ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「南北朝文化」

2019年12月25日 | 旅の豆知識
 南北朝時代に花開いた文化で、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9/明徳3)に皇室が合一するまでの時代の文化です。その特徴は、①南北朝の動乱を反映したものであること、②新興武士による「バサラ」(華美で贅沢)の気風が興隆したこと、③正統性の証として歴史書や軍記物語が発達したものであったこと、などとされてきました。
 この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝(吉野)方と北朝(京都)方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 この文化の代表として、永保寺開山堂などの仏教建築、『観音猿鶴図』、『寒山図』、『四睡図』、『募帰絵詞』などの絵画・絵巻物、西芳寺庭園、天龍寺庭園などの庭園も残されています。また、文学としては、『風雅和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新葉和歌集』、『新後拾遺和歌集』などの和歌集、『菟玖波集』、『応安新式』などの連歌集、『増鏡』、『太平記』、『難太平記』、『曽我物語』、『神皇正統記』、『梅松論』などの歴史書・歴史物語が書かれました。
 尚、朝廷政治の本来のあり方を示そうとして有職故実をまとめた『職原抄』、『建武年中行事』が書かれ、能楽や茶寄合、闘茶、連歌などが流行するようになります。

〇南北朝文化を巡る旅六題

 旅先で南北朝文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 永保寺<岐阜県多治見市>

 この寺は、1313年(正和2)に土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が開創した臨済宗南禅寺派の古刹です。1339年(暦応2)には、北朝の光明天皇勅願所とされ、経済的基盤が確立し、伽藍が整備されました。現在に残る観音堂と開山堂は、南北朝時代に建てられたもので、いずれも1952年(昭和27)に、国宝に指定されています。両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。夢窓疎石の作庭と伝えられる観音堂前の庭園は、臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 1969年(昭和44)に国の名勝に指定されました。境内には、樹齢約700年の大銀杏があり、紅葉が見事なことで有名です。

(2) 北畠氏館跡庭園<三重県津市美杉町>

 北畠神社境内にある南北朝時代の代表的な日本庭園です。伊勢国司の北畠晴具の義父だった管領細川高国が作った池泉観賞様式の武家書院庭園でした。総面積は約850坪あり、武将の手による庭らしく 野生的で、素朴な力強さがあり、石組みと米字池、枯山水のある苔むした築山の緑がすばらしく、紅葉の名所としても知られています。滋賀県の「旧秀隣寺庭園」、福井県の「越前一乗谷朝倉氏庭園」と共に、日本三大武将庭園の一つとされてきました。伊勢国司・北畠顕能によって築かれた居館であった北畠氏館跡に隣接していて、1936年(昭和11)に、「北畠氏館跡庭園」として、国の名勝・史跡の指定を受けます。その後、1996年(平成8)からの館跡の調査によって、15世紀前半に造成された遺構では、日本最古の石垣や多くの建物跡が確認され、陶器、武具、仏具なども出土しました。そこで、2006年(平成18)に「北畠氏館跡庭園」と背後にある「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたのです。尚、2017年(平成29)に、「北畠氏館」が続日本100名城に選定されました。

(3) 天龍寺<京都府京都市右京区>

 この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(4) 西芳寺庭園<京都府京都市西京区>

 臨済宗天竜寺派の西芳寺の庭園です。京都三名園の一つに数えられ、夢窓疎石が作庭した苔むした庭が有名で、別名「苔寺」とも呼ばれてきました。この寺は、京都府京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺院で、奈良時代に行基が西方寺として建立したと伝えられ、平安時代には、空海や源空も住んでいたとのことです。その後、荒廃していたのを南北朝時代の1339年(延元4・暦応2)に、夢窓疎石が中興し、その時に庭園ができ、西芳寺と改称されました。それからも、何度も兵火で焼失したり、洪水で流されたりしましたが、その都度再興されたのです。明治維新後の廃仏毀釈により、境内地は狭められ、再び荒廃しましたが、これも復興したものの、湘南亭(国の重要文化財)以外の建物のほとんどは、明治時代以降の造営となっています。しかし、庭園は良く残されていて、1923年(大正12)に国の名勝に、1952年(昭和27)には特別名勝に指定され、さらに、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(5) 吉野<奈良県吉野郡吉野町>

 1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(6) 湊川神社<兵庫県神戸市中央区>

 この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。

☆南北朝文化の主要な文化財一覧

<建築>

・永保寺開山堂…[国宝]

<絵画>

・『観音猿鶴図』…牧溪作
・『寒山図』…可翁作[国宝]
・『四睡図』…黙庵作
・『募帰絵詞』…本願寺三世覚如を描く絵巻物

<庭園>

・西芳寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・天龍寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・北畠氏館跡庭園…[名勝]

<文学・歴史書>

・『菟玖波集』(1356年)…わが国最初の連歌集で、二条良基ら編集
・『応安新式』…二条良基編
・『増鏡』(1370年)…元弘の変を中心に後鳥羽天皇から後醍醐天皇間の編年体歴史物語
・『太平記』(1374年)…約50年間の南北朝の戦乱を描いた軍記物語
・『難太平記』…今川了俊著
・『曽我物語』…東国武士社会を題材
・『風雅和歌集』(1349年)…花園院監修、光厳院親撰
・『新千載和歌集』(1359年)…後光厳天皇下命、二条為定撰
・『新拾遺和歌集』(1364年)…後光厳天皇下命、二条為明・頓阿撰
・『新葉和歌集』(1381年成立)…長慶天皇下命、宗良親王撰
・『新後拾遺和歌集』(1384年)…後円融天皇下命、二条為遠・二条為重撰
・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』…北畠親房著
・『梅松論(ばいしょうろん)』…足利政権の成立過程を記述

<有職故実>

・『職原抄(しょくげんしょう)』…北畠親房著
・『建武年中行事』…後醍醐天皇著

旅の豆知識「鎌倉文化」

2019年12月24日 | 旅の豆知識
 鎌倉時代に花開いた文化で、鎌倉幕府が成立する12世紀末からその滅亡する14世紀前期までの文化です。その特徴は、①鎌倉幕府を支える武士の生活と関わったものであること、②伝統的な貴族文化も継承しつつ、大陸からの文化も取り入れていったこと、③新しい鎌倉仏教の普及にも伴って、武士や庶民にも指示されたものであったこと、などとされてきました。
 貴族中心の支配体制が崩れ、本格的な武士の政権が誕生し、続いていきましたが、2回の元寇によって、御家人の不満が高まって、鎌倉幕府は衰退していきます。この時代には、新しい仏教の宗派が生まれて、民衆への布教活動が活発化しました。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、法華宗の日蓮、時宗の一遍などが活躍し、その足跡が日本中に印されています。地方を旅すると○○が流刑になった所だとか、布教活動をした地だとかにめぐり会うことがよくあります。それとともに民衆の中に根付いていった仏教文化の奥深さを感じざるをえないのです。
 その代表として、東大寺南大門(大仏様)、正福寺千体地蔵堂・円覚寺舎利殿・功山寺仏殿・浄土寺浄土堂(唐様)、石山寺多宝塔・蓮華王院本堂[三十三間堂](和様)、観心寺金堂(折衷様)などの仏教建築、東大寺南大門金剛力士像・僧形八幡神像・重源上人像、興福寺金剛力士像・無著象・世親像・天灯鬼像・竜灯鬼像、蓮華王院本堂[三十三間堂]千手観音坐像、六波羅蜜寺の空也上人像、高徳院阿弥陀如来坐像[鎌倉大仏]、明月院上杉重房像、浄土寺阿弥陀三尊立像などの彫刻、一遍上人絵伝、法然上人絵伝、石山寺縁起絵巻などの絵巻物、親鸞聖人像、明恵上人樹上坐禅、蘭渓道隆像などの絵画も残されています。また、文学としては、『新古今和歌集』、『山家集』、『金槐和歌集』などの和歌集、『水鏡』、『愚管抄』、『吾妻鏡』などの歴史書、『十訓抄』、『古今著聞集』、『沙石集』などの説話集、『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『源平盛衰記』 などの戦記物語、『海道記』、『東関紀行』、『十六夜日記』などの紀行文、『方丈記』、『徒然草』などの随筆が書かれました。その中で、多くの分野に独特の創造的・個性的文化を生み出していきます。
 尚、庶民の生活と関わって、瀬戸焼、常滑焼、備前焼などの陶器が発達し、武士の生活と深く関わって、刀剣・甲冑も優れたものが製作されました。

〇鎌倉文化を巡る旅六題

 旅先で鎌倉文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 称名寺と金沢文庫<神奈川県横浜市金沢区>

 称名寺は、真言律宗別格本山の寺院で、山号は金沢山といい、本尊は弥勒菩薩です。この寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、鎌倉幕府の要人・北条実時が、1258年(正嘉2年)に六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂が起源とされています。その後、北条実時の孫・金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに金堂や三重の塔を含む七堂伽藍を完備し、庭園などを整備ましたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退しました。しかし、江戸時代に入って大幅な復興が実現し、現存する建物が作られました。現在、境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがあります。また、金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1972年(昭和47)からの大がかりな発掘調査を経て、1987年(昭和62)に復元されたものです。この浄土庭園の向こうには、緑豊かな金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を見ることができます。春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しく、遠く鎌倉時代に心馳せさせてくれます。金沢文庫は、1275年(建治元)頃、北条実時の邸宅内に造った武家の文庫が起源とされています。蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたるものでしたが、金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたものの、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸したとのことです。現在の金沢文庫は1930年(昭和5)に、神奈川県の施設として復興したもので、1990年(平成2)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしています。国宝の金沢北条氏歴代(実時、顕時、貞顕、貞将)の肖像画と文選集注を収蔵していることで有名です。

