ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「民俗資料」

2017年08月31日 | 旅の豆知識
 地方を歩いていると独特の習俗、慣行伝承にめぐり合うことがよくあります。囲炉裏端で老婆が語る昔話に思わず聞きほれてしまったり、伝統的な祭りの中にその地方の文化を感じるなんてことが‥‥‥。そういうのも旅の楽しみの一つです。日常生活とは異なった民俗にふれて日本文化の奥深さを味わっているのもいいものですよ。               
 柳田国男は日本民俗学の創始者として知られています。農商務省の役人でしたが、常民の生活に強い関心を持ち、日本各地を旅行し、言語、昔話、地域比較などの研究をし、日本民俗学の普及と確立に努力しました。東北を旅行したときの『雪国の春』、九州から沖縄を旅したときの『海南小記』は有名で日本の北と南の民俗の比較を試みたものでした。彼の著作は100冊を越え、民俗学の全分野にわたり、今日でも大きな影響を与えています。
 そんな民俗学上重要な資料が注目されるようになり、今日では「文化財保護法」で、「重要民俗文化財」として指定されるようになっています。それらのものを収蔵する「民俗資料館」が各地にできて、保存されるようになってきたのは、とても喜ばしいことだと思っています。旅先で、そんな民俗資料館に足を運んでみるのも良いと思いますよ。

〇「民俗資料」とは?
 民俗資料は、「民俗学の基本となる資料で、風俗・習慣・伝説・民話・歌謡・生活用具・家屋など古くから民間で伝承されてきた資料を指す。」とされていました。また、文化財保護法第2条では、「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの(以下「民俗文化財」という。)」とされていて、民俗資料の内、重要なものが、重要民俗文化財としての指定の対象とされています。
 日本では、2017年(平成29)3月3日現在、220件が重要有形民俗文化財に指定されています。

☆「民俗資料館」のお勧め

(1)「アイヌ民族博物館・ポロトコタン」(北海道白老郡白老町)
 1976年(昭和51)に、アイヌ民族に関する有形・無形の資料を専門に展示・保存し、調査研究、教育普及事業を総合的に行う社会教育施設として開設されたものです。「ポロトコタン」は、北海道に残るアイヌ集落を復元したもので、ポロト湖の辺に茅葺きの民家チセが並び、独特の民俗衣装を着たアイヌ人が木彫りの熊などの民具を制作しています。また、1984年(昭和59)に開館した「アイヌ民族博物館」は、アイヌ民族の資料約5,000点、北方少数民族資料の約250点を収蔵しており、約800点を常設展示していて、少数民族の文化に触れることができます。尚、この施設は2017年度末で閉館し、新たに「国立アイヌ民族博物館」が2020年に開設される予定とのことです。
 
(2)「遠野ふるさと村」(岩手県遠野市)
 遠野は、柳田国男の「遠野物語」で知られた民話のふるさとで、その昔ながらの山里を再現して、1996年(平成8)にオープンしたものです。村内には、江戸中期から明治中期にかけて造られた茅葺屋根の曲り家・直家計7軒がそのままの形で移築されました。周辺には、小川が流れ水車がまわり、田畑があり、炭焼き小屋がありと、遠野の昔ながらの集落が再現されています。曲がり家の民家の囲炉裏端では、老婆が民話を語ってくれ、それがいまでも心に残っています。また、園内には、ビジターセンター風樹舎(レストラン)、木工館「きつつき工房」、陶芸館「やまね工房」、自然資料館などもあって結構楽しめました。

(3)「奥会津博物館」(福島県南会津郡南会津町)
 1982年(昭和57)4月21日に国の重要有形民俗資料に指定された「 奥会津の山村生産用具及び民家(馬宿)」5,058点を含む、約23,000点の郷土の有形の民俗文化財を収蔵・展示する資料館です。1994年(平成6)、に「奥会津地方歴史民俗資料館」として開館し、2009年(平成21)に現在の名称に改称しました。屋外では、国指定文化財の、「今泉の馬宿(旧大竹家住宅)」ほか、県・町指定文化財である移築復元民家などを展示していて、いろいろと見学することができます。

(4)「海の博物館」(三重県鳥羽市)
 1971年(昭和46)に、財団法人東海水産科学協会によって設立・開館した施設で、1992年(平成4)に現在地に展示棟が完成し全面移転したものです。人間と海との関わりについて、さまざまな視点より調査・研究・展示・社会教育活動を行っていますが、それらに関する5万点を超える資料を収蔵し、その内、6,879点が「伊勢湾・志摩半島・熊野灘の漁撈用具 」として、1985年(昭和60)4月19日に、国の重要有形民俗文化財に指定されました。志摩半島の漁業を考える上でなかなか見ごたえのある資料がそろっています。

(5)「石垣やいま村」(沖縄県石垣市)
 1981年(昭和56)に「八重山民俗園」として開業しましたが、新たに4軒の古民家が移築され計6軒となったのを契機に、2008年(平成20)10月1日に現在の「石垣やいま村」の名称に変更された野外博物館です。民家内では三線の演奏やシーサーの着色、サーターアンダーギー作りなどが体験でき、水牛や馬、リスザル等が飼育されていました。ここを見学するとこの地方が、日本列島と中国大陸との中間にあり、両方との交易を通じ、独特の文化を育んできたことがわかります。現地の言葉による民謡と踊りは沖縄の青い空と澄んだ海にとてもマッチしていました。

☆日本の「重要有形民俗文化財」一覧

<北海道>
・アイヌのまるきぶね(河沼用) 1隻(1957年6月3日指定)「北海道大学植物園」[北海道札幌市]
・アイヌの生活用具コレクション 758点(1959年5月6日指定)「函館市北方民族資料館」[北海道函館市]
・留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具 3,745点(1995年12月26日指定)「旧留萌佐賀家漁場」[北海道留萌市]
・北海道二風谷及び周辺地域のアイヌ生活用具コレクション 1,121点(2002年2月12日指定)「二風谷アイヌ文化博物館」[北海道沙流郡平取町]

<東北>
・泊のまるきぶね 1隻(1963年5月15日指定)「青森県立郷土館」[青森県青森市]
・南部のさしこ仕事着コレクション 64点(1966年6月11日指定)法人蔵[青森県三沢市]
・円覚寺の奉納海上信仰資料 106点(1981年4月22日指定)円覚寺[青森県西津軽郡深浦町]
・津軽・南部のさしこ着物 786点(1983年4月13日指定)個人蔵
・南部七戸見町観音堂庶民信仰資料 359点(1990年3月29日指定)[青森県上北郡七戸町]
・南部七戸小田子不動堂奉納絵馬 108点(1990年3月29日指定)[青森県上北郡七戸町]
・八戸及び周辺地域の漁撈用具と浜小屋 1,383点、1棟(1993年4月15日指定)「八戸市博物館」[青森県八戸市]
・津軽海峡及び周辺地域のムダマハギ型漁船コレクション 67隻(1997年12月15日指定)「みちのく北方漁船博物館」[青森県青森市]
・大船渡のまるた(1958年4月18日指定)
・沢内のまるきぶね(1964年5月29日指定)「碧祥寺博物館」[岩手県和賀郡西和賀町]
・マタギの狩猟用具(1978年8月5日指定)「碧祥寺博物館」[岩手県和賀郡西和賀町]
・南部杜氏の酒造用具(1982年4月21日指定)
・沢内及び周辺地域の積雪期用具(1986年3月31日指定)「碧祥寺博物館」[岩手県和賀郡西和賀町]
・浄法寺の漆掻きと浄法寺塗の用具及び製品(1987年3月3日指定)
・黒石の十三塚(1993年12月13日指定)
・北上山地川井村の山村生産用具コレクション(2003年2月20日指定)「宮古市北上山地民俗資料館」[岩手県宮古市]
・福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬 23,477点(2012年3月8日指定)福應寺[角田市]
・八郎潟漁撈用具(1960年6月9日指定)「潟上市昭和歴史民俗資料館」[秋田県潟上市]
・大沼の箱形くりぶね(きっつ)(1964年5月29日指定)
・田沢湖のまるきぶね(1964年5月29日指定)
・男鹿のまるきぶね(1965年6月9日指定)
・作業用覆面コレクション(1966年6月11日指定)
・阿仁マタギの狩猟用具 293点(2013年3月12日指定)マタギの里観光開発株式会社ほか、[秋田県北秋田市ほか]
・庄内ばんどりコレクション(1963年5月15日指定)
・庄内の木製酒器コレクション(1964年5月29日指定)
・庄内の仕事着コレクション(1966年6月11日指定)
・大宝寺焼コレクション(1971年12月15日指定)
・庄内および周辺地のくりものコレクション 附 工具(1972年8月3日指定)「致道博物館」[山形県鶴岡市]
・庄内浜及び飛島の漁撈用具(1976年8月23日指定)「致道博物館」[山形県鶴岡市]
・最上川水系の漁撈用具(1982年4月21日指定)「致道博物館」[山形県鶴岡市]
・岩谷十八夜観音庶民信仰資料(1984年5月22日)
・庄内の米作り用具(1990年3月29日指定)「松ヶ岡開墾記念館」[山形県鶴岡市]
・置賜の登拝習俗用具及び行屋(1997年12月5日指定)「農村文化研究所」[山形県米沢市]
・大桃の舞台(1976年8月23日指定)
・桧枝岐の舞台(1976年8月23日指定)
・会津の製蝋用具及び蝋釜屋(1979年5月21日指定)「会津民俗館」[福島県耶麻郡猪苗代町]
・八葉寺奉納小型納骨塔婆及び納骨器(1981年4月22日指定)
・奥会津の山村生産用具及び民家(馬宿)(1982年4月21日指定)「奥会津博物館」[福島県南会津郡南会津町]
・会津只見の生産用具と仕事着コレクション 2,333点(2003年2月20日指定)[福島県南会津郡只見町]
・会津のからむし生産用具及び製品 384点(2011年3月9日指定)「からむし工芸博物館」[福島県大沼郡昭和村]

<関東>
・日立風流物(1959年5月6日指定)[茨城県日立市]
・野州麻の生産用具(2008年3月13日指定)「栃木県立博物館」[栃木県宇都宮市]
・上三原田の歌舞伎舞台(1960年6月9日指定)
・上州の小正月ツクリモノ(1994年12月13日指定)
・上州藤原(旧雲越家)の生活用具及び民家(1997年12月15日指定)
・秩父祭屋台 6基(1962年5月23日指定)
・秩父の山村生産用具(1967年6月17日指定)「有形民俗文化財収蔵庫」[埼玉県秩父郡皆野町]
・荒川水系の漁撈用具(1971年12月15日指定)
・東秩父及び周辺地域の手漉和紙の製作用具及び製品(1975年9月3日指定)
・木曽呂の富士塚(1980年4月24日指定)[埼玉県川口市]
・北武蔵の農具(1983年4月13日指定)「埼玉県立歴史と民俗の博物館」[埼玉県さいたま市]
・上総掘りの用具(1960年6月9日指定)
・房総半島の漁撈用具 2,144点(1987年3月3日指定)「館山市立博物館分館」[千葉県館山市]
・山袴コレクション 附 引解 雛形 モモヒキ 下穿 上衣 改良仕事服(1955年2月3日指定)
・小河内の山村生活用具(1964年5月29日指定)「奥多摩水と緑のふれあい館」[東京都西多摩郡奥多摩町]
・下谷坂本の富士塚(1979年5月21日指定)
・江古田の富士塚(1979年5月21日指定)
・豊島長崎の富士塚(1979年5月21日指定)
・羽村の民家(旧下田家)とその生活用具(1984年5月22日指定)
・大森及び周辺地域の海苔生産用具(1993年12月13日指定)「大田区立郷土博物館」[東京都大田区]
・渡辺学園裁縫雛型コレクション(2000年12月27日指定)
・清瀬のうちおり 469点(2017年3月3日指定)「清瀬市郷土博物館」[東京都清瀬市]
・三浦半島の漁撈用具(1974年2月18日指定)「横須賀市自然・人文博物館」[神奈川県横須賀市]
・旧船越の舞台(1976年8月23日指定)

<中部>
・どぶね(はなきり)附 櫓 櫂 あかとり(1955年4月22日指定)
・金刀比羅神社奉納模型和船(1965年6月9日指定)
・荒川神社奉納模型和船および船絵馬(1970年7月30日指定)
・白山媛神社奉納船絵馬(1970年7月30日指定)
・船大工用具及び磯舟 附 山出し用具 模型和船 船形絵馬(1974年2月18日指定)
・東北日本の積雪期用具 附 改良形用具(1974年2月18日指定)
・奉納越後上布幟(1974年2月18日指定)
・南佐渡の漁撈用具(1974年11月19日指定)「佐渡国小木民俗博物館」[新潟県佐渡市]
・佐渡海府の紡織用具及び製品(1976年8月23日指定)
・秋山郷及び周辺地域の山村生産用具(1976年8月23日指定)
・北佐渡(海府・両津湾・加茂湖)の漁撈用具(1984年5月22日指定)
・越後縮の紡織用具及び関連資料(1986年3月31日指定)
・能生白山神社の海上信仰資料(1987年3月3日指定)
・十日町の積雪期用具(1991年4月19日指定)「十日町市博物館」[新潟県十日町市]
・越後姫川谷のボッカ運搬用具コレクション(2004年2月6日指定)
・糸魚川木地屋の製作用具と製品コレクション 附木地屋関係文書(2006年3月15日指定)
・越後奥三面の山村生産用具(2007年3月7日指定)
・高岡御車山(1960年6月9日指定)
・立山信仰用具 1,083点(1970年3月9日指定)「富山県立立山博物館」[富山県中新川郡立山町]
・富山の売薬用具 1,818点(1981年4月22日指定)「富山市民俗民芸村 売薬資料館」[富山県富山市]
・砺波の生活・生産用具 6,900点(2017年3月3日指定)「砺波民具展示室・となみ散居村ミュージアム民具室」[富山県砺波市]
・能登の揚浜製塩用具(1969年4月12日指定)
・能登の漆掻きおよび加賀・能登の漆工用具(1970年7月30日指定)
・金沢の金箔製作用具(1971年12月15日指定)
・北陸地方の木地製作用具(1972年8月3日指定)
・加賀の手漉和紙の製作用具及び民家(1974年2月18日指定)
・加賀象嵌製作用具(1974年11月19日指定)
・白山麓の山村生産用具及び民家(1977年6月14日指定)
・輪島塗の製作用具及び製品(1977年6月14日指定)
・白峰の出作り生活の用具(1978年8月5日指定)
・白峰の出作り民家(山の小屋)と生活用具(1978年8月5日指定)
・真成寺奉納産育信仰資料(1982年4月21日指定)
・白山麓西谷の人生儀礼用具及び民家(1983年4月13日指定)
・白山麓の積雪期用具(1988年3月17日指定)
・能登内浦のドブネ(1998年12月16日指定)
・越前和紙の製作用具及び製品2,523 点(2014年3月10日指定)「越前市今立歴史民俗資料館」[福井県越前市]
・甲州西山の焼畑農耕用具(1989年3月29日指定)
・七夕人形コレクション(1955年4月22日指定)
・農耕用具コレクション(1959年5月6日指定)
・民間信仰資料コレクション(1959年5月6日指定)
・染屋焼コレクション(1964年5月29日指定)
・下黒田の舞台(1974年11月19日指定)
・信濃及び周辺地域の灯火用具 附 版画等関係資料(1980年4月24日指定)
・木曽塗の製作用具及び製品(1991年4月19日指定)
・長良川鵜飼用具(1955年4月22日指定)
・高山祭屋台(1960年6月9日指定)
・飛騨のそりコレクション(1960年6月9日指定)
・荘川の養蚕用具(1963年5月15日指定)
・各務の舞台(1974年11月19日指定)
・真桑の人形舞台(1975年9月3日指定)
・飛騨の山村生産用具(1975年9月3日指定)
・門和佐の舞台(1978年8月5日指定)
・明方の山村生産用具(1979年5月21日指定)
・獅子頭コレクションと飛騨の獅子舞用具(1980年4月24日指定)
・飛騨の山樵及び木工用具(1981年4月22日指定)
・宮川及び周辺地域の積雪期用具(1987年3月3日指定)
・徳山の山村生産用具(1987年3月3日指定)
・奥美濃の人生儀礼用具(1995年12月26日指定)
・山木遺跡の生産・生活用具(1966年6月11日指定)
・沼津内浦・静浦及び周辺地域の漁撈用具 2,539点(2010年3月11日指定)「沼津市歴史民俗資料館」[静岡県沼津市]
・津具の山樵用具および加工品 130点(1964年5月29日指定)「津具民俗資料館」[愛知県北設楽郡設楽町]
・秉燭コレクション(1969年4月12日指定)
・知多半島の漁撈用具 附 漁撈関係帳面類 1,045点 附28点(1972年8月3日指定)「知多市歴史民俗資料館」[愛知県知多市]
・瀬戸の陶磁器の生産用具及び製品(1974年2月18日指定)
・常滑の陶器の生産用具・製品及び登窯(1975年9月3日指定)
・半田の酢醸造用具 323点(2016年(平成28年)3月2日指定)「半田市立博物館」[愛知県半田市]

