天気も良く、風も強くないので、昼前から、自家用車で北に向かい、さいたま市域に入って、岩槻城跡公園の駐車場に車を入れた。
ここにあった岩槻城は、室町時代末に築かれた城郭で、築城者は太田道灌、太田道真、成田自耕斎正等の説があり、定かではない。戦国時代の16世紀前半には、太田氏の城となっていたが、1567年(永禄10)の三船山の戦いで、太田氏資が戦死すると、北条氏が直接支配するようになる。しかし、豊臣秀吉の北条氏攻めの際に、1590年(天正18)に豊臣方の手によって落城させられた。その後、徳川家康が関東を支配するようになると、徳川家譜代の高力清長が2万石で入城することになる。江戸時代になると、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏らの譜代大名が目まぐるしく入れ替わっての居城となった。それも、江戸時代中期の1756年(宝暦6)に大岡忠光が入城以後は安定し、大岡氏が115年にわたって代々城主をつとめ、1871年(明治4)の廃藩置県後に廃城となった。この城は、台地を利用した平城で、主郭部(本丸、二の丸、三の丸など)、その北の新正寺曲輪、南の新曲輪・鍛冶曲輪がそれぞれ別個の台地上にあり、その間には深い沼地が広がっていた。主郭部の西側は堀によって区切られ、本丸には天守はなく、代わりに2層の瓦櫓や1層の櫛形櫓があったのだ。また、その西側にある武家屋敷や城下町を囲むように、大構が造られていた。しかし、廃城後は、建物は各地に移築されたり壊され、沼地も埋め立てられて行ったのだ。現在は、城郭の内、南端の新曲輪、鍛冶曲輪などの部分が残されていて、1925年(大正14)に県の史跡に指定され、岩槻城址公園となったのだ。
車を下りると、最初に城下町を散策してみることにした。まず、のんびりと20分ほど歩いて、裏小路にある「遷喬館」に行ってみた。ここは、埼玉県に現存する唯一の江戸時代の私塾・藩校建造物で、名前は中国古典の『詩経』の「出自幽谷 遷于喬木」という一説に由来する。江戸時代後期の1799年(寛政11)に、岩槻藩に仕えていた儒学者児玉南柯が、城下町に開いた私塾だったが、文化年間の1805年~1811年頃には、岩槻藩の藩校となり、武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだ所なのだ。最盛期には、武芸稽古場、菅神廟(学問の神・菅原道真を祀った)、児玉南柯の自宅、築山・池泉、観望台なども設けられていたそうだが、1871年(明治4)には、廃藩置県により廃校となり、建物も多くが取り壊されたのだ。しかし、全体の10分の1ほどではあるが、教場部分が住居として残されていた。それが、埼玉県内に残る唯一の藩校建造物として貴重なので、1939年(昭和14)に県の史跡に指定されたのだ。老朽化が進んだので、2003年(平成15)から、3年間かけて解体復元工事が行われ、江戸時代の姿を取り戻した。現在は、一般公開されていて、内部を無料で見学することができたので、上がってみた。5部屋ほどではあるが、昔は、武士の子供たちが学んでいたかと思うととても興味深かった。
見学後は、さらに10分ほど西へ歩いて、「岩槻郷土資料館」にも立ち寄ってみた。ここは、1930年(昭和5)に建てられた元岩槻警察署の庁舎で、国の登録文化財になっているとのことだった。無料で見学でき、内部には、岩槻城の復元模型や解説展示があり、さっき見学した、藩校「遷喬館」と儒学者児玉南柯についても解説してあった。また、民俗関係の資料も見られ、2階には、時節柄ひな人形も展示されていて面白かったのだ。
見終わるともう昼をとっくに過ぎていたので、近くの蕎麦屋に入って昼食をとった。食後もぶらぶらと城下町を散策しながら戻って、「時の鐘」まで行ってみた。これは、1671年(寛文11)、岩槻城主阿部正春の命令で鋳造され、城内や城下の人々に時を知らせていたとのこと。しかし、50年後の1720年(享保5)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳した物が現在の鐘だという。現在でも、朝晩に美しい響きで時を告げているそうだ。
その後は、広小路から大手門跡を抜けて、城址公園へと帰っていった。その地内には土塁、空堀など、中世城郭の面影もあるというので、その場所に行って確認し、また、かつての城郭の建造物である黒門が移築復元されていたのも見学して、駐車場へと戻ったが、すでに午後2時半となっていたので、次へ進むことにした。