(2) 鎌倉<神奈川県鎌倉市>

 やはり、この時代を巡るには神奈川県鎌倉市に行くのが一番です。三方を山に囲まれ、南は相模湾に臨む要害の地で、鎌倉幕府が置かれ、当時の政治、文化、経済の中心でした。中央に鶴ケ岡八幡宮が鎮座し、往時をしのばせる円覚寺、建長寺などの寺々や鎌倉大仏等が狭い地域にひしめきあっています。その所々に源氏や北条氏の縁の地がちりばめられていて、鎌倉時代の歴史をたどることができます。鎌倉幕府の興隆から衰退に至るまでを様々な寺院や史跡に見い出し、時代を知ることができるのです。

(3) 塩田平<長野県上田市・青木村>

 上田市の西南に広がる塩田平一帯は、“信州の鎌倉”と呼ばれています。それはかつて、塩田北条氏三代の居城「塩田城」があったからで、鎌倉幕府の要職にあった北条義政から、その孫まで、三代に渡り約六十年間、信濃の一大勢力としてこの地方を統治していました。それによって、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、数多くの文化財が残されているのです。中でも、安楽寺の木造八角三重塔は、1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたと考えられ、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築です。1952年(昭和27)に、長野県では一番早く国宝に指定されたもので、見ごたえがあります。また、青木村にある大法寺の三重塔は、東山道を旅する人々が「見返りの塔」といったと言われ、美しい塔の姿が有名です。この塔は、1333年(正慶2)の鎌倉時代から南北朝時代に造営されたもので、これも国宝に指定されています。それ以外にも、常楽寺、前山寺など鎌倉時代縁の寺があり、塩田城跡と共に巡るとまさに鎌倉時代の散策気分です。

(4) 東大寺・興福寺<奈良県奈良市>

 この聖武天皇発願の廬舎那仏(奈良の大仏)で有名な奈良時代を代表する東大寺は、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化が凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、近くにある興福寺も、鎌倉時代に復興され、その時に建造された北円堂、三重塔が残り、国宝館には、金剛力士像、無著象、世親像、天灯鬼像、竜灯鬼像などの慶派の傑作があって、いずれも国宝に指定されています。そして、1998年(平成10)に、この2つの寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(5) 蓮華王院<京都府京都市東山区>

 鎌倉時代の代表的な建築様式和様の本堂(三十三間堂)が有名で、1952年(昭和27)に国宝に指定されています。その中には、本尊である鎌倉時代の仏師湛慶作の国宝の木造千手観音坐像(寄木造)をはじめ、木造千手観音立像(1,001躯)、木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像など、鎌倉時代の仏像が多数並んでいて、圧巻です。また、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となったことで知られています。

(6) 功山寺<山口県下関市>

 ここの仏殿は、鎌倉時代の代表的な唐様建築と呼ばれるもので、鎌倉時代の建築様式の推移を見る上でとても貴重なので、1953年(昭和28)に国宝に指定されています。寺伝には、1327年(嘉歴2)創建とありますが、 柱の墨書により1320年(元応2)の建立と判明しています。木造の禅宗様建築で、典型的な唐様仏殿としては、我国最古の物です。二重屋根入母屋造りの桧皮葺、扇垂木に花頭窓、柱は上下部を細めた粽型で礎石と柱との間に礎盤を入れ、内陣の天井は鏡天井で石南花を描き、外陣は化粧屋根裏、床は四半瓦敷で建物は一切彩色していません。鎌倉の円覚寺舎利殿と共に仏殿建築の代表と云われて、堂内には本尊千手観音坐像を安置しています。

☆鎌倉文化の主要な文化財一覧

<建築>

・東大寺南大門(奈良県奈良市)…大仏様[国宝]
・正福寺千体地蔵堂(東京都)…唐様[国宝]
・円覚寺舎利殿(神奈川県鎌倉市)…唐様[国宝]
・功山寺仏殿(山口県下関市)…唐様[国宝]
・浄土寺浄土堂(兵庫県)…唐様[国宝]
・石山寺多宝塔(滋賀県大津市)…和様[国宝]
・蓮華王院本堂[三十三間堂](京都府京都市)…和様[国宝]
・観心寺金堂(大阪府)…折衷様[国宝]

<彫刻>

・東大寺南大門金剛力士像…運慶、快慶作[国宝]
・東大寺僧形八幡神像…快慶作[国宝]
・東大寺重源上人像…[国宝]
・興福寺金剛力士像…伝定勝作[国宝]
・興福寺無著象・世親像…[国宝]
・興福寺天灯鬼像・竜灯鬼像…[国宝]
・蓮華王院本堂[三十三間堂]千手観音坐像…湛慶作[国宝]
・六波羅蜜寺の空也上人像…康勝作
・高徳院阿弥陀如来坐像[鎌倉大仏]…[国宝]
・明月院上杉重房像
・浄土寺阿弥陀三尊立像

<絵画>

・一遍上人絵伝…円伊作[国宝]
・法然上人絵伝…[国宝]
・石山寺縁起絵巻…高階隆兼作[国宝]
・北野天神縁起絵巻…[国宝]
・平治物語絵巻…[国宝]
・蒙古襲来絵巻
・男衾三郎絵巻
・後三年合戦絵巻
・紫式部日記絵巻
・餓鬼草紙…[国宝]
・病草紙…[国宝]
・地獄草紙…[国宝]
・伝源頼朝像…[国宝]
・後鳥羽上皇像…[国宝]
・親鸞聖人像…[国宝]
・明恵上人樹上坐禅図…[国宝]
・蘭渓道隆像…[国宝]

<文学>

・『新古今和歌集』(藤原定家ら撰)
・『山家集』(西行法師著)
・『金槐和歌集』(源実朝著)
・『小倉百人一首』(藤原定家撰)
・『保元物語』
・『平治物語』
・『平家物語』
・『源平盛衰記』
・『方丈記』(鴨長明著)
・『徒然草』(吉田兼好著)
・『水鏡』
・『愚管抄』(慈円著)
・『吾妻鏡』
・『海道記』
・『東関紀行』
・『十六夜日記』(阿仏尼著)
・『十訓抄』
・『古今著聞集』(橘成季者)
・『沙石集』(無住著)

旅の豆知識「院政期文化」

2019年12月23日 | 旅の豆知識
 平安時代後期に花開いた文化で、院政が開始された11世紀末から鎌倉幕府が成立する12世紀末までの文化です。その特徴は、①民間布教者による浄土教が全国へ広まってきたこと、②地方へ伝播し庶民や武士が担い手となってきたこと、③歴史物語、軍記物語、絵巻物などの展開がみられること、などとされてきました。
 貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう転換期で、また武士が台頭してきていて、治安が乱れて戦乱が増え、1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)からの平治の乱、そして、源平合戦へと続いていきます。そして、1177年(治承元)の太郎焼亡、1178年(治承2)の次郎焼亡、1181年(養和元)の養和の大飢饉などの天変地異も加わって、社会不安が増大していくことになりました。その中で、阿弥陀仏信仰が民衆の中に広められていき、それと共に、京都、奈良から地方にも普及して、日本各地で阿弥陀堂が建設され、阿弥陀仏が祀られるようになります。
 その代表として、中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂などの仏教建築、臼杵磨崖仏、伝乗寺真木大堂仏像、蓮華王院千手観音像、浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像などの彫刻、高野山有志八幡講十八箇院『阿弥陀聖衆来迎図』、青蓮院の『不動明王二童子像』などの仏教絵画、厳島神社の『平家納経』、四天王寺の『扇面古写経』なども残されています。また、文学としては、『後拾遺和歌集』、『金葉和歌集』、『詞花和歌集』、『千載和歌集』の勅撰和歌集、『栄花物語』、『大鏡』、『今鏡』、『今昔物語集』などの歴史物語・説話集、『将門記』、『陸奥話記』などの戦記物語が書かれました。その中で、『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵巻』などの物語性のある絵巻物も製作されています。
 尚、田楽や猿楽なども貴賤を問わず親しまれるようになり、流行歌謡である今様を集めた『梁塵秘抄』が後白河法皇によって編纂されたりしました。

〇院政期文化を巡る旅六題

 旅先で院政期文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 平泉<岩手県西磐井郡平泉町>

 中尊寺境内は、1979年(昭和54)に国の特別史跡に指定されていますが、中でも、金色堂は、1124年(天治元)に建立されたもので、奥州藤原氏三代の栄華を象徴し、そのミイラを収め、平安時代を代表する国宝建造物として知られています。鞘堂内の金色の堂宇と仏像はまばゆいばかりで、古代人の阿弥陀信仰が目に浮かぶようでした。また、毛越寺には、平安時代後期の遺構として、浄土庭園が残されており、苑池も橋脚をのこして中島・庭石については旧態をよく示して、学術上の価値が高いので、境内が1952年(昭和27)に国の特別史跡、庭園が1959年(昭和34)に国の特別名勝になっています。それ以外にも、1955年(昭和30)に国の特別史跡となった無量光院跡、1997年(平成9)に国の史跡となった柳之御所・平泉遺跡群などがあって、平安時代後期の史跡めぐりができる稀有の場所でした。また、2011年(平成23)には、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(2) 白水阿弥陀堂<福島県いわき市>

 この阿弥陀堂は、平安時代後期に建てられたもので、1952年(昭和27)に国宝建造物になりました。また、周囲の浄土庭園と共にすばらしい景観を成していて、境域は1966年(昭和41)に国の史跡に指定されています。復元された平安時代の浄土庭園と国宝阿弥陀堂建築のバランスは絶妙で、当時の雄大な感覚と極楽浄土への思いが伝わってくるようです。特に、紅葉の季節は阿弥陀堂脇のイチョウの大木が真黄色に色づいて、それは見事でした。

