徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

マンガ・2ページ・『紙の漫才』

2018-10-26 21:32:54 | マンガ




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魔と出逢う

2018-10-22 22:55:36 | 雑考
新しいカテゴリー「雑考」始めます。これはどんなジャンルなのかといいますと、「雑文未満の思考の記録」です。雑文はひとつの読み物として、起承転結や序破急といった全体性、完結したまとまりをもった文章になるよう仕上げているのですが、何かしらのアイディアがあったとしても、そのような文章のかたちをとるまでには至らない細かいものもあるのです。
なので、それらの断片的な思考を記録してとどめておこう、というのがこの「雑考」なのです。
自身にとっては備忘録として、皆様におかれましては考えるヒントになれば、と考えております。
それでは第一回目、始まります。


金成陽一の『誰が「赤ずきん」を解放したか』(大和書房)を読んでの気付き。
これは、グリム童話の「赤ずきんちゃん」がどのように語られてきたか、物語が書かれた時代背景がどのように反映されているか、類似の童話(物語)との相違点は何か、といったことが書かれた本である。頭巾の赤い色は初潮の比喩であることや、狼とは性的に誘惑する男の象徴であること、狼に食べられてその後お腹から出てくるというのは、性体験を経て大人の女性として生まれ変わることを意味しているなど、興味深い分析が盛り込まれている。
その中で特に印象に残ったのが次の箇所。狼は夜の象徴でもあるという説を紹介したあとの発言。引用文中に引用文が含まれているので少しややこしいことをお詫びしておく。


つまり、狼は「薄暗がりの狩人」であり、闇と光の中間、暁と黄昏時に出現するのだ。フランス語には、黄昏時を「イヌとオオカミの間」(Entre Chien et loup.)とよぶ面白い表現があるという。
林勝一氏は『ゴールの雄鶏』の中で、「『イヌとオオカミの間』という奇妙な表現が生まれたのも、かつてオオカミが山や森に数多く潜んでいた時代には、あたりが暗くなってきて、ふと現れた動物がイヌなのかオオカミなのか見分けがつかなくなるとき、それは人間にとっては、きわめて危険な、それこそ運命の『分かれ道』となるときだったからだろう。この表現はすでに紀元前二世紀のヘブライ語の文献に『人間がイヌとオオカミを区別できなくなる時』というかたちで記録されている」と述べている。


日本でも夕暮れ(薄暮)を「逢魔が時」と呼ぶ。それは人間の視認能力が曖昧になり、交通事故が起きやすい時間帯でもある。「魔と出逢う」などと言えば単なる迷信とか、前近代的だなどと思われがちだが、もっと具体的で現実的な、危険な野生生物に遭遇しかねない時間帯だという教訓であったのだろう。過去の日本において、狼――かつて生息していたニホンオオカミ――や熊といった野生生物と接触する確率がどれくらいのものであったかはわからない。だが狼や熊のような特別な動物のみならず、ごく普通の犬であっても人間にとっては危険な生物であった。今日の日本ではすっかり忘れられてしまったことだが、かつて狂犬病という病気があり、ワクチンが開発される以前、野犬に噛まれるということは、極めて致死率の高い病に侵されるということであったからだ(今はもう野良犬すらいないからね。90年代ぐらいまではいたかな)。あるいは、野生生物のみならず、借金取りのような好ましくない人物に捕まってしまう恐れがある、という意味合いもあったのかもしれない。
魔というのは、わりと身近に潜んでいるものなのである。
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マンガ・1ページ・『冷凍睡眠くん』

2018-10-17 21:54:04 | マンガ
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日本人はそれほど優秀な民族なのか・後編

2018-10-13 23:09:31 | 雑文
(前編からの続き)

