ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

紀伊山中の旅③

2018年11月24日 | 旅行
早朝起きだしたが、外がとても寒そうなので、恒例の朝の散歩を取りやめて、朝風呂に浸かって、体を温めることにした。ほんとうに心地よい硫黄泉(硫化水素型)で、浴後もポカポカしている。
 朝7時から朝食を取り、早めに「中村屋」を出て、国道168号を北上したが、この道は改良されて走りやすい部分とカーブが多く道幅が狭い部分が混在している。注意しながら運転していき、谷瀬の吊り橋に立ち寄っていくことにした。
 有料駐車場に車を入れ、吊り橋上を歩き始めたが、とても高さがあるので足がすくむ。真ん中近くまで来たが、怖くなってきたので、引き返すことにしたが、村の青年はこの吊り橋上をオートバイで走ると聞いて驚く。とはいっても、眺望は素晴らしく、橋上から何回かカメラのシャッターを切っておいた。
 車に戻って、再び北上を開始し、旧西吉野町を過ぎるあたりからは、徐々に開けてきて、紀伊山中を抜け出した。五條市街地へと入ってくると家並みも増え、市役所の駐車場へ車を入れたが、土日祝日は無料開放と書かれている。
 ここから、少し南へ歩いて、国の重要伝統的建造物群保存地区の五條新町を散策しようと考えたのだ。パンフレットによると中世に成立した町場を起源とする五條と江戸時代初めに整備された二見城の城下町に由来する新町の2地区で形成されているとのことだった。古い家並の続く新町通りを西へと歩いていくとコンクリート造りの線路橋が目に留まる。解説版によると五新鉄道跡(国鉄により五條から新宮へと計画された未成線)とのことで、とても興味を持った。滞在交流ラボ「標」までいって引き返し、新町橋近くの「まちなみ伝承館」と「まちや館」を見学したが、いずれも堂々とした造りの民家で、入館無料なのがよかった。さらに東へ歩いて新町口まで行って、引き返し、市役所の駐車場へと戻っていく。
 今日は、3連休の中日で秋の行楽シーズンで、天気も良いので渋滞が心配される。そこで、早めに帰途に就くことにして、ルートを検討したが、飛鳥から桜井へ抜け、国道165号で県境を越えて、三重県へ入っていくことにした。
 桜井市内のファーストフード店で昼食を済ませ、国道を東へと走ったが、結構混んでいてなかなか思うようには走れなかった。そこで、青山峠を越え、榊原温泉を過ぎたところから左折し、スーパー農道「グリーンロード」を走ることにする。さすがにこの道は空いていて、軽快に走り続け、亀山市域から国道306号に乗り換えて、北上していったが、愛知県に入り、帰宅するまでには結構時間がかかってしまった。

紀伊山中の旅②

2018年11月23日 | 旅行
早朝起きだして、少し明るくなってから洞川温泉街を散策してみることにしたが、標高も高く、かなり冷え込んでいるので、防寒対策をしっかりして、宿を出た。
 この温泉街は、とてもレトロな雰囲気が漂っていて、昭和時代前期の町並みを感じさせる稀有なところとなっている。今でも数は減ってきているものの、毎年5月から9月まで大峰山参拝の白装束の人々が団体で訪れているとのことなので、昔の風情を保っているのであろう。古いながらも、荒廃した様子がなく、「陀羅尼助」や「温泉宿」の看板が活きている気がする。そんなことを考えながら、町並みを巡り、気に入った風景をカメラに写しつつ、ゆっくり歩いていたが、結構寒さを感じた。それで、40分ほどで旅館へ戻り、朝風呂に浸かって、体を温めた。
 朝食後、「紀の国屋甚八」を出立したが、心和む温泉街だった。虻峠を越えて、国道309号へ出て左折し、行者還ルートに挑むことにしたが、近畿三大酷道の一つといわれる悪路と聞いていたので、気を引き締めて運転することとした。
 舗装はされているものの、道幅は狭くなり、乗用車一台がやっとで、カーブが多いのだがガードレールすらない区間もある悪路だ。慎重にハンドルを回しながら、進んでいったが、崖下に転落したらひとたまりもないと思うとゾッとする。それでもなんとか、トンネルを越え、ヘアピンカーブの下り坂も乗り切って、国道169号まで出ることができ、ホッとした。
 その後は、紀伊山中の深いV字谷となった北山川沿いを南下していったものの、道路はとてもよくなっていて、安心して車を走らせることが出来る。途中から、池原ダムによって形成されたダム湖の縁を走ることになったが、なかなか良い景観を見せてくれた。しかし、ダム湖に沈んだ村々もあるかと思うと景色を愛でているばかりではいられない。
 ダムサイトの公園で小休止してから、再び車を走らせ、桃崎集落から右折して北山村方面へと向かうとまた道が細くなって、カーブが増えた。それでも、なんとか乗り切って、道の駅「おくとろ」で再び休憩を取った。ここは、日本で唯一飛び地となっている村で、和歌山県に属するものの、周囲はすべて奈良県と三重県に囲まれている。道の駅には、「飛び地の村訪問証明書」なるものが置いてあったので、一枚いただいて記念とした。
 休憩後は、再び国道169号を南下したが、時々車窓から見える瀞峡の景観はなかなかのもで、途中車を停めて、カメラに収めておく。熊野川の宮根橋を渡ると国道168号線へと出て、左折して熊野本宮を目指した。
 昼前には、熊野本宮大社の駐車場に車を入れ、参拝をすまし、宝物館を見学してから、門前町にある食堂の一つ「しもじ大宮店」に入って、昼食をとった。その後、大斎原へいって、熊野本宮大社旧社地を見たが、1989年(明治22)8月の大水害までは社殿が建ち並んでいたところとのことで、現在はパワースポットの一つとして人気があるらしい。
 それからは、湯の峰温泉へと向かう熊野古道を少し歩いてみようと思ったが、入口から階段続きで、急斜面を登らざるを得ず、すぐに引き返してきてしまう。
 今度は趣を変えて、山中の秘湯に浸かることにし、国道168号を北上し、十津川村を目指したが、以前来た時より、道路が改良されているようにも思った。しかし、国道425号へ左折するところを間違え、山道に迷い込んで、どんどん高度が上がって行ってしまい、熊野古道の果無峠まで達してしまった。
 仕方がないので、Uターンして国道168号まで戻り、再び425号へ入りなおした。少し進んでから、県道735号に入ると上湯川沿いの悪路となり、再び慎重にハンドルを切りながら、谷底にある上湯温泉の露天風呂へとたどり着いた。入浴料500円也を払って、入れさせてもらったが、実に開放的な浴槽で、上湯川が間近に見える。泉質には、硫黄を含んでいるようで、硫化水素臭がしたが、ぬるぬる感も充分あって、とても心地が良い。いつまでも浸かっていたい気分だったが、適当に切り上げて、来た道を戻っていった。
 国道168号に復してからは、さらに北上し、十津川村の中心部へと入っていき、村役場の駐車場に車を入れて、道路の向かい側の高台にある村立歴史民俗資料館を訪ねた。ここの展示で、熊野本宮社殿を押し流した1989年(明治22)8月の大水害が、十津川村にも甚大な被害を与え、家や田畑の流出がおびただしく、生計を立てるために北海道へ集団移住して、新十津川村が出来たことを知る。歴史はいろいろなところでつ繋がってくるのだ。
 見学後は、近くの道の駅でお土産を買ってから、今日の宿のある湯泉地温泉へと向かった。ほんの5分ほどで、予約してあった「中村屋」へと到着したが、こじんまりとした宿であるが、女将さんの応対はていねいで、好感を持つ。
 2階の部屋に荷物を置いてから、まず浴場へと行ってみたが、内湯だけではあるものの、とうとうと源泉がかけ流されていた。入浴してみると肌触りがよく、ぬるぬる感が強くて、心地が良い。硫化水素臭もして、山奥の温泉らしいムードがしてとても気に入る。浴後、しばらく部屋で休んでいると、階下の食堂で夕食の準備ができたと呼ばれた。行ってみると牡丹鍋の用意がしてあり、豪快に猪肉が並べられていて、岩魚の塩焼きも付いている。お酒を冷で2合頼み、ぐつぐつと煮え立つ鍋を賞味しながら、上機嫌となった。
 食後は、部屋に戻り、横になってテレビを見ていたら、まどろんできたので、床に就いた。
続く