(3) 三佛寺投入堂<鳥取県東伯郡三朝町>

 平安時代後期に造られたとみられる奥院の建物(投入堂)は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、1952年(昭和27)に国宝に指定されました。この建物に行くのは、高低差200m、全長約700mの険しい登山道(行者道)しかなく、場所によっては鉄の鎖やロープを伝い、時にはむき出しになっている木の根だけを掴みながら登るという想像を絶する悪路です。それだけに、投入堂にたどり着いたときには、感動します。また、三仏寺のある三徳山は国の名勝、史跡に指定されました。宝物殿には、木造蔵王権現立像、木造十一面観音立像などの平安時代の仏像も安置されていて、見学することができます。

(4) 厳島神社<広島県廿日市市>

 平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。平家一門の権勢最盛期を象徴する国宝建造物で、平家の栄華の一端を見る思いがしました。有名な、舞楽が始まったのもこの時代からといわれています。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるように見えました。全国に約500社ある厳島神社の総本社で、1996年(平成8)には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。また、ここに収められている『平家納経』は、1164年(長寛2)厳島神社に平清盛が奉納した全32巻の経典で、それに清盛の願文を加えた33巻が完在し、1954年(昭和29)に国宝となりました。それらは、宝物館で見ることができます。

(5) 富貴寺大堂<大分県豊後高田市>

 国東半島の山間部にあり、西日本を代表する平安時代の建造物で、1952年(昭和27)に国宝に指定されています。堂内には、肉眼では見えませんが、赤外線写真でみごとな壁画があることが確認され、1978年(昭和53)に国の重要文化財に指定されました。また、平安時代作の本尊木造阿弥陀如来坐像も国の重要文化財であり、 2013年(平成25)には、富貴寺境内が国の史跡に指定されています。周辺には、多くの石仏が残されており、素朴な中にすばらしさを感じさせるところです。

(6) 臼杵石仏<大分県臼杵市>

 臼杵石仏(磨崖仏)は、大部分の像は平安時代後期の作とされ、ホキ石仏第一群の一部等は鎌倉時代に追刻されたものと推定されています。石仏群は4群に分かれていて、地名により、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と命名されました。その規模、数量、彫刻の質の高さでは、日本を代表する石仏群なので、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7)には、国宝に指定されています。それぞれに、とてもすばらしい彫刻であり、表情の豊かな仏像群は、見る人々に感動を与えてくれました。

☆院政期文化の主要な文化財一覧

<建築>

・中尊寺金色堂(岩手県西磐井郡平泉町)[国宝]
・白水阿弥陀堂(福島県いわき市)[国宝]
・富貴寺大堂(大分県豊後高田市)現存する九州最古の木造建築物。[国宝]
・往生極楽院(京都市左京区)[国指定重要文化財]
・三仏寺投入堂三仏寺奥院(鳥取県東伯郡三朝町)1108年(天仁元)頃に建造された。[国宝]
・當麻寺本堂(奈良県葛城市)[国宝]
・鶴林寺太子堂(兵庫県加古川市)聖徳太子創建と伝えられる天台宗寺院で、太子堂は当初法華堂として建造。[国宝]
・浄瑠璃寺三重塔(京都府木津川市)[国宝]
・一乗寺三重塔(兵庫県加西市)[国宝]
・宇治上神社本殿(京都府宇治市)流造によって建造されており、平等院の鎮守とされた神社。[国宝]

<庭園>

・毛越寺浄土庭園(岩手県西磐井郡平泉町)[特別史跡・特別名勝]
・白水阿弥陀堂境域浄土庭園(福島県いわき市)[国史跡]

<彫刻>

・中尊寺一字金輪像(岩手県平泉町)[国指定重要文化財]
・臼杵石仏(大分県臼杵市)[国宝]日本の代表的な石仏群。
・伝乗寺真木大堂仏像(大分県豊後高田市)[国指定重要文化財]
・蓮華王院千手観音像(京都市東山区)[国指定重要文化財]
・浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像(京都府木津川市)[国宝]現存する唯一の九体仏。
・往生極楽院阿弥陀如来像・両脇侍像(京都市左京区)[国宝]三千院境内にある往生極楽院の本尊。
・円成寺大日如来坐像(奈良県奈良市)[国宝]奈良仏師運慶の現存する最古の作品。
・大倉集古館普賢菩薩騎象像(東京都)[国宝]
・興福寺板彫十二神将立像(奈良県奈良市)[国宝]

<絵画>

・『源氏物語絵巻』[国宝]
・『年中行事絵巻』
・『伴大納言絵詞』[国宝]
・『信貴山縁起絵巻』[国宝]
・『寝覚物語絵巻』大和文華館所蔵[国宝]
・『地獄草紙』東博本、奈良博本、ともに[国宝]
・『餓鬼草紙』京博本、東博本、ともに[国宝]
・『病草紙』京博本=[国宝]ほか
・『辟邪絵』奈良国立博物館所蔵 
・『鳥獣人物戯画』全4巻[国宝]
・『吉備大臣入唐絵巻』アメリカのボストン美術館蔵

<装飾経>

・『平家納経』厳島神社蔵[国宝]
・『紺紙金銀泥一切経(紺紙金銀字交書一切経)』
・『久能寺経』現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。
・『扇面古写経』四天王寺蔵[国宝]

<仏教絵画>

・『孔雀明王像』(東京国立博物館所蔵)
・『不動明王二童子像』(京都市東山区)青蓮院蔵[国宝]
・『孔雀明王像』東京国立博物館蔵[国宝]
・『釈迦金棺出現図』京都国立博物館蔵

<歌謡>

・『梁塵秘抄』後白河法皇編

<歴史物語・説話文学>

・『栄花物語』
・『大鏡』
・『今鏡』
・『今昔物語集』

<軍記物語>

・『将門記』
・『陸奥話記』

旅の豆知識「国風文化」

2019年12月22日 | 旅の豆知識
 平安時代中期に花開いた文化で、遣唐使が廃止された894年(寛平6)から11世紀の摂関政治期を中心とする文化です。その特徴は、①遣唐使の中止などによって唐文化の影響が弱まり、日本の風土に合致したものとなってきたこと、②優美な貴族文化であること、③かな文字と国文学の発達がみられること、④浄土信仰の普及が見られること、などとされてきました。
 平安時代中期には、班田収授の法が崩れ、全国に寄進地系荘園が増加します。それを基盤に貴族が力を持ち、摂関政治を基に藤原氏が台頭していきます。また、それまでの寺院は、鎮護国家を唱える支配者のためか、学問の場でしたが、空也、源信などの登場によって、浄土教の教えが広がり、阿弥陀仏信仰が盛んになっていきました。その頃広まったのが、末法思想で、故に極楽浄土に救いを求める阿弥陀仏へすがるようになっていき、阿弥陀仏を祀り、経塚を造って念じるようになります。
 その代表として、醍醐寺五重塔(951年)、平等院鳳凰堂(1053年)などの仏教建築、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像、法界寺阿弥陀如来像、平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像などの彫刻、高野山の涅槃図・聖衆来迎図、平等院鳳凰堂扉絵、源氏物語絵巻などの絵画、書道では和風が流行し、小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と称せられ、真筆としては、小野道風筆『屏風土代』、藤原佐理筆『離洛帖』、藤原行成筆『白氏詩巻』などが残されています。また、文学としては、『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』、『和漢朗詠集』などの詩歌集、『竹取物語』、『伊勢物語』、『うつほ物語』、『落窪物語』、『源氏物語』などの物語、『土佐日記』、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などの日記、歴史書・辞典としては『日本三大実録』(901年完成)、『倭名類聚抄』などが編纂されました。
 尚、貴族の住宅建築として寝殿造が現れ、男性用衣服として、束帯・直衣・狩衣、女性用として十二単が登場し、朝廷での儀式が整備され、年中行事が執り行われるようになり、陰陽道の強い影響を受けます。

〇国風文化を巡る旅七題

 旅先で国風文化の関係地を訪れ、良かった所を7つ、北から順に紹介します。

(1) 金沢公園・後三年の役金沢資料館<岩手県横手市>

 金沢公園は後三年の役(1083~1087年)の際に金沢の柵があった場所で、公園になっていて、山そのものが崖で囲まれ強固な天然の要塞になっています。後三年の役は、清原氏の族長、真衡(さねひら)が病死し、領土の配分をめぐって、家衡、清衡の異父兄弟が争った合戦です。弟の家衡に妻子を殺された清衡が、源義家に助けを求めて戦いの火ぶたが再び切られました。戦の中で沼の柵に立てこもって、源義家を退けた家衡は、叔父武衡のすすめにより、難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、義家の実弟 源義光の参戦でますます意気あがる義家軍の執拗な攻撃と、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、金沢柵は落ち、家衡、武衡は捕らえられようやく合戦が終わりました。近くに、「後三年の役金沢資料館」があって、この戦いの様子を描いた絵巻や考古資料が展示されていて参考になります。

(2) 平将門関係地(茨城県坂東市)

 平将門の正確な生年は不詳ですが、9世紀終わり頃から10世紀初めとされ、下総国で生まれたと言われ、940年(天慶3)に没しています。10世紀に関東で起きた内乱“平将門の乱”の中心人物として知られ、939年(天慶2)に常陸、下野、上野の国府を占領し、一時関東を支配下において新皇を称しました。しかし、940年(天慶3)に平貞盛・藤原秀郷らに討たれて終りました。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られましたが、坂東市周辺には、石井の井戸、九重の桜、胴塚などの伝説地が残され、巡ってみると楽しいものです。

