徳丸無明のブログ

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カネとは何かね?・後編

2015-11-24 22:42:10 | 雑文
(前編からの続き)

価値を媒介する貨幣が、価値そのものと誤解されることによって起こるのが、貯蓄それ自体を目的とした貯蓄、つまり「退蔵」であるが、それでは、退蔵によって引き起こされるのは何か。
いくら稼いでいるか、いくら蓄えられるかは、人によって違ってくるので、退蔵からは「格差」が生まれる。
格差からは、持てる者と持たざる者の二分化がもたらされる。この二分化は、「雇う者」と「雇われる者」へと転化する。
ここからさらに生まれてくるのは何か。雇う者と雇われる者との力関係が強固になることで、支配の構図も現れるだろうし、労働力の搾取も行われうるし、雇う者が、差益をさらなる投資に回すことで、ますます持てる者となってゆく、という面もあるだろう。
教科書通りの人類の歴史。つまり、退蔵からは資本主義が発生するわけだ。
ところで、退蔵の対義語は何か。
それは、「蕩尽」である。
退蔵の対極の現象を眺めることで、資本主義の裏面が見えてくるだろう。
ここでご登場いただくのは、文化人類学者御用達の「ポトラッチ」である。
今はもう廃れてしまっているようだが、北米先住民の間で、昔から行われていたポトラッチと呼ばれる習慣がある。これは、新しい首長が選ばれた時のお披露目や、重要な人物の子供の結婚祝いに、他の村人を招いて行われるもので、招いた側も、招かれた側も、膨大な贈り物をする。お返しをする際には、受け取ったぶんより、さらに多くの物を贈らねばならないとされており、さながら、「贈り物合戦」のようになっている。で、注目すべきはさらにその先で、贈り物を行う際に、自分達の気前の良さを証明するために、相手の前で、貴重品を破壊して見せることがあるという。
せっかく蓄えた財を破壊するとは、なんてバカげたことを。…と思われるだろうか。
だがそれは、資本主義マインドに染まりきった我々の、一面的な見方でしかない。退蔵だけが正しい振る舞いというわけではないのだ。
蕩尽を行う文明には、当然ながら、退蔵は起こらない。
そうすると、「格差」は発生しないし、持てる者と持たざる者との二分化ももたらされないし、搾取も行われない。
つまりポトラッチは、資本主義の発生を防いでいるのである。
ポトラッチを行っている人々が、どれだけそのことに自覚的であるか、はわからない。意図的に構築されたシステムではなく、たまたまそうなっているだけなのかもしれない。だが、狙ってやっているにせよ、図らずしてそうなっているにせよ、ポトラッチがそのような働きを有しているのは事実なのである。
で、言うまでもないことだが、資本主義社会は多くの問題を抱えており、我々退蔵を行う文明の側が、「ポトラッチなんかバカげてる」と揶揄したとして、蕩尽を行う文明からは、「財を蓄えることで、様々な苦しみや不条理が生まれてるじゃないか」という答えが返ってくるだろう。
実際、資本主義社会は、環境破壊によって滅び去る恐れがあるけれど、蕩尽を行う文明は――資本主義社会の巻き添えを食わない限り――これから先も変わらず存続し続けるだろう。
安定度は、蕩尽を行う文明の方が、遥かに高いのである。
と、いうわけで……多くの問題を抱えて行き詰まりつつある、現在の資本主義を打開するには、ポトラッチしかない!
さあ、みんなで蕩尽しよう!
蓄えた財産を、徹底的に費消しつくそう!
むやみに溜め込んだ物を吐き出しきってこそ、新しい経済体制への活路は開けるのである。
いざ、ポトラッチ!
(こんな結びでいいのか、と自問しつつ了)


