すべてはうまくいっている

EVERYTHING IS GOING WELL

心がざわつくコミュニケーション

2013年01月08日 | コミュニケーション
以下のことは、相手の中に自分を見て、心がざわついてしまったのかもしれません。

僕の話を聞いてくれる人で、とても反応が大きい人がいます。
「そうそう!」
「う~ん、うん!」
「それって○○○よね~」(オウム返し)

話をわかってくれたのかと思って、「あの件どうなった?」と後で聞いてみると・・・、
「え?それって何?」の表情。
わかってくれてなかったんだ・・・。

その人がしたミスをフォローした時、
ちょっと問題を被ったのでそれを指摘した時、
とても明るく「ありがとう~」と言われ、複雑な気分になる時があります。
本当は初めに、「ごめんね」っと言ってほしかった・・・。

なんでも、「ありがとう」「ありがとう」という人がいます。
「ありがとう」という言葉自体は素敵な言葉です。
会話の最後に意味の繋がりもなく、「ありがとう」と言うので、会話が不自然になる時があります。
なんとなく「ありがとう」の言葉が記号的に聞こえてしまう・・・。

くだらない話に大笑いをしてくれたと思って、ふと相手の顔を見たら、無表情な相手の顔・・・。

僕もいっしょにいるのに、別の人に(たいがい目の前の座っている人に)、なぜか僕への質問をたずねる。
僕に聞こえるように裏メッセージを投げかける。
僕はすぐここにいるのに・・・。

「この人は気持ちを理解してくれようとしている」とわかった時に、人の心は癒されます。
そして人間関係が出来上がります。
逆に相手の言動が、気持ちを無視しテクニックや形だけだと思った時(誤解してしまった時)、不信感を持ってしまいます。

自分にとって大切な話、大切な人の話を聞くときには、聞き上手になんてならなくていい。
テクニックなんて、それを知っている人からみれば、幻滅でしょう。


「真剣に聴いてくれている」
「理解しようとしてくれている」
ただその想いを感じたい。

コミュニケーションはそこから始まります。

干からびていないだろうか?

2011年02月19日 | コミュニケーション
「このがざりは、ぢぶんでつくった2がつのがざり。」

意味不明なこの言葉。
最近、息子が工作で作った絵の中の文章にありました。
でも、作品にはとても明るいエネルギーがあります。

息子は工作好きです。
幼稚園だけでなく、家でもいろいろなものを作ります。
我が家の壁は息子と娘の絵や工作品でいっぱいです。

時々、ドキッとするメッセージがあります。
メッセージのなかに、「大丈夫だよ」とか「いつもありがとう」とあります。
意味不明な言葉もありますが、伝えようとする、熱い想いを感じます。

子供は、コミュニケーションの天才です。

日常の会話で、息子は、僕の言葉を一生懸命聞いてくれます。
「なに?なに?」
おもいっきり僕に向かってきます。
彼なりに納得するまで、僕を離してくれません。

昨日も子供たちにおみやげをあげたら、「キャ~、ヒャ~」と喜んでくれました。
「ヒャ~」がたまりません。

子供のコミュニケーションにはエネルギーがあるのです。

その反動でしょうか?
なにか、「大人」の会話には、時々干からびたもの感じてしまいます。

僕が、「~~なんだよね。」と言う時、
相手は「~~なんですね。」と返してきます。
時には「え~、それって~~なんだ!」と大げさに返してくる。
(でも言葉は、何か上滑っている感じ。届いてこない・・・)

いわゆる会話のセオリーなのかもしれません。
『バックトラッキング』『ペーシング』『ミラーリング』そんなテクニック。
「大人」の世界では、よく見られる会話の風景かもしれませんね。

冷静になった時、他人を通して自分を振り返り、冷や汗をかいてしまいます。
子供たちとガチンコのコミュニケーションをとっていると、
そんな「大人」たちとのコミュニケーションがまるで、
台本を通した「コミュニケーション」のように感じてしまうのです。

会社で挨拶をしても、言葉は元気でも、目は合わせず、相手を理解しないひとが殆どです。

「うんうん」と相槌をうつ相手。
さぞ自分を理解してもらったの思って質問すると、相手の目は泳ぎ、なぜか自分の案件を話し出す。
悲しい気分になりながらも、お互いに忙しいから、それはそれでコミュニケーションは流れていく・・・。

なにか干からびていないでしょうか?

想いはどこにいってしまったのでしょうか?
会話の行間には何も、意味がないのでしょうか?

「大人」が盛り上がる話題は、愚痴・悪口・噂話。
確かに面白い(汗)。

でも、その影響は、何倍にもなって自分に返ってくることは、
潜在意識をちょっと勉強したことがあるならば、だれでもわかるはず。

どんどん干からびていきます。
熱いエネルギーがなくなっていきます。
おじさん、おばさん、まっしぐら。
僕自身も、ふとした時、その罠にはまりそうになり、どきっ、とします。

これは、僕と僕の周りの世界だけなのでしょうか?