(3) 春日井市道風記念館<愛知県春日井市>

 小野道風は、平安時代中期の書家、歌人で、894年(寛平6)に尾張国(現在の愛知県春日井市)に生まれたと伝えられています。参議・小野篁の孫にあたり、父は、大宰大弐・小野葛絃です。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕え、最高官位は正四位下で、木工頭、内蔵頭などを勤めました。若い頃から書道に秀で,宮廷の障子や屏風に筆をふるい、66歳の時に天徳詩合の清書をして、「能書之絶妙也,羲之再生」と称賛されました。また、『源氏物語』でも、道風の書を高く評しています。この時代には、和風の書道が発達しましたが、藤原佐理、藤原行成と共に三蹟と言われました。歌人としても有名で、「後撰和歌集」に5首載っていますが、967年(康保3)に73歳で死去しました。真跡とされるものに「智証大師諡号勅書」「屏風土代」などがあり、名は「とうふう」とも読まれます。道風の生誕地と伝わる春日井市には、1981年(昭和56)に「春日井市道風記念館」が建てられ、全国的にも数少ない書専門の美術館として、また書道史の研究施設となっていて、小野道風の事績をたどることができます。

(4) 日野法界寺<京都府京都市伏見区>

 創建が平安時代中期の藤原氏の一族である日野家の氏寺で、開基は伝教大師最澄とされています。真言宗醍醐派別格本山の寺院で、山号を東光山と称します。ここに安置されている国宝の阿弥陀如来像は、11世紀末頃の作で、定朝様式の典型的なものとして知られています。国宝建造物の阿弥陀堂は、1221年(承久3)の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定されています。

(5) 京都府京都文化博物館<京都市中京区>

 平安建都1200年記念事業として創立された京都の歴史と文化の紹介を目的とした博物館です。前身は平安博物館で、1988年(昭和63)に開館し、京都文化の紹介を主目的として、考古、歴史、民俗史料、美術工芸作品、映像を展示、公開してきました。平安京は何度も火災にあって、古い建物はほとんどが焼失し、羅城門跡、朝堂院跡、大極殿跡など標柱が立っているくらいのところが多くなています。その中で、この博物館では模型や映像等によって、往時を再現し、貴族文化にも触れることができるように工夫されてきました。「国民文化祭・京都2011」の開催を控えた2011年(平成23年)に、全面リニューアルされ、当時の文化を知る上でもお勧めです。

(6) 宇治平等院<京都府宇治市>

 平安時代に栄華を誇った藤原氏ゆかりの寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されています。とりわけ、中心的な建造物である鳳凰堂(国宝)は、平安時代後期を代表する現存建築物で、堂内の木造阿弥陀如来坐像、木造雲中供養菩薩像、鳳凰堂中堂壁扉画と浄土式庭園と共に、西方極楽浄土と阿弥陀如来の世界を再現しているものと言われ、当時の宗教観を知る上にも重要なところです。

(7) 宇治市源氏物語ミュージアム<京都府宇治市>

 「源氏物語」は、平安時代中期に成立した日本の長編物語で、紫式部の著だといわれています。日本の古典文学の最高峰だとも言われていて、多くの人に親しまれてきましたが、平安時代の雰囲気を知る上でも貴重だと思います。「宇治市源氏物語ミュージアム」は、物語ゆかりの宇治市にあり、「源氏物語」の幻の写本とよばれる「大沢本」など「源氏物語」に関する資料の収集・保管等を行ない、源氏物語の世界を展示公開しています。

☆国風文化の主要な文化財

<文学>

・『古今和歌集』:905年(延喜5)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。
・『後撰和歌集』:951年(天暦5)頃成立? 第二勅撰和歌集
・『拾遺和歌集』:1007年(寛弘4)第三勅撰和歌集
・『和漢朗詠集』:1018年(寛仁2)頃に藤原公任が編集した漢詩集。
・『竹取物語』:現存する最古の仮名の物語。
・『伊勢物語』:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。
・『うつほ物語』:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。
・『落窪物語』:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。
・『源氏物語』:王朝物語の最高傑作。
・『土佐日記』:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。
・『蜻蛉日記』:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。
・『和泉式部日記』:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。
・『紫式部日記』:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。
・『枕草子』:清少納言の随筆で日本三大随筆の一つ。
・『更級日記』:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。
・『小右記』:藤原実資の日記。(漢文)
・『御堂関白記』:藤原道長の日記。

<歴史書等>

・『日本三大実録』(901年完成)
・『倭名類聚抄』

<建築>

・醍醐寺五重塔:951年(天暦5)建立
・法成寺無量寿院:1020年(寛仁4)に藤原道長が建立。現存せず。
・平等院鳳凰堂:1053年(天喜元)に藤原頼通が建立。
・法界寺阿弥陀堂:1050年(永承5)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。

<彫刻>

・平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品
・法界寺阿弥陀如来像
・平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像

<絵画>

・高野山:涅槃図(1086年)
・高野山:聖衆来迎図
・東京国立博物館:普賢菩薩像
・平等院鳳凰堂扉絵(1053年前後)
・京都国立博物館:山水屏風

<書道>

小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。
・『屏風土代』:小野道風の書
・『離洛帖』:藤原佐理の書
・『白氏詩巻』:藤原行成の書

旅の豆知識「弘仁・貞観文化」

2019年12月21日 | 旅の豆知識
 平安時代前期に花開いた文化で、平安京に遷都された794年(延暦13)から遣唐使が廃止された894年(寛平6)までの約1世紀の文化です。その特徴は、①平安京を中心とした貴族文化で、晩唐文化の影響が見られること、②天台宗・真言宗など密教の影響が濃い仏教文化でもあること、③神仏習合の動きが強まったのがこの時期であること、などとされてきました。
 平安時代前期には、班田収授の法が崩れはじめ、荘園が増加していきますが、まだ国衙、郡衙などの機能は維持されていきます。また、797年(延暦16)に坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任し、東北地方の蝦夷との戦いが激化します。802年(延暦21)に胆沢城を築城、803年(延暦22)に志波城を築城し、徐々に支配権を北に拡大していきました。紆余曲折がありながら、811年(弘仁2)に文室綿麻呂が征夷大将軍となって、9世紀の中ごろまでに、ほぼ東北地方を支配下に置いたと考えられてきました。その中で、894年(寛平6)に遣唐使が中止されるまでは、唐との交流が続き文化的にも大きな影響を受けます。遣唐使により唐から帰国した最澄が天台宗を開き、空海が真言宗を開いたのもこの時代でした。
 その代表として、室生寺金堂・五重塔などの仏教建築、元興寺薬師如来立像、観心寺如意輪観音坐像、室生寺弥勒堂釈迦如来坐像、法華寺十一面観音立像、薬師寺僧形八幡神像などの彫刻、園城寺不動明王像(黄不動)、東寺両界曼荼羅、神護寺両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)などの絵画、書道では唐風がもてはやされ、嵯峨天皇、空海、橘逸勢が三筆と称せられ、真筆としては、教王護国寺(東寺)の空海筆『風信帖』、延暦寺の嵯峨天皇筆『光定戒牒』などが残されています。また、文学としては、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』、『性霊集』、『菅家文草』などの漢詩文集、『日本霊異記』などの説話集、歴史書としては『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『類聚国史』などが編纂されました。
 尚、有力貴族は子弟の教育のため大学別曹という私的な寄宿施設を設けましたが、和気広世創立の弘文院、藤原冬嗣創立の勧学院、橘嘉智子・橘氏公創立の学館院、在原行平創立の奨学院の4つが有名で、一般庶民のための教育機関としては、空海が創立した綜芸種智院が知られています。

〇弘仁・貞観文化を巡る旅7題

 旅先で弘仁・貞観文化の関係地を訪れ、良かった所を7つ、北から順に紹介します。

(1) 志波城跡<岩手県盛岡市>

 平安時代前期の803年(延暦22)に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営した古代城柵跡です。『日本紀略』延暦22(803)年には、越後国から米と塩とを志波城に送ったことが書かれていました。蝦夷の首長アテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を滅ぼした後、朝廷が蝦夷を統治するために設置したものです。陸奥国の最北に位置し、国府の多賀城に劣らない規模を持ち、政治・軍事上の拠点でしたが、雫石川の洪水被害をたびたび受けたため、10年後に主要な機能を南にある徳丹城へ移転しました。長らく所在地がはっきりしませんでしたが、東北自動車道建設にともなう、1976年~1977年の発掘調査で、築地塀や大溝、竪穴式住居跡が発見され、1984年(昭和59)に、『日本紀略』に記載のある「志波城」の遺跡として、国の史跡に指定されました。発掘の結果、城の外郭は、840m四方の築地塀で囲まれ、その外側に928m四方の堀を設けて2重に区画し、その中に官衙の建物が配され、外郭の外側には兵舎と思われる多数の竪穴住居跡があったことがわかっています。現在は、「志波城古代公園」として整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されました。復元された官衙建物は、コンピューターグラフィックで当時の姿を鑑賞できる展示室として整備されています。また、2015年(平成27)より、ガイダンス施設である「志波城古代公園案内所」と復元竪穴建物が公開開始となりました。

(2) 下野国庁跡<栃木県栃木市>

 国庁は、律令国家体制の地方行政庁で、この所在地を国府と言います。栃木県栃木市にある下野国府跡の発掘調査として、1976年(昭和51)から開始され、1979年(昭和54)に国庁跡が確認されました。その後、1982年(昭和57)に国の史跡に指定されて保存され、1994年(平成6)には、前殿が当時の姿に復元されています。また、1996年(平成8)に、敷地内に「下野国庁跡記念館」が開館し、出土品が無料公開されており、当時の国庁での政務や官人の生活の一端を知ることが出来ます。

