朝起きて、明るくなってきた7時頃から湯谷温泉街周辺を散策してみることにした。カメラを首からぶら下げて、外に出てみたが、天気は良いものの、やはり寒い。それでも、ぶらぶらと歩きながら、板敷川にかかっている橋を渡り、JR飯田線湯谷温泉駅まで行ってみた。とてもレトロな雰囲気が漂っていて、気に入った。この駅は、昔の温泉旅館「湯谷ホテル」の一角を利用したもので、なかなか面白い。ここには、若山牧水も泊まって『鳳来寺紀行』に書かれているんだよね。ホームには、鉄道マニアが一人写真を撮るためにがんばっていた。そんな町並みをぶらぶら歩きながら写真を撮り、吊り橋の所まで下りてきた。ここから見る渓谷はとてもきれいで、絵になっている。ちょっと昔の温泉街の風景を彷彿とさせ、とてもなつかしい気分になって、宿へ戻ってきた。
小1時間の散策後、湯に浸かって、体を温め、朝食を取って、出立の準備を整えた。
8時半過ぎには宿を出て、まず鳳来寺へと向かうことにした。鳳来寺山パークウェイも2年ほど前に無料化されたとのことだったが、駐車場では500円が必要だった。ここから、15分ほどアップダウンした道を歩くと、東照宮そして本堂へと到る。その道が、なかなか深山幽谷の趣があって、良いのだ。カメラに何カットも収めながら、参拝をして戻ってきた。
その後、反対側の門前町の方へ山を下り、表参道へも行ってみることにした。昔は、徒歩の参拝客で、賑わったのであろうが、今では、1,425段を登る参詣人も少なく、とても寂れた感じがした。それでも、数軒の旅館と鳳来寺硯を売る店が営業しているようだったが...。
ここにも、松尾芭蕉の足跡があるので、自然科学博物館の所に車を置いて、しばし散策してみることにした。参道には、多くの句碑や歌碑、モニュメントなどがあって、古来から文人墨客の多くが訪れていることがわかる。若山牧水、種田山頭火などなど...。そんな参道を少し歩くと、松尾芭蕉のモニュメントがあり、1691年(元禄4)閏10月23日に芭蕉がここを訪れていることを知った。しかし、仁王門にさしかかったところで、持病が出て、やむなく下山し、門前にあった「家根屋」という宿に泊まったとある。そこには、もう建物もなかったが、井戸跡と句碑「夜着ひとつ 祈り出して 旅寝かな」があって、当時を偲ばせてくれた。
さらに歩いて、石段を登り、仁王門まで、行ってみたが、両側に杉並木が生い茂り、霊山の趣を湛えている。その途中に芭蕉の句碑「こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな」があり、ここら辺りで、芭蕉が引き返したのかと、想像してみた。
その上に、若山牧水の碑もあるとのことで、石段を登っていったが、傘杉を過ぎる辺りから、勾配もきつくなって、しんどい。それでもなんとか松高院を過ぎ、牧水歌碑まではたどり着いた。この碑は、大きな岩に穿たれたもので、「仏法僧 仏法僧と なく鳥の 声をまぬつつ 飲める酒かも」とあり、旅と酒をこよなく愛した牧水らしい歌にほほえんだ。
本堂はさっき参拝したので、ここから引き返すことにして、下っていって、鳳来寺を後にした。その後は、思い切って南下し、豊川市域に入って、まず西明寺を訪れた。徳川家康ゆかりの禅寺の古刹で、本堂前にベルツ博士の墓碑と供養塔が建っていた。ベルツ博士は1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日し、東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとった。その頃、日本の医療上で大きな問題となっていた寄生虫病、恙虫病、脚気などの研究で業績を上げたが、日本の温泉の医療における活用をすすめたことでも知られているのだ。1880年(明治13)に著した「日本鉱泉論」(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書の翻訳書)と「ベルツ水」が有名だ。
その後、御油で旧東海道へ復したが、ここから、赤坂宿へ到る松並木(約600m)は、“御油の松並木”として国の天然記念物にもなっている。かの十返舎一九著『東海道中膝栗毛』でも、弥次さんが狐に化かされたと思いこんで喜多さんを縛ってしまうシーンが登場する。そんな鬱蒼とした松並木だったのだ。
ここから、赤坂宿へ出たところの関川神社に芭蕉句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」があるが、近接する赤坂宿と御油宿間の距離の短さを詠み込んだ名句で、1676年(延宝4)の作だ。この宿には、江戸時代から続き今でも営業している旅籠「大橋屋」があり以前泊まったこともあるので、懐かしく思って、カメラに収めておいた。ちょうど昼を過ぎていたので、近くの食堂で昼食を取ってから、次の藤川宿へと向かった。
その途中に、法蔵寺があり、これも徳川家康のゆかりがあり、新撰組隊長近藤勇の首塚もあって、しばし巡ってみた。
その後、藤川宿へと入っていくと、古い家並みもあって、往時を偲ばせる。その出口近くの藤川小学校前に西の棒鼻跡があった。ここには、浮世絵師歌川豊広の歌碑「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし」 が建てられていた。その先に、十王堂があり、その境内には松尾芭蕉の句碑「爰も三河 むらさき麦の かきつばた」があるが、1793年(寛政5)芭蕉の百回忌に西三河の俳人が再建したものとのこと。この辺では、このむらさき麦を復元し、今でも栽培しているそうだ。