<近畿>
・伊勢湾・志摩半島・熊野灘の漁撈用具 6,879点(1985年4月19日指定)「海の博物館」[三重県鳥羽市]
・近江甲賀の前挽鋸製造用具及び製品 1,274 点(2015年3月2日指定)「甲南ふれあいの館」[滋賀県甲賀市]
・丹波焼コレクション 150点(1959年5月6日指定)綾部市
・祇園祭山鉾 29基(1962年5月23日指定)長刀鉾保存会ほか[京都府京都市]
・六波羅蜜寺の庶民信仰資料 2,163点(1974年11月19日指定)六波羅蜜寺[京都府京都市]
・三宅八幡神社奉納子育て祈願絵馬 124点(2009年3月11日指定)三宅八幡神社[京都府京都市]
・丹後の紡織用具及び製品 732点(2010年3月11日指定)「京都府立丹後郷土資料館」 [京都府宮津市]
・おしらさまコレクション(1955年2月3日指定)
・背負運搬具コレクション(1955年2月3日指定)
・民家(白川の合掌造)(1959年5月6日指定)
・播磨総社「三ツ山」ひな型(1960年6月9日指定)
・下谷上の舞台(1968年5月31日指定)
・葛畑の舞台(芝居堂)(1968年5月31日指定)
・赤穂の製塩用具(1969年4月12日指定)「赤穂市立歴史博物館」[兵庫県赤穂市]
・灘の酒造用具 569点(1971年12月15日指定)「菊正宗酒造記念館」[兵庫県神戸市東灘区]
・上三河の舞台(1975年9月3日指定)
・金屋の十三塚(1986年3月31日指定)
・生駒十三峠の十三塚(1986年3月31日指定)
・元興寺庶民信仰資料(1967年6月17日指定)
・十津川郷の山村生産用具 3,174点(1991年4月19日指定)「十津川郷の山村生産用具」[奈良県吉野郡十津川村]
・法華寺のカラブロ 附 明和三年銘棟札、井戸(2005年2月21日指定)
・吉野林業用具と林産加工用具(2007年3月7日指定)「奈良県立民俗博物館」[奈良県大和郡山市]
・名つけ帳・黒箱(1956年4月26日指定)

<中国>
・倉吉の鋳物師(斎江家)用具及び製品(1985年4月19日指定)
・トモド(1955年2月3日指定)
・諸手船(1955年2月3日指定)
・たたら製鉄用具(1959年5月6日指定)
・美保神社奉納鳴物(1960年6月9日指定)
・そりこ(1963年5月15日指定)
・東比田の山村生産用具(1963年5月15日指定)
・菅谷たたら山内(1967年11月11日指定)
・奥飯石および周辺地域の積雪期用具(1968年5月31日指定)
・波佐の山村生産用具(1971年12月15日指定)
・隠岐島後の生産用具(1974年11月19日指定)
・田熊の舞台(1975年9月3日指定 民俗芸能)
・樽床・八幡山村生活用具および民家(1959年5月6日指定)
・芸北の染織用具および草木染めコレクション(1960年6月9日指定)
・川東のはやし田用具(1963年5月15日指定)
・豊松の信仰用具(1968年5月31日指定)
・湯ノ山明神旧湯治場(1974年2月18日指定)
・はきものコレクション(1985年4月19日指定)
・江の川流域の漁撈用具(1999年12月21日指定)
・江崎のまるきぶね(1957年6月3日指定)
・岸見の石風呂(1958年4月18日指定)
・久賀の石風呂(1958年4月18日指定)
・製塩用具(1959年5月6日指定)
・蓋井島「山ノ神」の森(1960年10月11日指定 信仰)
・赤崎神社楽桟敷(1963年10月26日指定)
・阿弥陀寺の湯屋 附 旧鉄湯釜 旧鉄湯舟残欠(1972年8月3日指定)
・長門の捕鯨用具(1975年9月3日指定)
・久賀の諸職用具(1978年8月5日指定)
・周防大島東部の生産用具(1990年3月29日指定)
・須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬 49点(2010年3月11日指定)宝泉寺[山口県萩市]

<四国>
・徳島県祖谷の蔓橋(1955年2月3日指定)
・阿波藍栽培加工用具(1955年4月22日指定)
・鳴門の製塩用具(1967年6月17日指定)
・阿波の和三盆製造用具(1974年2月18日指定)
・犬飼の舞台(1998年12月16日指定)
・坂州の舞台(1998年12月16日指定)
・阿波人形師(天狗屋)の製作用具及び製品 附 販売関係資料(2002年2月12日指定)
・肥土山の舞台(1975年9月3日指定)
・池田の桟敷(1976年8月23日指定)
・瀬戸内海及び周辺地域の漁撈用具(1977年6月14日指定)
・金毘羅庶民信仰資料(1979年5月21日指定)
・讃岐及び周辺地域の砂糖製造用具と砂糖しめ小屋・釜屋(1983年4月13日指定)
・讃岐及び周辺地域の醤油醸造用具と醤油蔵・麹室(1986年3月31日指定)
・中山の舞台(1987年3月3日指定)
・瀬戸内海の船図及び船大工用具(1993年4月15日指定)
・牟礼・庵治の石工用具(1996年12月20日指定)
・西日本の背負運搬具コレクション 310 点(2015年3月2日指定)「瀬戸内海歴史民俗資料館」[香川県高松市]
・内子及び周辺地域の製蝋用具(1991年4月19日指定)
・浜田の泊屋(1957年6月3日指定)
・八代の舞台(1976年8月23日指定)
・高野の舞台(1977年6月14日指定)
・土佐豊永郷及び周辺地域の山村生産用具(1982年4月21日指定)

<九州・沖縄>
・傀儡子(1956年4月26日指定)
・有明海漁撈用具(1965年6月9日指定)
・肥前佐賀の酒造用具(1988年3月17日指定)
・宇土の雨乞い大太鼓 29基 附 関連資料28点(2017年3月3日指定)「宇土市大太鼓収蔵館」[熊本県宇土市]
・大分県傀儡子(1956年4月26日指定)
・山香の石風呂(1965年6月9日指定)
・尾崎の石風呂(1968年5月31日指定)
・蒲江の漁撈用具(1994年12月13日指定)
・東米良の狩猟用具(1957年6月3日指定)
・西米良の焼畑農耕用具(1986年3月31日指定)
・日向の山村生産用具(1993年4月15日指定)

旅の豆知識「都道府県立美術館」

2017年08月30日 | 旅の豆知識
 旅先で絵を描いている人に出会ったことはありませんか?美しい風景を前にしてカンバスに絵筆をふるっている人を見て、思わずのぞき込んでしまったなんてことが‥‥。誰でも、すばらしい山や海に臨んで、「私に絵心があったならなあ」と感動のあまりつぶやいてしまったなんてことが一度や二度はあるのではないですか?しかし、旅先で絵を描くことができなくても、美術品を鑑賞することはできると思います。               
 美術館と聞くと、古い絵画や彫刻が展示してある所と思っている人が多いかと思います。しかし、最近出来た美術館は色々な工夫が施されています。中でも、現代美術を扱った美術館は、先進的なアーティストの作品も展示していますので、興味深い方も見えるのではないでしょうか。
 特に、最近の都道府県立美術館の充実には目を見張るものがあります。規模も大きく、多彩で、近代美術から現代美術に至るまで幅広く展示しているところもあって面白いのです。そんな美術館に足を運んでみませんか?

〇「美術館」とは?
 広辞苑によると、「絵画・彫刻などの美術品を陳列して一般の展覧・研究に資する建物。」となっていました。また、博物館法では、「博物館は、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し(育成を含む)、展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせて、これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされていて、美術館は、博物館の一種とされています。
 日本では、1872年(明治5)東京・湯島聖堂で文部省博物館主催の美術工芸品の展示が行われましたが、1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会が上野公園で開催されたとき、美術品を陳列した部門を美術館と称したのが、名称の始まりでした。これが後の帝室博物館(現在の東京国立博物館の前身)となったのです。1930年(昭和5)には、倉敷の「大原美術館」が西洋絵画のコレクションを常設展示する民間最初の西洋美術館として発足しました。太平洋戦争後は、1951年(昭和26)に神奈川県立近代美術館、1959年(昭和34)、東京に国立西洋美術館が開かれ、その後、数を増していったのです。1970年以降は、地方公共団体による公立美術館の設立が続き、増大していったのです。
 日本では、現在でも美術館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2015年(平成27)10月現在で、1,064館(美術博物館441、類似美術博物館623)があります。

☆「都道府県立美術館」のお勧め

(1)青森県立美術館(青森県青森市)
 三内丸山遺跡の隣の静かな環境に、県立美術館として2006年(平成18)に開館しました。郷土出身の芸術家、世界的な版画家棟方志功や、若い世代の圧倒的な指示を集める奈良美智、文学・演劇・映画など多方面で活躍した寺山修司、ウルトラマンや怪獣のデザインを手がけた成田亨など県ゆかりの作家の作品を展示しています。その一方で、ピカソ、マティス、クレー、シャガールなどの西洋美術の作品を収蔵していることで知られています。郷土出身の芸術家のいろいろな仕事が垣間見れて、とても面白く見学できました。
 
(2)茨城県天心記念五浦美術館(茨城県北茨城市)
 岡倉天心らの業績を記念して、1997年(平成9)に設立された美術館です。1906年(明治39)、岡倉天心が日本美術院第一部を五浦(いつうら)に移転し、ここに明治時代の日本画壇の俊英達が集まったのは興味深いことでした。岡倉天心の業績、その弟子達の活躍などこの五浦の地が日本画の発展に与えた大きさをあらためて感じさせる施設なのです。この美術館は、高台の見晴らしのすばらしい所に作られた、近代的な立派な建物で、この中の岡倉天心記念室でその業績を学ぶことができ、とても感銘を受けました。

(3)山梨県立美術館(山梨県甲府市)
 1978年(昭和53)に開館し、ジャン=フランソワ・ミレーの「種まく人」を3億円で購入して話題になった所ですが、その後も作品を買い増して、「落ち穂拾い、夏」「ポーリーヌ・V・オノの肖像」などのミレーの作品を一度に鑑賞できます。本物の迫力はすばらしく、美術ファンには一見の価値があると思います。常設展と企画展も見たのですが、なんといってもミレーの作品群がすばらしい!何度も見ているものの、感動を新たにしました。

(4)岐阜県美術館(岐阜県岐阜市)
 1982年(昭和57)開館で、県民文化の森の中の静かな環境に立地しています。館内には、岐阜県出身者やゆかりのある画家(大橋翠石、川合玉堂など)・芸術家の作品を多数収蔵する一方で、オディロン・ルドンの「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」、「眼をとじて」、ギュスターヴ・モローの「ピエタ」、ピエール=オーギュスト・ルノワール - 「泉」などの有名な西洋画も所蔵していて、なかなか見ごたえがありまりました。

(5)愛知県美術館(愛知県名古屋市東区)
 1955年(昭和30)に開館した愛知県文化会館美術館を前身とし、1992年(平成4)に、愛知芸術文化センター内に移転新築して開館しました。国内の梅原龍三郎、安井曾太郎、横山大観、菱田春草など、国外のピカソ、マティス、クリムトなど20世紀美術を中心に収蔵・展示しています。また、木村定三コレクション(浦上玉堂、与謝蕪村、小川芋銭、熊谷守一、須田剋太など日本画家の作品、陶磁器等の工芸品、中国・日本の仏教彫刻、考古遺物など3,000点超)、藤井達吉コレクション(絵画や工芸など約1,500点)も寄贈され、重要文化財3件(6点)を含む、古今東西を網羅する総合美術館となりました。

☆日本の都道府県立美術館一覧

<北海道>
・北海道立近代美術館(北海道札幌市中央区)
・北海道立三岸好太郎美術館(北海道札幌市中央区)
・北海道立函館美術館(北海道函館市)
・北海道立旭川美術館(北海道旭川市)
・北海道立帯広美術館(北海道帯広市)
・北海道立釧路芸術館(北海道釧路市)

<東北>
・青森県立美術館(青森県青森市)
・岩手県立美術館(岩手県盛岡市)
・宮城県美術館(宮城県仙台市青葉区)
・秋田県立近代美術館(秋田県横手市)
・秋田県立美術館 平野政吉コレクション(秋田県秋田市)
・福島県立美術館(福島県福島市)

<関東>
・栃木県立美術館(栃木県宇都宮市)
・群馬県立近代美術館(群馬県高崎市)
・群馬県立館林美術館(群馬県館林市)
・茨城県近代美術館(茨城県水戸市)
・茨城県つくば美術館(茨城県つくば市)
・茨城県天心記念五浦美術館(茨城県北茨城市)
・茨城県陶芸美術館(茨城県笠間市)
・埼玉県立近代美術館(埼玉県さいたま市浦和区)
・千葉県立美術館(千葉県千葉市中央区)
・東京都美術館(東京都台東区)
・東京都井の頭自然文化園彫刻園(東京都武蔵野市)
・東京都庭園美術館(東京都港区)
・東京都現代美術館(東京都江東区)
・東京都写真美術館(東京都目黒区)
・神奈川県立近代美術館(神奈川県三浦郡葉山町・鎌倉市)

<中部>
・新潟県立近代美術館(新潟県長岡市)
・新潟県立万代島美術館(新潟県新潟市中央区)
・富山県美術館(富山県富山市)
・富山県水墨美術館(富山県富山市)
・石川県九谷焼美術館(石川県加賀市)
・石川県七尾美術館(石川県七尾市)
・石川県立美術館(石川県金沢市)
・福井県立美術館(福井県福井市)
・山梨県立美術館(山梨県甲府市)
・長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野県長野市)
・静岡県立美術館(静岡県静岡市駿河区)
・岐阜県美術館(岐阜県岐阜市)
・岐阜県現代陶芸美術館(岐阜県多治見市)
・愛知県美術館(愛知県名古屋市東区)

<近畿>
・三重県立美術館(三重県津市)
・滋賀県立近代美術館(滋賀県大津市)
・滋賀県立陶芸の森(滋賀県甲賀市)
・京都府立堂本印象美術館(京都府京都市北区)
・京都府立陶板名画の庭(京都府京都市左京区)
・奈良県立美術館(奈良県奈良市)
・大阪府立江之子島文化芸術創造センター(大阪府大阪市西区)
・兵庫県公館(兵庫県神戸市中央区)
・兵庫県立美術館「芸術の館」(兵庫県神戸市中央区)
・兵庫陶芸美術館(兵庫県篠山市)
・和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市)

<中国>
・島根県立美術館(島根県松江市)
・島根県立石見美術館(島根県益田市)
・岡山県立美術館(岡山県岡山市北区)
・広島県立美術館(広島県広島市中区)
・山口県立美術館(山口県山口市)
・山口県立萩美術館浦上記念館(山口県萩市)

<四国>
・徳島県立近代美術館(徳島県徳島市)
・香川県立東山魁夷せとうち美術館(香川県坂出市)
・愛媛県美術館(愛媛県松山市)
・高知県立美術館(高知県高知市)

<九州・沖縄>
・福岡県立美術館(福岡県福岡市中央区)
・佐賀県立美術館(佐賀県佐賀市)
・長崎県美術館(長崎県長崎市)
・大分県立美術館(大分県大分市)
・熊本県立美術館(熊本県熊本市)
・宮崎県立美術館(宮崎県宮崎市)
・沖縄県立博物館・美術館(沖縄県那覇市)

旅の豆知識「都道府県立博物館」

2017年08月29日 | 旅の豆知識
 最近は旅先でよく博物館をみかけるようになりました。何気なく、立ち寄ってみたら、斬新な展示や映像があって、以外に面白かった。なんて経験はありませんでしたか。近年は新しく作るところが増え、世界一博物館の多い国になったとか‥‥。そんな中の一つに行ってみると地方の歴史や文化を概観することができ、これからの旅のヒントにもなります。               
 博物館と聞くと、古いものが展示してある所と思っている人が多いかと思います。しかし、最近出来た博物館は色々な工夫が施されています。一つは、実物大展示です。建物や自然環境を、原寸大に復元してあって、まさにその場所にタイムスリップした感覚になれます。一つは、映像です。マルチビジョン、立体ビジョンなど臨場感あふれるものを楽しむことが出来ます。これで結構面白いですよ。
 特に、最近の都道府県立博物館の充実には目を見張るものがあります。規模も大きく、多彩で、変化する博物館に足を運んでみませんか?

