南北朝時代に花開いた文化で、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9/明徳3)に皇室が合一するまでの時代の文化です。その特徴は、①南北朝の動乱を反映したものであること、②新興武士による「バサラ」(華美で贅沢)の気風が興隆したこと、③正統性の証として歴史書や軍記物語が発達したものであったこと、などとされてきました。
この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝(吉野)方と北朝(京都)方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
この文化の代表として、永保寺開山堂などの仏教建築、『観音猿鶴図』、『寒山図』、『四睡図』、『募帰絵詞』などの絵画・絵巻物、西芳寺庭園、天龍寺庭園などの庭園も残されています。また、文学としては、『風雅和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新葉和歌集』、『新後拾遺和歌集』などの和歌集、『菟玖波集』、『応安新式』などの連歌集、『増鏡』、『太平記』、『難太平記』、『曽我物語』、『神皇正統記』、『梅松論』などの歴史書・歴史物語が書かれました。
尚、朝廷政治の本来のあり方を示そうとして有職故実をまとめた『職原抄』、『建武年中行事』が書かれ、能楽や茶寄合、闘茶、連歌などが流行するようになります。
〇南北朝文化を巡る旅六題
旅先で南北朝文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。
(1) 永保寺<岐阜県多治見市>
この寺は、1313年(正和2)に土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が開創した臨済宗南禅寺派の古刹です。1339年(暦応2)には、北朝の光明天皇勅願所とされ、経済的基盤が確立し、伽藍が整備されました。現在に残る観音堂と開山堂は、南北朝時代に建てられたもので、いずれも1952年(昭和27)に、国宝に指定されています。両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。夢窓疎石の作庭と伝えられる観音堂前の庭園は、臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 1969年(昭和44)に国の名勝に指定されました。境内には、樹齢約700年の大銀杏があり、紅葉が見事なことで有名です。
(2) 北畠氏館跡庭園<三重県津市美杉町>
北畠神社境内にある南北朝時代の代表的な日本庭園です。伊勢国司の北畠晴具の義父だった管領細川高国が作った池泉観賞様式の武家書院庭園でした。総面積は約850坪あり、武将の手による庭らしく 野生的で、素朴な力強さがあり、石組みと米字池、枯山水のある苔むした築山の緑がすばらしく、紅葉の名所としても知られています。滋賀県の「旧秀隣寺庭園」、福井県の「越前一乗谷朝倉氏庭園」と共に、日本三大武将庭園の一つとされてきました。伊勢国司・北畠顕能によって築かれた居館であった北畠氏館跡に隣接していて、1936年(昭和11)に、「北畠氏館跡庭園」として、国の名勝・史跡の指定を受けます。その後、1996年(平成8)からの館跡の調査によって、15世紀前半に造成された遺構では、日本最古の石垣や多くの建物跡が確認され、陶器、武具、仏具なども出土しました。そこで、2006年(平成18)に「北畠氏館跡庭園」と背後にある「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたのです。尚、2017年(平成29)に、「北畠氏館」が続日本100名城に選定されました。
(3) 天龍寺<京都府京都市右京区>
この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(4) 西芳寺庭園<京都府京都市西京区>
臨済宗天竜寺派の西芳寺の庭園です。京都三名園の一つに数えられ、夢窓疎石が作庭した苔むした庭が有名で、別名「苔寺」とも呼ばれてきました。この寺は、京都府京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺院で、奈良時代に行基が西方寺として建立したと伝えられ、平安時代には、空海や源空も住んでいたとのことです。その後、荒廃していたのを南北朝時代の1339年(延元4・暦応2)に、夢窓疎石が中興し、その時に庭園ができ、西芳寺と改称されました。それからも、何度も兵火で焼失したり、洪水で流されたりしましたが、その都度再興されたのです。明治維新後の廃仏毀釈により、境内地は狭められ、再び荒廃しましたが、これも復興したものの、湘南亭(国の重要文化財)以外の建物のほとんどは、明治時代以降の造営となっています。しかし、庭園は良く残されていて、1923年(大正12)に国の名勝に、1952年(昭和27)には特別名勝に指定され、さらに、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(5) 吉野<奈良県吉野郡吉野町>
1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(6) 湊川神社<兵庫県神戸市中央区>
この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。
☆南北朝文化の主要な文化財一覧
<建築>
・永保寺開山堂…[国宝]
<絵画>
・『観音猿鶴図』…牧溪作
・『寒山図』…可翁作[国宝]
・『四睡図』…黙庵作
・『募帰絵詞』…本願寺三世覚如を描く絵巻物
<庭園>
・西芳寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・天龍寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・北畠氏館跡庭園…[名勝]
<文学・歴史書>
・『菟玖波集』(1356年)…わが国最初の連歌集で、二条良基ら編集
・『応安新式』…二条良基編
・『増鏡』(1370年)…元弘の変を中心に後鳥羽天皇から後醍醐天皇間の編年体歴史物語
・『太平記』(1374年)…約50年間の南北朝の戦乱を描いた軍記物語
・『難太平記』…今川了俊著
・『曽我物語』…東国武士社会を題材
・『風雅和歌集』(1349年)…花園院監修、光厳院親撰
・『新千載和歌集』(1359年)…後光厳天皇下命、二条為定撰
・『新拾遺和歌集』(1364年)…後光厳天皇下命、二条為明・頓阿撰
・『新葉和歌集』(1381年成立)…長慶天皇下命、宗良親王撰
・『新後拾遺和歌集』(1384年)…後円融天皇下命、二条為遠・二条為重撰
・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』…北畠親房著
