ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識 『太平記』

2020年11月22日 | 旅の豆知識
〇南北朝時代
  1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9/明徳3)に皇室が合一するまでの時代となります。この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在していましたが、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われています。この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。「太平記」はこの時代と大きく重なって描かれました。

〇『太平記』の旅
 『太平記(たいへいき)』は、南北朝時代の1374年(文中3/応安6)頃までに成立したと考えられる、作者不詳の軍記物語で、流布本は、四十巻の他に剣巻一巻が付属します。1318年(文保2)の後醍醐天皇の即位以後、約50年間の南北朝の戦乱を南朝側の立場から華麗な和漢混交文で描いていています。内容は、3部に分けられ、第1部 (巻一~巻十一) は、鎌倉時代末期の北条高時の失政、後醍醐天皇の討幕に起筆し、北条氏の滅亡後、建武中興の成立まで、第2部 (巻十二~巻二十一) は、建武中興の失敗、足利尊氏の謀反、楠木正成や新田義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御まで、第3部 (巻二十三~巻四十) は、南朝と北朝の対立、諸将の向背常ならぬ様子を描き、1368年(正平23/応安元)足利義満を補佐する細川頼之の執事就任をもって結びとしました。これは、物語僧によって語られて普及、「太平記読み」として講釈され講談の祖となると共に、謡曲、浄瑠璃、草双紙類などの後代文芸に大きな影響を与えたとされます。また、随所にみられる痛烈な政治批判や時世批判は、社会思想史的にも重要とされてきました。「太平記」に基づいて旅することは、自ずから鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の史跡を巡ることと重なります。

☆『太平記』の関係地
 私が旅の途中に巡った『太平記』の関係地を8つ、物語順に紹介します。
 
(1)吉野<奈良県吉野郡吉野町>
 1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。吉野が北朝方に攻められた時、『太平記』では次のように描いています。
 
 吉野城軍事(巻第七)

  ・・・・・・・・
去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈?剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊?庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。 ・・・・・・・・

    流布本『太平記』より


(2)鎌倉<神奈川県鎌倉市>
 鎌倉は、三方を山に囲まれ、南は相模湾に臨む要害の地で、当時の政治、文化、経済の中心でした。中央に鶴ケ岡八幡宮が鎮座し、往時をしのばせる円覚寺、建長寺などの寺々が狭い地域にひしめきあっています。その所々に源氏や北条氏の縁の地がちりばめられていて、鎌倉時代の歴史をたどることができます。鎌倉幕府の興隆から衰退に至るまでを様々な寺院や史跡に見い出し、時代を知ることができるのです。「太平記」には、鎌倉幕府最後の場面が描かれていますが、1333年(元弘3)に新田義貞軍に化粧坂、極楽寺坂、巨福呂坂の三方から攻められ、激戦となります。しかし、稲村ケ崎の引き潮に乗じて突破されて鎌倉に攻め込まれ、最後に菩提寺である東勝寺に籠ったものの、北条高時はじめ一族郎党が自刃して果て、北条氏は滅亡しました。その跡が、史跡として残り、北条高時腹切りやぐらとして知られています。北条氏滅亡の様子を『太平記』では次のように描いています。
 
 高時並一門以下於東勝寺自害事(巻第十)

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴
に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

  流布本『太平記』より


(3)園城寺(三井寺)<滋賀県大津市>
 この寺は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山で、山号は長等山、開基は大友与多王、本尊は弥勒菩薩です。奈良時代末ごろの創建とされ、円珍が再興し、866年(貞観8)に延暦寺の別院となりましたが、円仁門徒と対立した円珍門徒は993年(正暦4)に当寺に拠って独立しました。延暦寺を「山門」というのに対して、「寺門」と呼ばれ、以後500年間にわたって、抗争を続けます。その中で、数度の火災にあっていますが、南北朝時代の1336年(建武3)には、園城寺の僧兵は北朝方に付き、細川定禅と共に園城寺に立て籠もって南朝方の北畠顕家・結城宗広を迎え撃たものの敗北、焼き討ちを受けて金堂が炎上しました。没落した時期もありましたが、安土桃山時代以降に再建され、金堂、勧学院客殿、光浄院客殿などは国宝建造物として現在まで残されています。また、寺宝も多く、円珍関係の資料、『不動明王画像』(黄不動)、勧学院や円満院の襖絵、智証大師座像や新羅明神像など、国宝・重要文化財に多数指定されてきました。また、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られています。南北朝時代の焼き討ちによる金堂炎上について、『太平記』では次のように描いています。
 