〇「博物館」とは?
 広辞苑によると、「古今・東西にわたって考古学資料・美術品・歴史的遺物、その他の学術的資料を博く蒐集し、これを組織的に陳列して一般公衆の展覧に供し、学術研究の資とし、社会教育に寄与するための施設。」となっていました。また、博物館法では、「博物館は,歴史,芸術,民俗,産業,自然科学等に関する資料を収集し,保管し(育成を含む),展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資するために必要な事業を行い,あわせて,これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされています。
 日本では、1872年(明治5)に文部省博物局の管轄で湯島の聖堂に開設されたのが最初とされ、1875年(明治8)になって内務省管轄の博物館が設置されました。この博物館は、帝国博物館、東京帝室博物館などと名称を変え、太平洋戦争後、国立博物館となり、1952年(昭和27)に現在の東京国立博物館になったのです。そして、戦後になって博物館の数は急速に増えていきました。
 日本では現在、博物館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2011年(平成23)10月現在で、5,747館があります。

☆「都道府県立博物館」のお勧め

(1)北海道博物館と北海道開拓の村(北海道札幌市厚別区)
 1971年(昭和46)に北海道の開道100年を記念して開設された「北海道開拓記念館」を前身とし、2015年(平成27)4月18日に開館した総合博物館で、北海道の開拓の歴史を知ることが出来ます。また、隣接する「北海道開拓の村」へ行くと、54haの広大な園内に52棟の歴史的建造物が移築又は再現されていて、開拓当時の村を形成しています。夏は鉄道馬車が走り、冬は馬橇が走るといった念のいれようです。

(2)東京都江戸東京博物館(東京都墨田区)
 1993年(平成5)3月28日に開館した東京都立の歴史博物館で、1階に企画展示室、3階に「江戸東京ひろば」、5階と6階に常設展示室があります。常設展示室には「江戸ゾーン」と「東京ゾーン」があり、「江戸ゾーン」には実物大の日本橋や中村座などが復元されていて、見ごたえがありました。また、「東京ゾーン」には、明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示があってとても興味深いのです。展示内容も豊富で、図書室(7階)、映像ホール(1階)や映像ライブラリー(7階)などもあり、1日楽しめました。

(3)新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)
 2000年(平成12)8月1日に開館し、新潟県の歴史展示を中心に縄文時代の文化や新潟県の歴史・民衆生活に関する資料などを展示しています。特徴は、「縄文人の世界」のコーナーで、縄文時代の人々の生活を実物大で復元したジオラマ展示をしていることで、とてもリアルに作られていてびっくりします。また、「雪とくらし」のコーナーでは、世界有数の豪雪地・高田(現上越市)の雁木通りと、軒を連ねる商店の冬の様子が再現されていて、これも驚かされます。

(4)和歌山県立博物館(和歌山県和歌山市)
 設立は1971年(昭和46)ですが、現在の施設は1994年(平成6)に移転新築したものでした。管内の常設展示室では、古代の人々の生活から高野山や熊野三山、熊野古道の資料、紀州徳川家旧蔵品など、和歌山の文化歴史に関する展示を行っていて、わかりやすい展示が特徴で、音間から子供まで楽しめるようになっています。

(5)広島県立歴史博物館(広島県福山市)
 1989年(平成元)11月3日に開館した県立の歴史博物館で、草戸千軒町遺跡出土品(国の重要文化財)を中心に瀬戸内地方の交通・交易や民衆生活に関する資料などを展示しています。特に、往時の草戸千軒町の町並の一部が、実物大のジオラマで再現されているのが特徴で、2014年(平成26)4月に「ふくやま草戸千軒ミュージアム」の愛称が付けられました。

☆日本の都道府県立博物館(総合系博物館)一覧

<北海道>
・北海道博物館(北海道札幌市厚別区)2015年4月18日開館

<東北>
・青森県立郷土館(青森県青森市)1973年9月20日開館
・岩手県立博物館(岩手県盛岡市)1980年10月5日開館
・東北歴史博物館(宮城県多賀城市)1999年10月9日開館
・秋田県立博物館(秋田県秋田市)1975年5月5日開館
・山形県立博物館(山形県山形市)1971年4月1日開館
・福島県立博物館(福島県会津若松市)1986年開館

<関東>
・茨城県立歴史館(茨城県水戸市)1974年9月3日開館
・ミュージアムパーク茨城県自然博物館(茨城県坂東市)1994年11月13日開館
・栃木県立博物館(栃木県宇都宮市)1972年10月開館
・群馬県立歴史博物館(群馬県高崎市)1979年10月21日開館
・群馬県立自然史博物館(群馬県富岡市)1996年10月22日開館
・埼玉県立歴史と民俗の博物館(埼玉県さいたま市)1971年11月開館
・埼玉県立自然の博物館(埼玉県秩父郡長瀞町)1981年開館
・東京都江戸東京博物館(東京都墨田区)1993年3月28日開館
・千葉県立中央博物館(千葉県千葉市中央区)1989年2月6日開館
・神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)1967年3月20日開館
・神奈川県立生命の星・地球博物館(神奈川県小田原市)1995年3月20日開館

<中部>
・山梨県立博物館(山梨県笛吹市)2005年10月15日開館
・新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)2000年8月1日開館
・長野県立歴史館(長野県千曲市)1994年11月3日開館
・富山県立山博物館(富山県中新川郡立山町)1991年11月1日開館
・石川県立歴史博物館(石川県金沢市)1986年10月24日開館
・福井県立歴史博物館(福井県福井市)1974年4月日開館
・福井県立恐竜博物館(福井県勝山市)2000年7月14日開館
・岐阜県博物館(岐阜県関市)1976年5月5日開館

<近畿>
・三重県立博物館(三重県津市)1953年6月26日開館
・滋賀県立琵琶湖博物館(滋賀県草津市)1996年10月20日開館
・京都府京都文化博物館(京都府京都市)1988年10月1日開館
・和歌山県立博物館(和歌山県和歌山市)1971年4月開館
・兵庫県立歴史博物館(兵庫県姫路市)1983年開館
・兵庫県立人と自然の博物館(兵庫県三田市)1992年10月10日開館

<中国>
・岡山県立博物館(岡山県岡山市)1971年8月開館
・広島県立歴史博物館(広島県福山市)1989年11月3日開館
・鳥取県立博物館(鳥取県鳥取市)1972年10月1日開館
・島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市)2007年3月10日開館
・山口県立山口博物館(山口県山口市)1912年4月1日開館

<四国>
・香川県立ミュージアム(香川県高松市)1999年11月16日開館
・愛媛県歴史文化博物館(愛媛県西予市)1994年11月19日開館
・徳島県立博物館(徳島県徳島市)1990年11月3日開館
・高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)1991年5月3日開館

<九州・沖縄>
・九州歴史資料館(福岡県小郡市)1973年開館
・大分県立歴史博物館(大分県宇佐市)1981年11月1日開館
・佐賀県立博物館(佐賀県佐賀市)1970年10月14日開館
・長崎歴史文化博物館(長崎県長崎市)2005年11月3日開館
・宮崎県総合博物館(宮崎県宮崎市)1971年3月開館
・鹿児島県立博物館(鹿児島県鹿児島市)1953年3月開館
・鹿児島県歴史資料センター黎明館(鹿児島県鹿児島市)1983年10月21日開館
・沖縄県立博物館・美術館(沖縄県那覇市)2007年11月1日開館

旅の豆知識「植物園」

2017年08月28日 | 旅の豆知識
 旅先で自然を感じる時、植生の違いは大きな要素となります。沖縄に行き、ガジュマルの木に南洋を見いだし、北海道でエゾ松の林に北国を実感し、高山地帯のハイ松に標高を知るといった具合です。しかし、最近の地域開発によりこのような植生が破壊されつつあります。そんな中、近年、自然保護の観点と観光目的から色々な植物園が作られ、その地方独特の植物や植生を見学できるようになりました。               
 今までの植物園は全国からいや世界中から珍しい植物を集めて、栽培し、花や木々を愛でながら色々な植物を識るといったものでした。いわば、ゼネラル植物園といった所でしょうか。それも、必要なことだと思います。しかし、最近出来た植物園はその地方の特徴的な植物を集め、栽培保護しながら、その地域の植生を感じらえるような、テーマ植物園とでも呼べる所が増えています。そんな植物園を訪れて、その地域の植物を見てみるのも良いのでは…。

〇「植物園」とは?
 広辞苑によると、「植物学の進歩・向上及び植物に関する知識の普及に資するために設備せられた植物の培養所。」となっています。
 日本最古の植物園は、「小石川植物園」(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で、1684年(貞享元)に江戸幕府が江戸小石川に設けた御薬園が元になっていました。また、「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション植物園」は、1886年(明治19)に札幌農学校附属植物園として設立されたものです。
 日本では現在、日本植物園協会に加盟しているものだけでも、113園(2017年現在)があります。

☆「植物園」のお勧め

(1)北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション植物園(北海道札幌市中央区)
 1886年(明治19)に札幌農学校附属植物園として設立されたもので、古い歴史があり、13.3haの園内には、高山植物など北海道の自生植物を中心に約4,000種類の植物が育成されています。一般には、「北海道大学植物園」と呼ばれ、北海道内の重要な観光スポットの一つともなっていて、北海道開拓以前のブナ原生林が残され、かつての植生を知り、自然に触れることが出来る数少ないところで、散策にはうってつけです。

(2)筑波実験植物園(茨城県つくば市)
 つくば研究学園都市にあり、日本国立科学博物館の一つの研究部門として、1983年(昭和58)に開園しました。敷地面積は、14haあり、約5,000種の日本国内外の植物を温帯地域から熱帯地域に至るまで世界中から集めています。屋外に9つの植生区画(1.常緑広葉樹林、2.温帯性針葉樹林、3.暖温帯落葉広葉樹林、4.冷温帯落葉広葉樹林、5.低木林(低地性・高地性)6.砂礫地植物(山地性・海岸性)、7.山地草原(低地性・高地性)、8.岩礫地植物(山地性・海岸性)、9.水生植物区画)があり、3つの温室(サバンナ温室、熱帯雨林温室、水生植物温室)も有していて、見ごたえがありました。

(3)東京大学大学院理学系研究科附属植物園(東京都文京区)
 一般には、「小石川植物園」と呼ばれていて、1684年(貞享元)に江戸幕府が江戸小石川に設けた御薬園が元になっていました。東京大学の付属施設としての開園は、1877年(明治10)で、現在の面積は、16.1588ha、都民の憩いの場ともなり、植物園本館には植物標本約70万点、植物学関連図書約2万冊があって、植物研究に活用されています。尚、2012年(平成24)に、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定されました。

(4)東山動植物園(愛知県名古屋市千種区)
 動物園と併設された59.58 haもの広大なものですが、植物園は動物園に先立ち、1937年(昭和12)に開園した古い歴史があります。植物園 だけでも27.37haと広い敷地を誇り、大温室が多数あって、植物230科7,000種が栽培されていました。水生植物、熱帯植物等を順に見て回ることができる総合的植物園で、その知識が豊富になります。

(5)牧野記念植物園(高知県高知市)
 1958年(昭和33)に、日本の草分けと言われる植物学者牧野富太郎の業績を記念して、五台山に開園しました。現在の面積は、 17.8haで、園内には3000種近い植物が栽培されていて、1999年(平成11)には、「牧野富太郎記念館」も出き、大きな温室もあります。

☆日本の主要な植物園一覧(日本植物園協会加盟施設)

<北海道>
・北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北海道札幌市中央区)
・札幌市百合が原緑のセンター(北海道札幌市北区)
・札幌市豊平公園緑のセンター(北海道札幌市豊平区)
・札幌市平岡樹芸センター(北海道札幌市清田区)
・函館市熱帯植物園(北海道函館市)

<東北>
・能代エナジアムパーク(秋田県能代市)
・仙台市野草園(宮城県仙台市太白区)
・東北大学植物園(宮城県仙台市青葉区)
・山形市野草園(山形県山形市)

<関東>
・とちぎ花センター(栃木県栃木市)
・ぐんまフラワーパーク(群馬県前橋市)
・水戸市植物公園(茨城県水戸市)
・森林総合研究所樹木園(茨城県つくば市)
・筑波実験植物園(茨城県つくば市)
・茨城県植物園(茨城県那珂市)
・千葉県立中央博物館生態園(千葉県千葉市中央区)
・東京大学大学院農学生命科学研究科附属緑地植物実験所(千葉県千葉市花見川区)
・清水公園(千葉県野田市)
・川口市立グリーンセンター(埼玉県川口市)
・国営武蔵丘陵森林公園都市緑化植物園(埼玉県比企郡滑川町)
・東京大学大学院理学系研究科附属植物園(東京都文京区、栃木県日光市)
・板橋区立赤塚植物園(東京都板橋区)
・板橋区立熱帯環境植物館(東京都板橋区)
・新宿御苑(東京都新宿区)
・渋谷区ふれあい植物センター(東京都渋谷区)
・夢の島熱帯植物館(東京都江東区)
・神代植物公園(東京都調布市)
・多摩森林科学園(東京都八王子市)
・横浜市こども植物園(神奈川県横浜市南区)
・神奈川県立フラワーセンター大船植物園(神奈川県鎌倉市)
・箱根町立箱根湿生花園(神奈川県足柄下郡箱根町)

<中部>
・新潟県立植物園(新潟県新潟市秋葉区)
・富山県中央植物園(富山県富山市)
・氷見市海浜植物園(富山県氷見市)
・南砺市園芸植物園フローラルパーク(富山県南砺市)
・七尾フラワーパーク・のと蘭ノ国(石川県七尾市)
・福井総合植物園プラントピア(福井県丹生郡越前町)
・花フェスタ記念公園(岐阜県可児市)
・伊豆シャボテン公園(静岡県伊東市)
・浜松市フラワーパーク(静岡県浜松市西区)
・浜松市フルーツパーク(静岡県浜松市北区)
・碧南市農業活性化センターあおいパーク(愛知県碧南市)
・東山植物園(愛知県名古屋市千種区)
・名古屋市緑化センター(愛知県名古屋市昭和区)
・安城産業文化公園デンパーク(愛知県安城市)
・豊橋総合動植物公園(愛知県豊橋市)