それから「日本人は真面目で勤勉実直」という主張。確かに諸外国と比べて、勤務時間が長かったり、残業を厭わない人が多かったり、有給休暇の取得率が低かったりなど、日本人が勤勉であることを示すデータはいくらでもある。しかし、その勤勉さというのは、みなが自ら望んだ勤勉さなのだろうか。
日本がとりわけ同調圧力の高い社会であることはよく知られている。国民国家の成立以前、共同体の単位が「ムラ」であったころから、その成員には協調と協働が求められていた。今では、ムラ単位で働いていた同調圧力は、国家単位の規模に拡大し、国民がお互いを「出る杭あらばすかさず打つ」眼差しで監視し合っている。
その相互監視の網の目の中では、ほんのわずかな悪目立ちも許されない。SNS上にちょっとしたおふざけ動画を挙げただけでも、女優が恋人との仲睦まじい写真を公開しただけでも非難の対象となってしまう。しかもその非難は、冷静で理論的な言葉によるそれではなく、感情的で支離滅裂な、ただひたすら誰かを引きずり下ろしたいという陰湿な願望に基づくものでしかない。ついでに言えば、他の日本人の美点の多くも、この「極端な同調圧力の高さ」の産物として説明可能だ(礼儀正しい・マナーがいい・謙虚・ルールを守る等)。
そんな極端なレベルで「みんな同じ」であることが求められる社会の中で、人々が勤勉であるということは一体何を意味するのか。それは、「否が応にも勤勉でなければならない社会」ということなのではないだろうか。もちろん純粋に仕事が好きで、とにかく働くことが生き甲斐という人も大勢いるし、現実的にはそちらのほうが多数派なのかもしれない。けれども、そこまで仕事は好きではないとか、とにかく働くのが苦痛でしょうがないといった人だって一定数いるはずである。
そんな人達に否と言うのを許さないのが、同調圧力によって下支えされた日本社会の暗黙のルールなのである。これが健全な社会と言えるだろうか。

「勤労の美徳」というヤツは、とにかく肯定的に讃えられがちだ。小生も、その美徳自体を否定するつもりはない。汗水垂らしてコツコツ働く人の姿は美しい。でも、なんでそればっかりなんだろう、と思う。「勤労の美徳」だけでなく、「怠ける美学」だってあっていいじゃないか、と思うのだ。
でも、日本社会ではそんな考えは許されない。勤労が美徳である以上、怠惰は排斥されねばならないのだ。
小生は「働かざるもの食うべからず」という言葉がとにかく大嫌いで、この世からなくなればいいと考えているのだが(この言葉に傷つけられている身体障害者や生活保護受給者は少なくないはずだ)、作家の曾野綾子に似たようなタイトルの著作があって、この種の主義主張の持ち主に一定の支持者がいるという現状を鑑みると、日本人の労働観の極端な硬直性に頭を抱えずにはいられない。
経済学者の井上智洋は、人工知能(AI)の社会への浸透によって、近い将来人々の雇用が大幅に失われはするものの、ベーシックインカムを導入すれば、現行の社会保障制度よりも簡便で平等性が高く、かつ仕事がなくても生きていける社会が実現できると説いた著作の中で次のように述べている。


「有用性」というのは、20世紀前半のフランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユが提示した概念で、要するに「役に立つこと」を意味します。バタイユは有用性を批判するような思想を展開しました。
資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、有用性にとりつかれ、役に立つことばかりを重宝し過ぎる傾向にあります。将来に備えて資格のための勉強をすることは言うまでもなく有用です。
ところが、その勉強は未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えます。現在という時が未来に「隷従」させられているのです。有用な営みに覆われた人生は奴隷的だとバタイユは考えました。
役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値は独立的ではありません。会計士の資格は会計ソフトの普及で、運転免許はセルフドライビングカーの普及で、英会話能力は自動通訳機の普及で、有用ではなくなり価値を失うかもしれません。
バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させました。「至高性」は、役に立つと否とに関わらず価値のあるものごとを意味します。「至高の瞬間」とは未来に隷属することない、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間です。
至高の瞬間は、労働者が一日の仕事の後に飲む一杯のワインによって与えられることもあれば、「春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝き」によってもたらされることもあります。
(中略)
さらに私たち近代人は、人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどという偏狭な考えにとりつかれているように思われます。
現代社会で失業は、人々に対し収入が途絶えるという以上の打撃を与えます。つまり人としての尊厳を奪うわけですが、それは私たちが自らについてその有用性にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。みずからを社会に役に立つ道具として従属せしめているのです。
(井上智洋『人工知能と経済の未来――2030年雇用大崩壊』文春新書)


