徳丸無明のブログ

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100万人の小泉純一郎――「空気」は死せず

2016-10-25 21:42:42 | 雑文
豊洲市場の地下空間に盛り土がされていなかった問題に関して、9月30日に内部調査の結果を公表した小池百合子都知事は、「盛り土をしないことが段階的に固まって」いき、「いつ誰が」決定したのかを特定できず、「それぞれの段階の中で、空気の中で進んでいった」と述べた。責任の所在が特定できない、という結論であった。
これまでに幾度となく繰り返されてきた光景である。
無責任体質日本社会の結論、「責任の所在がわからない」。
そして、この結論が呼び起こすのが、こちらもやはりうんざりするほど繰り返されてきた役人批判の言説である。曰く、「公務員はなまけものでいい加減だ」。
しかしながら、これは役人だけの問題ではない。空気に支配されているのは役所のみならず、日本列島全域であるからだ。つまり、明確な意思決定を行う主体、いざという時に全責任を負う主体が存在せず、空気の中で帰趨が決してゆく図式は、日本中のあらゆる組織の中に見出すことができるということである。
ただし、親方日の丸は資本主義の競争原理に晒されているわけではないので、そのぶん民間よりはいい加減になりやすい、ということは言えるかもしれない。しかしそれも程度問題というか、50歩100歩だろう。
それに、役人も公務を離れれば一市民として生活しているのである。仕事でおかしなことをしでかせば、それが自らの生活に跳ね返ってくることも充分あり得るわけで、そうそう手を抜こうとは考えないはずだ。仮に自分の生活に影響が出ない範囲の仕事にしたところで、「どうせやるならできるだけ質の高い仕事をしたい」とか、「ミスを少なくしたい」などと考えるのが普通のはずで、役人であっても「給料貰えてさえいればそれでいい。日本社会がボロボロになろうが知ったこっちゃない」という極論を持つほど人格の捻じくれた人物はそうそういないだろう。
また、これはもっと単純に組織論の問題でもある。組織が一定度以上の大きさになると、一元的な意思決定能力を保つことが困難になるのだ。様々な担当部署が設立されて専門が細分化され、それぞれの持ち場で仕事に打ち込む中で、隣で何をやっているかがわからなくなってゆく。ヨコの連携を取って意思の疎通を図ればいいのだが、大きすぎる組織でそれをやろうとすると、意思の疎通を行うだけで膨大な時間を取られ、本来の業務をこなせなくなってしまう。
つまり、どうにかしたくてもどうにもならない、ヤル気ではなく構造上の問題なので、組織外からの批判は、現場の事情を知らない者の能天気な言い分でしかないのだ。

