ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

北陸の史跡巡りの旅③

2015年08月19日 | 旅行
朝、6時半頃に目を覚まし、7時からの朝食を済ませた。8時前には、白峰温泉「はくれい荘」を立って、国道157号線を北へと向かった。
 下吉野の交差点で左折し、国道360号線を西へ走った。小松市域に入り、国道8号線バイパスに乗り換えて、北上した。その後、手取川大橋の手前の立体交差から、下に降り、手取川沿いに河口へと向かった。目指すは、白山市の呉竹文庫の駐車場で、ここに「手取川の戦い」の碑があると聞いていた。しかし、なかなか目的地がわからず、何度か人に聞いてやっとたどり着いた。
 碑の前に立つと、向う側が手取川で、かなり大きな川だ。ここで、1577年(天正5)に上杉謙信軍と織田信長軍との間で戦いがあり、上杉謙信軍約2万が織田信長軍約1万8千を撃破したとされる合戦だ。今は、静かに川が流れていたが、多くの武将が戦って、血が流されたかと思うと感慨深いものがあった。
 その後は、再び国道8号線バイパスに復して北上し、三日市の立体交差で、国道157号線へ乗り換えて、金沢市街へと向かった。そして、野町広小路の交差点で右折して、極楽寺の有料駐車場に車を入れた。
 この辺りを寺町寺院群といい、多くの寺院が集まっている。その中の妙立寺(忍者寺)の裏にある願念寺へと向かった。この寺の創建は慶長年間(1596~1615年)と伝えられているが、当初は現在の片町付近にあり、1659年(万治2)現在地に移ってきたとのこと。松尾芭蕉の弟子、小杉一笑の菩提寺で、「おくの細道」の旅で金沢入りした芭蕉は、一笑が前年に36歳の若さで死去したことを知り、慟哭する。そして、この寺で催された追悼会で「塚も動け 我泣く声は 秋の風」と、その悲しみを詠んだのだ。境内には、一笑の辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」 が刻まれた一笑塚や芭蕉の句碑があって、芭蕉ファンには必見のところなのだ。
 それからは、金沢市外を離れ、国道304号線で県境を越え、富山県へと入っていった。そして、北陸自動車道の砺波インターから高速に乗って、帰路に着いた。
 その後、上信越自動車道、関越自動車道と乗り継いで、午後の明るい内に自宅へ戻ってきた。

