることができたとしても、プライドのケアをいっさい行わなかったら、その高齢男性を深く傷つけてしまいかねない。そうなれば、精彩を欠いた、弱々しい老後を送ることになるかもしれない。交通事故のリスクから逃れられたのだとしても、それはそれで不幸に違いない。自主返納させればそれでいい、事故を起こさなければそれでいいという考えは、あまりに一面的過ぎる。

家族の中に高齢のドライバー、特に男性の高齢ドライバーがいるという方。その方のプライドを損なわない接し方は、どのような接し方だろうか。家族であれば、ある程度はわかるのではないだろうか。その方用の接し方、あなたなりの接し方があるのではないだろうか。運転免許の自主返納を持ちかけるときには、その接し方を心掛けていただきたい。プライドを傷つけてしまっては、自主返納はスムーズに行われない。むしろ返納を頑なに拒むようになってしまうだろう。だから慎重で、繊細な働きかけが不可欠なのだ。そのやり方をよく考えていただきたい。自主返納がスムーズに行われるかどうかは、相手のプライドをいかに傷つけないか、にかかっている。

迷惑動画による経済損失、その責任を誰に帰すべきか

2023-02-09 23:39:07 | 時事
飲食店で撮影された迷惑動画が世間を騒がせている。対象となったのはおもに回転寿司店。他人の寿司を勝手に食べる、醬油差しを舐める等のイタズラ行為を撮影し、SNS上に公開された動画が拡散したのだ。被害に遭った大手チェーン店のひとつ、スシローは株価が暴落し、約170億円の損失を出したという。動画撮影者は謝罪したものの、店側はこれを受け入れず、警察に被害届を提出したとのこと。同様の動画はほかにも複数発見されており、事態はなおも拡がりを見せている。
行われた内容も、事態の推移の仕方も、数年前のバイトテロを思わせる。と言うより、ほぼその反復であり、日本社会とSNSのありようがほとんど変化していないことの表れでもあるだろう。
まず経済面で注意すべきは、時価総額が170億減少したからといって、スシローが170億を失ったわけではない、ということである。株価というのは、つねに上がったり下がったりするもので、仮に下落したままであれば170億丸々損したことになるが、普通に考えれば、株価は今後、緩やかにであれ回復していくはずである。なので、「株価170億の暴落」と聞くと、あたかも170億円というおカネが失われたかのように錯覚してしまうが、あくまで株価の上下動の一時的な状況のことを示しているのであって、その下落幅が少し大きかった、ということに過ぎない。このような大幅な変動は投資家の投機のチャンスでもあるから、今回の急落は投資家の思惑による影響も大きい。
よって、株価は問題にならないとしても、この件で回転寿司に行きたくなくなったという人達は少なからずいる。また、唾液を付けられた公共の物品を廃棄せねばならなくなったとしたら、それら備品の損失もある。
しかしながら、なぜこのような大きな騒ぎになったのかという点についての検討を加えなければならない。今回の騒動は、以下のように進展した。
①まず、SNSに投稿された迷惑動画を観て義憤に駆られた人々が、動画を拡散させる。
②次に、その動きを察知したメディアが大々的に取り上げ、社会問題化する。
③最後に、その報道に触れた人々が噴き上がり、怒りの声を唱和する。
この三段階を経て、迷惑動画は大きな社会問題と化し、広く世間に知られるところとなった。これは言い換えるなら、①~③の動きが存在しなければこれほど大きな騒ぎにはなっておらず、迷惑行為による被害額は極めて微細な範囲に止まっていたはずで、従ってスシローの経済損失は、迷惑動画を撮影した本人より、騒ぎを大きくした人々の責任によるところが大きい、ということである。
店側が備品に唾液を付けられる等の迷惑行為によって損害を被ったというのであれば、公開された動画を証拠として事件化したり、民事訴訟を起こしたり、被害の程度に見合った対応を採ればいい。我々はことの推移を粛々と見守るだけだ。なぜ無関係な第三者が怒りの声を上げ、騒ぎを大きくするのか。
許しがたい迷惑行為が行われていたとして、怒りの声を上げることが必ずしも正しい反応であるとは限らない。怒りを抑制し、言動を慎み、騒ぎができるだけ大きくならないよう気を遣いながら、当事者間による適切な対応・処分を静観したほうがいい場合だってあるのだ。
今回の件で噴き上がっている人達、①~③の過程に加担している人達は、誰一人としてその事実に気づいていない。僕はそのことに愕然とする。
大人であれば働かせてしかるべき分別を働かせず、ただ怒りに任せて騒ぎを大きくし、店側の経済損失を増大させてしまっているのだ。自分達の言動こそが経済損失の原因であることに思い至らず、騒ぎ立てることがむしろ店側にとってマイナスになるのではないかと想像することもなく、それどころか自分達が正義であると信じて疑わずにいる。今回の騒動の責任は、ひとり動画撮影者だけにあると思い込んでいる。その出鱈目さに、愕然とせずにはいられない。「分別」という言葉すら知らないのではないだろうか。