「空気」のほうをもう少し論じたい。
日本社会は空気に支配されている。意思の決定を行い、世論を形作るのは、個々人ではなく空気である。人々は個人の意思を表すことなく空気の読みあいに終始し、もし空気を読もうとしない者がいたら、みんなで寄ってたかって叩いて押さえつける。誰も前に立とうとせず、誰も目立とうとせず、ただひたすら横並びであることを良しとする。
以上がここで言う「空気」なるものの特質、一般的な理解である。
「空気」と言ったときにまず思い起こされるのが、山本七平の『「空気」の研究』だろう。山本は同書で旧日本軍の空気を論じ、明確な意思決定が成されないまま、なんとなくの流れの中で太平洋戦争に突入していった経緯を指摘している。
税金の無駄遣い程度であればまあ、笑って済ませることもできる(それに、「税金の無駄遣い」と言うと、あたかもお金が消えて無くなったかのような印象を受けるが、実際にはお金は国から民間に流れただけであって、消えてなどいない。景気上昇はお金の循環(流れ)によってもたらされるものであるから、税金が消費されることそれ自体は決して悪いことではない)。だが、多くの人命が失われ、国土や文化に甚大な被害が生じる戦争という営為を、なんとなくの流れで引き起こすなど、あってはならないことである。
戦争以外にも、この日本社会を覆う空気によってもたらされる弊害は、これまで散々指摘されているのだが、それでもなお、相も変わらず空気は存在している。なぜだろう。
空気に抗うには、強靭な意志、もしくはある種の愚鈍さが必要である。逆境にもめげずに立ち向かう力、さもなくば逆境を逆境と知覚することのできない愚鈍さによって、人は空気と対峙することができる。
例えるなら、小泉純一郎のごとき人物がその典型である。自民党員でありながら「自民党をぶっ壊す」と言い放ち、反対勢力をものともせずに郵政民営化を実現させた、あの、良くも悪くも空気を読めない(読まない)人物。
しかしながら、小泉ほどの人材はそうそう出てくるものではない。稀少であるからこそ政治史の中であれほどのインパクトを与えることができたのである。(念のために断っておくが、小生は小泉の政治業績を肯定的に評価しているわけではない。彼が空気を読まない(読めない)ことで強力なリーダーシップを発揮できたという端的な事実に言及しているのである)
それに、空気を読まない(読めない)者にできることと言ったら、せいぜい空気を攪拌することぐらいであって、空気を消滅させるまではいかないのだ。
空気を消滅させるには、「空気を読むのはやめようよ」と提言し、共同体の成員すべての了承を取り付けねばならない。言葉で説明すればただそれだけの話であって、理論的には決して難しいことではない。
だが、「出る杭は打たれる」なることわざもある通り、空気を読まない(読めない)行為のみならず、「空気を読むのはやめよう」と主張することそれ自体もまた「出る杭」になることを意味する。
つまり、「空気を読むのはやめよう」と発言すること自体が空気に反しているので、その発言により空気を読んでないヤツと見做された発言者は、出る杭として周囲に叩かれ、黙らされてしまう。ゆえに、発言は合意を取り付けるには至らず、発言者が沈黙を強いられることで空気は再び平穏を取り戻す。かくして、今日も空気は活発に機能している。
これが空気がなくならない理由である。
そして、さらに言えば――この点が特に空気というものの一番厄介な性質だと思うのだが――、仮に日本人全員が「出る杭は打たねばならないというのは思い込みに過ぎない。空気によってそう思い込まされているだけだ。自分の意思ではないから従う必要などないのだ」と理解できたとしても、それでもなお空気は変わらず存続・機能し続けるのである。
これは推測であるが、原理的に考えて間違いないと思う。
「空気によってそうさせられているだけ」と理解できても、「空気を読むのをやめよう」という合意を全体と取り付けないと空気は無くならない。でも、打たれるかもしれないと思うと、誰も合意を取り付ける主体になろうとしない。みながみな「誰か合意を取り付ける主体になってくれないかな」と期待しながら、自らは合意を取り付ける主体になろうとはしない、いわば逆チキンレースのごとき状況が出現するのみである。結局、空気には何の影響も与えることができない。
小泉ですら空気を壊すには至らなかった。首相という、この国で一番社会的影響力の高い立場にありながら、である。
確かに首相といえども、その影響力の及ぶ範囲は限定的であるし、任期も限られている。だから、たった一人の小泉だけでは、一時的に空気を搔き乱すことはできても、空気を消滅させるまでには至らないのだ。
そう、おそらくは100万人の小泉純一郎が必要なのである。
100万人の小泉純一郎が同時に出現し、政界のみならず、財界、法曹界、行政、学界、その他各種民間団体で辣腕を振るい、一斉に日本社会の空気を搔き乱すこと。それによってしか空気を消滅させることはできないのだと思う。
小生のこの推論が正しいとしよう。そうすると、そこから導き出される方策は次の2つである。
いかにして100万人の小泉純一郎を生み出すかに官民挙げて取り組む、というのがひとつ。もうひとつは、100万人の小泉純一郎など理論的に望むべくもないと断念し、今後も日本社会の空気は存続し続けることを前提としたうえで、それによってもたらされる弊害を最小限度に抑える術を計量的に考えるか、である。
小生は、後者しかないと思う(100万人の小泉純一郎を生み出すことは可能だ、と言う方がもしおられたら、ぜひその法をご教示いただきたい)。
それに、ここまで空気は有害無益でしかないかのような書き方をしてきたが、必ずしもそういうわけではない。物事には何でも一長一短があるように、空気にも長所はある。
世界からたびたび称賛されている、日本人が礼儀正しく、ルールをよく守るという点がそれである。横並びを旨とする空気の下では、ルール遵守が第一条となるからだ。
なので、空気を消滅させてしまうと、この長所までもが同時に失われてしまう。だから、空気を無くすのではなく、空気によってもたらされる害悪をいかに最小化するかに取り組むほうが遥かに建設的、かつ現実的だと思う。(ただし、この空気の長所にも注意が必要である。何らかの拍子に空気が反転し、「ルールを守らないのが空気に従うこと」になってしまう場合があるからだ。一人がゴミを捨てたのをきっかけに、皆一斉にゴミを捨て始める、という現象がそれに当たる)
では、その方法はどのような形をとるのか、と言うと・・・・・・。申し訳ないが、小生にはそれについての具体的なアイディアがないのである。
それに、これはおそらく各組織ごとの形状に応じて設計せねばならないものであり、一元的・汎用的な「これ」という方策はないのだと思う。
本当に申し訳ないのだが、小生に言えるのはここまでである。
後はおのおの各現場で試行錯誤していただきたい。