(3) 信濃国分寺・国分尼寺跡<長野県上田市>

 奈良時代の741年(天平13)に出された、聖武天皇の「国分寺建立の詔」により日本各地に建立された国分寺(僧寺と尼寺)のうちの一つの跡です。七堂伽藍を備え、南大門、中門、金堂、講堂は南北に1列に並び、塔は南東側の回廊の外にある、いわゆる東大寺式(国分寺式)伽藍配置を成していました。平安時代前期までは存続していましたが、その後衰微したと考えられています。以前から古瓦を出土するとともに、土壇、礎石などが遺存していたので、1930年(昭和5)に礎石の状態がいい中心部が国の史跡に指定されました。1963年(昭和38)から1971年(昭和46)にかけて発掘調査が行われた結果、金堂跡、講堂跡、塔跡、回廊跡などの存在が明らかになり、100間(約178m)四方の寺域がほぼはっきりします。さらに、西方に接して国分尼寺跡の遺構も発掘されたため、1968年(昭和43)に、史跡の指定地域が拡大されました。現在は、史跡公園として整備され、遺構は埋め戻しによる基壇復元方式がとられていて、見学できます。1980年(昭和55)には、公園の一角に「上田市立信濃国分寺資料館」が開館し、出土品等が展示されるようになりました。また、その300m北に後継の国分寺があり、三重塔(国重要文化財)、本堂(県宝)などの建築物があります。

(4) 志太郡衙跡<静岡県藤枝市>

 郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所です。静岡県藤枝市にあるこの郡衙跡は、1977年(昭和52)、住宅団地の造成工事に伴って発見された遺跡で、掘立柱建物や門、板塀、井戸、道路などの遺構群が検出されました。同時に「志太」の郡名や官職名など記した大量の墨書土器や木簡、硯、食器類、木製品が多数出土したことから、奈良・平安時代の郡役所であることが分かりました。1980年(昭和55)に国の史跡に指定されて公園化され、門や板塀が復原され、中心建物の位置が表示されています。また、公園内の「志太郡衙跡資料館」では、遺跡の発見から復原整備までの様子を展示しており、古代の郡役所の生活を立体的に学習することができます。

(5) 斎宮跡<三重県多気郡明和町>

 斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところで、飛鳥・奈良時代から南北朝時代にわたる遺跡です。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。1979年(昭和54)に国の史跡に指定されて、公園となっており、その一角に「斎宮歴史博物館」が立っています。ここでは、文献史料、葱華輦、群行模型、斎王居室復元模型、斎宮に関係する古典文学等を展示しています。また、徒歩15分のところにある「いつきのみや歴史体験館」は、斎宮が最も栄えた平安時代を中心に、歴史や文化を身近に体験・学習できる歴史体験施設となっています。また、2015年(平成27)には史跡公園「さいくう平安の杜」が完成しました。

(6) 教王護国寺(東寺)<京都府京都市南区>

 東寺真言宗の総本山(山号は八幡山)で、東寺とも呼ばれています。平安時代初期の796年(延暦15)に桓武天皇が羅城門の左右に平安京の鎮護のため、東寺、西寺を創建したのに始まるとされ、823年(弘仁14)に嵯峨天皇から空海に勅賜され、50人の僧を置いて真言密教の根本道場となりました。鎌倉時代に文覚が寺威の高揚をはかって堂舎を修復、南北朝時代に頼宝、杲宝(こうぼう)、賢宝が出て教学を大成し、寺は内外ともに隆盛となります。しかし、室町時代後半の1486年(文明18)の火災で堂塔など大部分を焼失し、のち豊臣秀吉や徳川家光の助力により、金堂・五重塔などが再建されました。何度かの火災により、創建当初の建造物はありませんが、南大門から金堂、講堂、食堂と一直線に並ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいます。現存の建物では、蓮華門(鎌倉時代)、大師堂(室町時代)、金堂(安土桃山時代)、五重塔(江戸時代前期)が国宝となり、講堂(室町時代)、灌頂院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されました。寺宝として、講堂の密教諸尊像、その他『兜跋毘沙門天立像』、『不動明王坐像』などの仏像彫刻、『真言七祖像』、『両界曼荼羅図』、『十二天像』、『五大尊像』などの仏画、伝空海将来の密教法具類、『犍陀穀糸袈裟』、『海賦蒔絵袈裟箱』などの工芸品、空海の書『風信帖』など多数の国宝指定の美術工芸品、歴史的資料を収蔵しています。1934年(昭和9)に境内は国指定史跡となり、1994年(平成6)には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(7) 室生寺<奈良県宇陀市>

 奈良盆地の東方、三重県境に近いところにある山岳寺院で、室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在していて、荘厳な雰囲気が漂っています。弘仁・貞観文化を代表する建築(金堂、五重塔)や仏像(木造釈迦如来立像、木造十一面観音立像、木造釈迦如来坐像、)が多く残されてきました。いずれも国宝に指定されていて、この時代の文化財を見るには欠かせないところです。また、女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名があります。境内はシャクナゲの名所としても知られています。

☆弘仁・貞観文化の主要な文化財一覧

<文学>

・『凌雲集』:勅撰の漢詩文集(814年)
・『文華秀麗集』:勅撰の漢詩文集(818年頃)
・『経国集』:勅撰の漢詩文集(827年)
・『性霊集』:空海の漢詩を弟子の真済が編纂した漢詩文集(835年頃)
・『菅家文草』:菅原道真編纂の漢詩文集(900年献上)
・『文鏡秘府論』:空海による漢詩文の評論書(弘仁年間完成)
・『日本霊異記』:景戒編纂の仏教説話集(822年)

<歴史書>

・『続日本紀』:官撰の正史(797年完成)
・『日本後紀』:官撰の正史(840年完成)
・『続日本後紀』:官撰の正史(869年完成)
・『類聚国史』:菅原道真編纂の勅撰史書(892年)

<建築>

・室生寺金堂・五重塔

<彫刻>

・教王護国寺(東寺)講堂五大明王像・不動明王像
・元興寺薬師如来立像
・観心寺如意輪観音坐像
・室生寺弥勒堂釈迦如来坐像・金堂釈迦如来像・十一面観音立像
・新薬師寺薬師如来像
・法華寺十一面観音立像
・薬師寺僧形八幡神像・神功皇后像
・神護寺薬師如来像

<絵画>

・園城寺不動明王像(黄不動)
・教王護国寺(東寺)両界曼荼羅(通称:真言院曼荼羅または西院曼荼羅)
・神護寺両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)
・西大寺十二天像

<書道>

・『光定戒牒』:嵯峨天皇の書(延暦寺蔵)
・『風信帖』:空海の書(教王護国寺蔵)

<教育>

・和気広世創立の弘文院(800年頃)建物は現存せず
・藤原冬嗣創立の勧学院(821年)建物は現存せず
・橘嘉智子・橘氏公創立の学館院(844年頃)建物は現存せず
・在原行平創立の奨学院(881年)建物は現存せず
・空海創立の綜芸種智院(828年)建物は現存せず

旅の豆知識「天平文化」

2019年12月20日 | 旅の豆知識
 奈良時代に花開いた文化で、平城京に遷都された710年から平安京に遷都される7世紀末までの文化です。その特徴は、①律令国家完成期の豪壮さ・雄大さがあること、②鎮護国家思想に基づく仏教文化であること、③平城京を中心に開花した貴族文化であること、④盛唐文化の影響が強い国際色豊かな文化であること、などとされてきました。
 国家の保護下に南都六宗が栄え、鎮護国家思想に基づいて各地に国分寺が創建されて本格的な仏教文化が開花、貴族の教養として漢詩・文も重んじられましたが、和歌が日本人の日常的な表現手段として盛んとなり、多くの万葉歌人が活躍します。その代表として、唐招提寺金堂・講堂・経蔵・宝庫、東大寺法華堂(三月堂)・転害門、正倉院宝庫などの仏教建築、興福寺八部衆立像(阿修羅像など)・十大弟子立像、聖林寺十一面観音立像、唐招提寺金堂盧舎那仏坐像・鑑真和上坐像、東大寺法華堂(三月堂)の諸像、東大寺戒壇院四天王立像、新薬師寺十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)などの仏像、正倉院鳥毛立女屏風、薬師寺吉祥天像などの絵画、正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)の工芸品などがあげられます。また、文学として『万葉集』、『懐風藻』、歴史書として『古事記』、『日本書紀』があげられ、地誌として『風土記』の編纂が諸国に命じられました。
 尚、聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くこととされましたが、東大寺を除いて、当時の建築物は残れておらず、近年の発掘調査によって、その跡が史跡や特別史跡に指定されているところがいくつかあります。さらに、律令体制の整備に伴い、国ごとに国衙や郡衙が造営され、その遺構が残されて史跡とされているところがいくつかありますが、東北地方経営の中心となった多賀城跡と西国経営の中心となった太宰府跡は特に重要とされ、特別史跡として整備されてきました。

〇天平文化を巡る旅9題

 旅先で天平文化の関係地を訪れ、良かった所を9つ、北から順に紹介します。

(1) 多賀城跡<宮城県多賀城市>

 奈良時代の724年(神亀元)に創建された朝廷の東北地方侵略の拠点となった城柵で、その巨大な礎石の跡に目を奪われます。陸奥国府や鎮守府として機能した重要な遺跡で、1966年(昭和41)に国の特別史跡に指定されました。また、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されています。その一角に日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つ多賀城碑(壺碑)があって、江戸時代に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で立ち寄った所としても知られています。近くに、「東北歴史博物館」があり、出土品を展示すると共に、総合展示室では旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示しています。

(2)下野薬師寺跡<栃木県下野市>

 栃木県南部、鬼怒川右岸の平野部に立地していた古代寺院の跡です。この寺は、7世紀末にこの地方を治めた豪族である下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと伝えられています。奈良時代には、正式に僧侶を認める戒壇が設けられていたことで知られていますが、当時は、他に奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしかなく、これらを「三戒壇」と呼んでいました。また、孝謙天皇に取り入って権勢をふるった、弓削道鏡が、宇佐八幡宮神託事件後、この寺の別当に左遷され、当地で没したことでも知られています。その後、寺は盛衰を繰り返えし、跡地には安国寺が設けられています。1921年(大正10)国の史跡に指定され、1966年(昭和41)から発掘調査が開始され、毎年のように継続されてきました。現在は、史跡公園としても整備され、近くに「下野薬師寺歴史館」も建てられ、回廊の一部も復元されて見学できるようになりました。