<近畿>
・草津市立水生植物公園みずの森(滋賀県草津市)
・京都府立植物園(京都府京都市左京区)
・宇治市植物公園(京都府宇治市)
・大阪市立長居植物園(大阪府大阪市住吉区)
・咲くやこの花館(大阪府大阪市鶴見区)
・天王寺公園植物温室(大阪府大阪市天王寺区)
・大阪市立大学理学部附属植物園(大阪府交野市)
・大阪府立花の文化園(大阪府河内長野市)
・神戸市立森林植物園(兵庫県神戸市北区)
・六甲高山植物園(兵庫県神戸市灘区)
・尼崎市都市緑化植物園(兵庫県尼崎市)
・宝塚植物園(兵庫県宝塚市)
・兵庫県立フラワーセンター(兵庫県加西市)
・奇跡の星の植物館(兵庫県淡路市)
・和歌山県植物公園緑花センター(和歌山県岩出市)

<中国>
・鳥取県立とっとり花回廊(鳥取県西伯郡南部町)
・岡山市半田山植物園(岡山県岡山市北区)
・広島市植物公園(広島県広島市佐伯区)
・緑と花と彫刻の博物館(山口県宇部市)

<四国>
・高知県立牧野植物園(高知県高知市)

<九州>
・福岡市動植物園(福岡県福岡市中央区)
・長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)(長崎県長崎市)
・佐世保市亜熱帯動植物園(長崎県佐世保市)
・熊本市動植物園(熊本県熊本市)
・仙巌園自然植物園(鹿児島県鹿児島市)
・フラワーパークかごしま(鹿児島県指宿市)
・奄美アイランド植物園(鹿児島県奄美市)

<沖縄>
・熱帯・亜熱帯都市緑化植物園(沖縄県国頭郡本部町)
・ネオパークオキナワ[名護自然動植物公園](沖縄県名護市)

旅の豆知識「水族館」

2017年08月27日 | 旅の豆知識
 海辺の観光地を旅すると、小さな水族館があって、薄暗い館内の狭い水槽の中を魚が泳いでいた。以前には水族館にはそんなイメージがありました。そして、自然豊かな海岸線があり、夏の海水浴シーズン以外は訪れる人もあまりなくて、ひっそりとしていました。そんな海浜の雰囲気の中に水族館はあったのです。しかし、最近は大きく変わりました。
 海辺の観光地がウォーターフロントとしてもてはやされ、大規模なリゾート開発が進められたところでは、昔の静かな海浜のイメージは一変し、大規模な観光施設が建設されました。その一つとして近代的な水族館が誕生したのです。明るく大きな回遊水槽の中をたくさんの種類の魚が泳ぎ、屋外プールでではイルカやアシカのショーを楽しむことができ、一大レジャー施設の感さえあります。グループでいっても充分楽しめるものになっています。
  
〇「水族館」とは?
 広辞苑によると、「水棲動物を飼育・陳列して人々に鑑賞させ、それらの生態・習性などを研究させる施設。」となっています。
 日本最初の水族館は1882年(明治15)に上野動物園にできた観魚室とされていますが、15ほどの水槽が置かれていただけでした。その後、1897年(明治30)の第2回水産博覧会で設置された遊園地「和楽園」(兵庫県の和田岬)に水族館が併設され、これが「水族館」の名称が用いられた初めとされていますが、一時的な施設です。それ以後大正年代にかけては、東京大学の三崎、京都大学の瀬戸、東北大学の浅虫など大学の臨海実験所に付属する水族館が生まれました。そして、昭和時代になって、各地に水族館が誕生するようになっていきます。
 日本では現在、博物館の一種とされる社会教育施設であり、「博物館法」で規定される趣旨に沿って運営されていますが、現在では、全国で100館以上になり、世界一の館数となりました。

☆「水族館」のお勧め

(1)おたる水族館(北海道小樽市)
 1958年(昭和33)に北海道博覧会の「海の会場」として建設され、翌年に「小樽市立水族館」として営業を開始しました。現在の面積は、107,000平方mで、約260種5,000頭を飼育しています。大規模な建物の中に大きな水槽があり、屋外プールではトドやイルカ、アシカ等のショーが見られ、カモメの餌による呼び寄せなど1日いても飽きないくらいです。

(2)アクアミュージアム(神奈川県横浜市金沢区)
 1993年(平成5)に、営業を開始した「八景島シーパラダイス」内にあって、巨大な回遊水槽があり、その中のガラスのトンネルをエスカレーターで進むと、まるで水中を行くような感じです。屋外では海洋動物による様々なショーが演じられます。

(3)鳥羽水族館(三重県鳥羽市)
 1955年(昭和30)に開館しましたが、現在では、自然の環境を再現したゾーンが12あり、約1200種類30,000点もの海や川の生きものが飼育・展示されていて、種数では日本一とされています。また、アシカショウ、ペンギン散歩、セイウチパフォーマンスショウなども人気で、一日楽しめる施設です。

(4)大分マリーンパレス水族館「うみたまご」(大分県大分市)
 1964年(昭和39)に大分生態水族館マリーンパレスとして開館。2004年4月1日にリニューアル開業して、大分マリーンパレス水族館「うみたまご」となりました。猿で知られた高崎山の麓にあり、日本最初の回遊水槽と魚の曲芸で知られています。小さな熱帯魚が輪くぐりなどの曲芸をするのは見ていてもとてもほほえましいものです。

(5)沖縄美ら海水族館(沖縄県国頭郡本部町)
 1975年(昭和50)7月 20日~翌年1月18日までの183日間、沖縄県国頭郡本部町で沖縄国際海洋博覧会(略称:沖縄海洋博、海洋博、EXPO '75)が開催され、巨大水槽の海洋生物園が出展されました。博覧会終了後会場跡地は、「国営沖縄海洋博覧会記念公園」となったのですが、その施設を継承して誕生したのがこの水族館です。この当時、水量1,100トンの水槽は世界最大で、ジンベエザメをはじめとする大型のサメやエイなどが回遊し、とてもみごとでした。現在では、イルカショウも人気で、多くの観光客が訪れます。

☆日本の主要な水族館一覧(日本動物園水族館協会加盟園館)

<北海道>
・サンピアザ水族館(北海道札幌市)
・おたる水族館(北海道小樽市)
・稚内市立ノシャップ寒流水族館(北海道稚内市)
・サケのふるさと 千歳水族館(北海道千歳市)
・登別マリンパークニクス(北海道登別市)

<東北>
・青森県営浅虫水族館(青森県青森市)
・男鹿水族館GAO(秋田県男鹿市)
・鶴岡市立加茂水族館 クラゲドリーム館(山形県鶴岡市)
・ふくしま海洋科学館 アクアマリンふくしま(福島県いわき市)
・アクアマリンいなわしろカワセミ水族館(福島県耶麻郡猪苗代町)

<関東>
・アクアワールド大洗(茨城県東茨城郡大洗町)
・かすみがうら市水族館(茨城県かすみがうら市)
・栃木県なかがわ水遊園(栃木県大田原市)
・さいたま水族館(埼玉県羽生市)
・鴨川シーワールド(千葉県鴨川市)
・サンシャイン水族館(東京都豊島区)
・しながわ水族館(東京都品川区)
・すみだ水族館(東京都墨田区)
・葛西臨海水族園(東京都江戸川区)
・横浜・八景島シーパラダイス(神奈川県横浜市)
・京急油壺マリンパーク(神奈川県三浦市)
・新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)

<中部>
・新潟市水族館 マリンピア日本海(新潟県新潟市)
・寺泊水族博物館(新潟県長岡市)
・上越市立水族博物館(新潟県上越市)
・魚津水族館(富山県魚津市)
・のとじま臨海公園水族館(石川県七尾市)
・越前松島水族館(福井県坂井市)
・山梨県立富士湧水の里水族館(山梨県南都留郡忍野村)
・岐阜県世界淡水魚園水族館 アクア・トトぎふ(岐阜県各務原市)
・伊豆・三津シーパラダイス(静岡県沼津市)
・下田海中水族館(静岡県下田市)
・東海大学海洋科学博物館(静岡県静岡市)
・名古屋港水族館(愛知県名古屋市港区)
・竹島水族館(愛知県蒲郡市)
・碧南海浜水族館(愛知県碧南市)
・南知多ビーチランド(愛知県知多郡美浜町)

<近畿>
・鳥羽水族館(三重県鳥羽市)
・志摩マリンランド(三重県志摩市)
・伊勢夫婦岩ふれあい水族館シーパラダイス(三重県伊勢市)
・滋賀県立琵琶湖博物館(滋賀県草津市)
・京都水族館(京都府京都市)
・丹後魚っ知館(京都府宮津市)
・海遊館(大阪府大阪市)
・串本海中公園(和歌山県東牟婁郡串本町)
・城崎マリンワールド(兵庫県豊岡市)
・神戸市立須磨海浜水族園(兵庫県神戸市)
・姫路市立水族館(兵庫県姫路市)

<中国>
・玉野市立玉野海洋博物館 渋川マリン水族館(岡山県玉野市)
・宮島水族館 みやじマリン(広島県廿日市市)
・島根県立しまね海洋館アクアス(島根県浜田市)
・宍道湖自然館ゴビウス(島根県出雲市)
・下関市立しものせき水族館 海響館(山口県下関市)

<四国>
・四万十川学習センターおさかな館(愛媛県北宇和郡松野町)
・桂浜水族館(高知県高知市)
・足摺海洋館(高知県土佐清水市)

<九州・沖縄>
・マリンワールド海の中道(福岡県福岡市)
・長崎ペンギン水族館(旧・長崎水族館、長崎県長崎市)
・大分マリーンパレス水族館 うみたまご(大分県大分市)
・いおワールドかごしま水族館(鹿児島県鹿児島市)
・沖縄美ら海水族館(沖縄県国頭郡本部町)

旅の豆知識「動物園」

2017年08月26日 | 旅の豆知識
 子供のころに出かけた思い出として、動物園を思い浮かべる人が結構多いのではないでしょうか?はじめて見るキリンや象、ライオンに泣きだしたなんて記憶が‥‥‥。大人になっても動物園が好きな人は意外に多いものです。わざわざ出かけなくとも、旅行の途中にちょっと寄ってみたなんてことは‥‥‥。最近の動物園は遊園地と併設されていて、色々な楽しみ方もできます。また、訪れてみたらいかがでしょうか。
 以前の動物園は狭い檻や柵の中に動物がいて、間が外からながめて回るというものがほとんどでした。しかし、近年ではサファリーパークと呼ばれる放し飼いになっている動物の中を自動車で巡り、より自然に近い形でみられるもの。また、山羊や羊、うさぎなどの柵のなかに入っていって、触ったり、餌をやったりしながら動物とふれあえるタイプの動物園が増えています。動物愛護が叫ばれる中で、人と動物とのあり方についても考えてみたいものです。
  
〇「動物園」とは?
 広辞苑によると、「各地から各種の生きた動物を集め飼育して、一般に見せるところ。動物学の知識を広めて動物愛護の精神を高め、また絶滅に瀕した動物の保護・繁殖などを計ることを目的とする。」となっています。
 日本最初の動物園は、明治時代前期の1882年(明治15)に、上野恩賜公園内に恩賜上野動物園の前身が作られたのが始まりとされています。その後、1903年(明治36)に京都市、1915年(大正4)に大阪市、1918年(大正7)に名古屋市と相次いで開設されました。
 日本では現在、博物館の一種とされる社会教育施設であり、「博物館法」で規定される趣旨に沿って運営されています。2014年現在で、日本動物園水族館協会に登録されている動物園数は、87となりました。

☆「動物園」のお勧め

(1)旭川市立旭山動物園(北海道旭川市)
 1967年(昭和42)に開園し、現在の総面積は15万1,999平方mで、日本の動物園としては最北に位置し、137種730点(2008年4月1日現在)の動物が展示・飼育されています。動物の自然な姿を観察できる行動展示で有名で、国内外から多くの観光客が集まりました。不便な場所にあるのに、一時は「恩賜上野動物園」を凌駕する入園者があり、現在でも全国3位の来園者を集める人気があります。

(2)恩賜上野動物園(東京都台東区)
 明治時代前期の1882年(明治15)に、その前身が開園した日本最初の動物園です。1924年(大正13)には、東京市に下賜され、現在は、東京都立の動物園となりました。総面積は14万2898平方mで、東園と西園に分かれ、こども動物園、動物園ホールなどもあり、約500種、3000点余の動物が飼育展示されています。現在、日本一の入園者数を記録する動物園となっていて、愛らしいパンダの姿が人気となっています。

(3)群馬サファリーパーク(群馬県富岡市)
 1979年(昭和54)にオープンした、東日本では初の本格的サファリパークで、アフリカ、アジア、アメリカなどの大陸から集めた約100種1000頭羽の動物がいます。ここは、檻のなかに入った動物を見るのでなく、放し飼いにされている猛獣を自家用車やバスの中から見ます。ライオンが間近に来ることもあって、なかなか迫力がありました。

(4)日本モンキーセンター(愛知県犬山市)
 1960年(昭和35)に開園した、人類以外の霊長目専門の動物園で、73種600頭のサルを見学可能です。人間に一番近い、類人猿のゴリラやオラウータン、チンパンジー等実にたくさんの猿が世界中から集められていて見応えがあり、色々な実験や研究もされています。

(5)東山動植物園(愛知県名古屋市千種区)
 1937年(昭和12年)に開園した名古屋市立の動物園で、現在の敷地面積は59万5,800平方m(動物園32万2,100平方m、植物園27万3,700平方m)と広大です。動物だけでも550種、15,690点も展示されていて、年間入場者数は、日本国内で恩賜上野動物園に次ぐ約258万人(2015年度)となりました。1984年(昭和59)には、日本で初めてコアラが来日しとても人気となり、2015年(平成27)には、ニシローランドゴリラ「シャバーニ」が話題となっています。

☆日本の主要な動物園一覧

<北海道>
・札幌市円山動物園(北海道札幌市中央区)
・ノースサファリサッポロ(北海道札幌市南区)
・旭川市旭山動物園(北海道旭川市)
・釧路市動物園(北海道釧路市)
・おびひろ動物園(北海道帯広市)
・のぼりべつクマ牧場(北海道登別市)
・サホロリゾート ベア・マウンテン(北海道上川郡新得町)
・昭和新山熊牧場(北海道有珠郡壮瞥町)
・北きつね牧場(北海道北見市)

<東北>
・盛岡市動物公園(岩手県盛岡市)
・岩手サファリパーク(岩手県一関市)
・秋田市大森山動物園(秋田県秋田市)
・北秋田市阿仁マタギの里熊牧場(秋田県北秋田市)
・仙台市八木山動物公園(宮城県仙台市)
・宮城蔵王キツネ村(宮城県白石市)
・東北サファリパーク(福島県二本松市)

<関東>
・日立市かみね動物園(茨城県日立市)
・ダチョウ王国(茨城県石岡市)
・宇都宮動物園(栃木県宇都宮市)
・那須サファリパーク(栃木県那須郡那須町)
・那須どうぶつ王国(栃木県那須塩原市)
・桐生が岡動物園[桐生が岡公園](栃木県桐生市)
・群馬サファリパーク(群馬県富岡市)
・ジャパンスネークセンター(群馬県太田市)
・草津熱帯圏(群馬県吾妻郡草津町)
・大宮公園小動物園(埼玉県さいたま市大宮区・見沼区)
・大崎公園(埼玉県さいたま市緑区)
・埼玉県こども動物自然公園(埼玉県東松山市)
・東武動物公園(埼玉県南埼玉郡宮代町・白岡市)
・キャンベルタウン野鳥の森(埼玉県熊谷市)
・狭山智光山動物園(埼玉県狭山市)
・恩賜上野動物園(東京都台東区)
・板橋区立こども動物園(東京都板橋区)
・江戸川区自然動物園(東京都江戸川区)
・足立区生物園(東京都足立区)
・多摩動物公園(東京都日野市)
・井の頭自然文化園(東京都武蔵野市)
・大島公園動物園(東京都大島町)
・羽村市動物公園(東京都羽村市)
・千葉市動物公園(千葉県千葉市若葉区)
・市川市動植物園(千葉県市川市)
・市原ぞうの国(千葉県市原市)
・南房パラダイス(千葉県館山市)
・高宕山自然動物園(千葉県富津市)
・野毛山動物園(神奈川県横浜市西区)
・横浜市立金沢動物園(神奈川県横浜市金沢区)
・よこはま動物園ズーラシア(神奈川県横浜市旭区)
・夢見ヶ崎動物公園(神奈川県川崎市幸区)
・小田原動物園(神奈川県小田原市)