北陸の史跡巡りの旅②

2015年08月18日 | 旅行
朝、5時半頃に目を覚まし、6時から朝風呂に入って汗を流し、6時半からのバイキングスタイルの朝食を済ませた。7時半前には、「アパホテル福井片町」を立って、国道158号線に出て、東へと向かった。
 目指したのは、一乗谷朝倉氏遺跡で、ここは戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡だ。一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなっていて、遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重なのだ。駐車場に車を入れ、史跡の散策を始めたが、朝倉義景館跡、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園と巡った。しかし、まだ朝早いので人影もなく、戦国武将の栄枯盛衰を偲ぶには、とても良かった。近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示があるのだが、まだ朝早くて開いていなかったので、次の永平寺へ向かうことにした。
 永平寺には、9時前に着き、有料駐車場に車を入れたが、もう寺の門は開いていて、見学可能だった。最初に若い僧侶のガイダンスを受け、堂内を巡ったが、修行の寺という雰囲気が伝わってくる。とても厳かな気持ちになって、1時間弱で、周り終わった。
 その後は、国道364号線を北に向かい、天龍寺(福井県永平寺町)へと至った。ここは、1653年(承応2)に松岡藩主松平昌勝により祖母の菩提寺として建立されたお寺で、歴代藩主、側室の墓所がある。そして、松尾芭蕉に金沢から随行した立花北枝とこの寺で一泊したあと、別離があったところなのだ。境内には、芭蕉と北枝の別れの銅像、芭蕉句碑「物書て 扇引さく 余波哉」、1844年(天保15)建立の芭蕉塚があり、興味深く見て回った。
 それからは、キタに進路を取り、吉崎御坊跡へと至った。ここは、本願寺第8世の蓮如上人が、1474年(文明6)から約1年間、吉崎御坊に滞在し、浄土真宗(一向宗)を布教したところなのだ。その後、一向宗は大きな力を持つようになり、ついに一向一揆として、守護富樫氏を追い出して、加賀一国を支配するようになる。現在は、国の史跡に指定され、公園として整備されていて、吉崎御坊跡の石碑が立っている。また近くに、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊蓮如上人記念館」があって、蓮如上人の足跡を学ぶことができて、とてもよかった。
 次は、石川県に入って、加賀市の全昌寺を目指した。ここは、下寺院群にあり、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の菩提寺で曹洞宗のお寺で、五百羅漢で有名なのだ。そして、「奥の細道」の行脚の折り、芭蕉と曽良が一泊し、二人が宿泊した部屋が復元されている。境内には句碑がいくつかあり、「はせを塚」と「曾良の句碑」は、大聖寺の俳人二宮本圭らによって、建立されたと言われているのだ。また、本堂には杉風作のにっこり微笑んだ芭蕉木像が有り、それらを見て回りながら、芭蕉の「奥の細道」の旅に思いを馳せた。
 次に向かったのは、山中温泉で、ここの泉屋に松尾芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、9日間の温泉逗留をしたという。芭蕉は薬師堂を詣で、温泉につかり、周辺を散策して、風光明媚な景色を楽しんだといわれている。大聖寺川の渓谷沿いには「鶴仙渓遊歩道」が整備され、「黒谷橋」のたもとには、ひなびた風情の「芭蕉堂」があり、中には木製芭蕉座像が安置されている。また、温泉街の中に「芭蕉の館」があるが、松尾芭蕉が滞在した泉屋に隣接した扇屋別荘を改築したもので、芭蕉関係資料など、多くの俳諧資料を公開する資料館となっている。ここでも、松尾芭蕉の足跡を訪ねながら、思いを馳せたが、少々暑くって閉口した。
 その後は、北上して小松市街に至り、多太神社に参詣した。この神社は、503年(武烈天皇5)の時に創建されたと伝えられ、延喜式内社として登録されている古く由緒ある神社なのだ。社宝になっている兜は、1183年(寿永2)源平の合戦に華々しく散った、平家の老将斎藤実盛の着用したもので、木曾義仲が奉献し、現在は国の重要文化財に指定されている。そして、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途次に三人で詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げているのだ。境内には、芭蕉の句碑が立ち、宝物館には斉藤実盛の兜があるとのことだったが、開いていなかったのが残念だった。
 それからは、国道360号で東へ向かい、トンネルを越えて、鳥越城跡を目指した。まず、山麓の道の駅「一向一揆の里」にある「鳥越一向一揆歴史館」を見学した。加賀一向一揆の資料や鳥越城跡の発掘品などが展示され、興味深く学ぶことができた。加賀国では一向一揆が守護大名富樫氏を排除して、100年に渡って自治を守ったのだが、織田信長の軍勢に攻められ、鳥越城が最後の拠点として戦ったとのこと。最後は、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた言う。加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつので、国の史跡に指定されている。歴史館を出てから、鳥越城跡まで車で登ってみたが、現在では、石垣や塀、建物の一部等が復元されていて、見学することができる。本丸跡からの眺望は、すこぶるよく、一向一揆の人々は、どんな最後を迎えたのかと考えてみた。
 下ってきてからは、国道360号線に復して、東へ向かい、下吉野の交差点で右折し、国道157号線を南下して、今日の宿である白峰温泉「はくれい荘」には、夕方5時半頃に到着した。まず、温泉に入って、今日の汗を流したが、ぬるぬるしてとても気持ちの良い湯だった。その後、夕食を取り、部屋に戻って、テレビを見たり、明日のコースを考えたりしていたら、眠くなってきたので、床に就いた。続く