でも時々、大人に出逢い、感動する時もあります。
大人は、います。 

「時代」に夢を感じられなくなっているのは理解できますが、それぞれの世界には、夢を感じていたい。想いを持ち続けたい。

神様!
僕の世界の中に、子どものようなエネルギー、みずみずしさをとり戻させてください!
僕が、もし干からびた会話をしてしまったら、それを不快に感じますように・・・。
みずみずしい気持ちが、大人のなかにも広がっていきますように。

「ぎっど、あづいおもいが、あるだから。」

プレゼント

2008年11月30日 | コミュニケーション
「相手を説得する方法」
「自分の考えを効果的に伝える方法」
「できる人の切り返し術」
「相手の心を絶対に動かす方法」
「ノーという相手をイエスを勝ち取る技術」
僕は交渉にかかわる仕事をしているので、こんな本ばかり読んでいました。
(なんか、キモイなぁ。というより、よくやるよ、てな感じ。)

でも、本当に親しい友人や家族と話す時にこんなテクニックは使いません。
自分の考えを通して、無理に相手を説得してもお互い楽しくありませんよね。
疲れるし。

少し、告白。
僕の心の深いところには、「自分を理解して欲しい、わかって欲しい」という思いがあり、それが自分の日常の意識や言動と分離していました。
心の深い所にあるさみしさがあったのです。
だから様々なコミュニケーションの「テクニック」を求めていったのかもしれません。

今日、子どもたちと公園で遊びました。
とてもいい天気で太陽がまぶしく、そこで遊ぶ子供たち、大人も一人ひとりがキラキラしていました。
子供たちと一緒に遊んでいる時、お互い溶け合っているというか、子供とつながっている感覚になりました。
(ただ、自分が子供に戻っただけかって?)

遊びながら話している時、深い所につながっている感覚になります。
これって、自分が子どもの時に親との間で感じた感覚なのかもしれません。
相手に本当につながる時、コミュニケーションにテクニックなんて必要ありません。
(そもそも、子どもにテクニックを使おうっても、通じません。すぐマネされるし。テクニックで返される。これって、結構コワイ。)

自分と目の前の子供たちは違う人間。
目の前の相手と自分は、ベタな表現だけど、オンリーワン。(うわ、ベタベタ)
かけがえのない人間。スペシャル。(うわ、そこまで言う。)
そえぞれの中にしかないものがある。
相手と本当につながっている時、それらを瞬間的に感じています。(感じちゃうんだなぁ、これが。)

誰かとコミュニケーションをとる時、その人にしか聞けない何かがあるのです。
その人にしか表現できない何かがあるのです。
人はそれぞれ違うのだから。
本当にコミュニーションしている時、想いの交換をする時、自分の考えが正しいなんて、どうでもいい。
相手の人の中にある特別なものを、その人の体験を、気持ちを、自分は感じてあげられるのか、理解してあげられるのか、それがコミュニケ-ションしている時だと思います。

それができた時、相手が自分をスペシャルと思ってもらえた時、自分の思いも伝わります。相手とつながります。
だからこそ、相手も自分も理解してくれます。わかってくれるのです。

コミュニケーションを考える時、双方向と言いながら、フォーカスされるのは、たいてい、「いかに自分の考えを伝えるか、相手を説得するか」です。

「まず自分の話をきいてくれたら、あなたの話をききましょう。」
「まず自分のリクエストをきいてくれたら、あなたのリクエストをきいてあげましょう。」
「自分を愛してくれたら、あなたを愛しましょう。」

オレが、俺が、私が、自分が。うりゃ~!!!(意味不明)

時には、批判・文句・脅しといった外的コントロールを使い始める場合もあります。
相手が話している時、うなずきながらも、本当は次に自分が話すことを考えていたりね。

正直、僕はどれにも当てはまっていたかもしれません。(しかも巧妙に)
自分も、やさしく穏やかに外的コントロールを使っている時がありました。

でも、本当に大事な人とのコミュニケーションではどうでしょうか。
相手をコントロールすることに何の意味があるのでしょうか。

僕は、子供たち、家族、友人と過ごす毎日で、「わかってもらっている」ことを思い出しました。
わかってもらっていると感じる時、安心感に満たされます。
心の底でつながっているという感覚です。

それは、別にやさしい言葉だけをくれる人ではありません。
厳しい言葉だって、大切な関係ではあります。
かけがえのなさ、スペシャルな感覚を持てること。
(うわ~、こんなきれい事をいって・・・。でも本当。自分の表現力がもどかしい)

そんな感覚である時、自分の正当化の「箱」には入りません。
相手をモノだと思うとき、そのようなコミュニケーションはできませんから。

心の深いところでつながれる人。
大切な人。
僕にとっては、命の次に大切なものかもしれません。
家族、友人は、僕にとってはそれだけでギフトです。
あなたは、あなたにしか担えないものがあると本気で思っています。信じています。