紀伊山中の旅①

2018年11月22日 | 旅行
今日から、2泊3日で紀伊山中を旅することにして、自家用車で出発したが、天気は曇っているもののまずまずだった。東名阪自動車道から西名阪道に入ったところで、この先で事故渋滞があるとの表示が出ていたのが、気になってくる。仕方がないので、伊賀インターで一端下に降りて、その区間を回避することにした。
 渋滞区間を通り過ぎて、友生インターから、再び西名阪道に復し、その後は順調に走って、針インターで下り、国道369号線を南下した。途中で国道370号線へと乗り換え、さらに南下して、大宇陀の町並みへと入ってきた。
 そこの道の駅に車を駐車して、徒歩で散策してみることにしたが、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているだけあって、レトロな建物が並んでいる。最初に、まちづくりセンター「千軒舎」を見学したが、この街並みが戦国時代から江戸時代前期に城下町として形成されたことが知れた。その後は、街道沿いの商人の町として栄え、薬草や葛、和紙などの商いでにぎわったとのこと。
 町並みには、立派なうだつの上がった商家もあって、なかなか見ごたえがある。そんな中の一軒森野旧薬草園を見学していくことにした。ここは、吉野葛の生産と薬草の販売で繁盛したとのことで、今でも吉野葛を商っている。広い邸内には、斜面状の薬草園があり、今でも約250種の薬草が植わっているそうだ。じっくりと園内を散策したが、斜面の上り下りで疲れたものの、紅葉がきれいだった。
 見学後は、ちょうど昼時になっていたので、近くにある「宇陀牛の丼・件(くだん)」という店に入って、牛丼を食べたが、独特の味付けで、美味しかった。食後は、「薬の館」という建物も見学したが、「藤沢薬品(現:アステラス製薬)」の創業者の家とのことで、薬に関する展示に見ごたえがあった。この地を拠点として発展していった製薬会社がいくつもあったとのことで、興味が沸く。
 それからは、道の駅に戻って、車で国道370号を南下し、下市町から国道309号に乗り換えて、どんどん紀伊山中へと入っていった。新川合トンネルをくぐって、天川村へと至ったが、道路も随分改良されているようだ。
 村役場の近くから県道21号線へと入り、虻峠を越えて、洞川温泉街へたどり着いたが、標高も800mを超え、肌寒さを感じるようになる。最初に、面不動鍾乳洞へ行ってみようと車を駐車してから、モメレール「どろっこ」に乗り込んだが、大木を輪切りにしたような面白い形をしていた。これは、とにかくゆっくりと急斜面を登って行って、鍾乳洞の前へと運んでくれる。洞内は30分ほどで一周出来たが、細やかな鍾乳石が随所にあって、印象に残った。
 その後、再びモノレールで下ってきてからは、龍泉寺と村立資料館を見学したが、意外なことに雨が降り出してきた。それでも、まだ宿に入るには少し早かったので、車で峠下って、天河大弁財天社を参拝してくることにする。ここは、芸能の神様として有名で、浅見光彦探偵が登場する「天河殺人事件」(内田康夫著)の舞台ともなっていて、興味深かった。
 再び洞川温泉街へと戻って、今日の宿「紀の国屋甚八」へと入ったが、創業300余年とのことで、レトロな建物で、気に入る。まず、温泉へ入ったが、ちょうど良い湯温で、長途のドライブの疲れを癒してくれた。その後、別室での夕食となったが、川魚や山菜など地のものばかりが並び、お酒も頼んで、美味しく飲みかつ食べる。食後は、明日のコースを考えながら寝てしまった。
続く

銚子電気鉄道線乗りつぶしの旅

2018年09月08日 | 旅行
今日は、真夏日にはなるが、猛暑にはならないとの予報だったので、いろいろと考えた末、余っている「青春18きっぷ」の最後を使って、日帰りで千葉県へ行って、銚子電気鉄道線の乗りつぶしをしてくることにした。
 特別に早起きをし、手早く朝食を済ませてから、自宅を出て、武蔵野線の始発電車へと乗り込み、東へと向かった。新松戸駅で常磐線へ乗り換えて北上して、我孫子駅で成田行き普通列車に乗り継ぐ。土曜日の早朝なので乗客は少なく、しばらくすると窓外には田園風景が広がってきた。電化はされているが単線なので、電車のすれ違いに時間がかかり、小林駅で5分ほど停車するとのことだったので、改札まで駆けて行って駅スタンプを押してきた。
 成田駅での乗り継ぎ時間が結構あったので、改札で駅スタンプを押してから、駅前のロータリーまで出て、駅舎の写真も撮影する。その後、この駅始発の銚子行きに乗り込み、のんびりと車窓を見ていたが、低空で飛行機が侵入してきて、成田国際空港への着陸態勢に入っていたので、何枚か望遠で捉えた。とにかく成田後の車窓風景はのんびりしていて、睡魔に襲われる。
 佐原駅で鹿島線の鹿島神宮行きにに乗り換えようと下車したが、20分ほど時間があったので、改札で駅スタンプを押してから、外へ出て駅舎の写真を撮り、トイレも済ませて、電車に乗ろうとしたが、0番線がわからず、誤って改札入り口前に止まっている1番線の電車に乗ってしまったら、すぐに扉が閉まった。不安がよぎるのと同時に、反対方向へと走り出し、成田方面へと戻っていくではないか.....。焦ったがどうしようもなく、次の大戸駅で飛び降りたものの、佐原駅へ戻る電車は1時間後だった。しかもこの駅は無人駅でろくな待合室もなく、日差しがきつくて、汗が滴る中で、待つこととなる。そこで、少しでも涼を求めて、30分後に来る成田行きに乗り込み、次の駅でUターンしてくることとしたが、こういう時に融通が利くのが、「青春18きっぷ」なのだ。
 ということで、下総神崎駅まで行き、改札で駅スタンプを押してから、戻る電車に乗り込んだ。再び着いた佐原駅で、0番線を確認したら、駅舎の先の1番線の反対側に作ってあり、鹿島神宮行きが停まっている。今度は、しっかりと行先表示を確認してから、電車に乗り込んだが、1時間余りのロスとなった。鹿島線は、利根川を渡り、水郷地帯を行くので、橋が多く、田園風景が続いている。そんな景色を愛でながら、終点までやってきたが、時間を大分ロスしているので、鹿島神宮参拝をあきらめ、駅スタンプを押しただけで、来た電車で折り返すことになった。
 その電車を香取駅で降り、銚子行きに乗り換えたが、とにかくこの辺りは利根川沿いに平野が広がり、長閑さが漂っている。車窓からぼんやりと眺めているといつしかまどろんでいったが、終点で降りるので心配はない。
 銚子駅では、銚子電鉄線の乗り換え時間が30分以上あったので、改札で駅スタンプを押してから、外へと出た。この駅には駅弁はないとのことだったので、駅前のコンビニで弁当を買い求めることにする。その後、銚子電鉄線の乗り場へ行き、ベンチで弁当を食べてから、11時40分発の電車に乗り込んだ。車内で、1日乗車券「弧廻手形」(700円)を買い求めたが、濡れせんべい1枚とお守りの引換券が付属しているのをユニークに思う。
 この銚子電気鉄道は、この銚子駅から外川駅(6.4km・駅数10)を結ぶ銚子電気鉄道線を運行するローカル私鉄事業者だ。1922年(大正11) に銚子鉄道として会社を設立し、翌年7月5日に、銚子遊覧鉄道の廃線跡を転用して、銚子駅~外川駅間が非電化で開業する。1925年(大正14年)に 直流600Vで電化されたが、1945年(昭和20)に太平洋戦争による空襲で変電所と車庫が焼失し、運転休止に追い込まれまれる。戦後の同年12月に国鉄から蒸気機関車を借り入れて運転再開し、翌年に電車運転を再開、1948年(昭和23)に企業再建整備法により銚子電気鉄道となった。1976年(昭和51)から食品製造販売事業開始し、1995年(平成7)より、「銚電のぬれ煎餅」の販売を開始し、評判となる。2006年(平成18)に経営危機に陥り、多方面の支援を受けて、経営が継続されるが、現在でも鉄道事業は赤字で、食品製造販売事業などで補って存続しているとのことだ。
 入線してきた電車は、前が3000形(元伊予鉄道700系)と後ろが2000形(元京王電鉄2010系)の2両編成でとてもレトロな感じがした。先頭車両の一番前右側最前列に座席を占めたが、土曜日なので鉄道ファンなど結構乗客が多く、すぐに満杯となり、立っている人も見られた。しかも、次の、中ノ町駅では、小学校の団体客が乗り込んできて混雑し、お年寄りの方も乗ってきたので席を譲って、窓際に立った。
 沿線風景は、とても長閑で、単線なのでゆっくりと走る。しかも、閉塞運転でタブレット交換をしているのを見て驚いた。窓外の景色にシャッターを切りながら、20分ほどで終着の外川駅へと着く。
 この駅は、とてもレトロな駅舎で、改札も出札も昭和時代前期の風情のままだ。改札を出て駅スタンプを押し、何回もシャッターを切ってから、折り返しの電車に乗り、次の犬吠駅で下車した。
 この駅でも駅スタンプを押してから、1日乗車券付属の引換券で、売店にて濡れせんべい1枚を手に入れる。次の電車まで1時間以上あるので、徒歩10分ほどのところにある犬吠埼灯台まで行ってみたが、結構暑くて汗が出る。灯台の入り口で200円を払って、上まで登り、太平洋を眼下にしたが、風がとても強く、風の当たる側には行けないほどだった。それでも、大海原や海岸線をカメラに収めてから、下りてきた。付属する資料館や元霧笛室を見学し、周辺の歌碑などを見ながら、犬吠駅へと戻っていく。
 電車に乗り込んでからは、再び沿線の写真を撮りながら、銚子駅へと到着したが、総武本線経由の電車までは1時間以上待ち時間があったので、やむなく、14時5分に出発する成田線の千葉行きへ乗り込んだ。それからは、窓から外を見ていると疲れも加わって、眠くなってきてしまうが、行きに見た風景なので、自然に任せて進んでいく。成田駅を過ぎたら、押鉄旅に切り替えようと考えるようになり、佐倉駅で下車して、駅スタンプを押すこととする。それからも、四街道駅、千葉駅、稲毛駅、津田沼駅、船橋駅で下車して、駅スタンプを押しながら西船橋駅へと到着した。
 ちょっと疲れてきたので、乗り換えた武蔵野線では途中下車せずに進み、19時前には自宅に帰りつくことができた。

