徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

良いお年を

2015-12-31 18:42:28 | お知らせ
みなさん、こんにちは。
特に話すほどのことはないのですが、一応大晦日ですので、形ばかりのご挨拶をば。
9月にブログを起ち上げ、はや3ヶ月半。でもまだルーキーですね。
前回、10月25日の「お知らせ」の中で、「読者登録してくださっている方には、厚く御礼申し上げます」と書いた時には、登録読者数は4名だったのですが、これを書いている今現在で、お陰様をもちまして18名になっております。いや、本当にありがとうございます。しかし、読者数が増えたにも関わらず、一日あたりの訪問者数はさほど変化がないのですよ。まだまだ精進が足りないということでしょうか。
あと、当ブログは、にほんブログ村に参加させていただいておりまして、そちらの社会思想部門で、今月の7日に、初めて1位になりました。と言っても、全部で36ブログしかないのですが。いずれにせよ、バナーをクリックしてくださった方には、改めて感謝致します。よろしければまたクリックをお願いいたします。一回カチッとやるだけですからね。
にほんブログ村及び人気ブログランキングには、10月から参加しており、人気ブログランキングは人文(全般・その他)部門に属していたのですが、12月からは、にほんブログ村は、オリジナル漫画部門、人気ブログランキングは漫画・コミック部門の方に、それぞれ掛け持ちで参入させてもらうことになりました。4つの集団に属しているわけで、それぞれ頑張っていきたいと思っています。
話は変わりますが、今回の年末年始も、忠臣蔵のテレビ放送は行われないようですね。『忠臣蔵と日本人』で展開した自説の確信が、ちょっとだけ深まりました。
一年の終わりということで、来年の目標なんぞを掲げさせていただこうかと存じますが…。
やはり、さらなる読者様の獲得、それと訪問者数の増加。これは当然目指さねばならないでしょう。そして、あわよくば………ブログの書籍化!
甘い夢ですかね?
でもまあ、少なくともブログを止めずに続けていくようにはしたいですね。一年後もまた、こうしてご挨拶ができるように。
それでは、良いお年を。

『RIZIN』15・12・29観戦記

2015-12-30 22:16:42 | 雑文
残ってましたよ、格闘技熱。PRIDEの曲を引き継いで使っていたので、「ああ、これこれ」と、感覚が蘇ってきました。

高坂剛VSジェームス・トンプソン…サクちゃんの次に嬉しかったのがTKの復帰。でも、相手がトンプソンと聞いて、「それってどうなのよ」と思ったけど、復帰戦の相手としてはちょうどよかったのかも。てっきりテイクダウン狙いで行くのかと思ってたら、打ち合いましたね。いいぞ、TK。次はヒョードルだ!

所英男VS才賀紀左衛門…あびるがうるさかった。

石井慧VSイリー・プロハースカ…石井は「60億分の1」の夢をまだ捨ててなかったのね。それは嬉しい限り。でもやっぱ、体格差っていうのは如何ともしがたい所があるよな。「石井に期待したいんだけど、期待できない」というジレンマは、いつまで続くのだろうか。

桜庭和志VS青木真也…青木は何故かくも嫌われるのか。「性格悪い」って言われるけど、それならミルコ・クロコップはどうなんだろう。ミルコもだいぶ性格悪いと思うけど、一時期すごく人気あったよね。不思議。
あと、「平気で骨を折るから残酷」とも言われるけど、そもそも格闘技というのは、相手を破壊する行為なわけで、みんなその点覚悟して参戦してるわけでしょ。ユン・ドンシクが、桜庭から、「試合に勝つには、相手を殺してやる、くらいの気持ちで望まないとダメだ」とアドバイスされた、と語っていたが、そういう世界なんだよね。だから、廣田瑞人戦の時の、前田日明の「軍隊行け」発言は、的外れだったと思う。
試合前のインタビューで、青木が、桜庭のことを何度も“彼”と呼んでいたのが印象に残った。年上、しかも同じ世界の先輩に対する呼称としては、少し失礼に聞こえるが、青木の、桜庭を乗り越えなければならない、という決意の表れのように感じた。
サクちゃんのファンは、ゼルグ・“弁慶”・ガレシック戦のことが頭にあったと思う。「勝つのは難しいと思うけど、でも桜庭ならあるいは…」って。
ひたすらパウンドくらい続けて決まっちゃうのが、いかにも現実突きつけられた、って感じ。かつて一世を風靡した男が、何も出来ずに敗れた、というのも、格闘技史のひとつの転換点として、のちのち語り継がれることになると思う。サクちゃんにはグラップリングマッチをやってほしいです。