小生は有用性を全否定するつもりはない。有用性の追求・経済成長の追求によって、現代の日本では飢える者の少ない食糧事情や、高度な医療水準、利便性の高いインフラなどを獲得し、比較的裕福な社会を実現できているからだ。
有用性それ自体が問題なのではない。有用性しか追求できなくなる硬直性が問題なのである。
「障害者は苦しみしか生み出さないから生きる価値がない」として、福祉施設に入所していた障害者数十人を殺傷した者がいた。「LGBTの人達は子供を産まないから生産性がない」と論じた国会議員もいる。
いずれも、人間の価値を「金銭」という尺度のみでしか測っていないことは明白である。彼等は、それぞれ違う形で「人間の存在価値はいくら金を稼いでいるかだ」と宣言しているのだ。人間の価値は、金銭収入にのみあるわけではない。価値判断基準が金銭しかない思想は、あまりに貧しい。
彼等はいずれも、「有用性の罠」に深く嵌まり込んでしまった人達である。資本主義の要請に忠実になり、その理念を深く内面化してしまったがために、自分が近視眼的な偏見に捕らわれていることに気付けないのだ。
しかしながら、我々は安易に彼等を愚劣と嗤うことはできない。資本主義社会に生きる我々は、みな少なからず「有用性の罠」に捕らわれているからだ。彼等と我々との違いは、その嵌まり込み具合が「浅いか深いか」という濃淡にしかない。
我々は少なからずあらゆる物事を有用性で測定する習慣を身に付けてしまっている。だから、ニートのような無職者を、ただ働いていないというだけの理由で憎んでしまう。勤勉であるということ、労働を無条件で賛美するということは、浅からず「有用性の罠」に落ち込んでしまっているということであり、まかり間違えればさらに罠に深く埋没し、「金を稼いでいない人間は生きる価値がない」と考えるようになってしまう。過労死のような悲劇を黙認することにも繋がるだろう(と言うより、労働を無条件に肯定することは、過労死を半ば容認することと同じなのである。我々は過労死のニュースに同情の声を上げながらも、その実それをやむを得ないこととして受け入れているのだ)。
これまで人間が行ってきた労働を人工知能が代行するようになり、人間が仕事をする余地が(ほぼ)なくなれば、有用性などという価値判断基準は消滅する。有用性とは、資本主義経済が隆盛を極めたひとつの時代においてのみ信奉された徒花に過ぎない。そんな砂上の楼閣のような価値観を賛美し続けるのは、本当に正しいのか。
日本人は、もっと労働以外での存在意義を見い出すべきだ。それは何も、働いていない人を無価値だと攻撃するのがよくないことだから、という道徳的な理由だけではない。自分自身のアイデンティティが、労働のみによって構築されているような仕事人間が、働かなくてもいい状態、働きたくても人間が働く余地のない状態に置かれてしまうと、自分がまるで価値のないからっぽの存在になり下がったように感じてしまうだろう。下手すればそれだけでなく、これまでの人生がまるきり無意味であったかのような感覚に陥ってしまうおそれもある(失業による自殺者の死因の多くはこのようなものではないかと思う)。だから、今現在勤労が美徳であると考えている人達の精神衛生のためにも、「至高性」の見直しは必須なのだ。
 
聞くところによると日本人の遺伝子というのは、世界で最も多種多様であるという。雑多な遺伝子が保持されているということ。このことが意味するのは何か。
それは、ユーラシア大陸や、北方や、南の島々など、様々な場所から移り住んできた日本列島の先住民たちが、互いを殲滅させることなく、共存共栄を図ってきた、ということである。もちろん一切の争いがなかった、ということではない。先に列島に来ていた民族と、後から来た民族の対立はいくらでもあっただろうし、そのなかで不幸にして絶滅への道を辿った民族もいくつかはあったはずである。しかしそれでも、棲み分けなどの工夫によって、列島の住人たちは極力共存する道を選んできた。
また、上に述べたように、日本列島の環境条件・地理的条件(植生が豊かで作物がよく育つ、魚介が多く獲れる等)がたまたま共存共栄を可能にしてきた、という一面もあるだろう。しかし、人間というのは、必要に迫られて争いを起こすのみならず、争いのための争い、純粋に攻撃性を発露させるための争いを起こすような、倒錯した生き物でもある。争いごとを抑えるためには、それなりの努力が欠かせない。日本列島の先住民たちは、少なからずその努力を重ねてきたはずである。
その懸命の模索によって、多様な遺伝子の保持という、今日に至る民族史上の成果があるのだ。それこそが、真に誇るべき日本の美点ではないだろうか。
ヘイトスピーカーや歴史修正主義者は、中国人や韓国人などの外国人を見下し、その文化を野蛮と愚弄し、日本からの排除を主張している。排除によって日本列島が日本人だけになれば「血の純潔」が保たれ、あるべき日本国が、理想国家が出現すると、誇り高き日本国の姿が実現するのだと思い込んでいる。
だが、そんなのは日本を誇ることでも何でもない。それは、共存共栄の努力を営々と積み重ねてきた列島の先人達の成果に、唾を吐きかける行為でしかない。「今そうやって排除の言説を撒き散らしているあなたが、日本に生まれ、日本の国籍を有し、日本人としての権利を行使することができるのは、列島の先人たちが共存共栄の道を選択してきたからだ。あなたはその事実をどう考えているのか」、小生は、そう問いたい。