 三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事(巻第十五)

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一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(4)湊川神社<兵庫県神戸市中央区>
 この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。楠木正成の最後について、『太平記』では次のように描いています。
 
 正成兄弟討死事(巻第十六)

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此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

  流布本『太平記』より


(5)金ヶ崎城跡<福井県敦賀市>
 金ヶ崎城は、現在の福井県敦賀市泉にあった中世の山城(標高86m)です。1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されました。しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行います。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てました。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとします。その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みました。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられます。尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。金ヶ崎城落城について、『太平記』では次のように描いています。
  
 金崎城落事(巻第十八)

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瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(6) 天龍寺<京都府京都市右京区>
 この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。天龍寺建立について、『太平記』では次のように描いています。
  
 天竜寺建立事(巻第二十四)

武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。

  流布本『太平記』より


(7) 四条畷神社<大阪府四条畷市>
 この神社は、楠木正行を祭る神社で、旧社格は別格官幣社です。この辺で、南北朝時代の1348年(正平3/貞和4)に、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間で、四条畷の戦いがあり、北朝方が勝って、正行は弟の正時と刺し違えて自決しました。そこに楠塚と呼ばれる楠木正行の墓があったのですが、幕末・明治維新期になって、尊王論が高揚してくると、楠木氏の顕彰が盛んになり、1878年(明治11)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大したのです。さらに、1889年(明治22)に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌年に住吉平田神社の南隣の地に創建しましたが、「小楠公御墓所」から、1km余りの場所です。現在、神社境内やその周辺には桜が多数植栽されていて、シーズンになると多くの花見客が訪れます。楠木正行の最後について、『太平記』では次のように描いています。
 
 楠正行最期事(巻第二十六)

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一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(8) 笛吹峠<埼玉県比企郡鳩山町・嵐山町>
 埼玉県比企郡鳩山町と嵐山町の境にある標高80mほどの峠で、岩殿丘陵の中央に位置し、南北に旧鎌倉街道が貫いています。1352年(正平7年)に、武蔵野の小手指原で新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じた南朝方と足利尊氏の北朝方との間で戦いがありました。しかし、南朝方は押されて、新田義宗はこの笛吹峠まで撤退して陣を敷き、上杉憲顕と合流するなど兵力回復に務めます。そして、南朝方の新田義宗軍2万と北朝方の足利尊氏軍8万との戦いがここであり、新田義宗軍が大敗を喫しました。その結果、新田義宗は越後に逃げ、宗良親王は信濃に逃走、南朝方は関東で一掃され、足利尊氏による関東の完全制圧へと向かっています。後世に、この峠付近で、道路工事をした際に大量に人骨が出土し、この時のものではないかとされました。また、この峠の名称については、合戦時、折からの月明かりに宗良親王が笛を吹いたことから付いたとの伝承があり、「史跡笛吹峠」の碑や案内板が立ち、旧鎌倉街道の面影も残され、ハイキングコースともされています。笛吹峠の戦いについて、『太平記』では次のように描いています。
 
 笛吹峠軍事(巻第三十一)