オススメ関連本・柄谷行人『日本精神分析』講談社学術文庫

愚痴から始まる現代思想批判のようなもの・後編

2016-10-18 21:23:51 | 雑文
(前編からの続き)

小生自身の言論の出発点は何かと言うと、「ワクワク感」である。マンガ描いているのも同じ動機からなのだが、頭の中であれこれ想像(創造)するのが好きで、その中から公開に値するものを選び「すごいこと気付いちゃったよ、聞いて聞いて!」と呼びかけることで、自分のワクワクを共有してもらいたいと思っている。
第二の動機は、先に述べた「より良き社会をもたらすため」である。面白がって好き勝手書き散らしているわけだが、それが少しでも世の役に立てればと思っている。
「社会のため」よりも「ワクワク感」のほうが動機として先行しているというのは、不純というか、いい加減に聞こえるかもしれない。面白いか、面白くないかが判断基準となってしまうのだから。だが、「ワクワク感が第一の動機」というのはあながち悪いことではないと思っている。
なぜなら、いい加減さは思想から適度な距離を取ることができるからである。
距離を取ることで、己の思想に入れ込むことなく、冷静に眺めることができる。それは、内省的な視点を持つことができるということであり、自己批判という節度を保つために不可欠な要素である。
翻って、真剣に言論を行っている人は、自身と思想との距離が近い。中には距離が0の人もいる。これはつまり、思想が自分自身になっているということである。
この手の人々は、とかく頑なになりがちである。思想が自分自身ということは、思想の誤謬を指摘されることが、イコール自分が傷つけられることになってしまう。なので、傷を負わないように、真剣に思想を守り通そうとする。
対して小生は、自分の思想など、より良き社会をもたらすための手段に過ぎないと考えているので、もし、自分の思想と対立する思想のほうがより社会に資すると了承されれば、過去の自分の思想など、ドブに捨てても構わないと思っている。
真剣に言論を行っている人は、なかなかこうはいかない。
そして、最大の問題は、自分の思想を第一とする人のそれが、社会の行く末を左右するほどの大きな利益に反する事態に陥った時に生じる。
自分の思想を曲げなければ、社会全体の利益が損なわれてしまう状況に立たされた時、彼等は一体どうするか。それは、自分の思想を堅守するために、社会の利益を毀損する方を選ぶのである。
とんでもない話だが、このようなことは実際に数限りなく行われている。しかも、その手の人々は決して少なくない。いや、むしろ現代においては多数派と言った方が正確かもしれない。
また、問題が生じるのは「思想を守るか、社会を守るか」の二者択一の場面のみに限られない。通常の言論の場においても問題は生じうる。
頭の良さを示す方法は多々あるが、手っ取り早いのは他人を批判し、いかにそいつが愚かであるかを立証する法である。ゆえに、頭の良さを示すことを最大の目的とする人は、自分の思想を組み立てるよりも、他人のそれを批判することを優先する。つまり、攻撃ばかりしているのである。
ただし、批判と言っても一様ではない。建設的な批判もある。
哲学用語の中に、「止揚」という概念がある。
ひとつの命題に対して反命題を立て(批判)、それによって命題を高次の段階に押し上げる、というものである。つまり、命題を彫琢することでより優れた理論に仕立て上げるか、あるいは元の形とは違うより優れた命題に生まれ変わらせるか、の営為のことを指す。
この批判は有益である。相手の知性を認めたうえで、「協力してより良き思想をもたらしましょう」という協調姿勢がみられるからである。
相手の知性を認めるというのは、相手に敬意を払うということでもある。
では、非建設的な批判とはいかなるものか。
それは、相手に一切敬意を払わず、命題を完全に破壊することを目指す批判である。
批判相手がどれだけ愚かであるかを証明すればするほど、相対的に自分は賢いということになる。頭の良さを誇示したい人にとっては、これが一番手っ取り早い。自分で命題を築くよりも、他人のそれを攻撃する方が労力が少ないのである。
また、破壊的な批判を見世物として好む人もいるので、彼等のパフォーマンス(批判)はそれなりに需要がある。批判が激しければ激しいほど、命題の破損具合が高ければ高いほど、パフォーマンスを見学している観客は拍手喝采を送る。
しかし、あとに残されるのはただのガレキの山である。そこには社会に資するものは何一つ残されていない。
批判している当人にしてみれば、有害な対象を駆逐しているつもりなのかもしれない。「俺は言論界の汚れを洗い落とす掃除人なのだ」と。
でも小生は、「せっかく知的労力を使うのであれば、壊すよりも築く方に使えばいいのに」と思わずにはいられない。
思想家の内田樹は、『困難な成熟』の中で、現代の日本人が全体として知的に不調であると指摘し、その対処策として「僕たちに立てられる有効な問いは「どうして私たちはこんなに頭が悪いのか?」という問いだけです」と述べている。これを至言と呼ばずして何と呼ぼう。