自分達の美点を確認し、それを誇るのは、悪いことではない。それが人の精神的支えとなるのなら、必要不可欠であるだろう。
でも、みんなそんなに胸を張りたいのかな、と思う。反り返った姿勢で、他人(外国人)を見下している人も大勢いるけど、そんな醜悪な振る舞いでしか精神衛生を保つことができないのだろうか。人から褒めてもらうならともかく、自画自賛というのはなかなかみっともないものだ。手前味噌を飽くことなく繰り返す日本人が、外国人の目にどう映るか、という客観的な視点も持っておいたほうがいいのではないかと思うが。
胸を張る姿勢は、ともすれば他人を見下す眼差しに転化する。プライドというものの危うさ、傲慢さに、もっと敏感であるべきだ。
「たいしたモンじゃございやせん。あっしにゃ自慢できることなどなにひとつありゃしませんよ」。そう呟いて韜晦することはできないのだろうか。要するに、もっと大人になれよ、と言いたいのだ。
人間は誇りがないと生きていけない、なんて嘘だよ。プライドを投げ捨てた、肩肘はらない身軽な生き方だって充分可能だ。
自らは何も誇らず、ひたすらこうべを垂れて低姿勢。誰かに褒められた時は軽くはにかんで受け流す。内輪褒めで悦に浸り続けるよりも、そのほうがずっと見てくれのいい、「大人の国」なのではないだろうか。


オススメ関連本・大澤真幸『可能なる革命』太田出版
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日本人はそれほど優秀な民族なのか・前編

2018-10-12 23:00:51 | 雑文
日本人の「内輪褒め」が止まらない。テレビや雑誌やインターネット、あらゆるメディアで如何に日本人は優れているかといった、自画自賛・手前味噌の言説が溢れている。そしてみな、その風潮に何ら疑問を持つことなく、当たり前のように日々享受している。
小生は、このムーブメントは日本経済の低迷と関連していると思っている。高い経済成長率を維持し、GDPが世界2位だった時期、「政治や文化はダメでも経済がある」と言い張ることができた。経済は、すべての日本人にとって、疑う余地のない自信の拠り所であった。
しかしバブル以降、その経済がダメになってしまった。そこで何か代わりの自慢のタネを、ということで、昔からの伝統や、今までは気にもとめなかった習慣などが美点として再発見された・・・。ということではないか。
自分達の美点を評価することそれ自体は悪いことではない。だが、小生はこの流行に乗っかりたくはないし、全面的に肯定するわけにもいかない、と思っている。現在の日本には、おもに朝鮮人や中国人に対して悪罵の限りを投げつける排外主義者や、歴史修正主義者がいる。彼等もまた、「日本を誇りたい」という願望から出発しているという点では、「内輪褒め」を好む人達と同根である。
日本を誇りたいという意識が、ポジティブに発現すれば「内輪褒め」になり、ネガティブな形をとれば排外主義や歴史修正主義となる。両態はコインの裏表であり、今はポジティブに内輪褒めに浸っている人も、何らかのきっかけで条件が変われば排外主義者に転じるかもしれない。だから、安易に「自国に誇りを持つことは素晴らしい」とは言えないのである。
そもそも、指摘されている日本人の美点とは、正当なものなのだろうか。全部が全部ではないにせよ、まず誇りたいという願望が先にあって、それに添うようにでっち上げられた、無理筋の美点もあるのではないだろうか。今回はそんな、無理筋ではないかと思われる「日本人の美点」を俎上に挙げ、批判を加えてみたい。もちろん日本人を貶めるためにそんなことをしようというのではない。「良いものは良いと認めているだけ」と考えている人には水を差すようで申し訳ないが、ポジティブな内輪褒めが、ネガティブな態にひっくり返る可能性がある以上、いくらかその熱量を下げ、事実を冷静に見つめてもらうことで、排外主義的発露を多少なりとも抑制できるのではないかと思うのだ。
これまで美点だと信じていたものを否定されるのは不愉快かもしれないし、日本、及び日本人のイメージが崩れ去るかもしれない。だが崩れ去った先に、真に理想とすべき国の姿が見えてくるかもしれない。そんな排外主義に結びつかない理想の在り方を提示できないか、というのが本論の目論見である。以上のことを踏まえたうえで最後までお付き合いいただきたい。