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同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て、敵の陣を見給へば、小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て、峯には錦の御旗を打立、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共、其数満々たり。先一番に荒手案内者なればとて、甲斐源氏三千余騎にて押寄たり。新田武蔵守と戦ふ。是も荒手の越後勢、同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに、逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く。二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎、上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに、信濃勢二百余騎討れければ、寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引。引けば両陣入替て追つ返つ、其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり。夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申は、先後に山をあて、左右に水を堺ふて敵を平野に見下し、我勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒替る/\射手を進めて戦ふ者也。此陣幸に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守若武者なれば、毎度広みに懸出て、大勢に取巻れける間、百度戦ひ千度懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂に打負て、笛吹峠へぞ引上りける。上杉民部大輔が兵に、長尾弾正・根津小次郎とて、大力の剛者あり。今日の合戦に打負ぬる事、身一の恥辱也と思ければ、紛れて敵の陣へ馳入、将軍を討奉らんと相謀て、二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ、人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け、根津は刀を以て己が額を突切て、血を面に流しかけ、切て落したりつる敵の頚鋒に貫き、とつ付に取著て、只二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢道に横て、「誰が手の人ぞ。」と問ければ、「是は将軍の御内の者にて候が、新田の一族に、宗との人々を組討に討て候間、頚実検の為に、将軍の御前へ参候也。開て通され候へ。」と、高らかに呼て、気色ばうて打通れば、「目出たう候。」と感ずる人のみ有て、思とがむる人もなし。「将軍は何くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引へさせ給ひて候也。」と、指差て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔たる事草鹿の的山計に成にける。「あはれ幸や、たゞ一太刀に切て落さんずる者を。」と、二人屹と目くはせして、中々馬を閑々と歩ませける処に、猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


旅の豆知識「峠(歴史小説)」

2020年11月02日 | 旅の豆知識
〇河井継之助と戊辰戦争
 河井継之助は、1827年(文政10)に越後の長岡城下に生まれました。諸国を遊学した後、長岡に戻り、その才知と先見性により、藩の要職を任されるようになります。幕末の越後長岡藩の家老上席で、戊辰長岡戦争の軍事総督でした。薩長諸藩と対峙する重大事に家老となり、奥羽越列藩同盟の結成に参加し、薩長軍(西軍)と対決することになります。地理的に、最初に西軍の攻撃を受け、会津藩等の支援を受け、奮戦しますが、長岡城が落城し、一度は八丁沖渡渉の奇襲により、奪還に成功しますが、再び敗走します。明治維新期の内戦として、多大な犠牲を払いながらも近代国家が形成されていく過程の出来事でした。これをテーマに書かれた小説はいくつかありますが、司馬遼太郎の『峠』は河井継之助に焦点を当てています。

〇河井継之助の敗走した道
 『峠』は、1966年(昭和41)から約1年半にわたって毎日新聞に連載された司馬遼太郎の歴史小説です。主人公は若い頃諸国を旅し、江戸から現在の岡山県高梁市まで行って、山田方谷に学び、果ては長崎まで遊学しています。しかし、小説中、最も印象的なのは、二度目の長岡落城後の敗走で、継之助は戦闘で左足に重症を負っており、戸板に乗せられて、見附、吉ヶ平を経て、八十里越を会津へ向います。会津藩領内に至ったものの、傷が悪化して、動けなくなり、会津城下にたどり着くことなく、会津塩沢において42歳で没しました。
 以下に、歴史小説『峠』の冒頭部分を引用しておきます。

☆『峠』冒頭部分
「幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。  ・・・・・・・」

☆河井継之助最後の旅の行程
7月24日
 ・夜半から長岡城奪還の八丁沖渡渉作戦を開始
7月25日
 ・長岡城奪還に成功し、西軍を敗走させる
 ・午後3時頃、継之助が銃弾に当たって、左足を負傷
7月26日
 ・東軍の会津・米沢藩兵ら長岡城に入城する
7月29日
 ・長岡城が西軍の猛攻で再度落城し、敗走する
8月2日
 ・継之助、戸板に乗せられて見附を立つ
8月3日
 ・継之助、吉ヶ平に到着
8月4日
 ・継之助、八十里越の途中、山中で泊まる
8月5日
 ・継之助、会津領の叶津着、叶津番所に泊まる
8月6日
 ・五十嵐清吉宅に逗留して、傷の加療を行う
8月12日
 ・継之助、塩沢に到着するも重体で動けなくなる
8月16日
 ・塩沢の医家矢沢家で息を引き取る、享年42歳・10月30日