北陸の史跡巡りの旅①

2015年08月17日 | 旅行
 朝、6時に帰省していた愛知県の実家を出発して西に向かい、木曽川を濃尾大橋で渡って、岐阜県へと入ってきた。大垣市を経て、国道21号線に出て、さらに西進し、垂井町へと至った。
 ここで、国道を外れ、旧中山道に出て、垂井宿へと入ってきたものの天気はあまり良くない。程なくして道の正面に古風な建物が見えてきた。それが、旅籠「亀丸屋」で道はそこで枡形となって曲がっている。車を下りて近づいてみると東側2階には鉄砲窓、南側には格子があり、建物の前の案内板には、1178年(安永7)に建てられ、浪速講、文明講の指定宿とある。興味を持ったので、何回かカメラのシャッターを切った。少し、西へ行くと、南宮大社の大鳥居、油屋卯吉家跡、本龍寺と、とぎれとぎれに残る古い街並みとともに結構見所がある。特に、本龍寺(山門や元の書院の玄関は旧脇本陣からの移築)は興味深く、寺内にあった時雨庵は、松尾芭蕉ゆかりの地で、芭蕉が1691年(元禄4)にこの寺の住職を訪ね、冬籠して詠んだ句「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」にちなんで建てられた物で、脇にその句碑が立っていた。意外なところで大好きな芭蕉の足跡に行き当たり、しばし感慨にふけっていた。そこから、少し行くと西の見付で、かの広重の浮世絵に描かれた場所だが、松並木はなくなっていた。
 次に目指したのは、関ヶ原古戦場で、国道21号線に復して、西に走っていった。ここは、天下分け目の合戦が行われたところで、徳川家康の勝利となったが、いたるところに武将の陣の跡や首塚、墓標などがあり、巡ってみると、当時の戦闘のすさまじさを追憶させてくれるのだ。まず、東軍の徳川家康の最初の本陣だった桃配山を見てから、最後の本陣の跡を見学した。次に、西軍の諸将の陣の跡を巡ることにし、北端にある石田三成が陣を敷いた笹尾山へと上ってみた。ここの頂上からは、とてもよく関ヶ原が見渡せる。徳川家康の本陣より好立地に見えた。次に少し南にある島津義弘の陣跡は、神明神社の裏になっていた。
 そこからさらに南西に向かうと天満山の麓に小西行長の陣跡があった。その南の山中に入っていくと宇喜多秀家の陣があるが、周辺は森の中といった感じだった。さらに山の奥へと入っていくと大谷刑部の墓があるが、戦に負けてこの地で自刃したといわれている。ここから、山を下ったところに大谷刑部の陣跡があり、そこからは小早川秀秋が陣した松尾山が見えると書いてあったが、あいにくの天気でかすんでいた。松尾山に上るのは大変そうなので、あきらめて東の首塚に行くことにした。関ヶ原駅近くの線路脇にあったが、戦場で死んだ武将の首を埋めたところだそうで、祠が立っていた。また、この辺りが東軍の井伊直政と松平忠吉の陣址だと看板が立っていた。次に西の首塚にもいってから関ヶ原を離れることにした。近くに「関ヶ原町歴史民俗資料館」があって、この合戦の模様を詳しく展示しているそうだが、あいにく月曜日は休館とのことでパスした。
 その後は、国道365号線を西へ向かい、県境を越えて滋賀県へと入っていった。次に向かったのは、姉川の古戦場(滋賀県湖北町)で、1570年(元亀元)に浅井・朝倉軍と織田・徳川軍との間で戦われたところだ。その中で、野村の姉川戦死者の碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、三田村氏館跡、龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、遠藤直経の墓などを巡った。
 ついでに、近くに石田三成の出生地があるとのことなので行ってみることにした。そこには、石田三成の屋敷跡の碑と石田三成の像が立っていたが、関ヶ原の古戦場を見てきたばかりなので灌漑深いものがあった。
 それからは、国道365線に復して北上し、木之本で国道8号線に乗り換えて、さらに北進して、県境を越え、福井県へと入っていった。目指したのは、気比神宮(福井県敦賀市)だ。ここで、芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、夜に参詣し、遊行上人の足跡を偲んでいる。この神社は、越前の一宮で、今でも森に囲まれ、荘厳な感じがした。芭蕉の句碑「なみだしくや 遊行の持てる 砂の露」(「奥の細道」掲載の句の初案)と芭蕉翁月五句の碑、芭蕉像が立ち並んであって、興味深くカメラに収めた。その後、金ヶ崎城跡の麓にある金ヶ埼宮にも立ち寄ってから、国道8号線を北上した。
 次に向かったのは、福井市内の佐内公園だ。ここは、芭蕉が「奥の細道」の旅で2泊した洞哉宅跡で、それを示す碑と「明月の 見所問ん 旅寝せむ」の句碑が並んで立っていた。その後二人は、連れだって敦賀に向かっている。公園内には、橋下佐内の銅像と啓発録の碑、橋下佐内の墓もあり、ついでに見学した。
 その後は、福井市内を走って、今日の宿である、「アパホテル福井片町」には、夕方5時頃に到着した。まず、温泉に入って、今日の汗を流したが、とても気持ちの良い湯だった。その後、館内で夕食を取り、部屋に戻って、テレビを見たり、明日のコースを考えたりしていた。そうする内にまどろんできたので、床に就いた。続く