自分が選択したこと、自分がやっていること、自分が考えていることの適切さについて第三者的、価値中立的な視点から吟味できないことを僕たちは「頭が悪い」と言います。そして、第三者的、価値中立的な視点から自分自身の推論や判断を吟味するというのは、言い換えると「自分の頭の悪さを点検する」ということなのです。
つまり、「頭の悪さ」と「頭の良さ」を分岐するのは、「自分はもしかすると頭が悪いんじゃないか?」という自己点検の装置が起動しているか起動していないか、それだけの違いなんです。
(内田樹『困難な成熟』夜間飛行)


上記の内田の発言は世代間格差論の文脈から出てきたものではあるが、現代思想に対しても充分当てはめることができる。
論壇紙に寄稿したり、単著を発表したりしている言論人にせよ、ブログにあれこれ好きなこと書き散らしている一般人にせよ、「自分はどうして頭が悪いのか」ではなく「誰々はどうして頭が悪いのか」を証することに躍起になっている。そして先程も述べたように、この手の人々は、現代日本においては多数派を占めているのである。
つまり、みんながみんな築くことより壊すことに汲々とし、ガレキを大量に生み出しては「どいつもこいつもバカばかりだ」と嘆息しているのである。自分で不毛な言論状況をもたらしておきながら、その不毛さを嘆いていれば世話はない。
小生は上から目線で「嘆かわしい」と言えるほどの人物ではないのだが、それでもため息の一つくらいはつきたくなる。
では、この状況を変えるにはどうしたらいいか。
たとえ耳を傾けてくれる人がいなくても、少しでも声が届くことを信じて呼びかけ続けなければならないだろう。
「ねえ、もう壊してばかりはやめようよ」
・・・・・・いや、違う。こんなことを言いたいんじゃない。本当に言いたいのは・・・・・・。
「俺のブログをもっと見てくれーっ。もっと多くの人に見てもらいたーいっ。人気ブロガーになりたーいっ」
・・・・・・ってことなんだよ、うん。