☆歴史小説『峠』の関係地
 
(1)河井継之助旧宅址・河井継之助記念館<新潟県長岡市>
 小説『峠』の主人公でもある幕末の長岡藩政を担った河井継之助ゆかりの品々などを展示する記念館です。長岡市制100周年・合併記念事業の一環として、河井継之助の屋敷跡にあった建物を改修し、2006年(平成18)12月27日にオープンしました。継之助が西国遊歴の際に書いた旅日記『塵壺(ちりつぼ)』や、旅先の九州で買った蓑、司馬遼太郎の小説『峠』の自筆原稿など、ゆかりの品約30点を展示しています。窓からは継之助が暮らした当時の面影が残る庭を眺めることもできました。継之助の足跡を調べたり、小説『峠』を訪ねたりする場合には、ぜひ立ち寄りたいところです。

(2)慈眼寺<新潟県小千谷市>
 薩長軍(西軍)との戦いを避けるため、1868年(慶応4)5月2日に西軍方の軍監岩村精一郎と会談した場所です。会談は30分ほどで決裂し、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加、長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成しました。この結果、戊辰長岡戦争へ突入することになります。現在でも、寺の中に、その会談の部屋が、“河井・岩村会見の間”として当時のまま残されています。2004年(平成16)10月23日の新潟県中越地震で建物が大きな被害を受けましたが、やっと復旧し見学できるようになりました。このときの会見の様子について、歴史小説『峠』では次のように描いています。

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「とにかくも、いましばらく、時日をかしていただきとうござりまする。時日さえかしていただければ必ず藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めまするでござりましょう」
(なにをほざいている)
と、岩村軍監はおもった。岩村の先入主からみれば、継之助の腹の中はすきとうるほどにあきらかである。「時日をかせ」というが、うかうか時日をかせばかならず戦備をととのえるであろう。戦備をととのえるための小細工に相違なかった。そういうことはすべて諸種の情報からみてあきらかなのである。岩村は、そうおもった。
継之助は、懐中から書状をとりだし、用意の三方にのせ、岩村に押しやり、
「嘆願書でござりまする。申しあげたきこと、すべてはこの書面にくわしく書き連ねてござりまするゆえ、ぜひぜひお取り次ぎくださりますように」
官軍総督である公卿に奉ってほしい、というのである。
岩村軍監は両膝の上においた手をにぎりしめ、肩を怒らせた。
-舐めるな。
と叫びたそうな心情が、その表情にあらわれている。すぐ声をはっした。
「お取り次ぎはできぬ」
つづけさまにいった。
「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいおだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」
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         歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(3)長岡城跡<新潟県長岡市>
 戊辰長岡戦争の舞台となった所ですが、戊辰戦争後城跡は徹底破壊され、駅前の厚生会館脇に石碑が建っているだけです。しかし、旧城下には、長岡藩の本陣となった光福寺や“米百俵の碑”、“明治戊辰戦跡顕彰碑”、“河井継之助開戦決意の地記念碑”などの記念碑、関係者の墓石等が散在していて当時を偲ぶことがことが出来ます。「長岡市立科学博物館」(長岡市幸町2-1-1)内の「長岡藩主牧野家史料館」には、長岡藩関係の展示と共に、長岡城の復元模型が置かれていますが、とても立派な城郭だったことがわかります。

(4)『峠』文学碑<新潟県小千谷市高梨>
 司馬遼太郎の『峠』文学碑は小千谷市高梨の「越の大橋」のたもとの小公園にあります。信濃川を挟んだ対岸は長岡市妙見、そして南に小千谷に通じる険しい榎峠と朝日山が続くのが見渡せるところです。碑文の表面には、『峠』の一説で、この付近の事を書いた部分が書かれています。裏面には、作者の司馬遼太郎自身が書いた、『峠』の解説が載せられています。

     峠                                司馬遼太郎

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばしてきた。この川越の砲弾が、その方面の戦争の第一弾になった。

   『峠』文学碑の碑文表面より

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。
 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
 その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 
    平成5年11月                        司馬遼太郎
    
   『峠』文学碑の碑文裏面より

(5) 八丁沖古戦場<新潟県長岡市>
 当時は、南北約5㎞、東西約3㎞にわたる大沼沢地でしたが、今では一面の水田地帯となっています。1868年7月25日未明、西軍によって5月19日に落城した、長岡城奪還のため、河井継之助の指揮のもと690余名が渡渉して奇襲した所です。この作戦は、西軍の虚を突き、みごと長岡城奪還に成功します。現在では、渡渉地に八丁沖古戦場パークが作られ、記念碑が建てられています。また、その近くの日光社には、この作戦の先導役を務め、戦死した鬼頭熊次郎の碑があって、激しかった戦闘を偲ぶと共に、継之助の戦術の巧みさに驚かされます。