まず取り上げたいのが、平安時代の歌人、紫式部の『源氏物語』。これが世界最古の文学作品であるということで、「世界で最初に文学生み出した日本人スゲエ」という内輪褒めの典型となっている。『源氏物語』が世界最古という説には異論もあるようだが、仮にこれが正しいとして、果たしてそれが日本人の優秀さの証拠になるのだろうか。
小生は、そうではないと思う。そもそも、文学が生まれる前提となる基本条件が世界中で共有されていたわけではないからだ。


西洋においては、まずはパピルスと羊皮紙という原始的な形での「紙」がほぼ同時期に登場して、人間に日々の出来事や歴史を記録する手段を与えました。
(中略)
結局、西欧に「紙」が登場したのは12世紀頃のことで、中国から伝来したそうです。今ほど安くはなかったし、羊皮紙ほど保存性も高くはなかったのですが、それでもコスト的な優位性から一気に普及していくことになります。
(中略)
東洋では古くから紙が使用されており、保存性の高い紙染めの技術も早くから行われていました。日本でも国策として700年代には紙漉きが行われていたそうです。そのため、カンバスを作るまでもなく良質な紙が流通しており、屏風は保存のよい状態で刷られて、絵巻物もパピルスなどとは比較にならない美しさと保存性で描かれました。日本の貴族の日記文学がこれほど多く残されているのも、そもそもは同時期の西洋では望めない良質な紙があったお陰です。
(落合陽一『魔法の世紀』PLANETS)


つまりはそういうこと。現代には「紙」という記録媒体は当たり前のように存在しており、それがない世の中を想像することすら難しいくらいだが、「人類の誕生とともに」「世界中どこにでも」紙があったわけではない。地理的・気候的・文化的条件によって、昔から容易に紙が手に入った地域もあれば、そうでない地域もあるのだ。日本列島が紙の手に入りやすい環境にあったのならば、それは文学を生み出す条件上ほかの国に対して有利であった、ということの証明にはなっても、日本人の優秀さの証明にはならないはずだ。紙がない地域では、どうやって記録文学を生み出せばいいのか。
今、「記録文学」と書いたが、『源氏物語』は、世界最古と言っても、あくまで紙に綴られた文学の中での最古に過ぎない。紙に記される以前、文学は、「口承文学」としてあった。
口承文学とは、口から口に語り継がれる、紙ではなく、脳内に記録される文学のことである。おもに神話や昔話、伝承の類であるが、それらは人類の誕生とともに語り継がれてきたものであって、記録文学よりもはるかに長い歴史を持つ(口承文学は「作者不詳」であるのに対し、記録文学は固有名を持った作者がいる、という違いはあるのだが)。
また、記録文学はストーリーテリングやドラマツルギーなどの話型を口承文学から学んでいるはずで、それは言い換えれば口承文学を基盤として生み出された、ということである。ならば、オリジナリティにしたところで、それほど高いとは言えまい。
引用文にあるように、西洋にはパピルスや羊皮紙といった媒体は紙以前に存在していた。それらはふんだんには手に入らないので、一部の選ばれし階級の人々の文字記録として用いられた。
なので、いわゆる「文学」(記録文学)はなかったものの、ホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』といった叙事詩、ヘロドトスの『ヒストリアイ』やトゥキディデスの『戦史』といった歴史書、旧約・新約聖書といった(おもに)神話などは存在していた。それはつまり叙事詩や歴史や神話こそが記録に値する物語であり、口承文学として存在していた『源氏物語』と同水準の物語は記録するにあたらない、と思われていたのかもしれない。あるいは叙事詩や歴史書や神話だけが文学として機能していた、というのが正確であろうか。
だとすると、「『源氏物語』が世界最古の文学作品」というのは、文学の基準を現代の感覚に合わせてごく狭く設定することでかろうじて成立している命題ということになるだろう。