オススメ関連本・藻谷浩介『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』角川oneテーマ21

カネとは何かね?・前編

2015-11-23 22:19:05 | 雑文
親方日の丸を批判する定型句に、
「元はと言えば私達の税金」
という言葉がある。
金の使い方にムダや不正があったとみられる時に発せられるわけだが、この言葉は、部分的にしか正しくない。
というのも、お金というのは、いろんなところを循環しているもので、税金というのは、国の予算の一歩手前の段階でしかないからだ。
「元はと言えば私達の税金」と言うと、なんだかそれが起源の様に聞こえるが、常に循環をし続けるお金には、そもそも起源がない。
強いて起源を言うなら、日本銀行、ひいては日本国がそれに当たる。
さて、絶えず循環しているお金であるが、人の手から人の手に渡るとき、モノやサービスを生み出している。つまりはこれが“経済活動”というやつなのだが、この働きにおいて、事実誤認がよく生じる。
経済を駆動するこのお金の働きは、なかなか魔法じみている所があり、それゆえ、人はお金そのものに価値がある、と錯覚してしまう。しかし、よく言われているように、お金そのものには価値がない。価値があるのは、お金が動かしているモノやサービスのほうであり、お金は、それらを媒介する事物でしかない。
この、魔法のような働きと、本来モノやサービスに備わっている価値が、お金に由来するという錯覚が相まって、一種の物神崇拝が起きる。お金それ自体に価値があるのだ、と。
「将来のため」といった、実質的な理由がないにも関わらず貯金をする、という行為、貯めることそれ自体を目的とした貯金は、おもにこの誤解が元になっている。
それでは、本来なんの価値もないお金が、モノやサービスの媒体として機能するのはどうしてか。いわばただの紙切れでしかない物が、取引の手段として、人々に承認されているのはなぜなのか。
経済学者の岩井克人は『貨幣論』の中で、お金が持つその効力について述べ、「貨幣は貨幣であるから貨幣なのである」という言葉にまとめている。
これは、貨幣が貨幣として流通しているという事実、人々が、貨幣を貨幣として認めているという事実こそが、貨幣を貨幣たらしめている、ということであるらしい。人々が、貨幣を貨幣として承認している、その点こそが、貨幣の成立条件である、と。
小生はこれを読んで、
「でもそれだけじゃなくてさ、国家、もしくはそれに準ずる組織といった、貨幣を担保する存在も必要なんじゃない?」
と思った。
しかし、そうではなかった。
度重なる内戦により、無政府状態に陥ったアフリカのソマリアで、偶然発生した経済状況は、驚くべきものであった。


現ソマリアは「経済学の実験室」と一部で呼ばれている。経済学の常識を超えた現象があちこちで展開しているからだ。その代表がソマリア・シリングだ。
旧ソマリア時代に発行されていたこの紙幣は、二十年間、中央銀行が存在しないにもかかわらず、今でも共通通貨として一般の人々に利用されている。
(中略)
一時は隣のケニアやエチオピアの紙幣も少し使われたことがあったらしいが、結局、「こんなカネはなじみがない」ということで廃れ、誰もがなじみのあるソマリア・シリングに落ち着いてしまった。
それだけではない。無政府状態になり、中央銀行もなくなってから、シリングはインフレ率が下がり、安定するようになった。なぜなら、中央銀行が新しい札を刷らなくなったからだ。
(中略)
その結果、シリングは普通に政府が機能している周辺国の通貨より強くなってしまった。(中略)
つまり、無政府になってからシリングは強く安定した通貨となったというわけで、経済学の常識を軽くひっくり返してしまったのだ。
(高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』本の雑誌社)


無政府状態においても貨幣は流通しうる!
岩井の説は正しかったわけだ。
よく考えてみれば、政府とか中央銀行が存在しない原始社会においても、貨幣はやり取りされているもんな。貨幣がその効力を失うのは、国が滅びるときではなく、人々が「これはただの紙切れだ」と認識する時、というわけだ。

(後編に続く)


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言葉という神が支配する⑤

2015-11-17 22:10:51 | 雑文
(④からの続き)

