ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「武田信玄」

2019年11月20日 | 旅の豆知識
 旅先で、戦国武将の足跡に触れることは結構あるのではないでしょうか?戦国時代の山城跡や古戦場、武将を祀った寺社仏閣、それらの武将が関わった鉱山や築堤、港などもあると思います。
 戦国時代には、数多くの武将が活躍していましたが、特に人気が高いのは、武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就などではないでしょうか。特に、関東地方北部から中部地方にかけては、武田信玄の足跡がよく残されています。旅先で、そんな場所を訪れて、戦国時代に思いを馳せてみるのも面白いのでは.....。

〇武田信玄とは?

 戦国時代に活躍した戦国大名の一人で、実名は晴信といい、1521年(大永元)に、甲斐の守護武田信虎の長男として生まれました。1536年(天文5)に室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服し、同年11月に11月には、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾ります。1541年(天文10)には、父信虎を追放して、甲斐の守護となり、信濃に進出し、1553年(天文22)以降、5回にわたって、上杉謙信と川中島の戦いを繰り広げました。その間、近傍諸国を侵略し、甲斐本国以外に、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領するに至ります。そして、将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、1572年(元亀3)には、京都進出を企てて大軍をおこし、三方ヶ原の戦いで、徳川家康を破りました。しかし、三河国野田城攻囲中に発病し、帰国途中信濃国伊那の駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で、1573年(天正元)に51歳で亡くなったとされています。1576年(天正4)に本葬が営まれ、恵林寺(山梨県甲州市)が墓所と定められました。

〇武田信玄の足跡を訪ねて(年代順)

(1)躑躅ヶ崎館跡[武田神社](山梨県甲府市)

 武田信玄の父・信虎が石和から本拠を移して、築いたのが始まりとされていますが、武田家の政治支配の中心となった所です。周囲には堀が巡らされ、政務を執っていた主殿を中心に諸施設が配されていました。毘沙門堂、回遊式庭園、能舞台などもあったとされています。現在は、跡地に武田神社が建っていますが、堀や土塁が残されていて、往時をしのぶことができます。 

(2)川中島の戦い(長野県長野市)

 越後の上杉謙信軍対甲斐の武田信玄軍によるもので、戦国時代の1553年(天文22)から 1564年(永禄7)までに、主なものは、①1553年(天文22)、②1555年(天文24)、③1557年(弘治3)、④1561年(永禄4)、⑤1564年(永禄7)の5回あったとされていますが、その4回目の1561年(永禄4)の合戦(八幡原の戦い)が一番有名で、武田軍2万と上杉軍1万2千が激突しました。武田軍は信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなどして序盤劣勢でしたが持ち直し、結局この戦いによる死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、上杉軍は越後へ引き上げることになります。現在は、武田軍が本陣を置いたとされる場所が、八幡原史跡公園となっています。その周辺には、首塚や信玄・謙信両雄一騎討ちの像、「三太刀七太刀跡」の石碑、執念の石、逆槐などがあり、公園の一角に「長野市立博物館」があって、川中島合戦のことも展示されているのです。また少し離れて、典厩寺(信玄の弟・典厩信繁の墓がある)、山本勘助の墓、胴合橋、赤川の碑 などもあり、巡ってみることができます。

(3)三増峠の戦い(神奈川県愛甲郡愛川町)

 戦国時代の1569年(永禄12)に、相模国三増峠付近(神奈川県愛甲郡愛川町)で、約2万人の武田信玄軍と約2万人の北条氏照・氏邦軍により行われた合戦で、武田信玄軍が勝利しました。序盤では、武田軍が苦戦し、武田の将浅利信種が戦死したりしましたが、最後は北条軍が総崩れとなって退却したのです。武田軍も勝利後は、兵をまとめて甲府へ戻っていきました。現在では、合戦の行われたと考えられる場所に三増合戦場の碑と慰霊碑が立ち、近くには、戦死した武田の将浅利信種を弔っている浅利明神、首塚、胴塚等があり、ゴルフ場の上の方に武田信玄が本陣を置いたと言われる旗立て松の碑があります。

(4)三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市北区)

 戦国時代の1572年(元亀3)に、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦いです。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利しました。徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死したのです。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かいました。現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑があります。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いです。

(5)野田城跡(愛知県新城市)

 1508年(永正5)に田峯城主菅沼定忠の三男定則によって築城されたとされる城跡です。1573年(天正元)に上洛途上の武田信玄は、三方ヶ原の戦いに勝利した後、三河国に侵入し、当時徳川家康の配下にあった菅沼定盈の守るこの城を攻めました。籠城戦の上、開城のやむなきに至りますが、この陣中に信玄は病を得て、上洛を諦め、甲斐への帰途に就くことになったとされています。一説には、夜間に城中から鉄砲玉が放たれ、負傷したのが原因だったとも言われてきました。城跡には、本丸、二の丸、土塁、井戸跡などが残され、往時をしのぶことが可能です。、

☆武田信玄関係略年表(日付は旧暦です)

・1521年(大永元)11月3日 甲斐の守護武田信虎の長男として生まれる
・1536年(天文5) 室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服する
・1536年(天文5)11月 佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾る
・1541年(天文10) 父信虎を駿河の今川義元のところへ追放し、当主となる
・1542年(天文11) 妹婿の諏訪頼重を打倒する
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1548年(天文17) 塩尻峠の戦い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1553年(天文22)4月 第1次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1556年(天文25) 今川氏・北条氏と同盟を結ぶ
・1559年(永禄2) 出家して信玄と号する
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1566年(永禄9) 長野氏を滅ぼし西上野をも支配下に収める
・1567年(永禄10) 長男義信を反逆罪で刑死させ、その妻を今川氏のもとへ返し、同盟関係を絶つ
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍
・1569年(永禄12)4月 今川氏真を追放して駿河を領有する
・1571年(元亀2) 北条氏政、本願寺、一向一揆、浅井・朝倉氏らと結び、信長包囲網を形成する
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年(天正元)4月 三河野田城を包囲中に陣中で病床に伏す 
・1573年(天正元)4月12日 甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で亡くなる
・1576年(天正4)4月 本葬が営まれ、恵林寺(山梨県甲州市)が墓所と定められる