このことは「日本人の味覚は繊細」という見立てとも通底する。鰹節やいりこや昆布を用いた出汁で薄味に仕上げた和食は、微細な味の違いを理解する日本人ならではの産物で、「旨味」の発見は世界に誇る事績である・・・という例のアレ。
日本食の味付けが薄いのは、日本列島の環境下では唐辛子や胡椒のような香辛料の栽培が困難であったから(もしくはそれらの種子が手に入らなかったから)であり、カツオやいりこといった有りもので味付けをせざるを得なかったからだろう。もし日本列島に唐辛子や胡椒が手に入る環境条件があれば、日本食はもっとスパイシーなものになっていたに違いない。その場合日本人の味覚は、刺激の強い味付けを好む、旨味などまるで解さぬ鈍感なものとなっていただろう。
「味覚が繊細」というよりも、「必然的に繊細な味覚になってしまう食文化を送ってきた」というのが正確なところであるだろう。どこの国の人間であっても、ある程度和食に馴染めば旨味を理解できるように、味覚とは、要するに“慣れ”によって形成されるものなのである。だから日本人であっても、激辛料理が好きで、そればかり食べている人は、微細な味を利き分けることができないはずだ。味覚の感度は、民族や人種によって大きな違いがあるわけではない。どのような食習慣を送っているかによって感度は決されるのである。

百円均一で売られている商品の素晴らしさを世界に紹介する、という番組もある。日本人の技術力がいかにすごいか、をアピールするという体裁の番組である。高度な技術力によって製造された商品が、わずか百円で手に入るのは素晴らしい、というわけだ。
確かに、個々の商品に込められた技術自体は優れたものではある。しかし、その商品が百円で流通しているのは、果たしていいことなのだろうか。
極度の低価格、薄利多売によって成立している商品は、製造者に対し、その労力に見合った利益を還元することはない。高い技術力が込められていながら百円の値しかつかない商品は、微細な利益しか製造者にもたらさない。
百円ショップの中には、百円という値段設定が適切な商品もあるだろう。だが、明らかに百円以上で売られていていい商品の場合は、そこに込められた技術力が安く買い叩かれている、ということを意味している。高い技術力を投入しているにもかかわらず、製造者は、その対価を受け取ることができないのだ。
それは、本当に素晴らしいことなのだろうか。労力に見合った収入が得られなければ、製造者はその技術力の維持・向上に努める意欲を損なってしまうだろう。仮にモチベーションだけならなんとかなったとしても、薄給では生活が立ち行かなくなってしまう。そうなれば、せっかくの高い技術も生活の破綻とともに失われてしまう。
高度な技術が込められた商品がわずか百円で手に入るということ。それは、技術を買い叩いているということだ。結果として製造者の経営が成り立たなくなれば、技術は継承されることなく立ち消えてしまう。言い換えれば、高度な技術を食い潰すことによって百円ショップは成り立っている、ということである。また言うまでもなく、工場をアウトソーシングすることで海外の安い労働力を搾取している、という一面もある。
製造技術には、それ相応の対価が支払わねばならない。
もちろんそれは百円ショップだけの問題にとどまらない。かつて世界にその名を轟かせた日本の家電メーカーの凋落には著しいものがある。これらの傾向の原因にはグローバルスタンダードも大きく作用してはいるだろうが、技術力をちゃんと育ててこなかったこと、その対価を支払ってこなかったことも影響しているはずだ。安ければそれでいいという経済感覚は、ジワジワと自らの首を絞めることになってしまうのだ。

(後編に続く)
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