冒頭に「飲食店で撮影された迷惑動画が世間を騒がせている」と書いた。あえてそのような書き方をした。だが、迷惑動画の撮影者が意図的に世間を騒がせているのか?正義ヅラした人々が勝手に噴き上がり、起こす必要のない騒ぎを起こしているだけではないのか。
本音を言えばもっと迷惑動画の撮影者を弁護したいところだが、それはしない。あくまで店側に寄り添って議論を進める。
僕は怒りの声を上げている人達に問いたい。本当に店側のことを考えているのかと。店側に同情し、少しでも助けてあげたいと考えているのかと。悪を正すフリをして、誰かを叩きたいだけではないのか?店側を支援するより、騒ぎに乗っかることを優先してはいないか?誰かを叩いて悦に入りたいだけで、本音では店側のことなど露ほども気にしていないのではないか?優先順位を間違えてはいないか?優先されるべきは被害の拡大を食い止め、すでに生じてしまった被害を少しでも回復することであって、特定の誰かを叩くことでも、叩くことによって己の卑近な正義感を満たすことでもないのだ。
もし、店側の心配など全くしておらず、騒ぎに乗じて憂さを晴らしたいと思っているだけならば、これ以上言うことはない。だが、本気で店側の経営を気にしているのであれば、静観すべきなのだ。
そう、「静観」。思うに、現代の日本に決定的に欠けているのがこの静観という態度である。今回の件だけではない。ことあるごとに日本人は噴き上がり、必要以上に騒ぎを大きくしている。
次から次に叩く相手を変え、社会全体でリンチを加えている。まるでつねにリンチを待ち望んでいるかのようだ。

この騒動に対して、迷惑動画の撮影者を擁護する者も一部現れた。社会が冷静さを取り戻すよう、「火消し」の役目を買って出たのだろう。しかし彼らの発言は、大きな非難を浴びている。騒ぎを大きくしている人々、噴き上がっている人々の怒声によって、かき消されようとしている。擁護する者は迷惑動画の撮影者と同類だとばかりに。次なるリンチのターゲットはこいつだと言わんばかりに。その姿、僕には、「新しい社会的集団リンチの標的はどいつだ」と目を光らせ、獲物の訪れを待ち望んでいるように見える。悪を正すことより、リンチを加えることが目的化しているように見える。
彼らはこれからも陰惨なリンチを繰り返すのだろう。騒ぎを起こさなければ生じなかった被害を発生させ、いたずらに混乱を拡大させてゆくのだろう。自省など一切することなく、自分はつねに正しいと錯覚し続けるのだろう。
自らを正義と信じて疑わない人達。彼らは、「静観」という選択肢を考慮することすらないのだろうか。
冷静さが足りない。冷静さが、決定的に足りていないのだ。