JR両毛線・八高線乗りつぶしの旅

2018年09月03日 | 旅行
今日は、台風21号が北上してきているものの、まだそれほとには天気は崩れず、関東一帯は曇りとの予報だった。そこで、余っている「青春18きっぷ」を使って、日帰りで北関東へ行って、JR両毛線と八高線の乗りつぶしをし、駅スタンプも収集してくることにした。
 特別に早起きをし、急いで朝食を済ませてから、自宅を出て、武蔵野線の始発電車へと乗り込み、西へと向かった。南浦和駅で京浜東北線へ乗り換え、ここから北進して、大宮駅で宇都宮行き普通列車に乗り継ぐ。平日の早朝なので、がらすきかと思ったが、結構通勤客が乗っていて、まどろんでいる。それでも、前の方の車両の席は空いていて、ゆったりと座ることができた。利根川を渡り、栃木県境も越えて、小山駅へと至って、両毛線へと乗り換えたが、待ち時間はそれほどない。
 ここから両毛線の旅となるが、のんびり、じっくり行こうと決めて、先頭車両へ乗り込んだ。ほどなくして発車したが、電化はされているものの、単線となっている。
 まず、栃木駅で下車し、駅のスタンプを押してから改札口を出て、駅舎の写真も撮ったが、高架化されていて、立派な駅前広場があった。20分ほどでホームへ戻り、次の電車で西へと進む、今度は佐野駅で下車し、改札で駅スタンプを押したが、行き違いのために停車時間が長かったので、同じ電車に戻って、次へと進む。
 足利駅でも停車時間を利用して、駅スタンプを押し、さらに西進していく。車窓から沿線風景を眺めていたが、とてもレトロな雰囲気のする山前駅舎が見えたので、下車してみることにした。一応有人駅で、駅スタンプも置いてあったので、押印後駅舎の外に出て写真を撮ったが、昔ながらのたたずまいが気に入ったものの、雨がぱらついてきたのが気になる。
 次の電車へ乗り込んだが、桐生駅止まりだったので、終点で降りて、駅スタンプを押し、改札の外へ出て、駅の写真を撮ったが、この駅も高架化されていて、立派な駅前広場があった。暑さ対策なのか、駅舎前の歩道にミストが出る仕掛けがあったのが気になる。その後、ホームへと戻ったが、向かいのホームのわたらせ渓谷鉄道の1両編成の車両が目についたので、近くまで行って、カメラに収めておいた。
 再び電車に乗り込んだものの、次の岩宿駅の雰囲気が気になり、下車することとする。改札を出て、駅スタンプを押し、駅前広場に出てみたが、田舎の小駅のたたずまいで、赤い屋根が印象的だったので、何回もシャッターを切った。観光案内板によると徒歩15分のところに日本の旧石器時代発見の嚆矢となった岩宿遺跡があるとのことで、行ってみたいとも思ったが、少し雨も降っていたので、次の電車でさらに進むことにする。
 次の国定駅へ到着すると、対向する電車が遅れているので、8分ほど停車するとのアナウンスがあった。それで、急いで改札まで行き、駅のスタンプだけを押してきた。そのまま同じ電車で進み、伊勢崎駅で下車して駅スタンプを押す。この駅も高架化されていて、駅舎も駅前広場も立派だったので、カメラに収めておいた。
 次発はこの駅が始発となっていて、折り返しとなる電車が早めに入ってきたので、早々に乗り込む。電車は群馬県の県都に向かって進み、前橋駅へと着いたが、ここも高架化されていて、なかなか立派な造りだった。途中下車し、駅スタンプを押し、駅前広場に出て写真も撮ったが、さすがに県庁所在地だけあって、大きくてゆったりとした感じがする。
 次の電車は、この駅始発の上野東京ラインの東海道本線直通で、15両編成と長い。先頭車両まで歩いて行って、電車のヘッドをカメラで写してから、車両に乗り込んだが、ガラガラだった。
 出発した電車は、数分で利根川を越え、新前橋駅へと入っていったが、この駅で上越線と合流することになる。再びこの駅で下車し、改札近くにあった駅スタンプを押したものの、次の電車まで待ち時間が数分しかなかったので、改札から外へは出ずにホームへと戻っていった。
 次は、交通の要衝となっている高崎駅で下車したが、信越本線、上越新幹線、北陸新幹線、八高線、上信電鉄の乗換駅となっていて大きな感じだ。11時10分発の八高線への乗り換えまで、20分ほど余裕があったので、駅スタンプを押してから、昼食を買い込むことにする。駅弁販売所では、「峠の釜めし」、「だるま弁当」などの名物駅弁も売っていたが、1,000円ほどするので、構内のコンビニで、安く済ませることにした。弁当とお握り1個で500円余を払い、それを持って、八高線の高麗川行ディゼルカーへと乗り込む。発車までに食べ終わり、のんびりと車窓を眺めながら行くことになったが、この線は非電化の単線で時間がかかり、列車本数も少ない。従って、一度下りると1時間は待たなければならないので、途中下車は控えることとする。
 八高線は首都圏最後のローカル線と言われるだけあって、車窓風景は田舎そのものだ。あまりにものんびりしているので、東北地方か、北陸地方でも走っているかの錯覚に陥ってしまう。外秩父山系の山並みや田んぼをぼんやりと眺めているととても癒され、ディゼルカーのエンジン音も心地よく響いてくる。
 そんな景色と雰囲気を愛でながら、1時間半ほどかかって、高麗川駅へと到着した。ここでの八王子行きの乗り換え時間が20分ほどあったので、改札口を出て駅スタンプを押し、例のごとく駅舎の写真を撮ってみたが、とてもレトロな感じがして、好感を持つ。
 ここからは、川越線も分岐しているが、どちらも電化されていて、近代へと近づいていく。八王子方面も最初の内は、変わらない田舎の風景が続くが、入間市を過ぎるあたりから、宅地造成地が目につくようになり、駅も新しく大きくなってくる。拝島駅周辺は首都圏の雰囲気が漂い、青梅線や五日市線、西武線との乗り換えターミナルともなっていた。
 この駅で下車し、駅スタンプを押していたら、急に青梅線に乗って、押鉄旅をしてみたくなってくる。こういう時は、気分のままに行くことにしているので、その電車に乗ってしまった。
 それからは、各駅に下車して、駅スタンプを押していくが、電車間隔が10分ほどなので、そんなに待つこともなく進み、15時には青梅駅まで到達した。ここから先は、1時間に1本くらいしかないので、Uターンすることとする。
 その後は、立川駅で途中下車してから、中央本線で、西国分寺駅まで行き、武蔵野線へと乗り換えて、17時頃には帰宅することが出来た。電車にばかり乗っていたよう見えるかもしれないが、途中下車して階段を上り下りし、駅スタンプを押したり、写真を撮ったりしていたので、万歩計は1万5千を超えており、結構疲れを感じた。