(3) 多胡碑<群馬県高崎市吉井町>

 奈良時代の711年(和銅4)に多胡郡が設置された記念に建てられた石碑です。片岡・緑野・甘良郡から300戸を分けて多胡郡としたことを記したもので、古代の金石文としてとても貴重なので、1921年(大正10)に国史跡に、1954年(昭和29)には、国の特別史跡に指定されました。日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つであり、上野三碑(金井沢碑、山上碑、多胡碑)でもあります。現在、一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備され、多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存、1996年(平成8)には、隣接して、「多胡碑記念館」も開館し、多胡碑の研究資料の他、考古資料や古代中国の拓本などを展示しています。

(4) 平城宮跡<奈良県奈良市>

 奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備される予定になっています。この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了しています。1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されました。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができます。また、朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、遣唐使船が復原展示され、平城京の歴史についても学ぶことができます。

(5) 東大寺<奈良県奈良市>

 奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

(6) 興福寺<奈良県奈良市>

 南都六宗の一つ、法相宗の大本山で、南都七大寺の一つに数えられています。710年(和銅3)の平城遷都の直後に、藤原不比等が建立した藤原氏一門の氏寺でした。奈良時代には、七堂伽藍が整備され、多くの天平仏(乾漆八部衆立像、乾漆十大弟子立像など)が造立され、現在でも見ることができます。平安時代には、大荘園領主として、また多数の僧兵を擁して権勢を誇りました。創建以来、幾度も火災に見まわれましたが、その都度再建を繰り返してきたものの、源平合戦最中の1180年(治承4)に行われた平重衡の南都焼討により、甚大な被害を受け、大半の伽藍を焼失したのです。しかし、鎌倉時代に多くが復興され、その時に建造された北円堂、三重塔(2つとも国宝)が残り、金剛力士像、無著象、世親像、天灯鬼像、竜灯鬼像などの鎌倉時代の慶派の傑作も残され、いずれも国宝に指定されています。その後、1415年(応永22)再建の東金堂や1426年(応永33)頃に再建された五重塔は現存し、国宝に指定されていますが、江戸時代の1717年(享保2)の火災では、西金堂、講堂、南大門などを焼失したものの、再建されず、明治維新期の廃仏毀釈でも大きな破壊を受けました。それからも再興されて、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(7) 唐招提寺<奈良県奈良市>

 鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

(8) 新薬師寺<奈良県奈良市>

 奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山です。奈良時代の747年(天平19)に、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したと伝えられ、天平文化を代表する創建当時の本堂(国宝)と本尊薬師如来像(国宝)、十二神将像(国宝)があります。749年(天平勝宝1)には墾田500町が施入され、七堂伽藍を誇り、住僧1000人の大寺となり、東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられたとのことです。しかし、780年(宝亀11)に、本堂を残して焼失し、鎌倉時代に明恵上人によって再興され、江戸時代にも幕府の保護を受けました。

(9) 太宰府跡<福岡県太宰府市>

 7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関の跡です。朝廷の九州地方経営の中心となった役所で、外交と防衛を主任務とすると共に、九州地方の各国の人事や監査などの行政・司法を所管しました。この跡は、1921年(大正10)に、国の史跡に指定され、1953年(昭和28)には、国の特別史跡に昇格されました。また、平安時代前期の901年(昌泰4)に、菅原道真が左遷されたことで有名で、道真を祀った近くの天満宮と共に散策すると古代史を思い起こさせてくれます。

☆天平文化の主要な文化財一覧

<仏教建築>

・唐招提寺金堂、講堂…講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。
・唐招提寺経蔵、宝庫…長屋王邸の遺構で正倉院より古い。
・東大寺法華堂(三月堂)、転害門
・正倉院宝庫(校倉造)
・法隆寺東院夢殿
・栄山寺八角堂

<仏像>

・興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像
・聖林寺十一面観音立像
・唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像
・東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像
・東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像
・東大寺戒壇院四天王立像
・新薬師寺(奈良市)十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)

<絵画>

・正倉院鳥毛立女屏風
・薬師寺吉祥天像

<工芸品>

・正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)
・東大寺大仏殿八角灯籠

<詩歌>

・『万葉集』…代表的な歌人:大伴旅人、大伴家持、山上憶良「貧窮問答歌」、山部赤人
・『懐風藻』…代表的な詩人:淡海三船・石上宅嗣

<歴史書・地誌>

・『古事記』…712年完成
・『日本書紀』…720年完成
・『風土記』…713年に諸国に命じられる

旅の豆知識「白鳳文化」

2019年12月19日 | 旅の豆知識
 飛鳥時代の後半に花開いた文化で、大化の改新以後の7世紀後半から平城京に遷都される8世紀初頭までの文化です。その特徴は、①律令国家形成期の生気ある若々しさがあること、②国家の仏教興隆策により仏教文化を基調としていること、③遣唐使によって初唐文化の影響を受けていること、などとされてきました。仏教に関する建築、彫刻、絵画、工芸などが発達し、その代表として、薬師寺の東塔、山田寺の回廊、法隆寺東院伝法堂などの建物、薬師寺の薬師三尊像・聖観音立像、法隆寺の阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)・観音菩薩立像(夢違観音)、興福寺仏頭などがあげられ、法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画などの絵画も有名です。また、文学にも発展があり、漢詩は大津皇子・大友皇子らが代表的な詩人で、奈良時代の『懐風藻』に収録され、和歌は天智・天武・持統天皇、額田王、柿本人麻呂らが活躍し、奈良時代の『万葉集』に収録されました。

〇白鳳文化を巡る旅8題

 旅先で白鳳文化の関係地を訪れ、良かった所を8つ、北から順に紹介します。

(1) 法隆寺<奈良県生駒郡斑鳩町>

 飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院です。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされていますが、一度焼失して白鳳期に飛鳥様式で再建された金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、東院伝法堂は白鳳時代の住居を寺としたものとされてきました。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群となっています。その金堂には、白鳳期の壁画が描かれていましたが、戦後の火災で焼亡(復元壁画あり)しました。また、銅造阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)と銅造観音菩薩立像(夢違観音)は白鳳期の代表的仏像とされています。寺内には、38件の国宝と151件の国の重要文化財があり、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

(2) 薬師寺<奈良県奈良市西ノ京町>

 飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地(奈良県奈良市西ノ京町)に移転されました。南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構で白鳳様式の代表建造物で、東院堂は鎌倉時代の再建、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

(3) 山田寺<奈良県桜井市山田>

 蘇我倉山田石川麻呂の発願によって造られた古代寺院です。山号は大化山で、浄土寺、華厳寺とも称し、法相宗に属しました。飛鳥時代の641年(舒明天皇13)着工し、2年後には金堂が完成しましたが、649年(大化5)に石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、金堂前で一族もろとも自害するという事件が起こり、造営は一時中断します。その後、疑いは晴れ、造営は継続されて、676年(天武天皇5)に塔が完成し、講堂建立ののち、685年(天武天皇14)に、本尊丈六像の開眼供養が挙行されました。四天王寺式の伽藍配置に近い(山田寺式とも言います)寺だったとされています。しかし、鎌倉時代初期の1187年(文治3)に興福寺僧兵の強奪により堂塔を焼亡し、このとき本尊丈六像は奪取され、興福寺東金堂の本尊に据えられたものの、1411年(応永18)火災にあい頭部だけが残ったもので、白鳳期のものとされ、国宝に指定されています。山田寺は、中世以降は衰退して、明治時代前期の廃仏毀釈の際に廃寺となりました。古代の貴重な寺院跡なので、1921年(大正10)国の史跡に指定され、1952年(昭和27)「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されます。1976年(昭和51)には、寺跡発掘調査の際、回廊の一部が倒壊したまま出現し、注目を浴びることになり、出土した回廊は科学的保存処置を施し、一部が復原された形で「奈良文化財研究所飛鳥資料館」に展示されています。

(4) 藤原宮跡<奈良県橿原市>

 飛鳥時代の都城で、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城を藤原京といいます。710年(和銅3)に平城京に遷都されるまでの日本の首都とされました。今でも藤原京の中心にあった藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっています。藤原宮跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されており、現在では、その6割ほどが保存されて、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられています。この地域から、木簡約1200点が出土していて、古代史を解明する上で重要な資料となっています。これらの出土品は、「奈良文化財研究所藤原宮跡資料室」や「飛鳥資料館」(明日香村奥山)で公開されています。

(5) 飛鳥池工房遺跡<奈良県高市郡明日香村>

 古代の工房遺跡で、ガラス製品や金・銀・銅製品などを製作していたことが判明していますし、数千点にも及ぶ木簡が出土していて、2001年(平成13)に国の史跡に指定されています。特に、その中のある工房からは、白鳳期の富本銭の未成品560点および鋳型・鋳棹など鋳銭関連の出土品が発見されたことから、和同開珎以前に鋳造貨幣があったことが確認されました。この遺跡は、「万葉文化館」の敷地内にあり、同館の特別展示室では、飛鳥池工房遺跡復原遺構(炉跡群復原展示)のほか、富本銭を始めとした出土品を紹介していて、見ることができます。

(6) 酒船石遺跡<奈良県高市郡明日香村>

 昔から知られている酒船石に加えて、2000年(平成12)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになりました。酒船石の方は、1927年(昭和2)に、国の史跡に指定されています。また、亀形石造物と小判形石造物は、白鳳期の斉明天皇の時代に最初に造られその後平安時代まで約250年間使用された形跡があり、何らかの祭祀が行われた遺構と推定されるが定かではありません。それ以外にも、飛鳥時代につくられた猿石、二面石、亀石などがあり、謎の石造物ということで、古代のロマンを掻き立ててくれます。