それから、蓮田市にある黒浜貝塚へと向かったが、縄文時代前期から中期の13か所の群小貝塚の総称だ。1913年(大正2)~1931年(昭和6)頃に大山史前学研究所が、この地域の4ヶ所の貝塚を発掘調査し、出土した縄文土器を「蓮田式」として提唱して、知られるようになった。1971年(昭和46)には、東北自動車道建設に伴って、本格的調査が実施され、3軒の竪穴式住居跡と多くの貝類と縄文式土器、石器、骨角器などが見つかったのだ。この結果、黒浜貝塚は、関東地方の縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標識遺跡として貴重なので、 1975年(昭和50)に県の史跡に指定された。その後、2000年(平成12)~2005年(平成17)の詳細確認調査、2013年(平成25)実施の未調査地の詳細確認調査により、集落の規模は東西150m、南北95mほどで、その中央部分には北側谷部に向かって開口する東西約50m、南北約40mの窪地状の広場があり、住居跡51軒、土坑約50基、生活面廃棄貝層5ヶ所が確認されたのだ。これらの成果を踏まえて、2006年(平成18)に国の史跡に指定され、2013年(平成25)には追加指定を受けた。また、黒浜貝塚群出土品は、一括して2008年(平成20)に、県指定有形文化財となっている。現在は、2013年度に決定した黒浜貝塚整備事業により順次公園として整備されていて、2020年(平成32)に全面開園予定なのだ。
到着した現地は、蓮田市役所に隣接していて、「蓮田市文化財展示館」が開館していたので、最初に見学したが、黒浜貝塚や蓮田市内から発掘された、縄文式土器、土偶、石器、骨角器、貝類、犬骨などの出土品が展示されていて、見ることができた。特に、中央に展示してあった、天神前遺跡出土の黒浜式土器(県指定文化財)は、みごとなもので感嘆した。館内には、他に弥生時代や古墳時代の遺物もあり、中世から近世・近代の展示もあって興味深かった。その後は、整備中の遺跡公園も巡ってみたが、完成しているのは、まだ4分の1くらいでしかない。現在も、重機が入って工事していたが、縄文時代は海辺だったとのことで、そのイメージを復元するらしい。森と丘陵と入江といった、なかなか良い感じの所なので、完成するのが楽しみだ。
いろいろ見ていたら、午後4時を過ぎていたので、帰途に着いたが、渋滞していていなかったので、思ったより早く走れた。途中のスーパーに立ち寄って買い物をしてから、夕方には自宅に帰り着いた。
ここにあった岩槻城は、室町時代末に築かれた城郭で、築城者は太田道灌、太田道真、成田自耕斎正等の説があり、定かではない。戦国時代の16世紀前半には、太田氏の城となっていたが、1567年(永禄10)の三船山の戦いで、太田氏資が戦死すると、北条氏が直接支配するようになる。しかし、豊臣秀吉の北条氏攻めの際に、1590年(天正18)に豊臣方の手によって落城させられた。その後、徳川家康が関東を支配するようになると、徳川家譜代の高力清長が2万石で入城することになる。江戸時代になると、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏らの譜代大名が目まぐるしく入れ替わっての居城となった。それも、江戸時代中期の1756年(宝暦6)に大岡忠光が入城以後は安定し、大岡氏が115年にわたって代々城主をつとめ、1871年(明治4)の廃藩置県後に廃城となった。この城は、台地を利用した平城で、主郭部(本丸、二の丸、三の丸など)、その北の新正寺曲輪、南の新曲輪・鍛冶曲輪がそれぞれ別個の台地上にあり、その間には深い沼地が広がっていた。主郭部の西側は堀によって区切られ、本丸には天守はなく、代わりに2層の瓦櫓や1層の櫛形櫓があったのだ。また、その西側にある武家屋敷や城下町を囲むように、大構が造られていた。しかし、廃城後は、建物は各地に移築されたり壊され、沼地も埋め立てられて行ったのだ。現在は、城郭の内、南端の新曲輪、鍛冶曲輪などの部分が残されていて、1925年(大正14)に県の史跡に指定され、岩槻城址公園となったのだ。