松本電鉄上高地線乗りつぶしの旅

2018年08月25日 | 旅行
今日は、猛暑になるとの予報だったので、少しでも涼しいところはないかと考えた結果、余っている「青春18きっぷ」を使って、日帰りで長野県へ行って、アルピコ交通の松本電鉄上高地線の乗りつぶしをしてくることにした。
 特別に早起きをし、朝食を済ませてから、自宅を出て、武蔵野線の始発電車へと乗り込み、西へと向かった。西国分寺駅で中央本線へ乗り換えさらに西進して、高尾駅で松本行き普通列車に乗り継ぐ。土曜日の早朝なので、長野県方面へと向かう登山客が結構乗っていた。それでも座席を確保することができ、まどろみながら車窓を眺めていく。とにかく早起きしたために、睡魔が襲ってきて、目の焦点が合わなくなってきた。山梨県へ入ると雲が多くなり、途中雨がパラついたりしたが、中央本線の最高地駅である信濃境を過ぎるころには、晴れ模様になってきた。早朝の電車だけに途中で特急に抜かれることも少なく、順調に走って、出発から4時間半ほどで、9時35分には松本駅へと到着した。
 その後は、いよいよ松本電鉄上高地線へ乗ろうと思ったが、次は10時10分までないとのアナウンスだったので、いったん駅の外へ出ることとした。松本駅改札の自販機で、松本電鉄の新島々駅(片道700円)までの切符を買おうとしたが、その脇に一日乗車券(1,000円)があると書かれていたものの、その購入ボタンがない。不思議に思って、JRの駅員に尋ねてみると駅前のアルピコ交通バスセンターで販売しているとのことだった。そこで、まだ出発時間に余裕があったので、駅前広場を横切り、バスセンターまで足を運んで購入することとした。普通に往復乗車するだけでも1,400円(700円×2)かかるので、かなりお得なことは確かだ。しかも、その一日乗車券にはかわいい女の子(渕東 なぎさ)のイラストが描いてあって、気に入った。
 駅に戻って、松本電鉄上高地線のホームへと向かったが、そこには渕東なぎさ(身長152cmの19歳との設定)のイラストがラッピングされた「なぎさTRAIN」の3000系電車が待っていた。車両に乗り込んで座っていると車掌と思しき人が、乗車記念カードとコンサートの案内を配っていて、不思議に感じる。そうこうしているとバイオリンを持った男性が現れ、最後尾車両での演奏が始まったのだ。なんでも新島々駅へ着くまで、車内で無料のバイオリン生演奏が聞けるとのことで、とても驚いた。
 そんな中で、定刻通り10時10分に発車したが、電車の走行音とバイオリンの音がミックスしてなかなか面白い。アルピコ交通もなかなか粋な企画をするものだと感心し、その車両に乗り合わせた幸運を喜んだ。この上高地線は14.4kmの延長なのに14駅もあって、駅間距離が短い。その駅名標には、イラストが描いてあったりして、結構楽しめるのだが、少し雨が降ってきて気になった。車窓には、北アルプスの山々や田園風景も見え、バイオリンの音色をバックにして、心地よく30分ほどで執着新島々駅へと到着した。ここからは、多くの人々がバスに乗り換えて、上高地方面へと向かっていったが、私は駅舎の写真を撮り、駅スタンプを押しただけで、この電車で折り返すことにする。
 帰りの電車もバイオリンの生演奏が聞けて良かったが、沿線の風景を見ながら少し考えてみた。地方の私鉄は、自家用車の普及と沿線人口の減少で、苦境が続き、廃線に追い込まれるところも少なくない。その中で、この松本電鉄上高地線が頑張っていられるのはなぜだろうかと思う。一つは、上高地への観光客をある程度あてにでき、バスとうまく連携していること、一つは、沿線に高校や大学があって通学客が多いこと、一つは、松本駅でのJR線への乗り継ぎが便利なことなどが考え付いた。こういう路線は、地域住民の足としても貴重なので、いつまでも存続してほしいと願わずにはいられなかった。
 松本駅からは、12分ほどの待ち時間で、11時34分発の甲府行き普通があったので、売店で山賊焼弁当(760円)を買って乗り込むことにする。この弁当を社内で食べたが、安い割には結構美味しかった。
 昼間の普通列車は特急に追い抜かれるため、停車時間の長い駅がある。そこで、塩尻駅、岡谷駅では待ち時間を利用して、駅スタンプを押しに行ったが、これも普通列車の旅の楽しみなのだ。
 13時47分には甲府駅に着き、そんなに待ち時間もなく高尾行きの普通へと乗り継げた。ここら辺では、雨は降っていないものの雲が多く、車窓からの富士山が隠されているのを残念に思う。
 15時半前に高尾駅へと着き、ホームへ下り立つと暑さでむっとした。関東平野は相当の猛暑となっているようだが、それをおして、駅の改札へ行き、駅スタンプを押す。これをしばらく続け、中央本線の各駅に降りて、スタンプを押しながら西国分寺駅まで行ったが、あまりの暑さに辟易とする。その後は、武蔵野線へと乗り換え、自宅へ直行したが、日没までには帰着することができた。

福島交通飯坂線乗りつぶしの旅

2018年08月20日 | 旅行
今日は、天気が良くて気温もそれほど高くないとの予報だったので、余っている「青春18きっぷ」を使って、日帰りで福島県へ行って、福島交通飯坂線の乗りつぶしをしてくることにした。
 早起きをし、朝食を済ませてから、自宅を出て、5時過ぎには武蔵野線へと乗り込んだ。南浦和駅で、京浜東北線へ乗り換え、大宮駅で宇都宮線へ乗ろうと思ったが、小金井行の普通列車しかなかったので、とりあえずそれで進むことにした。すでに明るくなっていたので、ぼんやりと車窓を眺めながら、関東平野を北行していく。
 終着の小金井駅では、次の宇都宮行きまで少し時間があったので、改札を出て、駅のスタンプを押す。そろそろ通勤客が増えてきていたので、ホームへ戻って、電車を待ったが、まだのんびりした感じだった。
 しばらくして電車に乗り込み、宇都宮駅で黒磯行きへと乗り継ごうとしたものの、ここでも30分ほどの待ち時間があった。再び改札を出て、駅のスタンプを押してから、ホームへ到着した電車へと乗り込む。
 次の終着黒磯駅でも30分ほどの待ち時間があり、なかなか前へと進んでいかない。ここから県境を越えて福島県へと入るあたりが、沿線では一番人口の少なそうなところで、電車も昼間帯は1時間に1本くらいしかないのだ。
 やっとのことで、新白河行きへと乗車できたが、乗り換えるごとに電車の編成が短くなっていく。山間部のような人気のないところを走って行って、東北地方へと入っていったが、やっと来たという感じがする。
 新白河駅で、郡山行に乗り換えるのにも時間がかかったが、やっとのことで福島県中通りを進むことができる。郡山駅で福島行きに乗り換え、福島交通飯坂線の始発、福島駅へとたどり着いたのは、正午近かった。
 今朝電車に5時過ぎに乗ったのだから、かれこれ7時間近くかかったことになる。まあ、「青春18きっぷ」の旅とはこんなようなものなのだが....。
 結構時間がかかってしまったので、昼食時間を惜しんで、福島交通の乗り場へと急いだが、阿武隈急行の駅を兼ねていた。改札口で、一日乗車券がないか聞いてみたが、飯坂温泉入浴料込みのものしかないとのことだったので、自販機で飯坂温泉駅までの切符(370円)を買い求めることにした。
 福島交通は、福島県内において、福島市の福島駅から飯坂温泉駅(9.2km・駅数12)を結ぶ飯坂線を運行するローカル私鉄事業者だ。1924年(大正13)に、福島飯坂電気軌道として、福島駅~飯坂駅(現在の花水坂駅)間が開業した。同年に飯坂電車に社名変更し、1927年(昭和2)3月23日に、花水坂駅~飯坂温泉駅間が延伸開業し全通する。同年10月1日に、福島電気鉄道が飯坂電車を合併し、飯坂西線となり、1962年(昭和37)7月12日に福島交通に社名変更した。尚、鉄道事業以外に、自動車運送事業(路線バス、貸切バス、貨物運送等)、保険業務、旅行業などを営んでいるとのことだ。
 ここからは、先頭車両の一番前の窓際に陣取って、車窓を楽しみながら沿線の写真を撮っていくことにする。沿線には、レトロな駅舎や鉄橋があって、被写体には困らない。23分ほどで、終着飯坂温泉駅へと到着したが、この駅が一番立派だった。来た電車は2分で折り返すとのことだったので、駅前の写真を撮ったり、昼食も買い求めたかったので、25分後の次発で戻ることとする。
 駅舎の外へと出てみると大きな松尾芭蕉の像がある。そういえば、「奥の細道」の旅で芭蕉は飯坂温泉へ泊まっているのだった。それをカメラに収め、駅の脇を流れる川面の風景にシャッターを切ってから、昼食を購入するため、構内のコンビニへと入った。結局、時間節約のために、オニギリとカレーパンを買って、駅のベンチで食べることにする。ちょっと味気ない感じもするが、ここへ来るまでに時間がかかりすぎているし、適当な食堂もなさそうだったので、致し方ない。
 食後は、自販機で福島駅までの切符(370円)を買い、再び飯坂線へと乗り込んだ。復路は座席に座りながら、車窓から沿線の風景を楽しんでいくが、長閑な感じがする。終点の福島駅の脇には、JR線への乗り換え口があり、簡単にホームへ出ることができ、すぐに郡山行きへ乗ることができる。
 郡山駅では、水郡線か磐越東線を経由して、常磐線を使って戻ることも考えたが、適当な時間の列車がなかったので断念し、来た線路をひたすらに復していくことにした。
 しかし、新白河駅での乗り換えには、50分ほどの時間を要し、黒磯駅、宇都宮駅でも待ち時間があって、帰着が遅くなりそうだった。そこで、宇都宮駅での待ち時間を利用して、構内のコンビニへ行って、夕食を買い求めることにする。チキンカツカレーピラフを買い求めたが、冷たくなっていて、あまり美味しくはなかった。
 この駅からは、湘南新宿ラインの逗子行きへ乗り込んだが、車窓はだんだん暗くなっていき、小山駅あたりでは、ほとんど見えなくなってしまったので、あとはまどろみながら、席に座り続けることとなる。
 結局、浦和駅、南浦和駅で乗り換え、自宅へと帰り着いたのは、夜8時近くとなっていて、かなり疲れてしまった。