病院の代理としての救急車と、常識を共有できない人たち

2023-01-31 22:38:38 | 時事
不要不急の119番通報が増加しているとの話題が、ちょいちょいメディアを賑わせている。些細なケガや不調など、体調に関する通報もあれば、「電球を換えてほしい」とか「家の鍵をなくした」など、体の具合とは一切関係ないものもあるとのこと。
コロナ禍のため、ただでさえ出動要請が増えている今、ひとりでも多くの命を救うため、安易な通報は控えてほしい、と呼びかけられている。
私見では、救急車を病院代わりに使っている人も一定数いるのではないかと思う。救急隊員は、体調を診てくれる。どこまでしてくれるのか、正確なことは知らないが、脈をとったり熱を測ったり、基本的な容態の確認をしてくれるし、応急処置も求められる仕事だから、止血をしたり包帯を巻いたりなどもしてもらえるだろう。
だから、ちょっと体調が悪いなと思ったら、救急車を呼べばいい、と考える人もいるのではないか。救急車は、呼べば必ず来てくれる。自宅だろうがどこだろうが、向こうからこちらに来てくれる。病院は自分から訪れなければならないが、救急車は向こうから来てくれるのだ。しかもお金がかからない。無料で体調を診てくれる。いいことずくめだ。
だから、病院まで行くのは面倒だし、お金も払いたくないという人が、「病院の代理」として救急車を呼ぶのではないだろうか。
救急車を呼べば、自分の体調がどれほどのものかを診察してもらえる。必要とあらば病院に行くが、病院に行って「来なくてもよかった」となると、診察料を損してしまう。だから、まず救急車。救急隊員に、体調の度合いを診てもらえばいい。病院はそのあとだ。「この程度で通報してはいけない」と文句を言われるかもしれないが、そんなのは聞き流せばいい。どのみち連中は通報があれば必ず駆けつけなければならないのだ。
・・・と、このように考えている人が、少なからずいるのではないだろうか。彼らにとって救急車は、「電話すれば24時間いつでも向こうからやって来てくれる無料の病院」なのだ。
なので、不要不急の119番通報を減らしたいのであれば、今現在の「救急車は本当に体の具合が悪い時しか呼んではいけません」という呼びかけだけでなく、「救急車は都合のいい病院ではありません」という呼びかけもつけ加えるべきではないだろうか。

別角度からもうひとつ。
体調がそれほど悪くないのに救急車が呼ばれた現場に居合わせたことが数回ある。通報者はいずれもおじいさん。70~90くらいの、精彩を欠いた、身寄りもおらず友達もいない、といった風情の高齢者男性だった。
彼らはみな、少し元気がないのかもしれないが、どこもケガしておらず、意識もはっきりしていた。「なんとなく具合が悪い気がする」程度の感覚で呼んでいたようだった。
印象的だったのは、駅前のロータリーでのこと。僕が来た時は、ちょうど救急車が引き上げようとしていた。すでに通報者の容態確認を行い、搬送には値しないと判断していたようだ。
通報者であるおじいさんは、走り去る救急車に大声で「ごめーん!」と叫んでいた。恐らく救急隊員に「この程度で呼ばないでくれ」と注意されたのだろう。そして自分の体調について、ぶつぶつと不満を呟いていた。
その様子は、明らかに「まとも」ではなかった。精神に変調をきたしているように思われた。
それを見て、僕は思った。世の中には特定の常識を共有できない人もいるのだと。
常識を共有できないというのは、「常識に合わせるのが嫌だから拒んでいる」ということではなく、「精神的な理由で常識を理解することができない」ということである。
この場合の常識は「救急車は、自力では動けないほど体調が悪化したり、大きなケガをした時しか呼んではいけない」というものだが、彼らはそれを理解できないのだ。常識は、それを理解できて始めて「受け入れる/受け入れない」の選択をすることができる。理解できないのであれば、選択することすらできない。
悪意があるのではない。診察料を払いたくないという打算があるのでもない。ただ、社会の大多数の人々が当然のこととして共有している常識が、どうしても共有できないのである。本人の悪意や怠惰ではなく、精神の失調によって。
たぶん、この手の人たちには「まともな呼びかけ」は通じない。「救急車は不要不急で呼んではいけない」という常識が共有できないのだ。だから、「常識を共有しろ」という呼びかけ自体が聞き入れられないのである。理解のできないことをいくら訴えてもしょうがない。
不要不急の119番通報をする人は、非常識だと非難される。だがその非難は、相手が常識を共有していなければ意味がない。常識を共有していれば、非難に対して反省したり反発したりといった正常な反応を返すことができるが、共有されていなければ、非難の意味を理解することができない。
だから、常識を共有していない人を非難しても無意味なのだ。非難するそれ以前の問題として、常識が理解できていないのだから。前提がまず成り立っていないのだ。
彼らに必要なのは、常識を説いて聞かせることではなく、非常識さの叱責でもなく、精神の不調に対する手当である。常識を共有できない精神状態という根本を改善しないと、どうしようもない。ひょっとしたら、自分の体調すらうまく感知できていないのかもしれない。
それにしても、どうしてこのような人々が増えているのだろうか。これもまた、現代社会の病理なのだろうか。