(6) 吉ヶ平<新潟県三条市>
 7月25日、長岡軍は八丁沖から新政府軍を奇襲し長岡城を一時奪い返しましたが、この戦闘で軍事総督河井継之助が左膝下に鉄砲の玉を受けて負傷、戦線から離脱せざるを得なくなります。戸板に乗せられた継之助は昌福寺、見附、文納、葎谷を経由し、8月3日に吉ヶ平にたどり着き、庄屋椿家で泊まりました。ここからが会津へと向かう山越えの難所の八十里越で、苦労して越え、8月5日には会津側の叶津へ着いています。吉ヶ平は、この八十里越の越後側の最後の集落で、江戸時代から峠越えの拠点となっていましたが、1843年(天保14)に、塩の輸送を主目的として改修され、馬も通れるようになったため交通量も飛躍的に増加しました。しかし、大正末期に只見地方に鉄道が開通すると八十里越の交通は減少し、街道としては衰退していきます。それでも炭焼き等で生計を立ててきましたが、昭和30年代以降の木炭需要の減少や豪雪もあって、1970年(昭和45)に集団離村して廃村となりました。その後は、旧分校を利用した「吉ヶ平山荘」だけが残り、八十里越ハイキングや守門岳等の登山客の利用に応じ、近年は「吉ヶ平自然体感の郷」としてキャンプや釣り堀客などが訪れ、建物も新しくなっています。この吉ヶ平について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

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八十里 こしぬけ武士の 越す峠

 このときはじめて咆えた。「置いてゆけ」頼むからおれを戦場に置いてゆけ、という。きかずに担架をすすめた。担架は松蔵がつくったもので、ちょうどベットに屋根をつけ、棒を渡して大型の辻駕籠のようにしつらえたものであった。底には戦利品の毛布(ケット)をたっぷり敷いて、衝撃を緩和するようにしてある。
見附へゆき、そこから東方の烏帽子山をのぞみつつ幾日もかかって山村を通過してゆく。8月3日吉ヶ平に着いた。このさきは会津へ越える国境の八十里越である。
置いてゆけ。と、ここでも激しくむずかった。
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      歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(7) 叶津番所跡(旧長谷部家住宅)<福島県南会津郡只見町>
 継之助が負傷し、戸板に乗せられて、八十里越した後、8月5日に1泊した所で、すでに重篤な状態でした。この建物は河井継之助が敗走時泊まった所としては、唯一当時のまま現在地に保存され、福島県の重要文化財に指定されています。江戸時代前期の1643年(寛政10)築といわれ、茅葺き屋根の曲り屋づくり、会津藩の役人が滞在するために造られた奥座敷や囲炉裏を囲む座敷、高い天井なども見られます。また、敷地内には隠し部屋なども残されてきました。尚、番所後方には築300年程度といわれる国重要文化財「旧五十嵐家住宅」があり、見学することもできます。

(8) 河井継之助記念館<福島県南会津郡只見町>
 継之助終焉の地で、医家矢沢家で息を引き取った部屋(矢沢家は1962年の滝ダムの建設で湖底に水没)が、記念館内に移築保存されています。享年42歳、8月16日のことで、塩沢に着いて4日後でした。館内の展示によって、彼の偉大な業績と先駆的な考えを知ると共に、戊辰長岡戦争の全貌を考える上では大変重要な施設です。近くの医王寺には、火葬後の細骨を集めて、村人が建てた墓があります。継之助終焉の様子について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

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「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みはお待ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明かりのための火を燃やしている。薪にしめりけをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、風はなかった。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
8月16日午後8時、死去。

       歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(9) 栄涼寺<新潟県長岡市>
 光輝山栄凉寺は、長岡藩主牧野氏の菩提寺で、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮をとった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億二郎らの墓があります。牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建され、牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県前橋市大胡地区)を経て、現在地に移りました。