(7) 高松塚古墳<奈良県高市郡明日香村>

 7世紀末~8世紀初頭に造られた終末期古墳と考えられる円墳(直径約20m、高さ約5m)です。1972年(昭和47)に発掘され、石槨内部の天井および四周に星宿、日月、四神、侍奉の男女官人像の彩色壁画が発見され、また海獣葡萄鏡、乾漆棺、人骨などが出土して、一躍脚光を浴びました。衣服の制や喪葬儀礼、また朝鮮や中国との文化交流を考える上で大変貴重なものなので、1972年(昭和47)に国の史跡に、1973年(昭和48)には特別史跡に指定され、壁画は、1974年(昭和49)に国宝となっています。壁画の劣化が進んだので、文化庁は2007年(平成19)に石室を解体し壁画の修理を進め、現在は保存科学的管理のもとに密閉保存されています。出土品は「国立飛鳥資科館」で展示されていますし、周辺は、国営飛鳥歴史公園として整備され、古墳の近くに「高松塚壁画館」が造られて、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾り金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカが展示されるようになりました。

(8) キトラ古墳<奈良県高市郡明日香村阿部山>

 7世紀後半から8世紀にかけて築造された終末期古墳と考えられる二段築成の円墳(直径約14m、高さ約3.3m)です。1978年(昭和53)頃から存在が知られるようになり、1983年(昭和58)のファイバースコープによる石室内探査によって、11月7日に北壁から、四神の一つ玄武の壁画が発見されて注目されました。15年後の1998年(平成10)3月の上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見され、2000年(平成12)7月31日に古墳が国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に格上げされています。翌年のデジタルカメラを用いた調査で、南壁の朱雀が確認され、獣頭人身十二支像の存在も確認され、同年12月には国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として新たに都市計画決定されました。2003年(平成15)から、文化庁による石室内調査が開始されましたが、壁画の描かれたしっくいが崩落寸前であることが判明します。そこで、翌年6月から壁画修復のための調査が始まり、同年8月には、日本で初めての本格的な壁画の取り外しが開始されることとなりました。2010年(平成22)に壁画の取り外し作業が終わり、2013年(平成25)には石室の考古学的調査が終了したので、古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻されています。2016年(平成28)9月24日に国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園、「キトラ古墳壁画体験館四神の館」が開館して、この古墳について学べるようになりました。古墳の彩色壁画としては、高松塚古墳と並んで大変貴重なので、2018年(平成30)10月31日に壁画と出土品が国の重要文化財に指定され、翌年7月23日には壁画が国宝に格上げ指定されています。

☆白鳳文化の主要な文化財一覧

<建築>

・藤原宮の内裏と朝堂院…現存せず
・大官大寺…金堂跡と塔跡の土壇などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して大安寺となる。
・本薬師寺…金堂跡、東西の塔跡などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して薬師寺となる。
・山田寺(浄土寺)…桜井市山田にある。蘇我倉山田石川麻呂が発願して倉山田家の氏寺として建立した寺で、発掘調査により東回廊の部材が出土している。
・法隆寺西院伽藍…飛鳥様式で白鳳時代に再建された。
・法隆寺東院伝法堂…白鳳時代の住居を寺とした。
・薬師寺東塔…白鳳様式で奈良時代初期に再建された。

<彫刻>

・薬師寺金堂銅造薬師三尊像
・薬師寺東院堂銅造聖観音立像
・深大寺銅造釈迦如来倚像
・法隆寺銅造阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)
・法隆寺銅造観音菩薩立像(夢違観音)
・興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊・薬師三尊像の中尊の頭部)
・蟹満寺銅造釈迦如来坐像 

<絵画>

・法隆寺金堂壁画
・高松塚古墳壁画
・キトラ古墳壁画

<工芸>

・薬師寺金堂薬師如来台座

<古墳>

・高松塚古墳
・キトラ古墳

<文学>

・漢詩…大津皇子・大友皇子らが代表的な詩人で、奈良時代の『懐風藻』に収録されています。
・和歌…天智・天武・持統天皇、額田王、柿本人麻呂らが活躍し、奈良時代の『万葉集』に収録されています。

旅の豆知識「飛鳥文化」

2019年12月18日 | 旅の豆知識
 飛鳥時代の前半に花開いた文化で、仏教が伝来した6世紀半ばから大化の改新があった7世紀前半までの文化です。その特徴は、①中国六朝文化の影響を受けていること、②仏教を基調としていること、③都のあった飛鳥地方を中心に畿内とその周辺で花開いたこと、などとされてきました。仏教に関する建築、彫刻、絵画、工芸などに著しい発達がみられ、その代表として、法隆寺の建築物、仏像、絵画などがあげられ、石舞台古墳をはじめとして、多くの古墳も造営されています。

〇飛鳥文化を巡る旅6題

 旅先で飛鳥文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 広隆寺<京都府京都市右京区太秦>

 京都市右京区太秦にある真言宗の寺院で、山号を蜂岡山といいます。推古天皇の時代の603年に、秦河勝が聖徳太子のために造立したと伝えられ、聖徳太子建立七大寺の一とされています。当寺一帯は古くから渡来人の秦氏が住んでいた地域で、その氏寺となっていました。しかし、創建当初の位置は、現在地から北東数kmの地点とされ、現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移ったとのことです。その後、818年(弘仁9)と1150年(久安6)に焼失しましたが、そのつど再建されました。国宝彫刻の部第一号の飛鳥時代の弥勒菩薩半跏像を有することで知られていますが、それ以外に、桂宮院本堂(国宝)、講堂(国指定重要文化財)などの建造物、国宝や国重要文化財に指定された数多くの仏像や書跡、絵画、彫刻、美術工芸品があり、文化財の宝庫となっています。

(2) 法隆寺<奈良県生駒郡斑鳩町>

 奈良県生駒郡斑鳩町にあるこの寺は、飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院です。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされています。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、38件もの国宝と151件の国の重要文化財があるのです。また、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(3) 中宮寺<奈良県生駒郡斑鳩町>

 奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の尼寺で、山号は法興山といいます。聖徳太子建立七ヵ寺の一つで、聖徳太子の生母である穴穂部間人皇女(用明天皇皇后)没後、その宮を寺に改めたと伝えられています。7世紀初頭の創建と考えられますが、鎌倉時代に衰えたものの、室町時代末に再興されました。現存の建造物はほとんどが江戸時代以降のものですが、所蔵の弥勒菩薩半跏像と天寿国繍帳は、飛鳥時代のもので国宝に指定されています。

(4) 飛鳥寺<奈良県高市郡明日香村>

 奈良県高市郡明日香村にある蘇我氏の氏寺で、飛鳥時代の6世紀末から7世紀初めに蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的仏教寺院です。創建時の伽藍は失われ、現在の建物はずいぶん小さくなっていますが、塔や金堂の礎石だけは残されています。本尊は日本最古の仏像で、「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来(国指定重要文化財)で、鞍作止利の作といわれています。西方の近くの田んぼの中に、蘇我入鹿の首塚と伝えられる五輪塔が立っています。飛鳥時代の蘇我氏を偲ぶには最適なところです。

(5) 石舞台古墳<奈良県高市郡明日香村>

 奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の古墳です。元々は方墳で、盛り土があったと思われますが、現在では、それが失われ、巨石で築かれた横穴式石室(石室の長さ 7.7m、幅 3.4m、高さ 4.8m)が露出した状態となっていて、舞台状の外観を呈しているのでこの名が生まれました。埋葬者は、蘇我馬子と伝えられ、1935年(昭和10)に国の史跡になり、1952年(昭和27)には、特別史跡に指定、現在は、国営飛鳥歴史公園の一部として整備されています。

(6) 四天王寺<大阪府大阪市天王寺区>

 大阪市天王寺区にある和宗の総本山となっている寺院です。推古天皇の時代の593年に造営が開始されたと伝えられ、聖徳太子建立の七大寺の一つとされています。中門・塔・金堂・講堂が直線的に並ぶいわゆる四天王寺様式の伽藍配置として知られ、飛鳥時代の様式を伝えています。しかし、836年(承和3)以降たびたび焼失していて、現在の建物は、第二次大戦後復元されました。本尊は救世観音菩薩で、寺宝に扇面法華経冊子などがあります。

☆飛鳥文化の主要な文化財一覧

<仏教寺院>

・四天王寺…聖徳太子の発願により593年(推古天皇元年)に建て始められた、日本最古の本格的仏教寺院の1つですが、建物は何度も焼失して再建されている。
・飛鳥寺(法興寺)…崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成、蘇我馬子が造営の中心になったものですが、現存建物は再建されたものです。
・百済大寺…舒明天皇により639年(舒明天皇11年)に建立され、舒明の没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇によって継承された、最初の天皇家発願の仏教寺院ですが、移転し遺構だけとなっています。。
・法隆寺(斑鳩寺)…用明天皇により発願され、その遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇により607年(推古天皇15年)に創建されたが、670年(天智天皇9年)に焼失し、現存する西院伽藍はその後の再建であるものの、日本最古の木造建築です。
・中宮寺…聖徳太子創建と伝えられますが、現存建物は再建されたものです。
・広隆寺(蜂岡寺、秦公寺)…秦氏の氏寺として建てられましたが、現存建物は再建されたものです。
・善光寺(定額山 善光寺)…皇極天皇元年(642年)に三国渡来の一光三尊阿弥陀如来が現在の地に遷座、皇極天皇3年(644年)皇極天皇の勅願により本堂を創建したものの、現存建物は再建されたものです。

<彫刻>

・飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)…鞍作止利の作(頭部と指の一部が現存)
・法隆寺金堂釈迦三尊像…鞍作止利の作
・法隆寺夢殿救世観音像
・法隆寺百済観音像
・広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
・中宮寺半跏思惟像(弥勒菩薩・寺伝は如意輪観音)