<中部>
・日本平動物園(静岡県静岡市)
・浜松市動物園(静岡県浜松市)
・伊豆アニマルキングダム(静岡県賀茂郡東伊豆町)
・伊豆シャボテン公園(静岡県伊東市)
・富士サファリパーク(静岡県裾野市)
・熱川バナナワニ園チ(静岡県賀茂郡東伊豆町)
・iZoo[イズー](静岡県賀茂郡河津町)
・豊橋総合動植物公園[のんほいパーク](愛知県豊橋市)
・東山動物園(愛知県名古屋市)
・豊田市鞍ケ池公園(愛知県豊田市)
・岡崎市東公園動物園(愛知県岡崎市)
・日本モンキーセンター(愛知県犬山市)
・奥飛騨クマ牧場(岐阜県高山市)
・悠久山小動物園(新潟県長岡市)
・新潟市動物ふれあいセンター(新潟県新潟市)
・大町山岳博物館(長野県大町市)
・須坂市動物園(長野県須坂市)
・長野市茶臼山動物園(長野県長野市)
・小諸市動物園(長野県小諸市)
・飯田市立動物園(長野県飯田市)
・小鳥と小動物の森(長野県松本市)
・地獄谷野猿公苑(長野県下高井郡山ノ内町)
・長野市城山動物園(長野県長野市)
・甲府市遊亀公園付属動物園(山梨県甲府市)
・富山市ファミリーパーク(富山県富山市)
・高岡古城公園動物園(富山県高岡市)
・いしかわ動物園[金沢サニーランド](石川県能美市)
・鯖江市西山動物園(福井県鯖江市)

<近畿>
・京都市動物園(京都府京都市左京区)
・福知山市動物園(京都府福知山市)
・大阪市天王寺動物園(大阪府大阪市天王寺区)
・箕面公園昆虫館(大阪府箕面市)
・ひらかたパーク(大阪府枚方市)
・ワールド牧場(大阪府南河内郡河南町)
・池田市立五月山動物園(大阪府池田市)
・みさき公園(大阪府泉南郡岬町)
・神戸市立王子動物園(兵庫県神戸市灘区)
・神戸どうぶつ王国(兵庫県神戸市中央区)
・姫路市立動物園(兵庫県姫路市)
・姫路セントラルパーク(兵庫県姫路市)
・和歌山公園動物園(和歌山県和歌山市)
・アドベンチャーワールド(和歌山県西牟婁郡白浜町)
・橿原市昆虫館(奈良県橿原市)
・大内山動物園(三重県度会郡大紀町)

<中国>
・池田動物園(岡山県岡山市北区)
・渋川動物公園(岡山県玉野市)
・広島市安佐動物公園(広島県広島市安佐北区)
・福山市立動物園(広島県福山市)
・周南市徳山動物園(山口県周南市)
・秋吉台サファリランド(山口県美祢市)
・松江フォーゲルパーク(島根県松江市)
・大田市代官山動物園(島根県大田市)

<四国>
・愛媛県立とべ動物園(愛媛県伊予郡砥部町)
・とくしま動物園(徳島県徳島市)
・高知県立のいち動物公園(高知県香南市)
・わんぱーくこうちアニマルランド(高知県高知市)
・しろとり動物園(香川県東かがわ市)

<九州・沖縄>
・福岡市動植物園(福岡県福岡市中央区)
・到津の森公園(福岡県北九州市小倉北区)
・ひびき動物ワールド(福岡県北九州市若松区)
・久留米市鳥類センター(福岡県久留米市)
・大牟田市動物園(福岡県大牟田市)
・九十九島動植物園[佐世保市亜熱帯動植物園](長崎県佐世保市)
・長崎バイオパーク(長崎県西海市)
・九州自然動物公園アフリカンサファリ(大分県宇佐市)
・高崎山自然動物園(大分県別府市)
・熊本市動植物園(熊本県熊本市東区)
・阿蘇カドリー・ドミニオン(熊本県阿蘇市)
・宮崎市フェニックス自然動物園(宮崎県宮崎市)
・鹿児島市平川動物公園(鹿児島県鹿児島市)
・沖縄こどもの国(沖縄県沖縄市)
・ネオパークオキナワ[名護自然動植物公園](沖縄県名護市)

旅の豆知識「小説」

2017年08月25日 | 旅の豆知識
 旅をしていて、思いがけず小説の舞台に立っていたなんて経験はありませんか。何気なく見た文学碑にかつて読んだ小説の場面を思い出し、懐かしい思いが込み上げてきたなんてことが‥‥‥。そうでなくても、旅行計画に小説の舞台巡りを取り入れてみても面白いものだと思いますよ。夏目漱石、森鴎外、田山花袋などなど、旅のアクセントになるのでは?
 小説の中にはその舞台の情景をとてもよく描写していて、旅情を誘われるものがあります。フィクションであってもその背景となっている自然の景観や風土といったようなものはよく現状が描かれているものです。だからこそ作品の内容が心を打つのではないでしょうか。しかし、時代が立つに連れて状況も変化し、訪れてみると「雪国」の湯沢町(新潟県)のようにすっかり変わってしまってがっかりする場合も‥‥‥。
 
〇「小説」とは?
 広辞苑によると、「作者の想像力によって構想し、または事実を脚色した主として散文体の物語。古代における伝説・叙事詩、中世における物語などの系譜をうけつぎ、近代に至って発達、詩にかわって文学の王座を占めた。小説という語は、坪内逍遥が「小説神髄」中にノヴェルの訳語として用いたのに始まる。長さによって、長編・中編・短編、その内容によって、歴史小説・現代使用説・その他伝奇使用説・実録小説・心理小説・心境小説・私小説・大衆小説などに分ける。」となっています。
 今でも、有名な小説の場合は、ゆかりの地に文学碑が建てられていたり、ゆかりの建物などが残されていて、旅先でそれらを見ることも出来、小説の場面を彷彿とさせたりします。

☆「小説を彷彿とさせる場所」のお勧め

(1)塩原温泉郷の畑下温泉(栃木県那須塩原市)
 明治の文豪、尾崎紅葉著『金色夜叉』に「一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方りて箒川の緩く廻れる磧に臨み、俯しては、水石の凛々たるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六の翠巒と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝あり。東北は山又山を重ねて、狼かん玉簾深く夏日の畏るべきを遮りたれば、四面遊目に足りて丘壑の富を壇にし、林泉の奢を窮め、又あるまじき清福自在の別境なり。……」と書かれていて、この名文の中に、箒川沿いの自然豊かな宿の風景が目に浮かぶように感じます。実際に、尾崎紅葉は、1899年(明治32)6月上旬から1ヶ月余り逗留したとのことです。当時は、「佐野屋」という旅館名で、時の人気小説家尾崎紅葉が長期滞在していたにもかかわらず、旅館の方は気が付かなかったとのこと。ところが、読売新聞紙上に「金色夜叉」の続続編として上記のように掲載されたのを読んだ宿の主人が、これは自分の旅館のことにちがいないと、後で問い合わせてわかったという逸話が残されています。そして、旅館名も小説に出てくる「清琴楼」に変えたとか...。現在、本館は明治時代に建てられたままで残されており、尾崎紅葉の泊まった部屋が「紅葉の間」として保存され、見学でき、調度品や資料なども当時のままの物が展示されています。

(2)中山道の馬籠宿(岐阜県中津川市)
 江戸時代の中山道43番目の宿場で、島崎藤村著『夜明け前』の主人公半蔵の本陣があったところです。主人公半蔵は、作者の父正樹をモデルとして、明治維新期の動乱時代に中山道の木曽馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家の主人青山半蔵の生涯を描く大作です。十曲峠から妻いて篭宿に至る街道は江戸時代の面影をよくとどめていて、小説の場面を思い出させてくれます。尚、馬篭宿本陣跡に建つ「藤村記念館」に関連する資料が展示されていて見学できます。

(3)城崎温泉(兵庫県豊岡市)
 1913年(大正2)電車事故で重傷を負った志賀直哉が養生に訪れ、名作『城崎にて』を執筆したことで知られているのは、城崎温泉で江戸時代から続く老舗旅館「三木屋」です。後の代表作『暗夜行路』の中にも出てきて、主人公時任謙作が泊まって、すぐ前の“御所の湯”に入ったとあります。この湯は、堀河天皇の皇女安嘉門院が入浴したことにちなんで名付けられた美人の湯とのことで、立派な造りで、大理石で囲われた 湯船で旅の疲れを癒しながら、志賀直哉を偲んでみることもできます。また、この温泉地には古来より、多くの文人墨客が訪れていますが、そんな風情を感じられる所なのでした。また、志賀直哉の文学碑が城崎文芸館前にあり、小説「城崎にて」の一説が刻まれていますし、「城崎文芸館」内には、志賀直哉に関する展示があります。

(4)尾道(広島県尾道市)
 1916年(大正5)5月に、林芙美子は尾道に両親とともに降り立ちました。そして、しばらく落ち着くことになり、翌年、市立尾道小学校(現在の尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業できたのです。1918年(大正9)、文学の才能を見出した教員の勧めで、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ進みました。夜間や休日は働きながら、図書室の本を読み耽けったとのことです。教諭も文才を延ばすように努め、友人にも恵まれ、18歳頃から、地方新聞に詩や短歌を投稿しました。1922年(大正13)、女学校卒業直後、上京するまで尾道にとどまり、故郷としての印象を深く刻ませ、後年もしばしば「帰郷」することになります。小説『新版 放浪記』の中にも、主人公が居住した地として登場し、尾道の町並みや千光寺のことが詳しく書かれています。現在市内には、文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開した施設があり、内部に、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしています。千光寺公園の文学のこみちには、『放浪記』の一説を刻んだ石碑が立っていますし、本通り商店街入口には、和服姿でかがんだ林芙美子像もあります。また、像の近くの商店街に「おのみち林芙美子記念館」があり、その奥には芙美子が14歳の頃暮らした旧居が残されていて見学できます。

(5)道後温泉(愛媛県松山市)
 松山市は、夏目漱石著『坊ちゃん』の舞台となったところとして知られています。この小説は、夏目漱石が旧制松山中学校に勤務した経験をもとに、行動的で正義心がつよい江戸っ子の青年教師の姿を描いたのでした。道後温泉など松山の名所も登場し、漱石の小説の中でも、最も多くの人に愛読されている作品です。特に、小説にも登場する「道後温泉本館」は、明治時代後期の1894年(明治27)に建てられた、木造三層楼の温泉共同浴場で、その後何度か増改築されましたが現在に残されています。1階に「神の湯」、2階に「霊の湯」があり、皇室専用の浴室「又新殿」もあり、振鷺閣からは、朝6時の開館時および正午、午後6時に太鼓が鳴らされて、風物詩となっています。夏目漱石自身も入浴し、3階には夏目漱石の愛用した坊ちゃんの間が残されています。戦前に建築された歴史ある近代和風建築で、貴重な建物なので、1994年(平成6)に国の重要文化財に指定され、2009年(平成21)には、経済産業省によって「近代化産業遺産」にも認定されました。

(6)足摺岬(高知県土佐清水市)
 高知県の南端、太平洋に突き出したこの岬は、田宮虎彦著『足摺岬』で有名になり、自殺志願者が多く訪れるようになったと聞きました。しかし、この小説の主人公は、この絶壁を前にして、思いとどまり、光明を求めて町へと戻っていったのです。そんな生死の境を漂わせるような、隔絶の地といったムードがあります。足摺岬灯台下の園地には、田宮虎彦の石碑があって、小説『足摺岬』の一説「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌いちめんに 雨のように降りそそいでいた」が刻まれていて、感慨深く眺めることができました。また、近くには四国八十八ヶ所札所の一つ金剛福寺もあり、お遍路さんが訪れる所でもあります。

旅の豆知識「短歌」

2017年08月24日 | 旅の豆知識
 万葉人は旅先で三十一文字の短歌を詠み、妻や恋人に贈ったと言われています。「万葉集」の中にはそんな歌がいくつかあります。愛する人と別れている気持ちを短歌に託すなんてロマンチックだと思いませんか?旅先でそんな歌碑に出会った時、まわりの風景を眺めながら、歌人の気持ちに浸ってみるというのも悪くないのでは‥‥‥。
 古来から短歌によく詠まれる風景があります。それは歌枕と呼ばれ、日本全国にあります。平安貴族は自分は行ったこともないのに、それを歌に読み込んで、叙情あふれるものを作っています。また、歌枕を巡る旅に出て、全国を放浪した歌人もいました。江戸時代の俳聖松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で歌枕をまわったと言われています。あなたも、旅先で歌枕を訪ねてみて、一首詠んでみるなんていかがですか?思い出になりますよ。
 
〇「短歌」とは?
 広辞苑によると、「和歌の一体。長歌に対し、五七五七七の五句から成るもの。上代に始り、古今を通じ最も広く盛んに行われ、普通、和歌といえば短歌を指すに至った。」となっています。
 今でも、いたるところに歌碑が建っていて、旅先でその思いをうかがうことが出来ます。あなたもいくつかは思い浮かべられるのでは‥‥。

〇「歌枕」とは?
 広く考えると、和歌に詠み込まれる歌ことばを指し、狭く考えるとその歌ことばのうち、和歌に多く詠み込まれる名所・旧跡などの地名を指します。これは、古来から文人墨客の旅と不可分にかかわり、『土佐日記』『伊勢物語』などから、それらを旅した紀行文的な書物が現れるようになりました。その後の阿仏尼著『十六夜日記』や松尾芭蕉著『おくのほそ道』も歌枕を取り入れた紀行文学の趣があります。近世・近代にもいろいろと書かれました。

☆「短歌を感じられる場所」のお勧め

(1)旧渋民村(岩手県盛岡市渋民)
 石川啄木の故郷で、追われるようにして去りながらも、強い郷愁を持っていたところです。教鞭をとった小学校校舎や住まいが残され、記念館もあって、『かにかくに 渋民村は恋しかり おもひでの山おもひでの川』の歌とともにふるさとのなつかしさがよみがえります。

(2)暮坂峠(群馬県吾妻郡中之条町)
 若山牧水が1922年(大正11)の旅の途中で、雪景色の中を弟子と2人徒歩で越えたところです。この時の旅は『みなかみ紀行』として発表され、牧水の代表的な紀行文として知られていますが、文中、旅の途中で歌った多くの短歌が散りばめられています。草津温泉から暮坂峠を越え沢渡温泉に至る道端にはその歌碑がたくさん立てられ、自然環境もよく残されていて、当時の旅を追想させる所です。別に、この時の印象を詠った「枯野の旅」という詩が残されていて、これを刻んだ立派な詩碑と牧水の旅姿の像が、1957年(昭和32)峠に立ちました。牧水が通った10月20日には毎年ここで、盛大な牧水祭が催されるといいます。

(3)鶴ヶ丘八幡宮(神奈川県鎌倉市)
 承久元年(1219)正月に鎌倉幕府の第3代将軍源実朝が階段脇の大銀杏の前で、甥の公暁に暗殺された所です。実朝は、万葉風の力強い歌を詠み、「金槐和歌集」を残していますが、境内の鎌倉国宝館右手壕端にこの歌集末尾の歌『山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心われあらめやも』の歌碑があります。また、鎌倉市内の寿福寺に母政子と並んで墓が残されています。

(4)祇園の街並み(京都府京都市東山区)
 茶屋などあって、最も都らしい風情を残している所です。その街を散策していると、与謝野晶子の『清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人皆美しき』なんて歌が浮かんできませんか。北部の新橋通から白川沿いの地区は、1976年(昭和51)9月4日に、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定され、昔の町並みが保存されています。

