玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

ロシア的人間

2019-10-19 17:08:07 | Weblog


大変厳しい時代に入ったことを昨今の自然災害、世界情勢から否が応でもわかってくる。そんな中、こういう時代を生き抜くのはどういう人たちなのだろうかと考えた時、すぐに浮かんできたのがプーシキンに代表される”ロシア的人間”である。プーシキンとは19世紀のロシアの詩人で、この人からロシア文学は一挙に世界レベルに達したと言われ、その後ロシアからは錚々たる文学者を生み出すことになる。

”ロシア的人間”とは今のロシア人そのものを指すだけではなくて、あくまでのその気質、資質のことである。体質といってもいいかもしれない。その”ロシア的人間”を井筒俊彦先生の正に『ロシア的人間』から多くを学びます。長くなりますが、かなり面白いので引用します。

「〜元来、自由への劇しい渇望と、精神的普遍性への強い傾向とはロシア的人間の最も顕著な特性に属している。この意味では、ロシア人は誰でも、大なり小なりに普遍的な人間なのだ。彼らにとって最大の讃辞の一つは「チュートキー」な人と言われることであるが、チュートキー(chutkiy)「敏感な」とかチュートコスチ(chutkost')「敏感さ」とかいう言葉は、ただたんに感じやすい、敏感な、ということではなくて、一切のものに対する、そして特に一切の新しいものに対する、全人間的な受容性を意味する。

「自分の殻の中に閉じこもらないで、時々刻々に、自分の外のものへ、異質的なものへ、常に新しいものへと、思想的にも感情的にも全ての窓を開け放しにしておくことだ。他人の悲しみも、喜びも、夢も、全てを自分のものとして内的に感じとる特殊の感受性をロシア人はもっている。世に有名なロシア人の人間味、母なる大地のように抱擁性に富んだロシア人の人間性はそこから来る。

「だから、個人生活であれ、公共生活であれ、思想、芸術、文学、いずれの分野でも「新しいもの」は大歓迎だ。ちょっとした新しい思いつき、新しい物の見方、新しい生活計画、新しい政治形態、一切の変革にロシア人は飛びついていく。新しいもの、常に新しいもの、常により新しいものへと、ロシア人は彷徨する。

「この国では百姓ですら他の国に較べると「腰が軽い」。こういう傾向が極度に強化され、洗練されて、一種の天才的能力にまで昇華されると、世界中にある一切の優れたもの、偉大なものを、まるではじめから自分の中にあったかのように、何の困難もなく体得する極めてロシア的な才能になる。

「この才能を「全人性」(フセチエラヴェーストヴォ(vsechelovyetstvo)といい、またそういう天才をもって生まれた人を「全人」(フセチエラヴェーク(vsechelovyek)といって、ロシア人は人間の最高典型としてこれをこよなく尊重する。」(『ロシア的人間』井筒俊彦著 中公文庫)

さらにこの”全人”的能力を開花させた人として、人工都市サンクトペテルブルクを作ったピョートル大帝に対して、ドストエフスキーは以下のようにその”全人性”の発露を認めている。

「「ロシア的人間には、西ヨーロッパ的人間のような非浸透性というものがない。彼は全てのものと共に生き、全ての中に住み込んでいく。彼は民族とか血筋とか国土かに何のかかわりもなく、一切の人間的なものと共感する。他の諸民族の最も鋭い特殊性の中にすら、彼は本能によって全人類的な共通点を嗅ぎ出してくる。たちまちのうちに彼は自分の理念の中で諸民族を一致させ和解させ、しかもしばしば、二つの違ったヨーロッパ民族の正反対な、対立的な理念の中にさえ結合と和解の一点を見出す。」この言葉をドストエフスキーはピョートル大帝に関して言ってるのだ。」(『同』)

さらにそのドストエフスキーは彼の死の直前に行った記念講演はプーシキンに関するものであり、その内容は主にこの詩人の「全人性」の解明に集中されているという。そのドストエフスキーの作品『未成年』に出てくるヴェルシーロフという人に言わせている次の言葉はそのままプーシキンについての事という。

「「ヨーロッパ人は自由でない、が我々は自由だ。あの頃、私だけが、ロシアの寂寥を抱いて、ひとりヨーロッパで自由だった。フランス人は誰でも、フランス人であるというそのことだけで自分の祖国フランスばかりか全人類に奉仕できる。イギリス人やドイツ人も同様だ。ところがロシア人のみは、最もヨーロッパ的であるときはじめて最もロシア人的であり得るのだ。これが他の国々の人と違う我々の最も本質的、民族的な特徴であり、これこそほかにかけがえのない我々の拠りどころだ。フランスにいれば私はフランス人、ドイツ人と一緒の時はドイツ人、古代ギリシア人と共にいればギリシア人、そしてこういうふうであることが最もロシア的であり、これでこそ本当のロシア人、またそれが最もよくロシアに仕える所以なのだ。」と。

「もっともヴェルシーロフとは違って、プーシキンは自分では一歩もロシアの国土を外へ踏み出しことはなかったが、始終パリだベルリンだと外国へ遊びに行っている連中より、どんなに深く外国を識っていたかわからない。外国どころか、彼はあらゆる時代の、あらゆる国々の、あらゆる身分階級の人間に、思いのまま転身することができた。どんな文化に遭遇しても、どんな文化以前の未開状態に踏み入っても、彼はその文化、あるいは文化以前の世界に融け込んでそれと内面的に同化する異常な天賦の才をもっていた。」(『同』)

”全人”的人間の凄まじいまでの共感能力に感動すら覚えます。またロシア的人間と言われているが、日本人にも同様の感性があるのではないかと感じるのは私だけではないでしょう。こういった全人的と言われる能力をもつ人は現代に存在するのでしょうか。もし存在していたとするならば、どのように生きているのだろうか。そしてこの全人的と言われる能力が実は人間本来の能力だったとしたならば、どうであろうか。逆を考えればわかりやすい。こういう能力が落ち、失われていったからこそ、今のような分断・疎外の社会になっていると考えることができる。他者と分断し、家族をも分断し、国と国との関係も分断し、世界はバラバラになっていっている。

今こそ取り戻さなくてはいけない人間の能力、気質こそこのロシア的人間に象徴される”全人”的人間の能力と考えることができます。すでにどのような人間になれば、世界はより良くなっていくかの答えは出ている気がします。あとはどのようにしてそのような人間になるか、であるが、それはこういったことを知ることから始まります。待ったなしの大変革の時代を生き抜くためにも、このロシア的人間に一人でも多く目覚めることが大事です。その動きもう始まっているのかもしれません。それはロシアからなのか、はたまたこの日本においてなのか。。
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