今日は僕の誕生日でした。
僕のブログを読んでくれて、理解してくれて、
想いの交換をしてくれるあなたの存在は、とてもとても大切なプレゼントです。

ありがとう。

ドッジボール

2008年09月24日 | コミュニケーション
今日、上司とドッジボールをしてしまいました。
とはいっても、小学生がやるようなボールをつかったドッジボールではありません。

コミュニケーションを表現するとき、キャッチボールに例える時があります。
相手が受取りやすいようにボールを投げる、そして受け取る。
キャッチボールしやすい距離感で、スピードで。

今日の上司とのコミュニケーションは、明らかにドッジボールでした。
相手のことを考えず、自分の球を相手めがけてぶつける。
相手を理解するより、相手に理解させようとする。
この上司とは、もう何年も同じことを続けています。
今までは相手から自分にボールを当てられているといつも思っていましたが、本当はそうじじゃないかもしれません。
キャッチボールをする態度を僕が示していないのかもしれません。

アイ(私)・メッセージを伝えているつもりが、気付かないうちに、言い訳、自己正当化になっていたのかもしれません。
気付かないうちに、僕の投げるボールが変化球や速球になっていたのかもしれません。

こんなにコミュニケーションの勉強をしてきたのに、言いたいことの半分も言えない時、伝わらない時、さすがに悲しくなります。

「この気持ち伝えたい」

僕がこんな気持ちをもつ時、誰かにたいしても同じ気持ちを持たせているのかもしれません。

コミュニケーション能力の向上。
僕が、今、立っている場所にいる理由の一つは、これを学ぶためだと思います。

上手に表現すること

2008年09月20日 | コミュニケーション
出張中毎日、初対面の人と交渉をしていると、コミュニケーションがとてつもなくうまい人と出会います。
自分をオープンにすることと、それをうまく表現することが優れている人。
自分のいい所も良くないころも分かっていて、それを受け入れていること。
そしてそれをとっても上手に表現できること。
論理的に、そしてユーモアをもって。
そんな人と泥臭い価格交渉をしていても、後腐れがなくていい。気持ちがいい。

グループで出張していると、コミュニケーションがうまくいかないこともあります。
まず相手を理解しようとしないことだったり、自分を正当化しようとするためだったり。
自分もそんな時があります。
僕の場合は、たいてい相手の評価を気にしてしまうこと。

権限を持った「口うるさい」人に対して、黙ってしまうことが結構あったりします。
完全に相手世界に引きずられます。

「口うるさい」人は独裁主義に陥り誰の話も聞かなくなります。
周りからどんどん人がいなくなります。
そんな人を見て、かわいそうな人だと思うこともありました。
でも同じように、いやそれ以上に、権力を振りかざして怒る人の前で何もいえなくなっている「弱い」自分が、本当は哀れだと思います。

「口うるさい」人はある意味正直に自分を表現しているのかもしれません。
自分の望みをある意味かなえています。
受け取らなければならないダウンサイドも確かに大きいですが。

本当の自分自身を受けいれる事。
相手を理解し、自分自身を上手に表現すること。
僕にはまだまだ修行が必要なようです。

相手は何を信じているか。

2008年08月12日 | コミュニケーション
「人は、見かけによらないよ。」
「その人が、何をしているか見なければならないよ。」

人を見抜く時の戒めですが、最近、これが通用しません。
パフォーマンスに長けている人が多くなりました。
何をしているのか見ることは必要不可欠ですが、十分ではありません。

さらに、何が必要なのでしょうか?

カウンセラーの友人から学びました。

対話です。
とことん聴くことです。

結局は、その人は何を信じているのか知ること。
それを知ることで、すべてが動き始まります。
アドバイスもできます。

道はいくらでもあるのです。
でも、目的地を聞かなければ、アドバイスはできません。

スピードの時代では、それが難しい。
雑談をする時間も、あまりありません。

実際は、よけいに対話が必要なのです。

言葉にならない言葉を聞くことが大切になります。
それは、とことん聴かなければでてきません。

「きらい!」と言っていても、ただ好きと言えない状態だけかもしれません。
「尊敬していますよ」と言っていても、その場をしのぐだけの言葉かもしれません。

また自分で自分の本質を言葉にすることは、あまりありません。
意外と本人が分からないことも多いのです。

まずは聴くこと。
とことん。

「この人は、何を大事に思っているのだろうか?」

あなたは、大切な人の話を聴いていますか?
とことんと。

あなたが信じているものが大切なように、
あの人が信じているものも、大切です。

目の前の人を、弱い、感じやすい、感情的な、同じ人と思えるかどうか。
モノではなく、同じ人として。

そう心から正直に思える時、心に平和が訪れるのです。

(すいません、友人からの受け売りです )