緩衝地帯としてのウクライナ――NATOとロシアの間に

2022-03-13 22:59:40 | 時事
国際情勢には詳しくないので、あまり具体的なことは言えないんですけど、現在のウクライナ情勢についてちょっとだけ考えたことを書きます。
戦争が始まる前、ロシアのミハイル・ガルージン駐日大使がテレビ(たしかNHK)のインタビューで、「ウクライナがNATOに加盟したら、NATO圏からモスクワまでの弾道ミサイル到着時間が5分程度になってしまう。それはロシアとしては受け入れられない」って答えてたんですよね。正確な言葉を覚えていないし、5分じゃなくて10分だったかもしれませんけど、とにかくウクライナがNATOに加盟すると、NATOの最前線がロシアの国境に隣接してしまうことになるから、国土防衛の観点から認められない、という意味の主張でした。
僕はそれを聞いて、この先ロシアとNATOが事を構えることなんかあるのか?理論的にはたしかに、ミサイルの到着時間が短くなれば危険性が高まるんだろうけど(到着時間が長ければ迎撃できるけど、短いと難しくなるから)、それはあくまで理論上の話であって、現実的ではないんじゃないか?って思ったんですね。
しかし、現実的ではない脅威も現実的にとらえるのが政治に携わる人々であるようで、ロシアのウクライナ侵攻は現実のものとなってしまいました。
ウクライナがNATOに加盟すると、モスクワの危機が高まる。だからNATO加盟は認められない。それは言い換えるならば、「ウクライナであればNATOのミサイルが落ちてもかまわない」ということです。これがロシアの本音。ウクライナを、NATOとの間の防御壁にしたい、ということです。同胞だの同じ民族だのと聞こえのいいことを言っていますが、自分たちの身を守るためにウクライナを都合よく利用したいだけなのですね。
そして残酷なようですが、逆もまた真なりで、NATO側にも同じことが言えるのです。NATOにとってウクライナは、ロシアとの間の防御壁になる。もちろんNATOは、「ウクライナは我々にとっての防御壁だ」などとは口が裂けても言わないでしょう。しかし冷徹に地政学を分析している当事者がいれば、当然そのような結論に達しているはずです。
現状NATOはウクライナの側に立ち、様々な支援を行っています。それは純粋にウクライナのことを思い、戦争の終結を目指して行われている面もあるでしょう。しかしそれのみならず、ウクライナを自分たちにとっての都合のよい防御壁とすべく自陣に引き寄せようとしている、という功利的・戦略的な側面もあるはずです。
つまりこの戦争は、ロシアとNATOのどちらがウクライナを安全保障上都合よく利用できる国に変えるか、という綱引きをしている戦争だとも言えるのです。ヨーロッパとロシアの間に挟まれる形となってしまった不運。この歴史的・地政学的不運が今、戦争という具体的な事象となってウクライナを襲っているのです。
NATO側に付こうがロシア側に付こうが、防御壁扱いされてしまうという点においては、選ぶところがないのです。防御壁としての依存度の強弱の差と、その見返りの多寡の差があるにせよ、想定される戦争においてまず攻撃を受け、ダメージを集中させるための前線として扱われてしまうことに変わりはない。それでもウクライナが「よりまし」な選択肢として主体的にNATO側を選び取るのであれば、その意志は尊重されてしかるべきではありますが。(念のため申し添えておきますと、国際政治というものは、つねに他国との利害のすり合わせによって「よりまし」な選択を強いられており、それら妥協と落としどころの蓄積によって国際情勢は成り立っているのであって、何も今回のウクライナばかりが不都合な2択を迫られているわけではありません)
この先戦況がどのように推移しようとも、NATOは軍事介入を行わないでしょう。軍事介入すれば、戦火がヨーロッパにまで及んでしまうかもしれないからです。NATOには、国土を損壊させてまでウクライナを守ろうという気概はない。自分たちの防御壁にしか過ぎないもののために、そこまでの犠牲を払うわけにはいかないからです。こちらはNATOの本音。
緩衝地帯としてのウクライナ。大国間に翻弄される国の、典型的なひとつの姿がここにあります。