車を下りると、最初に城下町を散策してみることにした。まず、のんびりと20分ほど歩いて、裏小路にある「遷喬館」に行ってみた。ここは、埼玉県に現存する唯一の江戸時代の私塾・藩校建造物で、名前は中国古典の『詩経』の「出自幽谷 遷于喬木」という一説に由来する。江戸時代後期の1799年(寛政11)に、岩槻藩に仕えていた儒学者児玉南柯が、城下町に開いた私塾だったが、文化年間の1805年~1811年頃には、岩槻藩の藩校となり、武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだ所なのだ。最盛期には、武芸稽古場、菅神廟(学問の神・菅原道真を祀った)、児玉南柯の自宅、築山・池泉、観望台なども設けられていたそうだが、1871年(明治4)には、廃藩置県により廃校となり、建物も多くが取り壊されたのだ。しかし、全体の10分の1ほどではあるが、教場部分が住居として残されていた。それが、埼玉県内に残る唯一の藩校建造物として貴重なので、1939年(昭和14)に県の史跡に指定されたのだ。老朽化が進んだので、2003年(平成15)から、3年間かけて解体復元工事が行われ、江戸時代の姿を取り戻した。現在は、一般公開されていて、内部を無料で見学することができたので、上がってみた。5部屋ほどではあるが、昔は、武士の子供たちが学んでいたかと思うととても興味深かった。
見学後は、さらに10分ほど西へ歩いて、「岩槻郷土資料館」にも立ち寄ってみた。ここは、1930年(昭和5)に建てられた元岩槻警察署の庁舎で、国の登録文化財になっているとのことだった。無料で見学でき、内部には、岩槻城の復元模型や解説展示があり、さっき見学した、藩校「遷喬館」と儒学者児玉南柯についても解説してあった。また、民俗関係の資料も見られ、2階には、時節柄ひな人形も展示されていて面白かったのだ。
見終わるともう昼をとっくに過ぎていたので、近くの蕎麦屋に入って昼食をとった。食後もぶらぶらと城下町を散策しながら戻って、「時の鐘」まで行ってみた。これは、1671年(寛文11)、岩槻城主阿部正春の命令で鋳造され、城内や城下の人々に時を知らせていたとのこと。しかし、50年後の1720年(享保5)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳した物が現在の鐘だという。現在でも、朝晩に美しい響きで時を告げているそうだ。
その後は、広小路から大手門跡を抜けて、城址公園へと帰っていった。その地内には土塁、空堀など、中世城郭の面影もあるというので、その場所に行って確認し、また、かつての城郭の建造物である黒門が移築復元されていたのも見学して、駐車場へと戻ったが、すでに午後2時半となっていたので、次へ進むことにした。
それから、蓮田市にある黒浜貝塚へと向かったが、縄文時代前期から中期の13か所の群小貝塚の総称だ。1913年(大正2)~1931年(昭和6)頃に大山史前学研究所が、この地域の4ヶ所の貝塚を発掘調査し、出土した縄文土器を「蓮田式」として提唱して、知られるようになった。1971年(昭和46)には、東北自動車道建設に伴って、本格的調査が実施され、3軒の竪穴式住居跡と多くの貝類と縄文式土器、石器、骨角器などが見つかったのだ。この結果、黒浜貝塚は、関東地方の縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標識遺跡として貴重なので、 1975年(昭和50)に県の史跡に指定された。その後、2000年(平成12)~2005年(平成17)の詳細確認調査、2013年(平成25)実施の未調査地の詳細確認調査により、集落の規模は東西150m、南北95mほどで、その中央部分には北側谷部に向かって開口する東西約50m、南北約40mの窪地状の広場があり、住居跡51軒、土坑約50基、生活面廃棄貝層5ヶ所が確認されたのだ。これらの成果を踏まえて、2006年(平成18)に国の史跡に指定され、2013年(平成25)には追加指定を受けた。また、黒浜貝塚群出土品は、一括して2008年(平成20)に、県指定有形文化財となっている。現在は、2013年度に決定した黒浜貝塚整備事業により順次公園として整備されていて、2020年(平成32)に全面開園予定なのだ。
到着した現地は、蓮田市役所に隣接していて、「蓮田市文化財展示館」が開館していたので、最初に見学したが、黒浜貝塚や蓮田市内から発掘された、縄文式土器、土偶、石器、骨角器、貝類、犬骨などの出土品が展示されていて、見ることができた。特に、中央に展示してあった、天神前遺跡出土の黒浜式土器(県指定文化財)は、みごとなもので感嘆した。館内には、他に弥生時代や古墳時代の遺物もあり、中世から近世・近代の展示もあって興味深かった。その後は、整備中の遺跡公園も巡ってみたが、完成しているのは、まだ4分の1くらいでしかない。現在も、重機が入って工事していたが、縄文時代は海辺だったとのことで、そのイメージを復元するらしい。森と丘陵と入江といった、なかなか良い感じの所なので、完成するのが楽しみだ。
いろいろ見ていたら、午後4時を過ぎていたので、帰途に着いたが、渋滞していていなかったので、思ったより早く走れた。途中のスーパーに立ち寄って買い物をしてから、夕方には自宅に帰り着いた。