<その他の遺物>

・繍仏三経義疏(御物)…聖徳太子の著作・自筆といわれている。
・天寿国繍帳(中宮寺蔵)…聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたという。
・玉虫厨子(法隆寺蔵)…仏教工芸品で装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名がある。

旅の豆知識「古墳文化」

2019年12月17日 | 旅の豆知識
 古墳文化は、古墳時代の文化という意味で使われ、大和朝廷による支配が全国に及び地方にも力を持った豪族がいて、その象徴として巨大な古墳が造られたものだ考えられています。3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多いのですが、終わりの方は、飛鳥時代(6世紀末~710年)と重なり、区別されるようになりました。円墳、方墳、上円下方墳、双円墳などいろいろな形の古墳がありますが、特に大型になるのは、前方後円墳で、だいたい3世紀半ば過ぎから6世紀末まで、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造営され、見ごたえがあります。
 一方で多くの人々は、依然として竪穴住居に住み、営々として農耕生活を営んでいました。そして、支配者によって古墳や寺院の造営に駆り出されていきました。旅先で巨大な古墳を見ることもあるかと思いますが、その傍らにある小さな竪穴住居も見学したいものです。それらの人々が営んでいた農耕生活では、鍬,鎌などの農具に鉄の刃先を使用するようになり、鉄器の普及などによって、耕地の拡張がなされ、生産量が増大、古墳文化を支えていましたが、貧富の格差が広がっていった時代でもありました。
 古墳は、日本各地にありますが、まとまって見学するには、「風土記の丘」(文化庁の風土記の丘設置構想に基づき、遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする野外博物館・公園)に行くのが良いかと思います。全国に19ヶ所ありますが、ほとんどのところに古墳が含まれ、石室内部が見学できるところもあります。また、園内に資料館も併設されていて、出土品などを見ることができます。

〇古墳文化を巡る旅九題

 旅先で古墳文化の関係地を訪れ、良かった所を9つ、北から順に紹介します。

(1) 上毛野はにわの里公園<群馬県高崎市>

 約1,500年前の古墳時代の東日本において、有数の勢力を誇った王の拠点が、ここにありましたが、榛名山の噴火によって一瞬にして埋没し時間が止められてしまったのです。近年発掘調査の後、「上毛野はにわの里公園」として整備されました。ここには、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つを総称した保渡田古墳群があり、1985年(昭和60)に国の史跡に指定されています。このうち、八幡塚古墳・二子山古墳が築造当時の姿に復元整備されており、八幡塚古墳の後円部には、王の棺(舟形石棺)の実物が見学できるドーム施設も造られました。また、隣接する「かみつけの里博物館」には、9コーナーからなる常設展示室があり、八幡塚古墳が造られたとされる約1500年前の世界を、復元した模型や、出土品などを展示しています。特に、火山灰に埋もれて発掘された下芝遺跡群、黒井峯遺跡、中筋遺跡などの発掘データをもとに、典型的なムラの姿を模型(榛名山東南麓の古墳時代ムラ 縮尺=1/80)で再現してあり、必見です。また、三ツ寺Ⅰ遺跡は、日本ではじめて発見された豪族の館で、館の復元模型(縮尺=1/100)と、出土した遺物が展示してあってとても興味深いものです。この遺跡は、上越新幹線の敷地となっているのが残念でなりません。

(2) さきたま古墳公園<埼玉県行田市>

 埼玉県行田市にあり、1938年(昭和13)に国指定史跡となりました。1967年(昭和42)から風土記の丘第2号として整備が進められ、その古墳群を中心として公園(面積37.4ha)となり、日本最大の円墳である丸墓山古墳、関東有数の前方後円墳である二子山古墳、稲荷山古墳などを含め9基の古墳が広い敷地の中に点在しています。しかし、なんといっても、メインは、園内の「県立さきたま史跡の博物館」に実物展示されている国宝の“金錯銘鉄剣”です。稲荷山古墳から出土した、5世紀のものといわれる鉄剣に、115文字の金像眼が発見され、当時関東まで大和朝廷の勢力が及んでいたと大きな話題となり、同時に出土した他の副葬品と共に1983年(平成5)には国宝に指定されました。その発見によって、日本の古代史が塗り替えられたとのことで、100年に一度の大発見と言われています。その他にも、石室内部が復元公開されている将軍山古墳へも行ってみたいものです。

(3) 埴科古墳群<長野県千曲市>

 長野県千曲市にある4つの前方後円墳(森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳)の総称で、1971年(昭和46)に、一括して国の史跡に指定されています。その内、森将軍塚古墳と有明山将軍塚古墳は、麓にある「森将軍塚古墳館」と「長野県立歴史館」を合わせて「科野の里歴史公園」として整備されました。森将軍塚古墳は、発掘調査の結果に基づき正確に築造時の状況に復原してあり、石が積まれ、埴輪が並んでいます。この古墳は、今から約1,600年ほど昔(4世紀)に造られた、全長 約100mの前方後円墳で、築造時の状態が学べる貴重なものです。また、併設されている「森将軍塚古墳館」には、竪穴式石室や出土した副葬品・埴輪などを実物や模型・映像によって展示しています。さらに、この山麓から発掘された屋代清水遺跡の古墳時代中期のムラが『科野のムラ』として、家・物置小屋や倉庫をはじめ、ムラの儀式の場などが復原されています。

(4) 平出遺跡<長野県塩尻市>

 古墳時代というと、巨大古墳ばかりが目立ちますが、大部分の人は竪穴住居に住んで、農耕生活を営んでいました。その当時の生活を伝えるのがこの遺跡で、1952年(昭和27)に国の史跡に指定されています。その当時の住居が復元され見学することができますが、弥生時代の住居と異なる点は、住居内に竈(かまど)があることです。また、近くの「平出博物館」には、出土品が展示されていて、見学することができます。体験学習は、「平出遺跡公園ガイダンス棟」(博物館から徒歩8分)で行っていて、火越こし、勾玉づくり、弓矢飛ばし、土器づくり、ガラス玉づくりなど多様なメニューがあります。

(5) 大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)<大阪府堺市>

 大阪府堺市にある日本最大の墳丘長(486m)を持つ前方後円墳は、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵」として、第16代仁徳天皇の陵に治定されています。しかし、近年の研究では、他の天皇の陵ではないかという説もあり、大仙陵古墳という呼び方がされるようになっています。尚、墳丘本体の体積や表面積では誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)と同じような規模で、特に体積については誉田御廟山古墳の方が大きいとの指摘があります。

(6) 五色塚古墳<兵庫県神戸市垂水区>

 この古墳は、別名千壺古墳とも呼ばれ、古墳時代の4世紀後半に築造された兵庫県下最大の前方後円墳です。全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18m、墳丘は葺石で覆われていて、雄大なもので、1921年(大正10)に国の史跡に指定されました。その後、1965年(昭和40)から10年かけて、築造当時の姿に復元され、当初2,200個ほど並べられていたと思われる高さ1mほどの筒型の円筒埴輪が、レプリカで再現されています。自由に墳丘部に上ることができるので、その規模の大きさや築造当時の葺石、円筒埴輪の配列などを実感できる貴重な古墳です。

(7) 岩戸山古墳<福岡県八女市>

 福岡県八女市にある前方後円墳(全長約135m)で、九州屈指の大古墳です。八女古墳群を構成する古墳の1つで、古墳時代後期の6世紀前半の築造と推定され、筑紫国造磐井の墓ではないかと言われています。墳丘上から石人、石馬、円筒埴輪などが発見され、横穴式石室があったと考えられ、空濠らしき周濠がめぐり、後円部の後方の堤外に方形の別区があります。石人・石馬が多量に飾られ、形態が特異で、絶対年代を知ることのできる古墳として重要なので、1955年(昭和30)に、国の史跡に指定されました。石人、石馬、円筒埴輪などは、「岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」に展示されています。

(8) 江田船山古墳<熊本県玉名郡和水町>

 熊本県玉名郡和水町にある前方後円墳で、清原古墳群の中で最古・最大の古墳で、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測されています。本来は、全長61m、前方部幅約40m、同高さ約6m、後円部直径40m、同高さ約7.9mあったと考えられ、盾形の周濠をもっていました。後円部の中央に口を西に開いた横口式石棺があり、1873年(明治6)に石棺内より90点以上の副葬品が掘り出され注目されます。その中には、鏡6面、冠帽、金製耳飾り、玉類、馬具、金銅沓、武器、須恵器、甲冑などありましたが、とりわけ、75文字の銀錯銘をもつ大刀が有名で、その解読が議論となってきました。1951年(昭和26)に国の史跡に指定され、その後、2回にわたり追加指定されていますが、指定名称は、「江田船山古墳附塚坊主古墳 虚空蔵塚古墳」となっています。出土品の大部分は東京国立博物館に所蔵され、「肥後江田船山古墳出土品」として、1964年(昭和39)に国の重要文化財となり、翌年には、国宝に指定されました。1978年(昭和53)に、埼玉県稲荷山古墳より出土の鉄剣に金錯銘が確認されるに及んで、江田船山古墳出土の太刀の銀錯銘も「治天下獲□□□歯大王世」と読み、稲荷山古墳より出土の鉄剣金錯銘と同じ第21代雄略天皇(在位456~479年)に比定されるようになってきています。

(9) 西都原古墳群<宮崎県西都市>

 宮崎県西都市の市街地西方を南北に走る、標高70m程の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群で、3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されています。1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、1966年(昭和41)から、風土記の丘第1号として整備が進められました。現在、前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基が現存し、その立ち並ぶ風景は壮大です。出土品は、園内にある「宮崎県立西都原考古博物館」で見ることができます。