それからは、少し行って、国道1号線に合してからは、旧東海道を離れ、実家へ向かって走っていった。
小1時間の散策後、湯に浸かって、体を温め、朝食を取って、出立の準備を整えた。
8時半過ぎには宿を出て、まず鳳来寺へと向かうことにした。鳳来寺山パークウェイも2年ほど前に無料化されたとのことだったが、駐車場では500円が必要だった。ここから、15分ほどアップダウンした道を歩くと、東照宮そして本堂へと到る。その道が、なかなか深山幽谷の趣があって、良いのだ。カメラに何カットも収めながら、参拝をして戻ってきた。
その後、反対側の門前町の方へ山を下り、表参道へも行ってみることにした。昔は、徒歩の参拝客で、賑わったのであろうが、今では、1,425段を登る参詣人も少なく、とても寂れた感じがした。それでも、数軒の旅館と鳳来寺硯を売る店が営業しているようだったが...。
ここにも、松尾芭蕉の足跡があるので、自然科学博物館の所に車を置いて、しばし散策してみることにした。参道には、多くの句碑や歌碑、モニュメントなどがあって、古来から文人墨客の多くが訪れていることがわかる。若山牧水、種田山頭火などなど...。そんな参道を少し歩くと、松尾芭蕉のモニュメントがあり、1691年(元禄4)閏10月23日に芭蕉がここを訪れていることを知った。しかし、仁王門にさしかかったところで、持病が出て、やむなく下山し、門前にあった「家根屋」という宿に泊まったとある。そこには、もう建物もなかったが、井戸跡と句碑「夜着ひとつ 祈り出して 旅寝かな」があって、当時を偲ばせてくれた。
さらに歩いて、石段を登り、仁王門まで、行ってみたが、両側に杉並木が生い茂り、霊山の趣を湛えている。その途中に芭蕉の句碑「こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな」があり、ここら辺りで、芭蕉が引き返したのかと、想像してみた。
その上に、若山牧水の碑もあるとのことで、石段を登っていったが、傘杉を過ぎる辺りから、勾配もきつくなって、しんどい。それでもなんとか松高院を過ぎ、牧水歌碑まではたどり着いた。この碑は、大きな岩に穿たれたもので、「仏法僧 仏法僧と なく鳥の 声をまぬつつ 飲める酒かも」とあり、旅と酒をこよなく愛した牧水らしい歌にほほえんだ。
本堂はさっき参拝したので、ここから引き返すことにして、下っていって、鳳来寺を後にした。その後は、思い切って南下し、豊川市域に入って、まず西明寺を訪れた。徳川家康ゆかりの禅寺の古刹で、本堂前にベルツ博士の墓碑と供養塔が建っていた。ベルツ博士は1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日し、東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとった。その頃、日本の医療上で大きな問題となっていた寄生虫病、恙虫病、脚気などの研究で業績を上げたが、日本の温泉の医療における活用をすすめたことでも知られているのだ。1880年(明治13)に著した「日本鉱泉論」(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書の翻訳書)と「ベルツ水」が有名だ。
その後、御油で旧東海道へ復したが、ここから、赤坂宿へ到る松並木(約600m)は、“御油の松並木”として国の天然記念物にもなっている。かの十返舎一九著『東海道中膝栗毛』でも、弥次さんが狐に化かされたと思いこんで喜多さんを縛ってしまうシーンが登場する。そんな鬱蒼とした松並木だったのだ。
ここから、赤坂宿へ出たところの関川神社に芭蕉句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」があるが、近接する赤坂宿と御油宿間の距離の短さを詠み込んだ名句で、1676年(延宝4)の作だ。この宿には、江戸時代から続き今でも営業している旅籠「大橋屋」があり以前泊まったこともあるので、懐かしく思って、カメラに収めておいた。ちょうど昼を過ぎていたので、近くの食堂で昼食を取ってから、次の藤川宿へと向かった。
その途中に、法蔵寺があり、これも徳川家康のゆかりがあり、新撰組隊長近藤勇の首塚もあって、しばし巡ってみた。
その後、藤川宿へと入っていくと、古い家並みもあって、往時を偲ばせる。その出口近くの藤川小学校前に西の棒鼻跡があった。ここには、浮世絵師歌川豊広の歌碑「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし」 が建てられていた。その先に、十王堂があり、その境内には松尾芭蕉の句碑「爰も三河 むらさき麦の かきつばた」があるが、1793年(寛政5)芭蕉の百回忌に西三河の俳人が再建したものとのこと。この辺では、このむらさき麦を復元し、今でも栽培しているそうだ。
それからは、少し行って、国道1号線に合してからは、旧東海道を離れ、実家へ向かって走っていった。