・『梅松論(ばいしょうろん)』…足利政権の成立過程を記述
<有職故実>
・『職原抄(しょくげんしょう)』…北畠親房著
・『建武年中行事』…後醍醐天皇著
この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝(吉野)方と北朝(京都)方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
この文化の代表として、永保寺開山堂などの仏教建築、『観音猿鶴図』、『寒山図』、『四睡図』、『募帰絵詞』などの絵画・絵巻物、西芳寺庭園、天龍寺庭園などの庭園も残されています。また、文学としては、『風雅和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新葉和歌集』、『新後拾遺和歌集』などの和歌集、『菟玖波集』、『応安新式』などの連歌集、『増鏡』、『太平記』、『難太平記』、『曽我物語』、『神皇正統記』、『梅松論』などの歴史書・歴史物語が書かれました。
尚、朝廷政治の本来のあり方を示そうとして有職故実をまとめた『職原抄』、『建武年中行事』が書かれ、能楽や茶寄合、闘茶、連歌などが流行するようになります。
〇南北朝文化を巡る旅六題
旅先で南北朝文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。
(1) 永保寺<岐阜県多治見市>
この寺は、1313年(正和2)に土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が開創した臨済宗南禅寺派の古刹です。1339年(暦応2)には、北朝の光明天皇勅願所とされ、経済的基盤が確立し、伽藍が整備されました。現在に残る観音堂と開山堂は、南北朝時代に建てられたもので、いずれも1952年(昭和27)に、国宝に指定されています。両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。夢窓疎石の作庭と伝えられる観音堂前の庭園は、臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 1969年(昭和44)に国の名勝に指定されました。境内には、樹齢約700年の大銀杏があり、紅葉が見事なことで有名です。
(2) 北畠氏館跡庭園<三重県津市美杉町>
北畠神社境内にある南北朝時代の代表的な日本庭園です。伊勢国司の北畠晴具の義父だった管領細川高国が作った池泉観賞様式の武家書院庭園でした。総面積は約850坪あり、武将の手による庭らしく 野生的で、素朴な力強さがあり、石組みと米字池、枯山水のある苔むした築山の緑がすばらしく、紅葉の名所としても知られています。滋賀県の「旧秀隣寺庭園」、福井県の「越前一乗谷朝倉氏庭園」と共に、日本三大武将庭園の一つとされてきました。伊勢国司・北畠顕能によって築かれた居館であった北畠氏館跡に隣接していて、1936年(昭和11)に、「北畠氏館跡庭園」として、国の名勝・史跡の指定を受けます。その後、1996年(平成8)からの館跡の調査によって、15世紀前半に造成された遺構では、日本最古の石垣や多くの建物跡が確認され、陶器、武具、仏具なども出土しました。そこで、2006年(平成18)に「北畠氏館跡庭園」と背後にある「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたのです。尚、2017年(平成29)に、「北畠氏館」が続日本100名城に選定されました。
(3) 天龍寺<京都府京都市右京区>
この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(4) 西芳寺庭園<京都府京都市西京区>
臨済宗天竜寺派の西芳寺の庭園です。京都三名園の一つに数えられ、夢窓疎石が作庭した苔むした庭が有名で、別名「苔寺」とも呼ばれてきました。この寺は、京都府京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺院で、奈良時代に行基が西方寺として建立したと伝えられ、平安時代には、空海や源空も住んでいたとのことです。その後、荒廃していたのを南北朝時代の1339年(延元4・暦応2)に、夢窓疎石が中興し、その時に庭園ができ、西芳寺と改称されました。それからも、何度も兵火で焼失したり、洪水で流されたりしましたが、その都度再興されたのです。明治維新後の廃仏毀釈により、境内地は狭められ、再び荒廃しましたが、これも復興したものの、湘南亭(国の重要文化財)以外の建物のほとんどは、明治時代以降の造営となっています。しかし、庭園は良く残されていて、1923年(大正12)に国の名勝に、1952年(昭和27)には特別名勝に指定され、さらに、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(5) 吉野<奈良県吉野郡吉野町>
1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(6) 湊川神社<兵庫県神戸市中央区>
この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。
☆南北朝文化の主要な文化財一覧
<建築>
・永保寺開山堂…[国宝]
<絵画>
・『観音猿鶴図』…牧溪作
・『寒山図』…可翁作[国宝]
・『四睡図』…黙庵作
・『募帰絵詞』…本願寺三世覚如を描く絵巻物
<庭園>
・西芳寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・天龍寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・北畠氏館跡庭園…[名勝]
<文学・歴史書>
・『菟玖波集』(1356年)…わが国最初の連歌集で、二条良基ら編集
・『応安新式』…二条良基編
・『増鏡』(1370年)…元弘の変を中心に後鳥羽天皇から後醍醐天皇間の編年体歴史物語
・『太平記』(1374年)…約50年間の南北朝の戦乱を描いた軍記物語
・『難太平記』…今川了俊著
・『曽我物語』…東国武士社会を題材
・『風雅和歌集』(1349年)…花園院監修、光厳院親撰
・『新千載和歌集』(1359年)…後光厳天皇下命、二条為定撰
・『新拾遺和歌集』(1364年)…後光厳天皇下命、二条為明・頓阿撰
・『新葉和歌集』(1381年成立)…長慶天皇下命、宗良親王撰
・『新後拾遺和歌集』(1384年)…後円融天皇下命、二条為遠・二条為重撰
・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』…北畠親房著
・『梅松論(ばいしょうろん)』…足利政権の成立過程を記述
<有職故実>
・『職原抄(しょくげんしょう)』…北畠親房著
・『建武年中行事』…後醍醐天皇著