(5)大和の東大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺などや飛鳥地方の古寺(奈良県)
 多くの文人墨客が訪れていますが、特に、大和を愛した秋艸道人・会津八一の平仮名ばかりの歌集『鹿鳴集』を見ながら、巡ってみると万葉風ののどかな気持ちになり、旅情が深まります。「よをそしる まづしきそうのまもりこし このくさむらの しろきいしずゑ」

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旅の豆知識「俳句」

2017年08月23日 | 旅の豆知識
 日本各地の名所旧跡を旅していると時々句碑に巡り会うことがあります。景勝の地では、その句を口ずさみながら、眺望すると、いっそう旅情が深まるものです。
 また、歴史有る寺社仏閣の場合は、その故事を思い起こす、よすがとなったりもします。まして、その句が芭蕉、蕪村、一茶などの江戸期の俳人だったりすると、「ほうー、かの俳人達もこの地に来たのか!」と訪れた名所旧跡が急に権威を帯びたものになるから不思議なものです。昔の俳人達との接点ができたような気になり、その場所が妙に記憶に止められるのです。
 昔から、旅をしながら俳句などを作る「吟行」ということが行われてきました。旅と俳句はとても関係深いものに思えるのです。
 
〇「吟行」とは?
 広辞苑によると、「(1)吟詠しながら歩行すること。(2)作句・作歌などのため、同好者が野外・名所・旧跡に出かけていくこと。」となっています。
 俳句の吟行は、名所・旧跡を巡りながら、その情景を俳句に詠んでいく旅のことです。有名な俳人の中には諸国を行脚した人が多いので、その気持ちにあやかろうといったところでしょうか。
 今でも、いたるところに句碑が建っていて、その思いをうかがうことが出来ます。あなたもいくつかは思い浮かべられるのでは‥‥。

☆「俳句を感じられる場所」のお勧め

(1)一茶の里のある柏原(長野県上水内郡信濃町)
 江戸末期の俳人小林一茶の出身地で「一茶記念館」には遺墨、遺品等が展示され、全国を行脚した一茶の旅の様子を追想することができます。また、記念館のある小丸山公園の敷地内には1957年(明治43)に一茶を偲んで建てられた俳諧寺や一茶像、墓もあり、近くには史跡として小林一茶旧宅があって、生涯を閉じた土蔵が残されています。町内には、100基以上の句碑が建てられていますが、小丸山公園の一角にある『是がまあつひの栖か雪五尺』の句碑は印象的です。

(2)伊賀上野(三重県伊賀市)
 言わずと知れた俳聖、松尾芭蕉の出生地で、29歳までこの地で過ごしました。その生家跡や遺髪を収めた故郷塚、俳聖殿、「芭蕉翁記念館」などがあって、足跡をたどることが出来ます。特に、服部土芳の「蓑虫庵」は、芭蕉五庵の一つで、当時の建物が残り、風情が保たれていて、往時を忍ぶことができます。苔むした庭には、芭蕉の『古池や 蛙飛こむ 水の音』、『みの虫の 音を聞ばやと この庵』、『よく見れば なづな花咲く 垣根かな』などの句碑があり、芭蕉の声が聞こえてきそうな感じさえします。

(3)小豆島の南郷庵跡(香川県小豆郡土庄町)
 俳人尾崎放哉が庵主として最後の8ヶ月を過ごした終焉の地で、墓もあります。庵の跡には、1994(平成6)年4月「小豆島 尾崎放哉記念館」が開館、貴重な資料が展示され、庭には句碑も建てられています。放哉は、東京帝国大学法学部卒業のエリートでありながら、身を持ち崩し、いくつかの寺を転々として、最後にたどり着いたのがこの小豆島でした。しかし、自由律俳句の天才で、斬新な歌を詠みました。病魔と闘いながらの最後には、感銘深いものがあり、42歳で逝った生涯を追想すると、胸にこみ上げてくるのを感じました。良く知られている句は、『咳をしても 一人』、『入れものがない 両手で受ける』、『足のうら洗えば白くなる』、『春の山のうしろから 烟が出だした』などです。

(4)子規堂・市立子規記念博物館(愛媛県松山市)
 「子規堂」は、明治時代に俳句・短歌革新を訴えて活躍した正岡子規が、17歳まで過ごした住居を正岡家の菩提寺である正宗寺境内に復元した文学資料館で、遺品、遺墨等を見ることができます。子規が幼年期を過ごした3畳間があって、その風貌が浮かんできます。また、道後公園には「市立子規記念博物館」があり、豊富な資料を公開しています。他に、河東碧梧桐、高浜虚子などが出ていることもあって、市内には600もの句碑が点在しています。松山城にある『松山や秋より高き天守閣』の子規句碑は有名です。

(5)其中庵(山口県湯山口市小郡)
 放浪の俳人種田山頭火が、安住の地を得ようとして、庵を結んだところで、その「其中庵(ごちゅうあん)」が復元され、近くの「山口市小郡文化資料館」には山頭火展示室もあります。山頭火は、日本全国を行乞しながら、自由律俳句といって、五七五にとらわれない自由な句を詠んだ俳人です。「其中庵」は、以前ほんとうにわびしい茅葺きの家だったらしいけど...。なんだか、そこにたたずんでいると山頭火の心境が分かるような気がしました。良く知られている句は、『後ろ姿の しぐれていくか』、『どうしょうもない わたしが 歩いている』、『分け入っても 分け入っても 青い山』、『さて、どちらへ行かう 風が吹く』などです。

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旅の豆知識「紀行文」

2017年08月22日 | 旅の豆知識
 旅行をしていると、先人が既に訪れていて、文章に残されているところに行き会うことがあります。先人たちが、旅をしながら印象を綴ったものをまとめたものが、すでに「〇〇紀行」などと題されて、出版されていたりするのです
 紀行文は、旅行中の情景を事実に基づいて記述したものも多いので、旅のガイドブックにもなり、旅行に携行していくと便利です。東北・北陸なら松尾芭蕉の『奥の細道』、奈良ならば、亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や和辻哲郎の『古寺巡礼』、群馬県ならば若山牧水の『みなかみ紀行』といった感じです。ポケットから本を取り出し、旅先で読んでみると著者の感動と、自らの体験が重なって、旅情も深まるのではないでしょうか‥‥。
 
〇「紀行文」とは?
 広辞苑によると、「旅行中の出来事・見聞・感想などを記したもの。」となっていて、我国では和歌・俳句・漢詩などをまじえたものが多いそうです。
 平安時代の『土佐日記』に始まり、中世になって、東西交通が盛んになると、『海道記』、『東関紀行』など多くのものが、書かれるようになります。
 中でも、江戸時代の俳聖、松尾芭蕉が書いた『奥の細道』などの一連の紀行文は特に有名で、以後その著書を片手に足跡をたどって旅する人が後を絶ちません。

☆「紀行文を感じられる場所」のお勧め

(1)象潟(秋田県にかほ市)
 紀行文の白眉、松尾芭蕉著『奥の細道』の目的地の一つで、1689年(元禄2)に松尾芭蕉が訪れた当時は、松島と並び賞される裏日本の景勝地でした。その後、1804年(文化元)の象潟地震で隆起し、島々は陸地と化してしまい、景観が一変してしまいました。今では、島々は水田の中の小山となっていますが、往時を忍ぶことが出来ます。芭蕉が訪れた蚶満寺には、『象潟や雨に西施がねぶの花』の句碑があります。

(2)暮坂峠(群馬県吾妻郡中之条町)
 若山牧水が1922年(大正11)の旅の途中で、雪景色の中を弟子と2人徒歩で越えたところです。この時の旅は『みなかみ紀行』として発表され、牧水の代表的な紀行文として知られていますが、文中、旅の途中で歌った多くの短歌が散りばめられています。草津温泉から暮坂峠を越え沢渡温泉に至る道端にはその歌碑がたくさん立てられ、自然環境もよく残されていて、当時の旅を追想させる所です。別に、この時の印象を詠った「枯野の旅」という詩が残されていて、これを刻んだ立派な詩碑と牧水の旅姿の像が、1957年(昭和32)峠に立ちました。牧水が通った10月20日には毎年ここで、盛大な牧水祭が催されるといいます。

(3)秋山郷(長野県下水内郡栄村・新潟県中魚沼郡津南町)
 『北越雪譜』で知られる江戸時代後期の越後の文人鈴木牧之が、十返舎一九の勧めで書いた『秋山紀行』という紀行文があります。1828年(文政11)秋に、秋山郷の村々を6泊7日で巡った時のことを書いたものです。山村の自然や風土、人々の衣食住から仕事に到るまで、詳細に記録し、民俗学の先駆といわれているのです。百数十年前のものですが、自然の様子はあまり変わっていないようにも思われ、とても興味深いのです。最奥の集落、切明の温泉の様子も記載され、今でも河原に穴を掘って入れる状態に、古を伺うこともできます。また、上野原には、鈴木牧之に因んで造られた「のよさの里 牧之の宿」というのもあり、その当時の秋山郷の暮らしと文化を再現した、本家と400mの廊下で結ばれている7戸の分家で構成されていて、面白い施設です。

(4)大江天主堂(熊本県天草市)
 紀行文『五足の靴』の旅全体のクライマックスで、1907年(明治40)8月8日に天草下島西海岸で、一行(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)が苦労して歩いた道の一部が、文学遊歩道として残されています。大江天主堂は建て変わりましたが丘の上にそびえ、周辺には、一行が訪ねたガルニエ神父の墓や胸像が建てられています。天主堂の脇には吉井勇の歌碑があり、この旅を回想して、「白州とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿」と刻まれています。現在では、天主堂に隣接して天草ロザリオ館が建てられ、天草の苦難に満ちたキリシタンの歴史を学ぶことができます。

(5)都井岬(宮崎県串間市)
 ここには、日本民俗学の樹立者といわれる柳田国男が、1920年(大正9)12月にわざわざ野生の「御崎馬(みさきうま)」を見に立ち寄ったことが、紀行文『海南小記』に書かれています。日南海岸国定公園の南端にあたり、太平洋に突きだした風光明媚の地で、野生動物の宝庫ともなっていて、猿や野兎、猪、狸などの姿を見ることが出来るそうです。しかし、なんといっても御崎馬が生息していることで有名です。その先端に、白亜の姿を見せるのが、都井岬灯台で、ここの観光のシンボルともなっていて、雄大な太平洋を望む眺望と「御崎馬」は、格好の被写体となります。この馬は、体高は130㎝と小柄で、脚の割には胴長で、ずんぐりとした体つきです。馬が草をはんでいる姿を見ただけでほのぼのとした気分になれるのです。

☆日本の代表的紀行文一覧(近代まで)

<古代>
・『土佐日記』(紀貫之著)
・『入唐求法巡礼行記』(円仁著)
・『更級日記』(菅原孝標女著)

<中世>
・『海道記』(作者不詳)
・『東関紀行』(作者不詳)
・『十六夜日記』(阿仏尼著)1279年
・『とはずがたり』(後深草院二条著)
・『廻國雑記』(道興准后著)

<近世>
・『東国紀行』(谷宗牧著)
・『善光寺紀行』(尭恵著)
・『北国紀行』(尭恵著)
・『丙辰紀行』(林羅山著)
・『野ざらし紀行』(松尾芭蕉著)1684年
・『笈の小文』(松尾芭蕉著)1687年
・『更科紀行』(松尾芭蕉著)1688年-89年
・『奥の細道』(松尾芭蕉著)1689年
・『秋山紀行』(鈴木牧之著)1828年

<近代>
・『みちの記』(森鴎外著)1890年
・『はて知らずの記』(正岡子規著)1893年
・『五足の靴』(与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里著)1907年
・『海南小記』(柳田國男著)1920年
・『みなかみ紀行』(若山牧水著)1922年
・『山陰土産』(島崎藤村著)1927年

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旅の豆知識「詩」

2017年08月21日 | 旅の豆知識
 旅をしていて、思わず詩を口ずさんでいたなんてことはありませんか。その情景が知っている詩とよくマッチしていると知らず知らずのうちに、思いが込み上げてきたなんてことが‥‥‥。私も時々そんな気持ちにさせられることがあります。自分が、島崎藤村や高村光太郎の気分になってその光景の中に身を置いてみるなんてどうですかね。
 感動が詩を作ると言われています。詩人も旅先ですばらしい情景に出会った時に心奪われ、それが詩になるのではないでしょうか?私たちも詩に描かれた所に行くとなぜか心がさわぎます。その詩のすばらしさとともに、風景が心に刻み込まれるようになったらあなたも詩人になれるかもしれませんよ。
 さあ、旅に出て素晴らしい情景に出会ったら、あなたもなにか詩を書き留めてみませんか?すばらしい旅の思い出になりますよ!

☆「旅先で詩情を感じられる場所」のお勧め

(1)二本松城(霞ヶ城)跡(福島県二本松市)
 二本松城跡(霞ヶ城公園)の中腹に高村光太郎の「智恵子抄」の中から『あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川』の二行が刻まれていて、その山と川を遠望することができます。豊かな詩情にひたることが‥‥。

(2)小諸城跡(長野県小諸市)
 小諸駅から小諸城跡(懐古園)へは、跨線橋を渡り、徒歩5分ほどで、国の重要文化財に指定されている三ノ門へ達します。そこをくぐり、千曲川旅情の歌の碑と至りましたが、不開門跡の水の手展望台からの眺めは、いつ来てもすばらしいものでした。千曲川のゆったりとした流れと遠方の山並みがとてもマッチしています。しばしたたずんで、詩情に浸っていましたが、「はるかなる古城のほとり雲白く遊子悲しむ‥‥」と詩の豊かな情景が彷彿としてきました。島崎藤村も小諸に住んでいた時に、しばしば懐古園を訪れていたようで、この景色に感動したのでしょう。園内には、「藤村記念館」があって、いろいろな資料を見学することもできます。

(3)広島平和記念公園(広島県広島市)
 太平洋戦争時の原爆投下爆心地付近にある市民公園です。昭和時代前期の1945年(昭和20)8月6日に原爆が投下され、一瞬の内に市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われました。戦後、1949年(昭和24)制定の「広島平和記念都市建設法」に基づいて建設され、原爆死没者の慰霊と恒久平和を祈ることを目的に、丹下健三によって設計されたのです。原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北の線上に並ぶように建設されました。公園内には、他に広島国際会議場、原爆供養塔、平和の鐘、原爆の子の像、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館等及び多数のモニュメントがあり、原爆の悲惨さを語りかけています。中でも、『原爆詩集』で「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ」と叫んだ峠三吉の詩碑には心を打たれました。自らも原爆症のため、1953年(昭和28)に亡くなっていますが、戦争の悲惨さをその慟哭と共に感じられる場所です。尚、1996年(平成8)には、原爆ドームがユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(4)柳川の街並み(福岡県柳川市)
 ここは、北原白秋の生誕の地としても知られていますが、城下町の古い街並みを散策し、掘割を名物のどんこ船で巡ると、のどかな詩情に浸ることが出来、各所に文学碑も建てられています。北原白秋の生家が復元され、記念館となっていますが、館内には白秋の著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い資料が数多く展示されています。 偉大な詩人白秋の業績とその交友関係を知る上では貴重な施設で、なまこ壁の建物が美しく、川下りと共に楽しむと情緒が増します。

(5)阿蘇の草千里(熊本県阿蘇市)
 山なみハイウェーを行くと緑の草原が広がり、牛馬が放牧されています。三好達治の「艸千里」「大阿蘇」の一節が頭に浮かんでくるほどのどかな情景が広がっていて、去りがたい気分にさせられます。