変転するコミュニケーション

2015-12-23 17:47:41 | 雑文
今回は『身体で話し、身体で聴く』の補足。
前回の論考の中で、コミュニケーションは、大別して言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションからなる、ということ、そして、非言語コミュニケーションは、「発話に伴う、声の高さ・速さ・調子などの、言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーション」と、「表情、仕草、相手との距離のとり方、スキンシップ、服装、髪型、所有物、体臭などの身体言語」に二分できることを述べた。それから、コミュニケーション全体に対する「言語コミュニケーション」と「言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーション」と「身体言語」の割合は、7対38対55であると紹介した。
この投稿を行った後に、岡本真一郎の『言語の社会心理学』を読んだところ、たまたまこのコミュニケーション比率の話が出ていた。それは、上記のコミュニケーション比率を否定する内容であった。
岡本によれば、この比率は、メーラビアンという研究者の実験結果に基づくもので、それは「特殊な実験状況で得られた結果」によるデータであり、必ずしもコミュニケーション全般に当て嵌るとは言えないという。
そうなんだ。
「安易に意見を変えすぎだ」と思われるかもしれないが、これを聞いて、次のことを考えた。
「言語コミュニケーション」と「言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーション」と「身体言語」という、三態のコミュニケーションがある、というのは事実として、それぞれの比率は極めて流動的なのではないか。
世の中には、いろんな人がいる。寡黙な人、多弁な人、人を見かけで判断する人、見て呉れを重視しない人。どのようにコミュニケーションをとるか、コミュニケーション三態のうち、どれに比重を置くかは、人それぞれ違ってくる。
とにかく、発せられた言葉だけで相手の全てを判断する人もいれば、言葉の裏に隠された本音を読み取ることを第一とする人もいる。
だから、人それぞれ、コミュニケーション比率は違ってくる。
そして、もっと言えば、この人それぞれのコミュニケーション比率は、決して固定的なものではない。例えば、「Aさんのコミュニケーション比率は、25対40対35」と明記できるわけではない。
「気の合う者同士なら、言葉がなくても分かり合える」という事実があるように、誰を相手にしているかによって、コミュニケーション比率は変化するだろう。のみならず、時と場合によっても左右されるだろうし、同じ相手と、同じ場所の同じ場面でコミュニケーションをとる場合でも、体調や気分が違えば、いくらか比率に変化があるはずだ。
三態のコミュニケーション比率は、固定的なものではないのである。
ま、よくよく考えれば当たり前のことだわな。
データとか、学者の先生の言葉とかに惑わされず、普段取り交わしているごく普通のコミュニケーションを眺めてみれば、簡単にわかることだ。
小生は、些か権威に目が眩んでいたらしい。
なので、『身体で話し、身体で聴く』には、部分的な誤りが含まれていることになるが、全体的な内容を損なうほどではないので、そのまま掲載することにした。
で、この考えを応用すると、他人とコミュニケーションをとる際に、相手がコミュニケーション三態のどこに重きを置いているか、相手のコミュニケーション比率はどうなっているのか、を見抜くこと、言うなれば「メタ・コミュニケーション」に配慮することが、良好なコミュニケーションを築くための、有効な手立てと言えるのではないだろうか。
以上、新しく思い付いたこと、追記とさせていただく。