近江鉄道乗りつぶしの旅

2018年08月12日 | 旅行
お盆に愛知県の実家に帰省中だが、天気もまずまずとのことなので、「青春18きっぷ」を使って、日帰りで滋賀県へ行って、近江鉄道の乗りつぶしをしてくることにした。
 朝食後実家を出て、中央本線に乗って、金山駅まで行き、東海道本線の米原行き新快速に乗り換える。結構混んでいたが、なんとか窓側の席を確保して、ぼんやりと窓外の景色を眺めていた。電車は名古屋駅から満席となって、立っている人も多くなり、濃尾平野を順調に走って行って、米原駅へとたどり着く。
 米原駅で下車し、駅のスタンプを押してから、近江鉄道の改札口へと向かったが、次の電車までには30分以上の待ち時間があった。近江鉄道は、滋賀県内において、米原市の米原駅~甲賀市の貴生川駅間(47.7km・駅数25)を結ぶ本線と彦根市の高宮駅~犬上郡多賀町の多賀大社前駅間(2.5km・駅数3)を結ぶ多賀線と東近江市の八日市駅~近江八幡市の近江八幡駅間(9.3km・駅数7)を結ぶ八日市線の3路線を運行するローカル私鉄事業者だ。1896年(明治29)6月16日に近江鉄道株式会社が設立され、1898年(明治31)に彦根駅~愛知川駅間が開業、1900年(明治33)に彦根駅~貴生川駅間が開通、1914年(大正3)に多賀線が開業する。1931年(昭和6)に米原駅~彦根駅間が開業し、本線が全通した。1944年(昭和19)には、八日市鉄道株式会社を合併して、八日市線となる。2016年(平成28)2月29日には西武鉄道の完全子会社となり、鉄軌道事業以外に、自動車運送事業、観光事業、不動産事業、旅行業なども営んでいるとのことだ。
 まず、近江鉄道の土日祝日限定の一日乗車券「1デイスマイルチケット」(880円)を購入し、時刻表ももらってから、駅周辺の様子をカメラに収めながら時間をつぶす。そして、9時19分発の普通列車に乗り込んだが、日曜日のこととて、とてもすいていた。
 車窓から沿線の風景や対向する電車、駅などにシャッターを切りながら、進んでいったが、単線をのんびり走る風情を味わっていく。
 彦根市街を過ぎ、高宮駅で下車して、支線となっている多賀大社駅行きへと乗り換えたが、とてもスムーズにいって良かった。6分ほどで終点へ着き、降り立ったが、多賀大社をイメージした駅舎となっている。折り返しの電車までには、30分ほどの時間があったので、徒歩10分のところにある多賀大社まで急いで行ってみることにした。沿道は門前町の風情があり、土産物屋や昔ながらの料亭、旅館なども散見される。なんとか10分ほどで鳥居をくぐり、参拝をすませて戻ってきたが、電車出発のギリギリだった。
 再び、高宮駅まで戻り、今度は貴生川駅行きに乗り換え、先頭車両の一番前の窓際に陣取って、車窓を楽しみながら沿線の写真を撮っていく。
 今度は、八日市駅で下車し、駅前の写真を撮り、スタンプを押してから、近江八幡駅行きへと乗り込んだ。再び先頭車両の一番前の窓際に陣取って、沿線写真を撮っていったが、レトロな駅舎や鉄橋があって、被写体には困らない。18分ほどで、近江八幡駅に到着したが、ここはJR東海道本線との乗換駅になっていて、とても立派だった。
 駅前に、大きなスーパーマーケットがあったので、その4階のレストランコーナーで昼食をとることとする。その中に、名古屋方面ではなじみの「スガキヤ」があったので、入店してざるラーメン(390円)を注文した。
 食後は、再び近江鉄道へと乗り込んで、八日市駅へと戻っていく。ここで、貴生川駅行きへ乗り換えようと思ったが、49分も待ち時間があったので、駅周辺を歩いてみることとした。駅前の本町アーケード街へ行ってみたが、閉店や移転してシャッターを下ろしている店舗が目立ち、活気がなく、人通りもあまりない。結構日差しがあって暑くなってきていたので、しばらくして駅に戻ったが、駅舎内にも冷房の効いているスペースがなく、汗をかきながら待つこととなった。
 やっと到着した貴生川駅行きに乗り込み、再び沿線風景をカメラに収めながら、進んでいったが、とてものどかな風景が展開している。それも45分ほどで終着となり、近江鉄道全線乗りつぶしが完了した。
 ここからはJR草津線に乗り換えたのだが、少し待ち時間があったので、駅舎の写真を撮り、スタンプを押してから、下りの柘植行きを待つことにする。 
 その後は、柘植駅ですぐに関西本線亀山駅行きへと乗り換えることができた。しかし、空には入道雲が広がり暗くなってきて不気味な感じがする。案の定、加太駅で雨が振り出し、これ以上前に進めなくなってしまった。今年初めまで、土砂崩れで長期不通となっていた区間だけに、不安がよぎる。それでも、10分ほどで前進できることになりホッとした。
 亀山駅からは、それほど待ち時間もなく、名古屋駅行きの快速へと乗り継ぐことができたが、前方には暗雲が立ち込めていることは変わっていない。
 なんとか名古屋駅まではたどり着くことができたが、乗り換えようとした中央本線は、大雨のためにかなり延着していた。それから乗り込んだ瑞浪駅行きも途中スピードを落としての運行ととなったものの、なんとか無事に実家に帰りつくことができて、胸をなでおろす。

イイナパーク川口・赤山城跡の旅

2018年07月26日 | 旅行
天気も良く、数日来の猛暑も少し落ち着いたので、昼食後、新しく今年の4月にオープンした「イイナパーク川口」と赤山城跡へ行ってみることにした。
 自家用車で東京外環自動車道の下道を進み、川口ジャンクションから首都高速川口線の下道へと入っって行くと、しばらくして、「イイナパーク川口」仮駐車場の看板があったので左折する。この施設は、まだ建設途上で、駐車場も砂利敷きの仮のものではあるが、スペースは広かった。平日でもあるので、車はまばらにしか停まっていず、一番入口に近いところへ駐車する。
 しばらく砂利道を歩いていくと、川口市立の「歴史自然資料館」が開館していたので、見学していくこととした。入館は無料であるが、展示物は少なく、映像中心となっている。
 まず、土の家展示室に入ったが、「赤山陣屋と伊奈氏」、「安行の植木」がテーマとなっていた。イメージ映像とパネル展示がメインだったが、概略はつかむことができた。次に、レンガの家展示室へ入ったが、こちらは大型ディスプレーによる映像展示のみとなっている。それでも4タイトルほどを連続して放映していたので、30分くらい見させてもらった。いずれの映像も新しく制作されたもので、興味深く視聴した。
 その後は、館外に出て、公園内を散策してみたが、まだ半分ほどしか完成しておらず、しかも物産館もオープンしていなかったので、まだこれからといった感じがする。それでも、子供たちが何人か飛び跳ねるような遊具で楽しんでいた。
 公園を出ると徒歩10分ほどのところにある赤山城跡へと向かってみる。ここは、江戸幕府の関東郡代を勤めた伊奈氏の陣屋の跡とのことだが、江戸時代の道筋が残っているとのことだった。途中は、家臣の屋敷が立ち並んでいたところだが、建物は変わっているものの、屋敷の地割には面影が感じられる。しばらく曲がりくねりながら歩くと、赤山城跡と大きく書かれた石碑が立っていた。その周辺には、堀や土塁の跡も一部残り、県の旧跡になっているとのことだが、屋敷地は畑となっている。それでも昔の面影が感じられ、何枚か写真を撮らせてもらった。
 それからは、堀跡をたどって林の中へ入り、どんどん進んでいったら、少し開けたところに出た。陽差しが強くなってきて、暑さも感じられてきたので、駐車場へと戻ることにする。
 次に、伊奈氏の菩提寺となっている源長寺に立ち寄ってから、帰途に着いたが、結構気温が上がっていて、汗が流れるようになっていた。