無敵の人との戦い方

2021-11-21 21:55:38 | 時事
10月31日、東京都調布市を走行中の京王線の電車内で、24歳の男が、乗客の男性をサバイバルナイフで刺したうえ、車両にライターオイルを撒いて火をつけるという事件が発生した。刺された男性は重体。煙を吸い込むなどした16人が軽傷を負った。居合わせた乗客によって撮影された事件の動画は、緊迫感とともにたちまち拡散された。
衆院選最終日、選挙特番のさなかに伝わってきた事件の一報に触れたとき、僕は、それが速報であることをとっさに理解できなかった。見覚えのある映像だったし、過去の事件の続報かと思ったのだ。それくらい既視感のある、反復された事件だった。
容疑者が参照したのは今年8月に起きた小田急線の無差別刺傷事件だが、その前にも2015年6月に新幹線の車内で焼身自殺を目的とした火災事件が起こっているし、さらに遡れば、「人を殺して死刑になりたかった」という動機による事件もいくつか起きている。
司法による裁きを目的とした事件にせよ無差別刺傷にせよ、最近になって急に起こり始めたわけではなく、犯罪史的にも珍しいものではない。ただ、「模倣」という形で連続して発生しているというのが、これまでになかった現代的な特徴である。

10年ぐらい前からだろうか、「無敵の人」という言葉をよく耳にするようになった。「無敵の人」とは、社会の底辺に押しやられていて、仕事でも人間関係でもうまくいかず、多くの不平不満を抱えており、失うものが何もなく、それゆえに怖いものがないという社会的立場の人物を指す。(厳密にはこの「失うものが何もない」というのは、客観的な事実ではなく、主観による解釈で決せられるため、傍から見たら「そんなに不幸でもないじゃないか」と感じられる場合も多々ある)
人は多かれ少なかれ、承認欲求を抱えている。通常は友達などの人間関係や、仕事での社会的地位の確立、あるいは金儲けによって承認欲求は満たされる。しかし社会状況や個々の能力、時の運によっては、それら「通常ルート」ではうまくやれず、承認欲求を満たせない人も出てくる。
そんな不遇の身にある者には、「悪名」こそが最後の手段として映る。社会的に肯定された手段で承認欲求を満たすことができないのなら、せめて「悪名」でも、と思えてくる。同時に、社会に報復したいという願望もあるならば、なおのこと無差別刺傷は最適な手段に思えるだろう。ついでに死刑にしてもらえるなら、クソみたいな人生とおさらばできて万々歳というわけだ。
「人は誰でも生涯のうちに15分だけなら有名になれる」という言葉を残したのはポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルだが、無差別刺傷(および放火)ほどお手軽で、かつ急速に知名度を上げられる手段はほかにない。