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旅の豆知識「鉄道の車窓」

2017年08月20日 | 旅の豆知識
 列車で旅したときの楽しみの一つは車窓の眺めではないでしょうか。足を伸ばして、座席にもたれ、ぼんやりと窓越しに走り去る風景を見ていると、とてもくつろげるものです日常生活の煩わしさも、移り変わる景色と共に、遥かかなたに吹き飛んだような気分にさせられるものです。
 そんなときに見た、風景のなかには妙に印象の残っているものがいくつかあるのではないのでしょうか。
 車窓の風景は山、川、海などの自然のすばらしさばかりとは限りません。鉄道ファンならずとも、ループトンネルやスイッチバック、アプト式鉄道など鉄道施設そのものもみて楽しいものです。また、沿線の町のたたずまいも旅愁をかきたててくれます。
 新幹線や特急車両は窓が開かないので、ただ風景を眺めるだけですが、昔は、普通列車で窓を開けると、車外の気温や湿度、音、臭いまで感じることができました。しょっぱい潮風に海辺を走っているのを感じたり、「いなかの香水?」の臭いに田園ののどかさを感じる場合もあります。
 温かい日差しを受け、さわやかな風か吹き込んでくると、心なごんで春を感じます、初雪の降る窓から手を伸べて、雪の冷たさに冬を感じ取るなんてこともできますかなたから聞こえてくる太鼓や笛の音に、夏祭のにぎやかさを思い浮かべることもできます。しかし、現在では、普通列車でも窓が開閉できるものが少なくなってきているのが、残念です。
 地域や季節に限らず、それぞれの感じ方により、旅の旅情はいっそう深まるのではないでしょうか。

☆「鉄道の車窓風景」のお勧め

(1)JR只見線(新潟県・福島県)
 この線は、全長135.2kmと比較的長いローカル線で、福島県と新潟県の山間部を結んでいますが、福島県側のかなり長い区間を只見川に沿って走ります。その間、いくつものダムや発電所を車窓から望むことが出来、ダム湖に映えた新緑や紅葉がとてもきれいなのです。のんびりと、車窓の景色を楽しむことが出来る線なのです。

(2)JR篠ノ井線(長野県)
 この線は、篠ノ井駅から塩尻駅まで全長66.7kmのローカル線ですが、その途中にある姨捨駅周辺からの車窓風景は、「日本三大車窓」の一つと言われるほどすばらしいものです。千曲川を中心に善光寺平が眼前に広がり、晴れていれば、遠方に黒姫山を除く戸隠、妙高、飯綱、斑尾山の北信五山を望むことができるのです。

(3)JR中央本線の木曽谷区間(長野県)
 JR中央本線の西より、通称「中央西線」は長野県の木曽谷を通っていて、北アルプスと中央アルプスの 3,000m級の山々の間を流れる木曽川の渓谷美が美しく、名所「木曽八景」の内、“寝覚めの床”“木曽の棧”“小野の滝”なども車窓から眺めることができ、とてもすばらしいのです。 

(4)大井川鉄道(静岡県)
 静岡県にある大井川鉄道の車窓からは、ゆったりと流れる大井川の風景もすばらしいものですが、ここは鉄道自体に面白いものがたくさんあります。1922年(昭和2)開業の大井川鉄道は、1949年(昭和24)に本線が全線電化されるまで、蒸気機関車(SL)が活躍していました。電化されて一度は姿を消したSLですが、1976年(昭和51)に国鉄最後のSL、C11-227を「SL川根路号」として再び運転して復活したのです。現在では運転日、運転本数ともに国内ではもっとも多く走っていて、とても興味深い景色が眺められます。それ以外に、井川線の急勾配を登るアプト式鉄道、鉄橋の上の駅、旧国鉄(現JR)をのぞく民鉄の中で日本一のノッポ橋(100m)といわれる関ノ沢鉄橋、トロッコのような車両など車窓の楽しみがたくさんあるので、お勧めです。

(5)JR飯田線(長野県・静岡県・愛知県)
 この線は、当初民間で敷設されたために、駅間距離が短く、線路も曲がりくねっていて、とてものんびりと電車が走ります。伊那谷を走るときは、天竜川の河岸段丘を上ったり、下りたり、そして、長野・静岡・愛知の県境地帯を走るときは深い渓谷やダム湖を望みながらと、車窓が変化してとても良いのです。

(6)JR肥薩線(熊本県・鹿児島県)
 この線は、球磨川沿いに走っている時の車窓も面白いのですが、人吉駅を過ぎて、矢岳越えをする時の車窓は、「日本三大車窓の一つ」と言われるほど素晴らしいのです。スイッチバックあり、ループ線ありの大畑を越えるところも興味深く、矢岳トンネルを抜けた後の車窓には、雄大な韓国岳を主峰とする霧島連山、晴れていれば、はるか彼方に桜島をも望むすばらしさに感動するのです。

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旅の豆知識「駅弁」

2017年08月19日 | 旅の豆知識
 列車で旅行したときの楽しみの一つは駅弁を食べることだと言う人を何人か知っています。でも、新幹線や特急車両では窓は開かないし、停車時間が少ないのでなかなか駅売りを買うことが出来ないとぼやきます。
 車内販売では情緒がないし、売り切れていたりして思ったものが買えないと言うのです。みなさんはいかがでしょうか。誰でも、車内で食べた駅弁に思い出の一つや二つあるのではないでしょうか。
 私は、汽車旅が好きで、日本中の線路を乗り回り、その途中で色々な駅弁を食べましたが、全国には特色のあるものが多数ありますから、夏休み・冬休みなどに、“青春18きっぷ”を使って、普通列車で駅弁を食べ歩くという旅も面白いのではないでしょうか。

〇「駅弁」とは?
 駅弁は、1885年(明治18)に宇都宮駅(現在、JR東北本線)で売られたのが最初だと言われています。当時は、竹の皮に包んだにぎりめし2個にタクワンを添えただけのものだったそうですが。その後、横川駅、高崎駅(現在、JR信越本線)などに広がり、種類も豊富になっていきました。
 駅に列車が停車すると、窓を開けて「駅弁一つ」と怒鳴ると、首から大きな箱を下げた売り子が駆けていく、なんて光景がどこの駅でもみられたものです。しかし、最近は駅弁売りの姿もめっきり少なくなり、「べんとう~、べんとう~」と言う売り子の声も聞けなくなってしまいました。また、駅弁の値段も上がって、1,000 円は当たり前、 2,000円、 3,000円する豪華なものまで販売されています。
 これでは、気軽に買って食べると言う感じではありません。駅前のコンビニで弁当を買って、列車に乗ったほうがよいと言う人がいるかもしれません。しかし、地方の駅に行くとアイデアを凝らした独特のものがあって、値段も安く、駅弁売りの姿に何とも言えない旅愁を感じることができるのではないでしょうか。

☆「駅弁」のお勧め

(1)“いかめし”(JR函館本線森駅)
 1941年(昭和16)に、当時豊漁だったスルメイカの中に米を入れて炊き上げて、「阿部弁当店」が函館本線森駅の駅弁として売り出したところ、もち米入りで腹持ちが良いと評判になり、現在でも、780円(税込)で販売が続けられています。全国の人気駅弁の一つで、都市部のデパート等の北海道物産展や駅弁大会でも人気を博しています。

(2)“だるま弁当”(JR信越本線高崎駅)
 1960年(昭和35)から、信越本線高崎駅で、「高崎弁当(たかべん)」により販売が開始されました。名物駅弁の一つで、だるま型の容器の中の、茶飯風の炊き込みごはんの上に、筍・こんにゃく・栗・牛蒡・鶏肉などのおかずが載せられ、現在は1,000円(税込)で販売されています。発売当初は陶磁器の容器が使われていましたが、1973年(昭和48)にプラスチック製の赤い容器に切り替えられました。容器は、食べ終わった後に貯金箱として利用することもできます。

(3)“峠の釜めし”(JR信越本線横川駅・軽井沢駅)
 1958年(昭和33)から、信越本線横川駅で、「荻野屋」により販売が開始されました。名物駅弁の一つで、益子焼の容器(釜)に入った薄い醤油味の出汁による炊き込みご飯で、とり肉、えび、かきなどが入いり、漬物が付いて 1,000円(税込)です。蓋をとったときの香ばしさと、ふっくらとした味わいは忘れがたいものです。全国で最も売れている駅弁の一つですが、北陸新幹線の開通とともに、横川駅~軽井沢駅の線路廃止に伴い、現在はJR信越本線横川駅・軽井沢駅・北陸新幹線安中榛名駅売店等やドライブインなどでも販売されています。

(4)“ますのすし”(JR北陸新幹線富山駅)
 1912年(明治45)より北陸本線富山駅で、「源(みなもと)」により販売開始された駅弁でした。鱒(サクラマス)を用いて発酵させずに酢で味付けした押し寿司で、現在は、1,400円(税込)です。全国の人気駅弁の一つで、都市部のデパート等の北陸・富山物産展や駅弁大会でも人気を博しています。

(5)“越前かにめし”(JR北陸本線福井駅)
 1961年(昭和36)より北陸本線福井駅で、「番匠本店」により販売開始された駅弁でした。ズワイガニの雌・セイコガニの赤肉と卵巣、みそなどをほぐし炊き込んだご飯の上に、カニのほぐし身をのせたもので、現在は、1,250円(税込)で販売されています。全国の人気駅弁の一つで、都市部のデパート等の北陸・福井物産展や駅弁大会でも、常に人気の上位を占めています。

(6)“あなごめし”(JR山陽本線宮島口駅)
 1901年(明治34)より山陽本線宮島駅(現在の宮島口駅)で、「うえの」により販売開始された駅弁でした。穴子のアラで炊き込んだ醤油味飯の上に穴子をびっしりと敷き詰めたもので、現在はレギュラーサイズが、1,944円(税込)で販売されています。全国で最も人気のある駅弁の一つで、創業以来の味が守り通されています。

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旅の豆知識「邪馬台国」

2017年08月18日 | 旅の豆知識
 近年、日本の古代史への関心が高まってきて、いろいろと本が出版されたり、テレビで関連番組が放映されたりしています。それらが誘因となって、古代史にロマンを感じて、遺跡などを巡る人も増えてきているのです。そんな中で、古代史の大きなミステリーの一つは、弥生時代の「邪馬台国」ではないかと思います。
 弥生時代は、本格的に稲作がはじまり、全国へ普及した時代だと言われています。それにともなって、狩猟中心の生活から農耕生活へ変化していき、定住生活も拡大して、原始的な“クニ”が形成されていったと言われています。
 邪馬台国などの日本の国の誕生については、近年、九州の吉野ケ里遺跡など重要な発掘が相次いで、この時代の“クニ”の姿が徐々に明らかにされてきています。そんな所を訪ねてみるのもなかなか面白いものです。
 特に邪馬台国は、『魏志倭人伝』という書物に書かれていて、朝鮮半島から北部九州に至る里程も載せられ、だいたいの道筋をたどることも可能で、関連する遺跡もいくつか知られているのです。しかし、北部九州から邪馬台国に至る道筋は、記述があいまいで、邪馬台国がどこにあったのかはっきりせず、大和説や九州説などいろいろと唱えられています。
 そんなところを尋ね歩いてみるのも、古代へのロマンが掻き立てられて面白いと思うのですが.....。

〇『魏志倭人伝』とは?
 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称です。3世紀の頃(弥生時代後期)の日本列島にいた倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれていて、特に“邪馬台国”に関する記述は注目されています。当時の日本列島には、文字の使用が発達していなくて、文献資料のない時代で、これらの記述はとても貴重なのです。著者は西晋の陳寿で、3世紀末に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられました。

〇『邪馬台国』とは?
 「魏志倭人伝」に書かれた“邪馬台国”も弥生時代後期の日本列島にあったと思われますが、その所在地はいまだなぞで、九州説、大和説など色々と言われています。しかし、韓国から対馬、壱岐、九州北部の奴国までの道程はほぼたどることができます。特に、壱岐の原の辻遺跡は倭人伝の一支国だと考えられ、遺跡を巡り、博物館を見学できます。また、末盧国、伊都国、奴国に関する出土品もそれぞれ資料館で見学できます。

☆「邪馬台国」関連のお勧め

(1)山辺遺跡・塔の首遺跡<長崎県対馬市峰町・上対馬町>
 山辺遺跡は、2000年(平成12)に発見された、弥生時代前期から古墳時代にかけての集落遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“対馬国”に関連するものと考えられています。対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、マスコミにも取り上げられ、注目されました。中心は弥生時代前期で、竪穴式住居 3棟と、総柱高床式倉庫が確認され、出土遺物として、弥生式土器に混じって韓半島系無紋土器、楽浪土器が出土しています。この遺跡から出土した遺物は「峰町歴史民俗資料館」に収容・展示されていて、見学することが可能ですが、遺跡の方は埋め戻されていて、今のところ、そのあとを見ることができるだけです。また、上対馬町古里に塔の首遺跡があり、弥生時代後期(紀元1~2世紀)の古墳で、広形銅矛などと一緒に、韓国の無文土器と弥生式土器が出土し、この時代の大陸との交流を示す重要な遺跡なので、1977年(昭和52)に国の史跡に指定されました。ここの出土品は「上対馬町歴史民俗資料館」で展示されています。

(2)原の辻遺跡<長崎県壱岐市>
 弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“一大国”(一大国は一支国の誤記)の国都とされています。2000年(平成12)に国の特別史跡に指定され、出土品1670点が国の重要文化財に指定されています。現在は、「原の辻一支国王都復元公園」として整備されていて、竪穴住居、高床式倉庫、物見櫓などが復元され、見て回ることができます。また、公園内には、「壱岐市立一支国博物館」があって、出土品が展示され、遺跡の概要についても知ることができます。
 
(3)宇木汲田遺跡・桜馬場遺跡・菜畑遺跡<佐賀県唐津市>
 これらは、弥生時代の遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“末盧国”に関連するものとされています。その中で、菜畑遺跡は、佐賀県唐津市菜畑にある、縄文時代晩期から弥生時代中期の水田址を中心にした集落遺跡です。1979年(昭和54)に発見され、翌年から翌々年にかけて発掘調査が実施されました。その結果、板付遺跡の夜臼式土器よりも古い、縄文時代晩期後半の山ノ寺式土器を伴う、最古の水田跡が発見されたのです。他に、住居跡、遺物包含層が発掘され、動物遺体、炭化米、石包丁、石斧、木製農具なども見つかりました。最古期の水田農耕遺跡として貴重なので、1983年(昭和58)に国の史跡に指定されています。現在、『魏志倭人伝』に出てくる末盧国にちなんだ「末盧館」という資料館が建てられ、発掘資料や弥生時代の菜畑集落のジオラマ模型の展示がされ、外部に縄文の森や竪穴式住居、水田跡も復元されました。

(4)三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡<福岡県糸島市>
 三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、平原遺跡は、弥生時代中期から後期のもので、「魏志倭人伝」に登場する“伊都国”に関連するものとされています。特に、原田大六氏を中心に学術調査された平原遺跡1号墓からは、直径46.5cmの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年(平成18)に、国宝に指定されました。周辺は「平原歴史公園」として整備され、近くに、1987年(昭和62)に「伊都歴史資料館」が開館し、2004年(平成16)年に、新館が建てられて現在の「伊都国歴史博物館」となりました。館内では、「福岡県平原方形周溝墓出土品」(国宝)や伊都国についての展示を見ることができます。

(5)奴国の丘歴史公園<福岡県春日市>
 1979年(昭和54)と翌年の発掘調査で、弥生時代中期の甕棺墓116基、土壙墓・木棺墓9基と、これに伴う祭祀遺構が確認され、1986年(昭和61)に岡本遺跡として国の史跡となりました。その弥生時代の遺跡は、「魏志倭人伝」に登場する“奴国”の中心地であったと考えられるようになったのです。そこで、1992年度から1997年度にかけて、「奴国の丘歴史公園」として整備され、面積は約2.3haにも及びます。その一角に、1998年(平成10)に開館した「春日市奴国の丘歴史資料館」があり、出土品や奴国についての展示があって、いろいろと学ぶことができるのです。

(6)纏向遺跡<奈良県桜井市>
 三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡で、2013年(平成25)に国の史跡に指定されました。邪馬台国機内説の最有力候補地で、近くにある箸墓古墳は、卑弥呼の墓とする説もあります。他に5つの最古期古墳があり、纏向古墳群として、2006年(平成18)に国の史跡に指定されています。出土品は、「桜井市立埋蔵文化財センター」で見ることができます。