(帰省旅行⑤) 帰省先からの復路

2018年01月04日 | 旅行
正月に愛知県の実家に帰省中だったが、三ヶ日が過ぎたので、帰途に就くことにし、早朝実家を出立した。往路は東海道本線を使ったので、趣を変えて復路は中央本線を使うことにする。「青春18きっぷ」を使用して、中津川行の普通列車に乗り込み、東へと向かった。
 車窓はまだ暗く、闇の中を走っていったが、岐阜県に入るあたりから、徐々に明るくなり始める。朝の長閑な田園風景を眺めていると、終点の中津川駅が近づいたが、車内放送によると乗り換えはスムーズにできそうで、安堵した。なにしろ、中央本線と言っても中津川から先はローカル線と変わらず、本数も少ないし、列車の時刻を確認してこなかったので.....。
 乗り換えた、松本行き普通列車は、木曽川沿いの景勝地を進んでいく。車窓からの渓谷美はなかなかのもので、中央本線の楽しみの一つでもある。まだ冬休み中だとは思うが、途中駅からは高校生が何人か乗ってきて、はしゃいでいた。部活の練習にでも行くのだろうか....?
 普通列車なので、駅で特急列車に追い抜かれるため、停車時間が長かったりするが、それもまたのんびり旅行にはアクセントともなる。停車駅の様子をじっくりと観察し、駅の構造など確認したりこの周辺の人々は、どんな生業を立てているのかと想像するのも楽しいことなのだ。
 そうこうしている内に、木曽川の渓谷は深くなり、車窓に寝覚ノ床や木曽の桟などの景勝地を見ながら進んで、鳥居峠の分水嶺をトンネルで越えた。
 ここからは、水域としては日本海側へ注ぐところとなる。そんなことを考えているうちに、木曾谷を抜け、乗換の塩尻駅へ到着した。
 ここで、甲府行きの普通列車に乗り換えるのだが、少し待ち時間があったので、ホーム上を少し歩いて、座り続けてきた、腰を伸ばしてみる。
 塩尻駅を出た列車は、岡谷への短縮ルートを通り、諏訪、茅野と過ぎて、長野・山梨県境を越えたが、まだ昼前でもあるし、天気も良いので、急に小海線へ乗ってみたくなった。こういう時、臨機応変の対応ができるのが、「青春18きっぷ」の強みとなっている。乗り換え時間もそんなに長くないので、思い切って、小淵沢駅で下車してしまった。
 久しぶりに小海線へ乗ることとなったが、標高1,000mを超える高原地帯を走る路線として知られている。車窓からの眺めは素晴らしく、八ヶ岳山麓の牧場や富士山の遠景も楽しめる。とても気分は良いのだが、とにかくゆっくりと走り、単線なので、すれ違いに時間もかかったりして、小淵沢駅で、駅弁を買ってこなかったことを後悔した。
 このまま、小諸駅まで乗り続けると昼食時間を大きく過ぎてしまう。どうしようかと悩んだが、途中駅で降りて、弁当かパンでも買って、腹を満たすこととする。ところが、八千穂駅で下車してみたものの、まだ正月4日のこととて、駅前の売店や食堂がどこも閉まっていたことには閉口した。
 やむを得ず、時刻表を見て、逆方向へ戻る列車が早く来るので、それに乗って、小淵沢駅へと戻ることとする。このような行き当たりばったりの旅ができるのも、「青春18きっぷ」の良いところなのだろうか.....。
 小淵沢駅へ到着した時刻は、昼をかなり過ぎてはいたが、ここで駅弁を買って、ベンチで食べることにした。その後、甲府行きの普通列車に乗り込んてだが、甲府盆地へと降りていくにしたがって、車窓からきれいな富士山が見えてくる。これは、写真に撮っておかなければとシャッターを切ったが、次々と車窓が変化し、富士山の様相も変わるので、カメラを離せなくなってしまう。こうなれば、どこまで、富士山が見え続けるか確かめてみたくなってくる。
 甲府駅で、高尾駅行きの不通に乗り換え、車窓を確認していったが、近隣の山々に見え隠れしながらも、勝沼駅付近までは、富士山を捉えることができたのは、新たな発見だった。
 笹子トンネルを過ぎてからは、車窓に富士山を見ることはできず、それで風景を愛でながら、高尾駅へと到着した。その後は、西国分寺駅まで行って、武蔵野線へ乗り換え、埼玉県の自宅へと戻っていった。