新約聖書の中の「ヨハネ福音書」に記さている、天地創造の物語は、次の文章から始まる。
「初めにロゴスがあった。ロゴスは神であった」
この「ロゴス」とは、「論理」という意味もあるが、大抵の場合は「言葉」と訳される。
おわかりだろうか。
我々は、まず人間としての自分があって、その主体が、意思伝達の手段としての言葉を使いこなしている、と考えがちだ。しかし、事実はそうではない。
初めに、言葉があったのだ。
人間が主で、道具としての言葉を使っているのではない。言葉のほうが主で、人間が従なのだ。
まず、人間ありきなのに?
人間がいなければ、言葉は発せられることすらないのに?
確かに、単なる生命体として、動物的存在としてならば、人間は言葉に先行しているし、言葉がなくても存在しうる。しかし、社会的存在、我々が常識的な感覚で人間と思い込んでいる存在は、言葉なしには成り立たない。
ここで言う社会的存在とは、言葉で世界を「わけ」、言葉によって世界を認識する主体のことである。
では、動物的存在とは何か。それは、目の前に動いているものがあれば、とりあえず飛びかかるような、言葉による判断ができない主体のことを指す。
あくまで、言葉は道具だと言い張りたいなら、それでもいい。だが、道具というのは、使うも勝手、使わぬも勝手。なんなら、捨て去っても構わないものだ。しかし、社会的存在である人間は、言葉とは不可分である。言葉を着脱可能な道具として放り投げれば、我々は、目の前の動いているものに反射的に飛びかかる存在に成り果ててしまうのである。
ちなみに、これは小生の推測なのだが、日本の八百万の神々は、「ヤマトタケルノミコト」といったように、名前の末尾に「ミコト」が付く。これは尊称であり、「尊」ないしは「命」という漢字が当てられる。
しかし、この「ミコト」は、「御言」という字を当てはめることも可能だ。これはつまり、日本神話の創設者もまた、「言葉は神である」と認識していたことの表れなのではないだろうか。
繰り返すが、これはあくまで推測である。『古事記』や『日本書紀』、もしくは神道の研究者に、ご教授を賜りたい。

この間テレビニュースで、小学校低学年の中に、急に感情的になって、教師に暴力を振るう子供が増えている、と言っていた。
いわゆる問題児とか、不良生徒のことではない。ごく普通の、普段はおとなしい生徒が、些細なことをきっかけにして、一気にメーターの針が振り切れるように激昂する、というのだ。
番組内では、原因として、子供のボキャブラリーの少なさを指摘していた。真偽のほどは定かではないが、小生はありうる、と思った。
なぜボキャブラリーの多寡が、このような行動に結びつくのか。
喜怒哀楽、などと言うが、喜にしても怒にしても、レベルの違いがある。強い怒りに弱い怒り。また、二つ以上の感情が、同時に現れることもあるだろう。それから、二種類の感情は、それぞれ切り離されているわけではなく、その間がグラデーションのように繋がっているはずだ。
感情とは、なかなか複雑なものである。
怒りの感情だけでも、「ムッとする」「カチンとくる」「イライラする」「カッとなる」「頭にくる」「腸が煮えくり返る」等々。怒りの度合いに応じて、様々な表現がある。
しかし、仮に「キレる」という言葉しか知らなかったらどうだろうか。
怒っている状態を指し示すのに、「キレる」という言葉しか用いることができない。すると、自分の中に怒りが発生した時、その強弱にかかわらず、「自分は『キレて』いるのだ」と理解するしかない。
どんなに微細な怒りであっても、「キレる」という言葉を当てはめる他なければ、それは「キレて」いるのだと解釈される。「キレる」という言葉に見合った行動様式は、我を失い、暴力的になることだ。そうしないと、自分が「キレて」いること、自分の中に沸き起こった感情の説明がつかない。
「キレる」という言葉しか知らないと、「キレる」行動しか取れなくなる。
この、些細なことで激昂する子供の行動様式は、目の前の動くものに反応する生物に近しいことはおわかりいただけるだろう。
言葉は、神であった。
我々は、言葉という神に支配されている。
神の支配を受け入れて、我々は人間になったのだ。


オススメ関連本・内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書