『バットマン』の悪役、ジョーカーに憧れていたという犯人の服部恭太。事件後、ジョーカーに扮した姿で電車のシートに座り、落ち着きはらった風情でタバコをくゆらす服部の映像が、集中的にメディアに流された。拘禁中の容疑者は、自身の報道に触れることがないよう、厳重に情報を遮断されているが、もし服部が自分のあの映像を見たら、狂喜したことだろう。あの姿は露骨に、「こう見られたい」というセルフイメージを具体化したものであった。恐らくタバコも吸いたくて吸っていたのではなく、犯行後に周囲の乗客にレンズを向けられることを見越して、いかに見栄えよく映るかを計算したうえで「喫煙姿」を選んだのだと思う(ちゃんと顔が映るように、ホームと反対側のシートに座っていた)。
ハロウィン当日に合わせて犯行が行われた点もそうだが、過剰な自己演出臭のする事件だった。服部は逮捕後に「人を殺して死刑になりたかった」と供述したそうだが、死刑になるだけならここまでの演出は必要ない。この自己演出は、「死刑になりたい」という以上の何か、動機の余剰を含んでいる。それはやはり悪名でもいいから名を残し、承認欲求を満たしたいという願望のなせる業なのだろう。服部が自分のことを無敵の人と呼んでいるという情報は出ていないようだが、当人の感覚的にはそれに近いものと自己規定していたはずだ。
そもそも本当に死刑になりたいのであれば、1人刺しただけで他の人を襲おうとせず、警察が駆けつけるまでのんびりシートに座っていたのは不自然だ。あの行動は、「死刑になりたい」よりも「承認欲求を満たしたい」という願望が強かったことの表れではないだろうか。
この種の事件が起きると、一部で共感や称賛の声が上がることがある。やはり無敵の人の系譜に位置している、2008年6月の秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大に対してもそのような反応が見られた。極端な人は英雄視していたし、そこまではいかなくても、自分と加藤を重ね合わせ、「まるで他人とは思えない」と同一視していた。
自称「良識のある大人」たちは眉をひそめ、あるいは声を荒げて𠮟責した。「こんな身勝手な犯罪者に共感するとは何事か」と。
しかし「良識のある大人」たちは、ひとつ決定的な見落としをしている。無敵の人にとっては、称賛も罵倒も等価なのだ。
悪名でもいいから承認欲求を満たしたいと願うとき、称賛であれ罵倒であれ、「自分の言動に起きた反応」すべてが評価としてポイント換算される。「良識のある大人」は、犯人を非難することで、有益な言葉を社会に振りまいているつもりなのかもしれないが、それは犯人の思う壺でしかないのだ。非難の声も、犯人には成果としてカウントされてしまう。社会に影響を及ぼすことそれ自体が犯人の目的なのだから。
どのような形であれ、事件に反応してしまえば、犯人を喜ばせてしまう。彼の承認欲求を満たすことによって。たとえ非の打ち所のない正論でも、犯人の人格を貶める誹謗中傷でも、感情的な罵詈雑言でも、事件に反応してしまった時点で、犯人を利することになってしまうのだ。何らかの反応を示すのであれば、最低限その前提を踏まえたうえで行わなければならない。僕も今、その前提の上に立って、当たり障りのない正論や、良い人アピールしたいだけの綺麗事よりは有益な言葉を紡ぐためにこの論考を書いている。

ニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターは、苦々しい顔で事件に言及する。起きてはならない事件が起きてしまったと。本当はこんなニュースを伝えたくはなかったと言わんばかりに。
だがその実、メディア関係者は小躍りしている。悲惨な事件は、視聴率を稼ぎ、部数を伸ばす、格好のネタなのだから。
だから、内心事件を歓迎している彼らは、微に入り細を穿ち、詳細を報じる。犯人の来歴に始まり、いつから犯行を計画したのか、事前に何を準備したのか、直前の足取りはどうだったのか、犯行に用いた道具は何か、具体的な犯行の流れはどうだったのか。
これらの報道はすべて、無敵の人、およびその予備軍にとっての「ヒント」になる。彼らは、「こうすれは曲がりなりにも承認欲求を満たすことができ、しかも社会に復讐できるんだ」と受け止める。あるいは、「自分もこうすれば死刑にしてもらえるかもしれない」と考える。「自分も服部のように大々的に報じられることで、悪名という形にせよ一躍有名になることができるのではないか」と考える。
そして、服部自身が模倣犯であったように、次なる模倣犯が生まれていく。(11月8日には九州新幹線の車内で、69歳の男が放火未遂を犯した。男は「京王線の事件の真似をした」と供述している)