(帰省旅行④) 日帰り京都旅行

2018年01月03日 | 旅行
正月に愛知県の実家に帰省中だが、天気もまずまずとのことなので、余っている「青春18きっぷ」を使って、日帰りで京都市へ行ってくることにした。
 朝食後実家を出て、中央本線に乗って、金山駅まで行き、東海道本線の大垣行き新快速に乗り換えた。結構空いていたので、ゆったりと座りながら、窓外の景色を眺めていた。電車は濃尾平野を突き進んで、大垣駅へとたどり着いたが、次の米原行きまでは、時間があって、寒いホームで待つこととなった。
 しかし、到着した米原行きは、満員で立ち続けることになったのは失敗だった。これだったらもう少し手前の岐阜駅にでも下りて待っていればよかったと後悔した。
 その上、関ヶ原駅を過ぎるころからは、雪景色にかわり、雪も降ってきたのに雨具を持ってきていないので、心配になった。それでも、なんとか柏原駅で座れることができて一息ついた。
 米原駅から乗り換えて、京都へと向かったが、雪は一向に止みそうもない。座席に座りながら、窓外を眺めて、京都駅に着くまでには、晴れてくれることを願った。
 そうこうしているうちに、京都駅へと到着したが、みぞれ交じりの雨が降っているのには、閉口した。仕方がないので、案内所へ行って、市内の地図をもらい、近場から訪ねてみることにした。
 最初に、歩いて行ける東本願寺へと向かったが、まだ少しみぞれが降っていて冷たい。それでも、10分ちょっとで大きな門の前へたどり着いた。
 この東本願寺は 京都府京都市下京区にある浄土真宗大谷派の本山で、東本願寺は西本願寺に対して呼ぶ場合の通称で、正式には、「真宗本廟」というとのこと。11世顕如の嗣子教如が、弟准如に本願寺住職を譲り本願寺派とは別に大谷派を立て、1602年(慶長7)に徳川家康から与えられた現在の地に大師堂をはじめ伽藍を創建した。このとき以降、准如の本願寺を西本願寺と称するようになり、末寺もそれぞれ分立したそうだ。その後、天明、文政、安政とたび重なる火災にあって堂宇を焼失し、現在の本堂(阿弥陀堂)と大師堂(御影堂)は1895年(明治28)の再建、その他の建築物も明治時代以降のものとなっている。寺宝には、親鸞自筆『教行信証』(国宝)、親鸞聖人画像(安城御影)、本願寺聖人伝絵(ともに国の重要文化財)などがあると聞いた。
 とにかく寺域は広く、建物も大きくて堂々としている。まず御影堂、次に阿弥陀堂へと上がって参拝したが、荘厳な感じがした。
 次に、西本願寺へと歩いて行ったが、みぞれが結構降ってきていて、雨具を持ってきていないことを悔やんだが、仕方がない。小走りに、歩道を進み、信号待ちでは、軒下に避難することを何度か繰り返しているうちに、大きな通りに出て、西本願寺の塀や門が見えてきた。
 やっとのことで、大きな門をくぐって、境内へと入っていったが、この西本願寺は、京都府京都市下京区にあるが、現在地には、1591年(天正19)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転したとされている。境内には、安土桃山時代の文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、1994年(平成6)に国の史跡に指定され、同年に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)にも登録された。豊臣秀吉が造らせた伏見城や聚楽第の遺構と伝わるものが多く移築されていて、飛雲閣、大広間、唐門等は安土桃山文化の代表的建造物と言われ、国宝建造物に指定された、絢爛豪華ですばらしいものなのだ。
 しかし、飛雲閣や大広間は一般には公開されていないとのことなので、唐門へ行ってみることにした。本堂へ参拝後、龍虎殿(寺務所)で唐門の場所を聞いたのだが、「外に出て、右に行ったところだ。」と説明され、いったん門外へ出て、塀伝いに歩いて行ったが、いっこうに唐門へは行きつかず、大変な遠回りをすることとなった。幸いなことに、みぞれが止んでいたので、少し救われたが、西本願寺の外周を一周して元へと戻ってくるはめになったのだ。大幅に時間をロスし、歩き疲れて足も痛くなったが、龍谷大学のレトロな校舎を見ることができたのが、慰めになった。それにしても案内板がはっきりしていないのが一因であったことは確かだ。
 気を取り直して、大書院の脇から、やっとのことで唐門へとたどり着いたが、それはすばらしいものだった。さすがに、安土桃山時代を代表する国宝建造物だけあって、豪華絢爛な意匠には、感嘆した。これをみただけでも、わざわざ京都へやってきた価値があるというものである。
 その後は、地下鉄烏丸線の五条駅から乗って北上し、烏丸御池駅で東西線へ乗り換えて東進し、蹴上駅で下車して、琵琶湖疎水へと行ってみることとした。
 琵琶湖疎水は、琵琶湖の南岸(現在の滋賀県大津市三保ヶ崎)から取水し、長等山などをトンネルで抜け、京都市内へ通じる水路で、舟運、発電、上水道、灌漑を目的としてつくられた。田辺朔郎の設計、施工により、明治時代前期の1885年(明治18)に工事が始まり、1890年(明治23)に大津から鴨川までの第一疏水(全長17.7km、幅6.4~11.5m、水深1.7m)が完成する。続いて、鴨川から宇治川までの鴨川運河は、1892年(明治25)に工事が始まり、1895年(明治28)に完成しました。さらに、第一疏水の北側に並行し、全水路がトンネル内を走る第二疏水(全長7.4km,幅4m,水深3.1m)が、1908年(明治41)に着工し、1912年(明治45)に完成し、蹴上で第1疏水と合流するようになった。これらの開削工事は、西欧の近代的土木技術を取得した日本人技師による大規模な土木工事であり、明治時代における日本の土木技術水準の高さを示すものだ。そこで、1996年(平成8)に第一疎水の第一・第二・第三隧道の出入り口、第一竪坑、第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋、インクライン、疎水分線の水路閣などが国の史跡に指定される。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されたのだ。
 どうしても見てみたいものだったので、まずインクラインから見学していくことにした。これは、水路を通ってきた船を峠のところで引っ張り上げて越えさせ、再び水路に戻す施設で、ケーブルカーのような装置で、船を台車に乗せて、ワイヤーで引っ張り巻き上げ機を使って、登らせるものだ。とてもユニークなもので、気に入った。
 先人の知恵であろうが、昔は、船越と言って、陸路伝いに船をコロと人力で引っ張り上げて峠越えをさせていたところがあると聞いたことがある。
 その坂道を上がっていくと、蹴上発電所への送水管を見ることができた。そこから、疎水沿いにしばらく歩いていくと、有名な南禅寺境内の水路閣へと至った。これも見事なレンガ造りの水路橋で、なかなか絵になる施設なので、何枚も写真を撮らせてもらった。
 ついでに、南禅寺の境内も散策してみたが、この寺は、京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山で、山号は瑞竜山、寺号は正式には大平興国南禅禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山は無関普門(大明国師)で、1291年(正応4)に亀山法皇がその離宮を寺に改めて建てたとのことだ。1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3/永徳3)に足利義満が京都鎌倉五山十刹の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれる。しかし、室町時代の1393年(明徳4)、1447年(文安4)、1467年 (応仁元)の火災で伽藍の大部分を焼失した。現在の伽藍は、江戸時代前期の1605年 (慶長10)以降に、以心崇伝によって再興されたもので、大方丈(国宝)は1611年(慶長16)後陽成天皇より下賜された旧御所の建物の移築、小方丈は旧伏見城の遺構とも言われ、共に狩野派の襖絵があり、山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)に藤堂高虎による再建、勅使門(国重要文化財)は1641年(寛永18)に御所の日ノ御門を移築したものと言われている。大方丈南面の庭園は慶長年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、1951年(昭和26)に国の名勝に指定された。また、境内は2005年(平成17)に、国の史跡に指定されている。寺宝としては、「亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案」(国宝)をはじめ、数多くの国重要文化財を含む絵画、彫刻等が所蔵されていると聞く。
 前にも、訪れたことがあるので、今回は境内の建物を見るだけにとどめたが、寺域も広く、豪壮な建物が並んでいて、さすがに京都五山の第一の寺だけのことはあると思った。
 もうとっくに昼を過ぎていて、腹も空いているのだが、周辺には、高そうな料亭みたいなものしか目に入らなかったので、別のところへ移動して食事をとることとする。
 再び、地下鉄東西線の蹴上駅に戻り、東へ向かう電車に乗って、山科駅まで行き、駅前のファーストフード店へ入って、腹を満たした。しかし、予想外に長距離歩いていて、足も痛くなり、これ以上の散策は無理と判断したので、帰途に就くことにした。
 とはいうものの、同じ線路で帰るのも面白くないし、せっかく「青春18きっぷ」で来ているので、草津線・関西線を経由して名古屋へ戻ることにした。
 そこで、東海道本線の電車で草津駅まで行って、草津線へと乗り換えたが、急にローカル色が強くなって、のどかな車窓を愛でながらの鉄道旅となった。ところが、柘植駅が近づくと、関西線の柘植駅~亀山駅が、災害のため不通となっていて、代行バスに乗り換えるようにとのアナウンスが入るようになった。
 はたして、「青春18きっぷ」で乗れるのだろうかとの不安もよぎったものの、ままよと柘植駅までは行ってみることにした。下車後、駅員に聞くと「青春18きっぷ」でも代行バスにのれるとのことだったので、胸をなでおろした。
 柘植駅前から、観光バスのような車両に乗ったが、途中の駅をすべて経由していくので、かなり細い道に入り込み、道幅ぎりぎりで走っていく、心配になったが、運転手の技量を信じて、車窓を楽しむこととした。
 それでも、なにごともなく亀山駅前へと到着し、連絡している関西線の列車へと乗り継いだ。その後は、四日市、桑名と過ぎて、名古屋駅へと至り、中央本線へと乗り換えて、実家に帰着した。続く
 

(帰省旅行③) 伊勢路のドライブ

2018年01月02日 | 旅行
正月に愛知県の実家に帰省中だが、天気も良さそうなので、日帰りのドライブ旅行へ出かけることにした。
 朝食後、自家用車に乗り、東名阪自動車道に入ってから、西へ進路を取る。最初は順調に走っていたものの、四日市を過ぎたあたりから混みだしてきた。やはり、伊勢神宮へ向かう車なのだろうか、県外のナンバーが目立つが、それでも、完全に渋滞することもなく、伊勢自動車道へ入って、久居インターで降りることができる。
 その後は、国道165号線を西進し、途中で左折して、JR名松線を横切って、県道15号線に入り、雲手川沿いに走っていった。
 やっとのことで、三重県津市美杉町にある北畠神社へと到着した。今回の一番の目的は、境内にある南北朝時代の代表的な日本庭園である「北畠氏館跡庭園」だったのだ。
 ここは、伊勢国司の北畠晴具の義父だった管領細川高国が作った池泉観賞様式の武家書院庭園だ。総面積は約850坪あり、武将の手による庭らしく 野生的で、素朴な力強さがあり、石組みと米字池、枯山水のある苔むした築山の緑がすばらしく、紅葉の名所としても知られている。滋賀県の「旧秀隣寺庭園」、福井県の「越前一乗谷朝倉氏庭園」と共に、日本三大武将庭園の一つとされていて、一度訪れてみたかったのだ。
 伊勢国司・北畠顕能によって築かれた居館であった北畠氏館跡に隣接していて、1936年(昭和11)に、「北畠氏館跡庭園」として、国の名勝・史跡の指定を受けている。その後、1996年(平成8)からの館跡の調査によって、15世紀前半に造成された遺構では、日本最古の石垣や多くの建物跡が確認され、陶器、武具、仏具なども出土した。そこで、2006年(平成18)に「北畠氏館跡庭園」と背後にある「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡 北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたと案内板に書いてある。
 通常の場合は、社務所に申し出て、300円也を払って、庭園見学をするのだが、正月3ヶ日のこととて、特別に無料開放されていた。庭園内に入ってみると、米字池を中心とした石組みがみごとで、苔むした築山にとても風情がある。園内をじっくりと散策しながら、いろいろな角度で写真を撮ってみたがとてもすばらしく、紅葉の時期だったらなおさらであろうと思う。
 尚、2017年(平成29)に、「北畠氏館」が続日本100名城に選定されたとのことで、城郭ファンなら背後にある「霧山城跡」とともに巡ってみるのも面白いと感じた。
 その後は、高速道路の渋滞を案じて、早めに伊勢自動車道へ乗ることとした。来た道を戻って、同じ久居インターから、高速道路に入ったが、すでにかなり混み合っていて、まだ昼前なのに亀山ジャンクションの手前で、完全に渋滞にはまってしまった。仕方がないので、亀山パーキングのスマートインターから下道に降り、国道306号線を北上することとする。
 途中からは、広域農道(フラワーロード)へ乗り換え、四日市街へ出て、昼食をとり、食後は国道23号線を北上したが、結構混んでいて時間がかかった。それで、その他に立ち寄ろうとしていた予定をすべてキャンセルせざるを得なくなってしまう。
 木曽川を越え、愛知県に入ってからは順調に走り、途中から名古屋第二環状線に乗って進み、途中で買い物をしてから実家に戻ったが、結構疲れた。続く
 