☆「魏志倭人伝」(全文)

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東治之東。
其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。
出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。
其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。
其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。
卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

(訳文)
倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に拠って国邑を為している。昔は百余国、漢の時代には朝見する者がいて、今は使訳が通じるのは三十国。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
初めて一つ海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。海に囲まれた孤島に住んでいて、周囲は四百余里ほどしかない。土地は山が険しく、深い森が多く、けもの道が通っている。千戸ほどの家があり、良い田は無く、海の物を食べて自活していて、船で南北に出かけて穀物を買い求めている。
また、南に一つの海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、ここでも船で南北に出かけて穀物を買い求めている。
また一つの海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千ほどの家があり、山海に沿って暮らしている。草木が茂って、道を行くときに前を行く人の姿が見えないくらいだ。上手に魚鰒を捕り、水深の浅いところも深いところもかまわずに、皆が水中に潜って、これを取っている。
東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千ほどの家があり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに留まる。
東南の奴国に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万ほどの家がある。
東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千ほどの家がある。
南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万ほどの家がある。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万ほどの家がある。
女王国より北の国々は、その戸数と道程を略載しえたが、その他の国は遠く絶たっていて、詳細することが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の境界内の全てである。
その南に狗奴国があり、男子を王と為し、官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。
帯方郡より女王国に至るには一万二千余里である。
男性は大人や子供の区別無く、顔や身体に入れ墨をしている。古から、倭の死者が中国を詣でると皆が大夫と自称している。夏の国王少康の子が、会稽に封じられた時、蛟龍の害を避けるため、断髪して身体に入れ墨をした。今の倭の海人は好んで水に潜って魚や蛤を捕獲する。身体の入れ墨は大魚や水鳥を避けていたからである。後に装飾のようになった。国によっては入れ墨の施し方も異なり、あるいは左や右に、あるいは大や小に、身分の尊卑でも差がある。その道程から計ってみると、会稽の東冶の東に位置する。
その風俗は淫らではない。男性は皆が露紒で、木綿の布を頭に巻いている。衣服は幅広の布を結び、ほとんど縫われていない。婦人は髮を曲げて結び、衣服は単衣のように作られ、その真ん中に穴を開けた貫頭衣である。
水稲や紵麻を栽培し、桑と蚕を育てて、絹糸を紡いでいる。また細紵、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。兵器には、矛、楯、木弓を用いている。木弓は下部が短く、上部が長い、矢は竹製で、鉄、または骨の鏃が付いている。それらは、儋耳や朱崖と同じである。
倭の地は温暖なので、冬でも夏でも生野菜を食べ、皆が裸足で生活している。家屋には室があり、父母兄弟は寝所を別にしている。身体に朱丹を塗り、それは中国で白粉を用いるようなものである。飲食には籩豆を用い、手を使って食べる。人が死ねば棺に入れるが、墓には槨がなく、土を盛って家を作る。死去から十日ほどは喪に服す。その時は肉食をせず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞、飲酒をする。埋葬が終われば、家人は皆が水に入って体を清める。まるで、中国の練沐のようである。
倭人が、渡海して中国を詣でる時には、いつも一人の者の頭髪を櫛で梳らず、蚤や蝨も取らず、衣服は垢で汚れるのに任せ、肉食をせず、婦女子も近づけず、喪に服している人のように慎ませる。これを持衰と呼んでいる。もし航海が無事に済めば、人々から生口や財物が与えられ、もし疾病が出たり、暴風雨の被害などに遭った場合は、これを殺そうとする。その者の不謹慎よるものだというのだ。
真珠や青玉を産出する。山からは丹が取れる。樹木には柟、杼、予樟、楺、櫪、投、橿、烏号、楓香がある。竹には篠、簳、桃支がある。薑、橘、椒、蘘何があるが、美味しいことを知らない。獮猴や黒雉もいる。
そこの習俗では、行事を行ったり旅に出るとか、事を起す時には、骨を焼いて卜を行う。これで吉凶を占ない、それを告げる。その解釈は令亀法のように、火坼を観て吉凶の兆を占う。そこでの集まりでの立ち居振る舞いに、父子や男女の区別がない。人々は元々酒を好む。大人への敬意の表し方を観ると、拍手を以てするが、これは中国の跪拜に相当している。
その人々は長命で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の大人は皆、四、五人の妻、下戸でも二、三人の妻を持つものがいる。婦人は貞節で、嫉妬もしない。盗みはなく、訴訟も少ない。そこでは法を犯した場合は、軽い者は妻子の没収、重いものはその一門と宗族を根絶やしにする。人々には尊卑それぞれに差別や序列があり、上下の秩序が成り立っている。人々は租賦を収め、その収納のための邸閣がある。国々には市が立ち、人々は有無とする物を交易し、大倭に命じてこれを監督させている。
女王国より北にある国々に対しては、特に一大率を置き、諸国を検察させており、それらの国はこれを畏憚している。常に伊都国で治めており、国の中では中国の刺史の如くである。女王が使者を京都や帯方郡、諸韓国に遣わす時、及び郡使が倭国に赴いた時、皆は港に臨んで搜露し、文書、賜物を女王に詣でて伝送する際に、間違いが起こらぬようにしている。
下戸が大人と道路で出会えば、後ずさりして草むらに入る。言葉を伝達したり、物事を説明すべき時は、あるいは蹲するか、あるいは跪して、両手を地面に着ける。これは、大人に対する敬意の表し方である。受け答えの声は噫と言い、これは承諾のごときものだ。
その国、元々は男子を王としていたが、七、八十年ほど前、倭国は擾乱状態となり、相争うこと何年にも及んで、一人の女子を王として共に立てた。名を卑彌呼といい、鬼道に秀で、よく衆を惑わす。年齢は重ねているが夫はなく、弟がいて国政を補佐した。王となって以来、会える人は少なかった。婢が千人、その側に侍っていて、ただ一人の男子が飲食を給仕し、伝言の取次のために出入する。居んでいるところの宮殿や楼観、城柵は厳重につくられ、常に兵士が守衛している。
女王国の東に海を渡ること千余里で、また国々があるが、みな倭人である。また、その南に侏儒国が在り、身長は三、四尺で、女王国から四千余里離れている。また、その東南に裸国や黑歯国も在って、船で行くならば一年で至るという。倭の地と比較して問うと、隔絶した海の中央の島上に在り、あるいは隔て、あるいは連なっている。それらを周回すると五千余里にもなるだろう。
景初二年六月、倭の女王は大夫の難升米らを帯方郡に遣わして、天子に謁見して朝献したいと求めた。太守の劉夏は役人を遣わし、これを引率して京都に詣でさせた。
その年の十二月、詔書を下して倭の女王に伝えて言うには、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方郡太守の劉夏は使者を遣わし、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献じた男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の国のある所は、はるかに遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝のあらわれであり、我はとても汝を哀れに思う。
今、汝を親魏倭王と為し、とりあえず金印紫綬を包装して帯方郡太守に付託して、汝に授けようと思う。その種族の人々を綏撫し、努めて我に孝順をなせ。汝の使者の難升米、都市牛利は遠くから来たりて、道中の苦労も大変だったであろう。今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい、送り返す。
今、絳地の交龍錦を五匹、絳地の縐粟罽を十張、蒨絳を五十匹ならびに紺青を五十匹、これらを汝の貢献に相応するものとして贈答しよう。また、特別に汝には紺地の句文錦を三匹、細班華罽を五張、白絹を五十匹、金を八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹を各々五十斤を賜う。いずれも封印して難升米、都市牛利に託するので、帰還したら記録して受けとるがよい。ことごとく汝は国中の人々に示し、魏国が汝を大事に思っていることを知らしめよ、よって鄭重に汝に良い品物を下賜したのである」。
正治元年、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉の梯雋らを遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に至り、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を贈り、倭王はこれに対して使者に上表文を渡して、詔書と恩恵に答礼した。
其の四年、倭王はまた大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹、木弣、短い弓矢を献上した。掖邪狗らはみな率善中郎将の印綬を拝受した。
其の六年、詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り、帯方郡に付して仮授せしめた。
其の八年、帯方郡太守に王頎が任官された。倭の女王卑彌呼と狗奴国の男王卑彌弓呼はもともと不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣し、帯方郡に詣でて、戦いの状況を報告した。太守は、塞曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢を託して送り、難升米に授けて、檄を以て告諭した。
卑彌呼の死去により、大きな墓が作られた。その径百余歩あり、殉葬するは百余人を数えた。その後男の王を立てたが、国中が服従せず、しかも互いが殺し合い、その時は千余人が殺されたという。そこで再び卑彌呼の宗女十三歳の壹與を立てて王とし、ようやく国中がおさまることになった。張政らは檄を以て壹與を告諭した。壹與は倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らの帰国を送らせた。ついでに臺に詣でて、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢進した。

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旅の豆知識「源平合戦」

2017年08月17日 | 旅の豆知識
 日本の貴族政権から武士政権に移行する過程(古代から中世への移行)に起こった、源氏と平氏の戦いは、「源平合戦」と呼ばれ、昔から、興味を持たれてきましたが、近年、これらの史跡を訪ねる人も増えてきています。
 源氏と平氏の最初は、794年(延暦13)に桓武天皇が平安京に遷都したころまでさかのぼります。源氏で最も勢いが強く、武家の棟梁筋と言われていたのは清和天皇の代から出た清和源氏で、鎌倉幕府を開いた源頼朝はこの系統にあたります。また、平氏の中で最も勢いが強かったのは桓武天皇の代から出た桓武平氏でした。平清盛を中心とした平家は、桓武平氏の一派です。
 有名な『平家物語』は平家一門の栄華から筆を起こしていますが、その後の源平合戦が話の中心で、これを巡ることは必然的に、「源平合戦」の戦跡を回ることになります。前半の源氏の挙兵から京の都へ攻め上るところも興味深いのですが、平氏が都を落ち延びる後半の部分に哀惜があり、西日本にその場面を訪ねて旅した時にとりわけ、「盛者必衰の理」を感じ取ることができます。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平氏が次々と負けて敗走していく情景が走馬燈のように浮かんでくるのです。
 ぜひ一度、『平家物語』を携えながら、これら「源平合戦」の古戦場を巡ってみることをお勧めします。現在でもいろいろな伝承地や陣の跡、その戦いで没した武士の墓などがあって、結構興味深く回ることができます。

〇「源平合戦」とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになりましたが、この一連の兵士と源氏の戦いが、「源平合戦」と呼ばれています。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇『平家物語』とは?
 平清盛を中心とした平家一門の栄華から滅亡までの源平合戦を描いた軍記物語です。歴史的事実を描いた反面、フィクションも盛り込まれていまが、軍記物語中の最高の作品で、日本文学の中でも重要なものです。著者は信濃前司行長で、鎌倉時代前期の成立とされていますが、はっきりしません。盲目の琵琶法師による平曲(平家琵琶)にのせた独特の語りによって、世間に流布され、広く国民の中に浸透していったのです。

☆「源平合戦」関連のお勧め

(1)石橋山古戦場<神奈川県小田原市>
 1180年(治承4)8月に、伊豆に流されていた源頼朝と平氏方の大庭景親らとが戦った石橋山の戦い(源平合戦の一つ)が行われたところです。小田原市南部にあり、この周辺で源頼朝軍300騎と大庭景親ら3,000余騎が戦ったのですが、多勢に無勢で源頼朝軍の大敗に終わり、敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びることになりました。戦いのあった場所に石橋山古戦場の碑が立ち、近くにこの戦いで死んだ佐奈田与一を祀る佐奈田霊社と与一塚や同じく戦死した陶山文三家康を祀る文三堂などがあります。

(2)富士川古戦場<静岡県富士市>
 源平の古戦場の一つで、1180年(治承4)10月に源頼朝・武田信義軍と平維盛軍が、富士川の河口付近で戦ったのです。夜陰に乗じて、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れると、水鳥が反応し一斉に飛び立ちました。これに驚いた平家方は大混乱に陥って、敗走したといわれています。古戦場跡の伝承地には、「平家越」の碑(静岡県富士市)が建てられました。また、戦の後で、離れ離れになっていた源頼朝と義経の劇的な対面があったと言われ、その伝承地である黄瀬川八幡神社(静岡県駿東郡清水町)に対面石があります。
 
(3)倶利伽羅峠古戦場<石川県津幡町・富山県小矢部市>
 源平の古戦場の一つで、1183年(寿永2)5月に源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われました。この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという奇策を行い、平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅し、平維盛は命からがら京へ逃げ帰ったとされています。周辺には、平維盛の本陣が置かれた猿ヶ馬場や倶利伽羅不動寺、五社権現、源平供養塔などがあります。

(4)一ノ谷古戦場<兵庫県神戸市須磨区>
 言わずと知れた源平の古戦場で、1184年(寿永3)2月に源義経・範頼軍が再挙を計った平氏軍を一ノ谷に襲い、海上に敗走させた戦いで、義経の鵯越の奇襲戦法が知られています。また、須磨海岸の波打ち際での平敦盛と熊谷直実一騎打ちによって打たれた敦盛の話は、「平家物語」中でも最も悲しく哀れを誘う場面として有名です。須磨寺には敦盛愛用の青葉の笛、合戦時に弁慶が安養寺から長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという弁慶の鐘などの宝物があります。また、境内には、敦盛の首塚、義経の腰掛け松などの史跡があり、古来から「平家物語」を偲んで文人墨客が訪れている所です。それを示すように松尾芭蕉、正岡子規、与謝蕪村、尾崎放哉などの句碑や歌碑が建てられています。須磨浦公園には、敦盛塚や源平合戦800年記念碑などあって当時の合戦を思い出させてくれます。

(5)屋島古戦場<香川県高松市>
 1185年(文治元)2月、屋島に留まっていた平氏軍を源頼朝軍が急襲し、海上に追いやった戦いの場所です。ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。

(6)壇ノ浦古戦場<山口県下関市>
 1185年(文治元)3月に、平氏軍と源義経を総大将とする源氏軍が戦い、平家滅亡となった最後の一戦が行われた場所です。この時に、幼い安徳天皇は母の平徳子と共に船から海に飛び込みましたが、徳子だけが助けられました。下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮があり、この合戦で亡んだ平家一門の墓があります。有名な耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、毎年、5月2日の安徳天皇の命日より3日間に亘って、先帝祭も行われています。

☆源平合戦関係の年表

<1156年(保元元)>
 ・保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
 ・崇徳上皇は讃岐に流される
<1159年(平治元)>
 ・平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び藤原信西を殺害し、さらに平清盛と六条河原で戦うが敗北して、信頼は斬首される
<1160年(永暦元)>
 ・源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される
 ・源頼朝が、伊豆へ流される
<1167年(仁安2)>
 ・平清盛が太政大臣に就任する
<1170年(嘉応2)>
 ・藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
<1172年(承安2)>
 ・平徳子が、高倉天皇の中宮となる
<1177年(治承元)>
 ・鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する
<1179年(治承3)>
 ・平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる
<1180年(治承4)>
 ・以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出し、源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
 ・平家、福原遷都を強行する
 ・源頼朝が、伊豆で挙兵するものの、石橋山の戦いで敗れる
 ・源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
 ・源(木曽)義仲が挙兵する
 ・富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
 ・源頼朝が、鎌倉に侍所を設置する
 ・平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
<1181年(養和元)>
 ・平清盛が病没する
<1183年(寿永2)>
 ・倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
 ・木曽義仲が、京都に入る
 ・源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
<1184年(寿永3)>
 ・宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
 ・一の谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
 ・源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する
<1185年(寿永4)>
 ・屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
 ・壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、平氏は滅亡する
 ・源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置する
 ・源義経と源頼朝の対立が始まる
<1187年(文治3)>
 ・源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
 ・藤原秀衡が病没する
<1189年(文治5)>
 ・衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
 ・源頼朝が、奥州を平定する

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