メディアは、なぜこのような事件が起こったのか、犯人の半生を振り返り、人となりを調べ、社会背景に火種を捜す。しかし唯一、「自分たちの過剰報道が模倣犯にヒントを提供したのではないか」という可能性については一切言及しない。
またメディアは、どうすれば同様の事件の再発を防げるかについても、乗客の手荷物検査や、警備員の増強、監視カメラの拡充など、あらゆる手段について検討する。さらには、「実際に事件に巻き込まれた場合にはどう対処すればいいか」というシミュレーションまでご丁寧に行って見せる。しかし唯一、「自分たちが過剰報道を自制することが模倣犯を生み出さないことにつながるのではないか」とだけは決して言おうとしない。
メディアが唯一、絶対に言わないこと。それは、他ならぬ自分たちこそが模倣犯を次々輩出している元凶なのではないか、ということだ。
もっと踏み込んで言えば、メディアが、自分たちのメシのタネを確保するために、社会の安全を犠牲にしている、ということだ。このことに自覚的な、「良心のある」メディア関係者はいないのだろうか。(今日ではメディアのみならず、ネットとSNSの影響力も大きいわけだが、これらは相関関係にある。ここで言うメディアとは、その一部にネットとSNSを含むものと理解していただきたい)
本当に事件の再発を防ぎたいのであれば、メディアは、メシのタネをある程度犠牲にすべきなのだ。いくらか視聴率が下がり、部数が減少するのを覚悟して、過剰報道を抑制せねばならない。事件の情報に触れる機会が減れば減るほど、無敵の人が模倣犯に転じる確率は低下するのだから。
メディアは鉄道現場での警備強化の必要性を訴える。実際警備員が増えたところもあるようだし、警察が事件防止の訓練を行ったりもしている。それらももちろんあったほうがいい。しかし、メディアが報道を自制することなく警備強化を言い立てるのは、自分たちが増幅させた危機によって行わねばならなくなった不審者対策・犯罪者対策を、鉄道職員と警備員と警察官に押し付けている、ということに他ならない。鉄道関係者は今、メディアに腹を立てているのではないだろうか。

それでもメディアが事件を取り上げ、その内実に言及するのであれば、模倣犯を減らすために語るべき言葉がある。それは、「人はそう簡単に殺せるものではないし、事件を起こしても死刑になる確率は限りなく低い。仮に死刑を宣告されたとしても、執行までの月日は長く、その間ひたすら苦しみに耐えなければならない」ということだ。
僕の考えでは、これこそが唯一模倣犯を減らすことができる、メディアで積極的に語られるべき言葉だと思うのだが、寡聞にして一度も聞いたことがない。あまりにも非道徳的だからだろう。しかし、道徳に反していようが苦情が殺到しようが、模倣犯の発生を1件でも減らせるならば、ためらうことなく口にすべきなのだ。「死刑になるのは難しい」と。
それこそが、真にあるべき「無敵の人との戦い方」に他ならない。
むろんこれは対処療法に過ぎない。事件を起こしても起こさなくても、無敵の人が存在しているというだけで、その社会は不健全だ。無敵の人が生まれてくる土壌である日本社会こそが、おおもとの原因。根本的な対策は、無敵の人を生み出さないようにすることであって、そのためには社会基盤の改革が必須。
だがそれと同時に、生まれてしまった無敵の人に、きっかけを与えないようにしなくてはならない。きっかけは過剰報道、つまり、「模倣犯を生み出さないためにはどうすればいいか」について、言及すればするほど模倣犯が増えてしまうという逆説にある。
この逆説に気づき、身を切る覚悟で報道の抑制を提案、もしくは法制度化を行うメディア関係者が出てくることはないのだろうか。

映画『ジョーカー』では、主人公のアーサー・フレックが、汲むべき事情によって残虐な怪物へと変貌を遂げる様が描かれていた。不幸にあえぐ人たちには、悪漢こそが崇敬すべき英雄に映る。服部恭太もまた、メディアの過剰報道によって、ダークヒーローに仕立て上げられてしまった。ジョーカーの服装でタバコをふかすその姿は、すでにイコンになっている。
服部は、憧れていたジョーカーになった。願いが叶えられたのだ。服部を批判していたメディアの手によって。
先に、この種の事件には少なからず称賛や共感の声が上がる、と書いた。服部を自己と同一視する者もいるはずだ。やはり「良識のある大人」たちは、理解できないものを見る眼差しとともに、非難の声をあげるだろう。(またぞろ「死ぬなら一人で死ね」などとお門違いなことを口走る単細胞が出てきはしないかと憂慮していたが、さすがにそれはなかったようだ)
だが、お説教だけで事が解決するなら世話はない。彼らは、それが非人道的な犯罪であることを重々承知したうえで共感を寄せているのだ。
では、なぜ共感するのか。そのような犯行こそが、閉塞した不遇の身を開放する、最後の救済に思えるからだ。否応なく生み出されてしまった無敵の人たちは、ダークヒーローの凶行に「救い」を見る。
救いは、無差別刺傷とは違う形で提示されなくてはならない。その道筋はどこにあるのか。
日本はまだ、ダークナイトの只中にある。