(帰省旅行②) 2018年元旦の初詣

2018年01月01日 | 旅行
いつも正月に帰省した時には、元旦に家族そろって初詣に行くことにしている。昨年は伊賀国一の宮「敢国神社」、一昨年は三河国一の宮「砥鹿神社」、三年前は美濃国一の宮「南宮大社」、四年前は尾張国一の宮「真清田神社」と参拝してきた。今年は、どこにしようかと思案したが、今まで一度も行ったことのない遠江国一の宮「小国神社」(静岡県周智郡森町)へ行ってみることにする。
 朝食後、自家用車に乗り、東名高速道路に入ってから、東へ進路を取った。途中から、新東名高速道路に乗り換えたが、新しい高速道路で、広めに作ってあり、トンネルも明るくて大きい。そんなに混んでもなく、天気も良かったので、快適に走って、10時前には掛川・森インターで下りることが出来た。
 しかし、「小国神社」に近づくと車の台数が増え、1km以上前から、完全に渋滞にはまってしまう。駐車場が少ないのか、ちっとも前に進めず、1時間近くかかって、やっと神社の無料駐車場に車を入れることが出来た。
 鳥居をくぐって、表参道から参拝しようとしたが、すでに多くの参拝客が列をなしていて、とても前に進めそうもない。仕方がないので、列に並ぶのをあきらめ、裏道からいって、社殿の陰から参拝して済ませることにする。
 それでも、結構の時間を費やして、昼を過ぎてしまったので、早々に引き返すことにして、再び掛川・森インターから新東名高速道路に乗って帰途に着いた。
 途中の浜松サービスエリアに立ち寄って、昼食を食べようとしたが、ここもとても混んでいて、なかなか席が見つけられそうもなく、あきらめて次のパーキングエリアへ向かうことにする。
 次の長篠設楽原パーキングエリアは、比較的空いて、すぐに席も見つかり、昼食を取ることが出来て、ほっとする。このパーキングエリアは、設楽原の古戦場に隣接していて、階段を登ると織田信長の本陣跡(茶臼山)まで行けると案内が出ていた。そこで、食後の腹ごなしを兼ねて、本陣跡(茶臼山)まで登ってみたが、頂上には、小さな祠と碑が立っていて、古の合戦を偲ぶことが出来た。
 その後は、順調に走って、途中で買い物をしてから実家に戻ったが、少々疲れた。続く
 

(帰省旅行①) 青春18きっぷでの帰省

2017年12月30日 | 旅行
いつも正月は、自家用車で愛知県の実家まで、帰省しているのだが、年末は大渋滞が予想されるので、今回は、「青春18きっぷ」を使って、のんびりと鉄道で帰ってみることにした。
 早朝に自宅を出発し、上野・東京ラインの新快速に乗り換えて、まずき東海道線を西へと向かった。天気は良くて、陽が昇ってくると、車窓からはきれいな富士山が見えるようになってきた。昔は、もっと見晴らしがよかったのだろうが、近年は高いビルも増えて、見え隠れしながら眺めることとなった。
 朝9時には、国府津駅に到着し、きれいな富士山が見たくなったので、御殿場線へ乗り換えることとした。案の定、小田原市北部の辺りからは、すばらしい富士山が車窓に見えるようになり、眺望の良いところで、写真を撮っていった。御殿場駅で乗り換え、沼津駅には、10時半過ぎの到着となって、1時間半以上かかり、ずいぶん遠回りとなったが、車窓からのすばらしい富士山の眺望を楽しめたので良しとした。
 しかし、沼津駅からの静岡駅行きの普通列車は満員で、最初は座ることもできず、荷物を抱えて難渋したが、吉原駅でなんとか座席が空いてほっとした。
 続いて、静岡駅から浜松駅行きの普通列車に乗り換えたが、これも満員で、しばらくたたされることとなった。それでも、車窓の移り行く風景を見ながら気を紛らわせた。これも、掛川駅からは、座ることが出来、なんとか12時過ぎに浜松駅へ到着した。
 腹も減っていたので、途中下車して昼食を取ることにしたが、なかなか適当なところが見つからず、吉野家の牛丼を食べることになったが、時間が制約されているので、致し方ないところか.....。
 食後は、再び浜松駅に戻り、豊橋駅行きの普通列車に乗ったが、これは空いていたので、ゆったりと座ることが出来た。豊橋駅からは、大垣駅行の新快速に乗り換えたが、これも始発だったので、難なく座ることが出来、三河湾の美しい風景も見ながら、西へ西へと快適に走っていった。
 金山駅で降りて、中央線へと乗り換え、暗くなる前には、実家に着くことが出来たが、長時間座り続けたので、尻が痛くなった。それでも、久しぶりの普通列車の旅で、天気も良く車窓のきれいな景色も堪能し、まずまずの旅路だった。
続く

岐阜・石川・富山3県の旅③

2017年09月16日 | 旅行
朝8時に法林時温泉を出立し、来た道を戻っていって、福光の中心街から左折して、県道20号線を北上した。道に迷いながらも、なんとか国道8号線に出て、それからは東に進路を取る。富山市域、滑川市域と通過し、魚津市域に入ってから、右折して国道を離れ、天神山へと向かう。麓から少し登ったところにある「魚津歴史民俗博物館」の駐車場に車を入れた。まず、館内を見学したが、入場無料なのがいい。伝統工芸資料、民俗資料などを興味深く見学してから、外にある「旧沢崎家」も見てみたが、県指定文化財の民家だった。その後、少し徒歩で下って、「吉田記念郷土館」にも入ってみたが、考古資料や産業資料が面白く、特に、米騒動関係の展示に注目した。そういえば、魚津は米騒動発祥の地と言われるところなのだ。
 米騒動は、大正時代の1918年(大正7)に米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件だ。第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰した。その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものだ。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されていく。軍隊が出動して鎮圧されたが、この事件で寺内内閣は総辞職に追い込まれ、原敬を首相とする政党内閣が出現することとなる。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われているのだ。
 とても興味深かったので、魚津市内の米騒動関係地にも立ち寄ってみることにした。車で山を下り、国道8号線を横切って、魚津市街地へと至り、主婦達が県外への米の積み出しを阻止したところへと行ってみた。
 大町公園には、米俵を3俵模したモニュメントがあったので、まずカメラに収めた。その近くに米の積出をしようとした旧十二吟行の米倉が残されており、案内板もあったので、興味深く見た。
 その後は、国道8号線へ出て、富山市方面へと走り、富山市街にある「きときと寿し」という回転寿司に入って、昼食を済ませたが、新鮮なネタでなかなか美味しかった。
 食後は、進路を南に取り、富山市友杉にある「富山県立イタイイタイ病資料館」へも立ち寄ってみた。館内の展示によると、「イタイイタイ病」は、大正時代から昭和時代にかけて、富山県の神通川流域で起きた公害病なのだ。岐阜県神岡町(現在の飛騨市)の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)から排出されたカドミウム汚染によって、引き起こされ、激痛や病的骨折に襲われて運動不能状態となり、さらに進行すると死に至るもので、1968年(昭和43)に日本の公害病第1号に認定された。患者が「いたい、いたい」と骨の痛みを訴えて死ぬことから「イタイイタイ病」と名付けられ、「公害健康被害補償法」によって認定された患者数は194人(うち死亡者188人)となっていて、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと共に四大公害病の一つひとつとされている。患者らは三井金属を相手に損害賠償訴訟を起こし、1972年(昭和47)に勝訴し、公害防止協定などに基づき患者への補償、神岡鉱業の環境対策、土壌の復元が進み、2013年(平成25)に被害者団体と企業が「全面解決」で合意したという。とても、深刻な公害病だったので、患者の苦しみを感じ、展示を見ていても胸が痛んだ。
 館内を出てからは、学芸員の人に教えてもらった、近くの汚染田の復元が完成した記念碑も見て、一たび公害が起こると大変な苦労になることを実感した。
 その後は、「イタイイタイ病」の原因となった神岡鉱山のあった旧神岡町へ行ってみることにし、国道41号線に出て南下する。神通川に沿って、県境を越えて岐阜県へ入り、旧神岡町へと至ったが、鉱山は閉山したものの、関連工場は操業を続けていた。台風が近づいていて、雨が降り出してきてはいたが、この鉱山の概要を知ろうと、「鉱山資料館」を見学する。館内の展示は、鉱山操業時のもので、少し古い感じはしたが、解説ビデオも上映してもらって、鉱業所のことが少しわかり、精錬の過程でカドミウムが出てくることも理解した。見学後は、並びにある「神岡城」に登って、町並みを見下ろし、「旧松葉家」(県指定文化財)にも立ち寄って、民俗資料を見た。
 それからは、近くにある「江馬氏館跡庭園」へも行ってみたが、閉館時間を過ぎていて中に入れなかったのが残念だった。仕方がないので、今日の宿へ急ぐことにして、国道471号線を奥飛騨温泉郷方面へと向かい、福地温泉にある今日の宿「民宿内山」へ、16時半頃にたどり着いた。