愚痴から始まる現代思想批判のようなもの・前編

2016-10-17 22:02:22 | 雑文
ブログを始めて一年が過ぎた。
そこそこ読んで頂けているようだし、記事をシェアして頂ける割合も増えてきた(ありがとうございます)。
だが、訪問者数がほとんど増えていない。ちょっと増えたかと思ったら減ってを繰り返し、一年間を通して眺めれば「微増」といった程度である。
悪くはない。悪くはないが、物足りない。もっともっと多くの人に見てもらいたいのである。
自分では質の高い記事を提供できていると思っているし(個人の感想です)、マンガという、みんなが大好きなコンテンツを含んでもいる。なのに、訪問者数が伸びない。何故だろう。
過去記事の中の自分の主義主張を、思想の座標軸に位置付けてみると、左側に寄っているのがわかる。とすると、小生は左翼と見て取れる。
左翼は今、流行らないのである。ネトウヨが台頭し、その対抗勢力が存在せず(「右翼」に対して「左翼」があるにもかかわらず、「ネトウヨ」に対する「ネトサヨ」はいない!ネトウヨは本来的な右翼から嫌われてはいるものの、その存在は、現在の右翼の裾野の広さの表れと言えるだろう)、また、論壇の世界においても、若手の言論人はほとんど右ばかりで、左は乏しいらしい。
左は今、流行らない。だから訪問者数が増えない(炎上されてもいいから増えないかな、と思ってしまう)。
だからまあ、もっと読んでもらうための方法は、わかってはいるのだ。「朝日新聞は売国奴だ」とか、「朝鮮人は劣等民族だ」とか、そんなことを書けばいいのである。実に簡単だ。難しいことなど何一つない。
でも、そんな記事にどれほどの意味があるのだろう。
書き手と読み手が罵詈讒謗によって一時的に留飲を下げる働きしかなく、建設的な何かをもたらすことなど皆無に等しい記事に、どれほどの価値があるのだろう。
だから小生は、数を稼ぐためだけ、目先の利益のためだけに記事を書くことをしない。そんなことをするくらいなら、少数の人にしか見てもらえなくても、社会的な価値のある記事を――実際にそうなっているかどうかはともかく、方向性としてはそのような記事を目指して――書いていきたい。
話は少しずれるが、ついでだからもうひとつ。
中国や韓国で事故や災害が起きると、「ざまあみろ」と言う人達がいる。
当人からしたらそれは「当然の報い」ないしは「天罰」であり、彼等の主観においては同情の余地などないのだろう。
だが、中国・韓国に「ざまあみろ」と言い放つことを良しとするならば、日本で事故や災害が起きた時に、中国・韓国から「ざまあみろ」と言われることを甘受せねばならなくなる。「ざまあみろ」の応酬は、あまりに悲しい。
傷付き打ちのめされている時には、助けが必要である。救いの手を差し伸べてもらうには、こちらも救いの手を差し伸べる用意があると示すか、あるいは(そして望ましくは)こちらから先に救いの手を差し伸べねばならない。必要なのは救いの手であり、中傷ではない。
日本人同士で助け合えばいいって?日本人全員が傷付くような事態が発生したらどうするんだよ。それに、中国や韓国に「ざまあみろ」と平気で口走るような人は、ほっといたら同じ日本人に対しても、気に食わないと思ったらやはり中傷を行うだろう。だから「ざまあみろ」には、「やめろ」と言わなければならない。
話を戻す。
先に「自分の主義主張は左に寄っている」と書いた。しかしながら、小生は自分自身を左翼だとは思っていない。では、自覚的には右翼なのかと言うと、そういうわけでもなく、また中道でもない。
それでは、どのような政治的立ち位置を自認しているのかと言うと、そもそも、「右翼」とか「左翼」とかいう区分がどうでもいいと思っているのである。
言論というものが何のためにあるのかと言うと、「より良き社会」をもたらすためにある。「より良き社会」が目的であって、言論はあくまでそのための手段である。
しかし、そうは考えていない人達がいる。自身の知的体系を要塞のごとく高く高く築き上げようとする人達である。彼等は、知的に無謬であることを最上の目的とし、自分が如何に頭がいいかを証明するために、日々たゆまぬ努力を重ねている。
己の優秀さを示すための手っ取り早い方法は、対立する意見を持つ者を批判することである。対立者が如何に愚かであるかを示すことは、同時に自身が優れていることを示すことにもなるからだ。
なので、この手の人々にとって、左右の帰属は重要な関心事となる。相手が同翼に属していれば同胞として遇さねばならないし、逆に対翼であるなら交戦を挑まねばならないからだ。
小生は、思想なんていうのは手段に過ぎないと思っているので、「対立する意見の持ち主であってもより良き社会を実現したいと考えているのは同じなんだから、協力する所は協力して仲良くやっていけばいいじゃない」と思うのだが、そんな言い分は彼等には通じない。
彼等は小生とは逆で、社会のことを第一に考えているフリをしながら、その実自らの思想を完璧なものにすることを最優先している。つまり、手段と目的が逆転しているのだ。
平たく言えば、彼等は威張りんぼである。「どうだ、オレ様は頭がいいだろう」。彼等は常にそう言っている。
頭がいいと証明したい。頭がいいと認められたい。それが彼等の最大の目的である。

(後編に続く)